或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より 作:アツ氏
床屋として名が知れてくると、出張する範囲を広げなくてはならない。
半年間は十六番街だけで仕事をしていたのが、ぺトラの一件以来、離れた場所からの依頼が増え始めたのだった。あのエルフの女幹部は『紳士的で腕のいい床屋』だと、方々で俺の仕事ぶりを触れ回っているらしく、まあ悪い気はしないが、同時にひやひやしていた。決して良いことばかりではない。頭が悪い上に、口が軽いとなると、ぺトラが自宅に押しかけてきて半裸になったくだりまで伝わる可能性があった。俺は今にレックスに殺されるのではないかと、おちおち枕を高くして眠ることもできなかった。
そう、俺は寝不足だった。寝る前に酒を飲んだり、数を数えたりしたが、駄目だった。あの女は、俺の仕事を増やしてくれると同時に、ストレスも増やしてくれた。ライナルト帝国に潜入していた、若い隊員のことを思い出す。爽やかで、ハンサムだったあいつが、たった数年の潜入生活で、人が変わったように、やつれてしまったこと。
俺はそこまで神経質ではないつもりだったが、やはり現場は違う。エレクトリスは危険な街だ。用心棒が雇えなきゃ、自分の身は自分で守るしかない。俺とて、ガキのころから騎士団での苦しい訓練を耐え抜いてきたから、たいていの奴には引けを取らないつもりだ。だが相手がレックスとなると話は別だ。エルフだから、たとえ若く見えたとしても、その実どれくらい長く生きているのかわからない。狡猾さや能力の高さから考えて、五百年以上という大げさなうわさだってある。その真偽はさておいても、奴は悠久の時を生き抜く中で、剣も魔法も、常人の鍛錬ではとても及びつかない技量を身につけてしまったらしい。
アルカトラズの下っ端の髪を切っているときに聞いた話だが、かつて、レックスただひとりを狙って、いくつかのファミリーが結託し、襲撃を画策したことがあった。相談役を潰せば、アルカトラズは頭脳を失うことになり、抗争で優位に立てると踏んだのだ。
狙いは悪くない。アルカトラズが、他の組織と比較して莫大な収益を上げているのは、レックスの助言あってこそだ。それは抗争においても同じことで、奴はまるでチェスをさすように、非情に戦闘員の采配を行い、多少の犠牲は出ようと、最も効果的で、最も確実な作戦をドン・コルラードに献じる。最終的な決定権は首領にあるものの、ドン・コルラードがレックスの策を否んだことはないという。事実、アルカトラズはそうして他のファミリーを淘汰してきた。だから、アルカトラズを潰すなら、まずはレックスを消すのが最も近道だと、誰もが考えるだろう。策を講じない正面きっての武力抗争なら、他のファミリーにもまだ勝ち目があった。そう、狙い自体は悪くなかったのだ。
レックス襲撃作戦には、実に百人の戦闘員が動員された。質の悪い鉄砲玉ではない。数々の抗争で功を上げた、筋金入りのつわものたちを、それぞれのファミリーが名誉をかけて繰り出していた。
百人の刺客は、レックスを確実に仕留めるため、奴の豪邸の前で待ち伏せした。一撃必殺を身上とするナイフの達人がいれば、頭に手斧を受けても死ななかったというタフな伝説を持つ奴もいた。あるいはワイヤーで相手をなぶり殺しにする殺し屋崩れ、出入りの度に素手で何十人という戦闘員を血の海に沈める喧嘩屋。そんな奴らに取り囲まれて、レックスは眉ひとつ動かさず、涼しい顔をしていたという。それは敵を甘く見ていたのでも、死を覚悟して開き直っていたのでもない。奴には絶対の自信があったのだ。百人を相手にしても負けないという自信が。そして、それは現実のものとなった
接近戦を挑んだ者は、剣のえじきになった。襲撃の翌日、現場の片付けに向かった人夫たちが見たのは、四肢や首を切断された無残な死体、そうでなければ無駄なく心臓を一突きか、頚動脈を鮮やかに切り裂かれていた。レックスの趣味なのか、美しい容貌をした者ほど、死体は比較的原型を止めており、逆に醜い容貌の者は、その醜いといわれていた部位を、容赦なく切り取られたり、えぐられたりしていた。百人を相手にしても、趣味に走るだけの余裕があったという、レックスの恐るべき実力が窺い知れる逸話だ。
間接攻撃を仕掛けたものは、風術によってそれをことごとく封じられた。ナイフを投げても、弓を射掛けても、奴の周りに発生する乱気流が邪魔をし、攻撃は全て別の方向に逸れて、同士討ちとなった。味方の矢やナイフを体に受けて、身動きが取れなくなった者は、その場ではすぐに殺されず、術で気絶させられたのち、捕虜としてアルカトラズの本拠地へと連れ去られた。そこで尋問と称して、アルカトラズに所属する科学者ディーナの開発した毒物や麻薬を、命の続く限り延々と投与し続けられたという。捕虜たちが、ファミリーのことを何でもしゃべると命乞いをしても無駄だった。レックスは、いったんそれを聞き入れたかのように振る舞い、情報を聞くだけ聞きだしてから、再び薬の投与を続行した。そしてまた新しい情報を聞き出しては、投薬。それを死ぬまで繰り返すのだった。そうして死に至った捕虜たちの体は、二目と見られぬほどに崩れていたらしい。一思いに殺されたほうがよほどましだったかもしれない。
捕虜たちが口にした情報によって、レックス襲撃を画策したファミリーは全て明るみに出て、彼らはあっという間に壊滅させられてしまった。罪人共は罪人共なりにエレクトリスの秩序を保つため、他のファミリーに抗争を仕掛けるには必ず理由が必要なのだが、それをまんまとアルカトラズに提供する形になってしまったわけだ。
結局レックスは百人の刺客を相手にして、傷ひとつ負うどころか、指一本触れられることはなかった。そんな奴を相手に、俺が身を守れると思うか。無理だ。だから寝不足なのだ。俺は柄にもなく機嫌が悪かった。だが、仕事はしなくてはならない。
今日の出張先は、十番街のアレーナ、即ち地下闘技場だった。決して外すことのできない、でかい仕事だ。
十番街はかつて多くのファミリーがひしめいていたエレクトリスにあって、唯一の不戦地帯であり、それぞれのボスが一堂に会するコミッションも、必ずここで行なわれた。すっかりファミリーの数が少なくなった今でも、それは変わっていない。いわば街全体の心臓部で、十番街を制するものはエレクトリスを制する、とさえいわれていた。ここには犯罪組織のVIPたちが集う。立ち並ぶ店やホテル、賭博場はことさら高級であり、ボスたちがコミッションで合議した取り決めによって、ひとつの区画に複数のファミリーの系列店が、争うことなく混在することができるのだった。
地下闘技場は、そんな十番街にある高級賭博場の最たるもので、支配者はおらず、完全な中立地帯だった。ここで催されるのは、二人の人間が体ひとつで戦う、いわゆる拳闘である。それぞれの組織がスカウトしたファイターがリングに上がり、観客はその勝敗に金をかけるのだった。この賭けは、罪人の街エレクトリスにしては珍しく、いかさまもなく正々堂々と行なわれており、それだけに最も熱狂的な人気があった。うわさによれば、ライナルト帝国の幹部も、お忍びで観戦しに来るらしい。確かに、あの堕落した超大国の人間なら、エレクトリスにまでわざわざ足を運んで、拳闘を見るぐらいの娯楽はたしなみそうだ。
強いファイターをスカウトする。これはひとつのビジネスだった。スカウトしたファイターが勝てば、ファミリーは賭け金の大半を得ることができる。客がVIPばかりとあって、場末の酒場で催されるカードゲームなんぞとは桁が違う。拳闘で勝つことは、組織の大きな利益につながった。また、ファイター自身も多額のファイトマネーを手にすることができるため、拳闘の腕を磨くことは、ひとつの生きる道でもあった。チャンピオンになれば、幹部よりも良い暮らしができた。ただし、負けが込んだり、負傷して使い物にならなくなったファイターは、犬猫同然に処分された。役立たずには、死、あるのみ。命が惜しけりゃ勝て。これはエレクトリスの街全てに共通する、暗黙の掟でもあった。
今日の俺の客は、そんな地下闘技場で戦うひとりのファイターだった。アレーナに到着した俺は、ファイターの待つ控え室へ通された。そこには、見るもみすぼらしいなりをした、若い男が座っていた。どこの国の型ともつかないぼろぼろの服を身にまとい、赤い頭髪は伸びざらして両目にかかり、輪郭がわからないほど顔中がひげで覆われていた。
若いとわかったのは、その肉体がすばらしかったからだ。特に大柄というわけでも、筋骨隆々というわけでもない。日々命がけでリングに上がる、並み居る巨漢のファイターたちと比べれば、むしろ貧相というべきだった。しかし、その筋肉はしなやかで、うっすらと熱を帯び、皮膚の内外に気力が充満していた。決して凶暴な雰囲気を身に纏っているわけでもないのに、飛び掛るのをためらわせるような、一種のオーラを発していた。俺は特殊部隊での訓練で、様々なタイプの戦士たちと素手で組み手をしてきたが、そのどれとも異なる雰囲気を持っている。
俺はそいつの散髪とシェービングをおおせつかった。依頼人は、アルカトラズの幹部、イラーリオだった。ファイターのスカウトはイラーリオの領分で、エレクトリスの中と外を問わず、強そうな男を見つけたら、リングに上がってみないかと持ちかけるのが、こいつの常だった。イラーリオ自身、アルカトラズでは指折りの戦士であるためか鑑識眼が高いらしく、奴がスカウトした中から、今までに五人のチャンピオンが輩出されていた。
今度のファイターは新入りだったが、VIPが観戦する中、むさくるしい容貌のままリングにあげるわけにはいかず、ちょうどぺトラが触れ回っていた床屋のうわさを他の幹部が聞きつけて、俺に仕事が回ってきたというわけだった。長髪でも、ひげ面でも、戦うこと自体はできるわけだが、それを許さないということは、ファミリーの中枢にある要人たちが、貴族以上に格式を重んじるという事実のあらわれだ。
伸びざらした赤毛に俺が手際よくはさみを入れていると、ファイターが話しかけてきた。思ったより気さくな口調で、これから命がけの試合をやるというのに、あまり緊張していないようだった。
「床屋の兄さん。あんた散髪の腕も良いけど、拳のほうも相当使うだろ」
わかるやつにはわかることだが、俺はとぼけた。
「さあ……。エレクトリスじゃ殴り合いのけんかは日常茶飯事でさあ。拳を使った回数なんて覚えちゃいませんや」
俺の答えを面白がるように、ファイターはくつくつと笑った。
「弱いやつからは、そういう言葉自体出てこないもんだぜ。リングに上がる前に、あんたとここで一戦やってみたいくらいだ。どうだい?」
「俺は仕事で来てるんです。それ以外のことはごめんですよ」
「……そりゃ残念だな。しかし、あんたみたいな男が、仕事熱心な床屋だってのも、世の中面白いもんだ。名前はなんていうんだ」
ファイターの問いかけに、俺は判で押したように答えた。
「ヘンリー・バーバーです。親しいやつはハンクと呼びます」
するとファイターは笑顔を浮かべて、名乗りを返した。
「俺はアーツっていうんだ。強いやつを探して、この拳ひとつで世界中を渡り歩いてる」
「素手だけですか」
「そうだ。己の肉体を武器とした戦いなら、誰にも負けねえ」
その言葉を受けて、俺は当然の疑問を口にした。
「そんなことして、一体何になるっていうんです」
アーツと名乗ったファイターは憮然として答えた。まるで俺の疑問が理解できないとでもいうかのように。
「強くなるのに、理由なんかいらねえよ。どんな奴が来ても、この拳でねじ伏せる。そのときの快感は、他の何物にも代えがたいぜ。相手をひとり倒すたびに、ひとつ最強への階段を登るんだ。それを登りつめるのを夢見ない男は、男じゃない。あんたもそう思うだろ」
「さあ、わかりませんね」
俺はまともに取り合わなかった。この男、強いことは強いようだが、少し頭が足りないらしい。
確かに地上最強の男に憧れる時期はある。特に戦士は、強くなるために日々鍛錬するのだから、最強を夢見ることは大きなモチベーションになる。だが、俺のように隠密任務の遂行や、生き延びることを目的とした訓練をつむと、強いだけでは渡れない世界があることに気付く。俺たち特殊部隊員には、もっと重要な決まりがある。無用な戦闘は避けること。できる限り目立たないこと。そして己の強さを隠すこと。これで俺たちはあらかじめ危険を回避して、可能な限り敵地で穏やかに生活することができる。自分より実力が上の者に、目を付けられることもない。つまり、アーツのように強くなることを公言するのは危険なことであり、そんな危険に自ら飛び込む者は、馬鹿といわれても仕方がないのだ。
馬鹿は、俺の返事を聞いて、大仰に声を上げた。
「嘘つけよ。あんたみたいな男が、こんな簡単なことをわからないはずないぜ。最強を目指すのは男の義務だよ。そうさ、あんたにはわかるはずだ」
どうしても俺を自分と同類にしたいらしい。うっとうしいので、話題を変えることにした。
「イラーリオの旦那には、どこでスカウトされたんです」
するとアーツはさっきまでの剣幕を忘れて、その顛末を話し始めた。
「あいつと会ったのは、エレクトリスの街でも北のほうだ。俺は行き倒れ寸前だった。実はな、昨日までずっとアスクレウス氷火山にこもってたんだ。どれくらいの時間かわからないが、とにかく髪やひげがこれだけ伸びたんだ。一ヶ月やそこらじゃねえ」
アーツの言葉に、俺は素直に驚いた。エレクトリスの街でさえ、長いこと外で過ごせば凍死するのに、こいつは体ひとつで、より寒く険しいアスクレウス氷火山にいたというのだ。馬鹿は風邪を引かないというが、いくらなんでも限度がある。
「あんなところでよく生き延びられましたね」
「ああ。過酷だった。寒さでおちおち眠ることもできないし、クレバスに落ちて死にかけることも何度かあった。生き延びる自信はあったんだが、終わってみると奇跡的だな。最後のほうは何をどうしていたのか、良く思い出せねえ」
生き延びる自信があったとのたまう時点で、何かが間違っている気がするが、その感想は胸にしまっておいた。俺は、こいつが勝手にしゃべっているうちに、さっさと仕事を終わらせようと思っていた。何もしゃべらない客よりは、退屈しなくていい。アーツは話を続けた。
「氷火山には、スノーマンを倒しにいったんだ。俺はこれまでに、大陸中のモンスターを拳でしとめてきた。砂漠のモッフル、海の悪魔クラーケン、荒野ではジャイアントやサイクロプスとも戦ったな。中には手ごわい奴もいたが、まあ相手も生き物だ。急所を突けば、どんなデカブツもそのうち倒れる。これは相手が人間でも応用できることだ。とてもいい修行になったぜ。で、スノーマンを倒すのはその仕上げのつもりだった」
ここでいきなりアーツが黙ってしまった。実に馬鹿な話だったが、それはそれで先が気になっていた。俺はアーツに話の続きを促した。
「で、スノーマンは倒せたんですか」
「それが良く思い出せねえんだよ」
俺は拍子抜けしてしまった。ここまで力説しておいて、肝心なところで記憶がないとは。アーツは必死に思い出そうとしているのか、なにやらうんうん唸っている。
「何日目かわからないが、とにかくスノーマンには確かに遭遇した。俺は戦いを挑んだ。奴は体がでかい上に、氷の息を吐きやがる。接近戦に持ち込むのは難しかった。だが、そこは体内の気を操って、なんとかした」
「はあ?」
俺はアーツが何を言っているのかわからなかった。
「気だよ、気。ロストテクノロジーに伝わる武術には、人間の秘められた力を発揮するための奥義があるんだ。その秘められた力を、気という。俺は拳士としてはそれほど大柄じゃないが、巨大な敵にも難なく太刀打ちできる。気の流れを極めた者は、大自然の流れに則って、自分の力も、相手の力も、思うがままに操ることができるという。俺はまだ奥義を極めたわけではないが、鍛錬を続けることによって、気を操って離れた相手を攻撃したり、傷を早く治したりすることはできるようになった。寒さに耐えるのもその一環だ」
「はあ」
説明を受けても、やはり俺には理解できなかった。
「魔法のようなもんですか」
「似ているが、厳密に言えばちがう。魔法は魔力によって体外の自然現象に干渉するが、気はあくまで個人の体内に宿っているものだ。つまり、力を攻撃自体に使うよりは、自分自身の潜在能力を引き出すといったほうが正しい。例えば見た目には体格で劣る者が、気を操ることによって、自分より大きな相手を簡単に倒してしまうことがあるんだ。どんなに体が大きくても、一割の能力しか発揮できない者より、体が小さくても、十割の能力を発揮できる者のほうが強い。わかるか?」
「うーん、まあ」
わからなかったが、俺は適当に話をあわせた。アーツの話はスノーマンとの戦いに戻った。
「で、スノーマンとの戦いだが、俺は奴の氷の息をかいくぐり、跳躍して眉間に貫手を突き入れた。渾身の一撃だったが、それだけでは奴は倒れなかった。だから今度は肩に乗って、頭頂部に肘を叩き込んだんだ。奴の頭蓋が割れるまで、五回、六回とな」
そう言いながら身振り手振りで説明しようとしたが、俺はそれを押さえ込んだ。剃刀を使っていたからだ。アーツもそれに気付いて大人しくなる。
「まあ、ほとんど勝ったようなもんだった。ただそこで体力の限界が来たんだな。スノーマンの頭蓋を割った音を聞くや否や、俺は気を失ってしまったんだ。不思議なことに、次に目を覚ました時には、俺はエレクトリスの北のはずれに倒れていた。誰かが運んだのか、それとも俺が夢を見ていただけなのか。その辺の記憶があいまいなんだ」
アーツは腕組みをしてまたしても考え込んだ。俺はといえばほとんど作業を終えかかっていた。その赤い髪は側頭部と後頭部を短く刈り上げ、前髪は少し額にかかる程度の長さにしてある。ひげは一本も残さず、完全に剃った。地上最強を目指すという言にふさわしく、好戦的な目つきの下に、不遜な口元が現れていた。美しいとか醜いとかいう言葉で表現するより、ただ、戦う男らしい顔つきではあった。馬鹿だが、俺はこの男が嫌いではない。男が一度は憧れて、ほとんどはあきらめてしまう夢をがむしゃらに追うその姿は、俺のような騎士団の飼い犬とは違って自由で、純粋で、少しうらやましくもあった。
ところで肝心の部分を聞いていなかった。アーツとイラーリオが出会う場面の話である。俺はそれについて尋ねた。
「そうだそうだ。街のはずれで目を覚ましたとき、俺はとてつもなく腹が減っていたんだよ。で、不意に漂ってきた良い匂いにつられて、ふらふらと一番近くの店に入ると、旨そうなブタのローストがカウンターに乗ってるじゃねえか。俺は矢も盾もたまらず、それにかぶりついたんだ。他の客のものだったが、金さえ払やいいんだ。そう、金さえな……」
「つまり?」
「金がなかったんだ。すぐにアルカトラズの構成員が駆けつけて乱闘になった。腹が減ったといっても、下っ端に負ける俺じゃねえ。難なく全員のばしたさ。そしたらイラーリオの奴が現れて俺に言ったんだ。『兄ちゃん。あんたなかなかいい腕してるよ。どうだ、その腕を生かしてひと稼ぎしてみないか』ってな。用心棒は嫌だったが、拳闘だっていうから、俺はその話に乗ったよ。そして、ここに連れてこられたってわけだ」
それを聞きながら、俺は鏡をアーツに向けて、シェービングと髪型の出来上がりを確認させた。アーツは満足したように歯をむき出して笑った。
「へへっ、悪くねえ。あんた、床屋としても一流だな」
「床屋としても、じゃなくて、それが本業です」
俺はあくまでしらばっくれた。戦いを好む者の本能か、アーツは俺の正体を半分くらいは見抜いているようだった。アーツはなれなれしく俺の肩を叩いて言った。
「何の理由があって、そんなに自分の素性を隠すかしらねえけどよ。気に入ったから、ひとつ有益な情報をやる」
俺は期待せずに聞き返した。
「なんです、そりゃ」
「俺に有り金、全部賭けな。俺は必ず勝つ」
アーツが自信満々にその言葉を放つやいなや、控え室の扉が勢いよく開いた。外で俺の仕事が終わるのを待っていたアルカトラズ側のセコンドが、アーツを呼び出す。リングを取り囲む観客達の歓声が、轟きわたっていた。アーツは口元に不遜な笑みを浮かべたまま俺を一瞥すると、その扉の向こうへゆっくりと歩き出していった。