或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より   作:アツ氏

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5.雪狼

 豚肉は、エレクトリスの数少ない名産品のひとつだ。

 極寒の地であるため、農作物はほとんど育たない。野菜や穀物類は、他の土地に出向しているファミリーの幹部や構成員が農場を経営したり、大量に買い付けたりしたうえで、エレクトリスに持ち込まれるわけだが、それでは供給に限界がある。それゆえに、レストランのメニューでは、パンや酒、サラダは高級品だ。その代わり、家畜は盛んに飼育されている。特に豚は、食用以外にも利用価値が高かった。豚は雑食だ。牛や馬のように、必ずしも牧草ばかり与える必要はない。生肉であろうと、骨であろうと、ファームに放り込めば、瞬く間に平らげてしまう。

 それが何を意味するか、察しのいい奴はすぐにわかるだろう。

 豚は非常に優秀な死体処理の道具なのだ。エレクトリスでは、毎日あたりまえのように死者が出る。強盗、殺人、乱闘、餓死、凍死、あるいは組織に損害を与えた構成員や市民に対する処分、抗争や暗殺によって殺害された者、医療体制が整っていないので病死も多い。特に娼婦から感染した梅毒で死ぬ奴が後を絶たない。病気で死んだ奴は衛生上適さないので焼却しているようだが、それ以外の死体は、組織に持っていけば豚の餌になる。死体売りが横行するが、それを裁く法はない。売値は二束三文だが、それでも毎日を生き抜くことに躍起になっている下っ端どもは、雪の中に新鮮な死体でも埋まっていないかと、足元を見ながら歩くのだ。

 アルカトラズでは特に死体を高く買い取った。のみならず、生きている人間はより高く買い取った。奴らの場合、豚の餌にするというだけではない。組織が子飼いにしている女科学者ディーナが人体実験や解剖に使うのだ。

 これまでエレクトリスで集めてきた情報から推測するに、例の猟奇事件の捜査の際にケクロピアで発見された麻薬を開発したのは、おそらくこの女だ。麻薬以外にも、ガスや劇薬などの化学兵器の開発に従事しており、実験に使われた人間の成れの果ては、皮膚が変色したり、髪の毛や歯が抜け落ちたり、干からびていたり、肉体の一部が肥大したり、あるいは溶解したり、穴という穴から血を噴出していたりと、それはそれは無残なものらしい。まさか、そんなものまで食わせてやしないだろうな、と疑いたくもなるが、残念ながら豚の餌の詳細に関してまでは調査がまだ行き届いていない。調べなければならないことはもっと他にある。

 麻薬以外なら、現存する三つのファミリーの中で、拳銃を使うのも組織アルカトラズだけだ。どうやら、ドン・コルラードが所有しているロストテクノロジーを参考に複製されているようだが、まだ性能が低く、数も多くないようで、ごく限られた構成員のみが所持し、抗争などで盛んに使われるまでにはいたっていない。

 要するに、猟奇事件の犯人で、自殺したヨハン=ヴェルター・ヴォルフハウゼンという男が接触していたのはアルカトラズの関係者と見て間違いないが、ケクロピアに出向していた組織の幹部は完全にシロだった。以前にも少し触れたが、セルジュ・オーリックという名のその幹部は、エレクトリスの実情調査に協力する名目で、事件が起こる以前からすでにジギスヴァルトに買収され、クーニッツ騎士団の監視下にあった。いかなる時も奴の動向は完全に把握されているので、違法物品を流通させることなどできやしないのだ。なので、オーリックのあずかり知らぬところで、ブツの輸送と売買が行なわれたということになる。

 オーリックは正真正銘、組織の勅命を受けてケクロピアに出向しているのだが、実は、アルカトラズでは麻薬の開発が密かに進められているものの、取引することは現状では禁じられているという。これは、麻薬が蔓延すると、エレクトリスの秩序が乱れると考えたドン・コルラードの強い意向によるものだった。罪人が秩序を重んじるというのも一見矛盾するようだが、星の数ほどいる構成員や市民を支配し、いくつものファミリーと良好な関係を保つためには、必然の流れだったといえる。それは他のボスにも言えることで、そのために不戦地帯の十番街で開かれるコミッションがある。数々のファミリーが、持ちつ持たれつの関係で、この荒んだエレクトリスを生き抜いてきたのだ。ただ、そんな風に多くの勢力がひしめく時代も、そろそろ終わりを迎えようとしているが。

 以上の点から考えれば、ケクロピアで発見された麻薬と拳銃は、ドン・コルラードの承認を受けずに、幹部のうち誰かの独断によって持ち込まれたものだ、ということになるだろう。

 俺の見解では、幹部のイラーリオが指示を出したと踏んでいる。奴はアルカトラズの時期ボスに最も近いと目される男だ。統率力があり、戦に強く、冷酷非道でありながら、人心掌握にも長けている。この数年のあいだ、組織アルカトラズが勝利してきた抗争のほとんどは、奴が指揮を取っていた。策を立てるのはレックス、実行するのはイラーリオという構図が出来上がっており、他のファミリーの人材で、このコンビに対抗するのは難しかった。つまり、イラーリオには権力と実力とが備わっており、その分だけ、組織内で自由に行動できるのだ。ごく少量とはいえ、コルラードやオーリックに知られずにケクロピアに麻薬と拳銃を流すことも、奴の立場なら不可能ではないだろう。あとはイラーリオと麻薬との関連性を立証できればいい。床屋の仕事の合間合間に、奴の来歴についてできる限り調査した結果、俺はその確信を深めることができた。

 イラーリオはアルカトラズの幹部になる以前の、末端の構成員の時期から麻薬の知識に精通しており、それがドン・コルラードの耳に及んで半死半生の目にあうまで、独自に薬の原料を密輸、精製し、特別製のタバコなどと称して市民どもに売りさばいていた。不思議なことに、ドン・コルラードはイラーリオに苛烈な制裁を加えたあと、一足飛びに幹部に昇格させ、傍に置くようになったらしい。『友は傍に置け、敵はもっと傍に置け』とかいう格言を、誰かが言っていたような気がするが、おそらくそういうことだ。イラーリオを組織の中枢に置いたほうが、監視するのも処分するのも手っ取り早い。また、コルラード自身が麻薬の流通を促すことはないが、イラーリオの知識そのものは有用だと考えたのだろう。もし他のファミリーから、麻薬に関わるいざこざが持ち込まれた場合は、イラーリオが対処することになるわけだ。

 役立たずは死あるのみ。エレクトリスのこの暗黙の掟は、裏を返せば、危険な人物でも有能なら用いられうるということだ。レックスだってそうだ。恐るべき知略と、百人の手錬を完封する戦闘力を併せ持つ奴の実力をもってすれば、アルカトラズを乗っ取ることなど朝飯前だろう。しかし、支配者の座には興味のないこのダークエルフは、自らの意志で相談役に甘んじ、その役職で得る金を使って趣味や贅沢に明け暮れるばかりである。他のファミリーのボスならば、下克上にあう恐怖心から、とてもレックスを扱いきれまい。組織アルカトラズは結局、そうした人材を恐れず、傍において重用することができるドン・コルラードの度量によって成り立っているということだ。

 黒幕の目星がつけば、捜査も佳境に入ってきたといえる。今後、アルカトラズの本拠地に出入りできるようになれば、大幅に調べを進められるのだが、残念ながら、俺はドン・コルラードの御用達には未だなれずにいる。よほど腕がいいらしく、前任者はしぶとく生き残っていた。十番街でイラーリオの仕事を請け負って以来、他の幹部からも依頼が来るようになってはいたが、いくら懸命に励んだとしても、ドン・コルラードへ至る扉を開くには、前任者の死という鍵が必要だった。こればかりはどうにもならない。

 捜査のためとはいえ、これほど他人の死を切実に願ったのは初めてだ。暗殺とは事情が違う。あれは任務として無感情に遂行するがゆえに、相手の死を願ういとまもない。上層部の命令あってのことだから、責任を感じる必要もなかった。決行したあと手のひらに嫌な感触が残るというだけで、一晩眠れば殺したやつのことなんて忘れてしまう。否、正気を保つためには忘れざるを得ないのだ。そんな風に割り切って手を汚してきた以上、高潔な人間とは言い難かったが、それでも感情を失った単なる殺人マシーンには成り下がりたくなかった。だが、エレクトリスでの潜伏生活を始めてからは、以前にも増して心が荒んでいく気がする。湿った日陰の壁紙を徐々に蝕むカビのように、ゆっくりと黒ずんでいくあの感じだ。いくら環境が苛酷であっても、絶対に自分を見失ってはいけなかった。見失えば、きっとその時点で死ぬことになる。俺はそう胸に言い聞かせながら、どうにか日々をしのいでいたのだった。

 仕事が終わると俺はいつも『ラ・フィンタ』で食事を採ることにしていた。ここのスペアリブはなかなか旨く、エレクトリスで暮らし始めてからは、すっかり好物となっていた。おそらく誰かの死体を食った豚を屠って肉にしているのだろうが、気持ち悪く思ったのは最初だけで、赤ワインベースの特製ソースと共にこれをほおばるのが、いまや俺の日課になっていた。何事も慣れだ。こと食うことに関しては、人は驚くべき適応力を見せるものだ。それは世界中の多様な食文化に表れている。さすがに、どれだけ必要に迫られたとしても、パボニスのカエル族のように、ハエを食えるようになるとは思えないが。そういう意味では、人間の食い物があるぶん、潜入したのがエレクトリスでまだよかった。

 マスターや客と交わす世間話も、重要な情報源だった。『ラ・フィンタ』は組織アルカトラズの正統な系列店なだけあって、ファミリーの中枢にある人物もよく訪れる。そうした奴らとマスターとが交わした会話を、俺が又聞きすることもある。たまに高い情報料をとられる場合もあったが、顧客拡大のためと称して、領収書代わりにカヴァティーナ宛に一筆書いてもらえば、それを騎士団に提出して経費で落とせるのだった。俺の床屋は一階の貸衣装屋と暖簾を同じくしているから、さほど疑われずに済む。口が軽いあの因業ババアも、たまには人の役に立つのだ。

 『ラ・フィンタ』は、プロッティとアルカトラズとの抗争の話題で持ちきりだった。と言っても、誰の話を聞いても、ほとんど勝敗は決しているようなものらしかった。まだ組織同士の戦闘は行なわれていなかったが、十番街のアレーナでその場の感情に任せて抗争を仕掛けたバルバロ・プロッティに対し、愛想をつかした一部のドワーフがファミリーを離反し、アルカトラズの傘下に入ったというのだ。離反したのは宝飾品の加工に携わっていた職人達で、リーダーの名はトーティシェルといい、無口な男だが、仕事においても戦闘においても重いハンマーを体の一部のように使いこなす、プロッティでは有数の職人にして戦士でもあった。プロッティは貴重な戦力を失った上、切り込み隊長のベルトルドはアーツとの一戦で受けた傷と精神的打撃から、まだ回復していなかった。

 そんな状況でエレクトリス随一のファミリー、アルカトラズに挑戦するのは、無謀以外の何物でもなかった。イラーリオはプロッティ一家に最後通告を行なった。プロッティの収益源のうち、宝石商の縄張りと権利を全て組織アルカトラズに無償で譲渡することを条件に、抗争を取りやめると。これにはバルバロはもとより、宝石商を統括していた次男坊のバロルドと、大親分のアルドも激怒した。過去に罪人としてエレクトリスに流れ着いたとはいえドワーフとしての血は争えず、現役の職人でもある自分たちを差し置いて、他の組織が宝石や貴金属を取り扱うなど、許しがたいことだったのだ。プロッティはイラーリオの通告を拒否した。そして両ファミリーは抗争に突入した。明後日には、番外地で大規模な戦闘が行なわれるらしい。エレクトリスの二大ファミリーの存亡をかけた抗争だけに、命が惜しくなければ、観戦しに行くのもいいかもしれない、とマスターは笑った。冗談混じりに、確かに見物だ、と言って笑い返したが、結果だけわかればいい俺には、実際そこまでする気持ちはなかった。

 『ラ・フィンタ』を出て、雪道を肩をすぼめて歩きながら、俺は嫌な予感をいだいていた。あと一時間としないうちに日付が変わる。カヴァティーナのババアはもう寝ているだろう。照明の落ちた一階の貸衣装屋の脇を抜け、自宅へ続く階段を上ってゆく。いつもと同じ帰り道だ。しかし、違和感があった。隠密としての訓練をつむと知覚能力が研ぎ澄まされ、例えばその道を普段通らない人物が歩いたとすれば、それを感覚的に察知できるようになる。たとえ足跡のような形跡が明確に残っていなくても、その場所に刻まれた記憶のようなものが報せるというか、うまく言葉では説明できないが、とにかく勘が働くのだ。俺は音を立てぬよう、忍び足で歩きながら考えた。おそらく誰か外部の者がこの建物を訪れ、しかもまだ中に潜伏している。ただし、暗殺者や鉄砲玉のたぐいではない。もっと迂闊で、戦闘に関しては素人同然のやつだ。俺は部屋に上るはしごの前まで来て、その予感が的中したことを覚った。雪国には棲息するはずもない、モッフルの毛が、床に落ちていた。案の定、はしごの陰には人がかがみこんでいた。俺はそれを目にするなりため息をついた。

「アルカトラズの幹部ともあろうものが、こんなところで何してるんです」

 かがみこんでいた人影は、顔を上げて振り返った。白っぽい金髪に、尖った耳、グリーンの瞳、そしてモッフルのコート。ほかでもない、ぺトラだった。

「おお、ハンク。いつの間に帰ってきたんだ。ぜんぜん気がつかなかったぞ」

 相変わらず少し間延びした馬鹿そうなしゃべり方で、ぺトラが言った。俺はそれに答えずに、彼女の腕を掴んで立たせた。幹部幹部としきりにのたまうが、その肩書きがなければ、ただの女に過ぎない。戦う力など微塵も持たぬことが、腕を掴んだ手のひらの感触でわかる。

「ここには来ないでくれといったはずです」

 そんな俺の言葉に、ぺトラは申し訳なさそうに目を伏せた。

「うん。わかってるんだが、頼みごとがあってな」

 俺はぺトラが両腕に何か抱えているのに気がついた。真っ白い毛むくじゃらの物体で、三角の耳に高い鼻、長い胴体からは四本の足が伸び、その先には肉球が付いている。おまけにふさふさのしっぽ。それらが断続的に動いたり、痙攣したりしている。紛れもない、けだものだ。

「なんです、それは」

 俺はうんざりしながらぺトラに訊いた。

「雪狼の子供だ」

 ぺトラは臆面もなくそう答えた。そんなもんは見りゃわかる。ケクロピアの北部にも、雪狼はたくさん生息していて、人里に下りてきたそれを害獣として駆除するのも騎士団の仕事だった。問題はなぜそれを連れて、俺の家の前にいるのかということだ。雪狼はぺトラに抱かれたまま目を閉じ、浅い息をしながら、口から真っ赤な舌を覗かせている。俺は怪訝に思った。獰猛な雪狼は、ごく幼い時期から世話をしなければ、まず人になつくことはない。抱きかかえようなどとしようものなら、すぐさま鋭い牙で喉笛にかみつかれて、下手をすれば命を落とす。未成年の固体でも、その殺傷力と気性の荒さは侮れない。だが、この雪狼はやけに大人しい。よく見ると、ぺトラのコートの胸の部分にべったりと赤い血がついている。ぺトラは言った。

「出張の仕事を終えて町外れを通りかかったら、血まみれのこいつが倒れていたんだ。大怪我をしているせいか、群から見捨てられてしまったみたいでな。光術でできる限り治療したんだが、傷が深すぎて、治しきれずに私の魔力が尽きてしまったんだ。縫合がまだ完全に終わっていないから、このままだと失血死してしまう」

 確かに、雪狼は見るからに弱っていた。しかるべき処置を取らねば、おそらく命を落とすだろう。しかし、それが俺と何の関係があるというのか。その疑問は、続くぺトラの言葉で解決された。

「前に聞いたことがあるんだ。古代の床屋は外科手術もしてたらしいって。エレクトリスには、医者らしい医者なんていやしない。みんな高い金を取って、適当に切り刻んだ挙句、死体にして組織に売ってしまうんだ。ましてや、動物なんて見向きもされないよ。だから、ハンク、お前にこいつの傷を縫って欲しいんだ」

 疑問は解決されたが、それを引き受けるかどうかは別問題だ。大体、外科手術を行なっていたのは古代の床屋の話であって、俺の仕事のメインは言うまでもなく髪切りとシェービングだ。傷の縫合もできないことはない。特殊部隊で応急処置の訓練はみっちり受けてきたから、下手なやぶ医者より腕はいい。ただ、それは特殊部隊員としてのスキルであって、床屋としてのスキルではない。こんなところで、それを使って良いものかどうか。迷うことはない。答えはノーである。俺は厳然として言った。

「いいですか。俺は床屋であって、医者ではないんです。本来なら、床屋の仕事だってここではしたくないんだ。前回は、あんたがあまりに強引だから一度っきり請け負っただけで、もう二度と来るなと言っておいたはずです。頼むから面倒を持ち込まないでくださいよ。こんなところを誰かに見られたら、俺の立場が危ないんだ。ドン・コルラードの御用達になるためにがんばってきた、今までの苦労が全て水の泡になるんだよ。幹部の立場を笠に着て脅すのもいいけど、こっちの事情も考えてください。そんなけだものは元いたところに捨てちまいなさい。あんたもエレクトリスに暮らす者だったら、弱肉強食って言葉ぐらい知ってるでしょう。この雪狼は弱かったから大怪我をした。そして死ぬんだよ。みんなそれを承知で生きてるんでしょうが。俺だってこの街で生き残るために必死なんだ。あんたには感謝してます。あんたが吹聴してくれたおかげで、仕事の間口が広がったから。しかし、それとこれとは別問題だ。俺は床屋なんです。はさみと剃刀以外は、専門外です。傷を縫うなんてできませんよ。わかったら、さっさとここから出て行ってください」

 一度口を開いたら、止まらなかった。どうも潜伏生活で溜め込んできたストレスが、ここで爆発したらしい。他の住民に聞こえてはならないので、決して声を荒げはしなかったが、有無を言わさぬ口調ではあった。ぺトラはそれを黙ってきいていたが、だんだんと目に涙を浮かべはじめ、最後の最後になって俺の頬を思いっきり叩いた。魔力を使い果たしたうえ、片腕に雪狼を抱えながらの一発なので、ろくに力はこもっていなかったが、ぺトラの悔しさはよく伝わった。ぺトラは怒りに身を震わせ、涙をこぼしつつ言った。

「ハンク! 見損なったぞ。お前は優しい奴だと思っていたのに。私が幹部かどうかなんて関係ない。私はお前を友達だと思って頼みに来たんだ。それを自分の都合ばっかりではねつけて。弱肉強食がなんだ。私にはこいつをほうっておくことなんかできないんだ。家族に見捨てられて、雪原に一人ぼっちで置き去りにされる心細さがわかるのか。お前のような薄情な男にはわからんだろう。まるで、一人でも生きていけるとでもいうような顔をしてるからな。私は自分の魔力が戻るまでこいつを看病する。間に合わなくても、せめて死ぬ時ぐらいは看取ってやる。だから、お前にはもう頼まん」

 そこまで言うと、ぺトラはくるりときびすを返し、勢いよく階段を下りようとした。しかし、仕事上がりのうえ、魔力を酷使したせいで疲労がピークに達していたのだろう、足元がおぼつかず、最初の段で早くも踏み外していた。彼女に怪我を負わせるわけにはいかなかった。いろいろ追及された挙句、俺の名前が出たら困るのだ。俺は素早く踏み出し、宙に投げ出されかけた彼女の体を、間一髪で引き戻した。危機を逃れたぺトラは、そのまま床にへたり込んだ。もうほとんど体力も残っていないようだった。昏倒寸前になりながらも腕にはしっかりと雪狼の体を抱え、うわごとのように、

「馬鹿。ハンクの馬鹿」

 と繰り返していた。俺は困り果てた。こんな状態の者を、エレクトリスの雪道に放り出せば確実に凍死する。建物の中に放置すれば、よしんば凍死は免れても翌朝になれば大問題だ。どちらもごめんこうむりたかった。俺に選択の余地はなかった。

「本当に、勘弁してくれよ」

 思わずそんな独り言が口をついた。俺はぺトラの体を肩に担ぎ、雪狼を腕に抱えて、鳥かごに続くはしごを上った。こうなったら気がつくまで部屋で寝かせて、目が覚めたら誰にも気付かれないように帰ってもらう。その間に、雪狼の傷の縫合を済ませてしまおう。そしたらぺトラも満足して、ことを荒立てはしないだろう。俺は扉を開けると、まずぺトラの体をベッドに横たえてから、傷が開かぬよう雪狼を丁寧に床に寝かせた。そしてランプとストーブに火を入れた。雪狼の傷を照らしてみると、鋭利なナイフのようなもので腹部が縦に切り裂かれていた。それ以外には数箇所の打撲傷。おそらく人の手によるものだ。雪狼の毛皮は、衣類や絨毯の素材として高値で取引される。獰猛で力も強いため、狩猟するのは命がけだが、未成年の個体は比較的弱く、また毛皮の質もいいため、ハンターに狙われやすかった。こいつもそんな手合いに襲われて、毛皮を剥がれかかったところを、命からがら逃げてきたのだろう。そして街外れまできて、力尽きた。通りかかったのがペトラだったというのが、不幸中の幸いだ。他の奴に見つかれば、止めを刺されて、結局皮を剥がれただろうから。

 ぺトラが光術を使ったおかげか、もはや致命傷には見えなかったが、これより深かったとなると、元は内臓まで達していたかもしれない。雪狼はかなり体力を消耗しており、傷ついた筋肉組織からは、まだじわじわと血がにじみ出ていた。しかし、すぐにふさいで静養させれば、一命を取り留める可能性は充分ある。俺は救急箱から針と糸を取り出した。人を傷つける仕事をする以上、傷をふさぐ技術にも精通していて損はない。俺は雪狼の傷の際に針をつきたてた。雪狼は少し体を硬くして反応したが、それ以上は抵抗することなく、徐々に力を抜いて俺の施術に身を任せてくれた。

「いい子だ。痛いだろうが、少しだけ我慢してくれ」

 俺は雪狼にそう言い聞かせながら、手際よく針を動かした。

 縫合を終えて、雪狼の腹がふさがったのを確認すると、ようやく肩から力が抜けた。できるだけのことはやった。あとはこいつ次第だ。俺はいつものようにストーブの上でお湯を沸かし、コーヒーを入れた。今日は徹夜になる。寝床と毛布はエルフの女が占領していたから、俺は凍えることがないよう、一晩中ストーブの火を睨んでいなければならない。ぺトラはベッドの上で阿呆のように口をあけ、すっかり寝息を立てていた。もう少し頭がよく、強引でなければ、完璧なのだが。まあ、それがぺトラの魅力でもあるのだろう。こうした、弱い者を助けたいという純粋な想いは、エレクトリスではまず見られないものだ。娼婦達が彼女を慕うのは、ただ美しいからだけではなく、その愚鈍なまでのやさしさに惹かれているからだ。俺はストーブの傍からペトラの平和な寝顔を見守りながら、すさみきっていた自分の心が和らいでいくのを感じた。ケクロピアにいたころだって、こんな気持ちになったことはない。彼女が目覚めたら、ふさがった雪狼の腹を見せて、さっきは少し言い過ぎたと、謝ろうと思った。それから、徹夜で焚いたストーブの燃料費は、経費で落ちるだろうかと、どうでもいいことを考えた。

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