或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より 作:アツ氏
一晩中、ストーブに薪をくべながら、俺はむかし上官から教わった詠み人知らずの古代の歌を、ぼそぼそと口ずさんでいた。
眠気覚ましのつもりで、延々と同じ箇所を繰り返していた。酒と女にしか興味のない、下品な男の詩だったが、ぺトラの寝顔を見ているうちに、つい思い出してしまったのだった。彼女は結局、空が白み始めるまで目を覚まさなかった。
俺は魔法が使えないから、実際の感覚は知る由もないが、魔力を使い果たした者の疲労はかなり深いらしい。気の説明をする際にアーツが少し触れていたことだが、怪我を治すにしても、火を起こすにしても、体内のエネルギーを放出して、体外の自然現象に干渉するということだから、使えば使った分だけ減衰の一途をたどる。無理が過ぎれば昏倒を免れないので、戦場に出る術師たちは、魔力が尽きないように、ある程度加減して術を使うことが、生き延びることの条件だと、騎士団所属の火術師の男に聞いたことがある。
それだけ、ぺトラは雪狼を助けることに必死であったわけだ。解せないことだ。野生の動物の命を救ったからといって、彼女には一銭の見返りもない。巻き込まれた俺は、見事なただ働きをさせられてしまった。もちろん毛皮にすればいくらかにはなるが、それでは本末転倒だし、いまさらそんなはした金を稼ぐつもりもない。雪狼が俺たちに懐くことはないだろうから、怪我が完治すれば、野生に返す以外の選択肢はない。結局は、過酷な食物連鎖の世界に戻り、明日をも知れぬ身を守りながら、生きつづけることになる。そんな中で、再びハンターに狙われ、命を落とす可能性だって、ゼロではないのだ。俺一人なら、こんな無駄なことはしない。だが、ぺトラの愚鈍さでは、それが無駄だということに、気づけないのだろう。まるで、死の意味を理解することができない子供のようだ。レックスの庇護下にあるとはいえ、そんな甘ったれた考え方で、よくこのエレクトリスで生きてこられたものだ、と感心する。もう少し彼女に運がなければ、ここで出会うことなど、なかったのかもしれない。それが俺にとって喜ぶべきことか、忌むべきことか、いまだに判断がつかないが、少なくとも、雪狼の腹をふさいだあとの気持ちの和らぎは、いまだ失われてはいなかった。
雪狼はといえば、どうやら峠を越したらしく、弱弱しくはあるものの、規則正しく胸を上下させ、呼吸し続けていた。傷が癒着するまでは食事もできないだろうし、いまはそっとしておくのが一番だ。俺は火かき棒の先に突き刺した燃えかすで、たばこに火をつけた。そして煙を吐きながら、飽きることなく、歌を口ずさんだ。
ふしだら女がベッドにいれば、
そんときゃ俺は上機嫌、
ああ、別嬪さん、酌をしてくれ、
俺は浮き浮き、上機嫌……。
ベッドの上で、ぺトラが寝返りをうつのが見えた。朝になって市民たちが活動し始める前に、起きてくれるとありがたいのだが。そんな願いが通じたか、ぺトラはむにゃむにゃと寝言のようなことを二つ三つ口にしながら、薄目を開けたようだった。一瞬、その視線がストーブの前に腰掛ける俺とぶつかる。そしてぼんやりと身を起こし、頭をかきながら、現在地を確認するかのように辺りを見回す。意識を失っているところを運んだから、すぐにわからなくて当然だ。ろれつの回らない口調で、誰へともなくぺトラが言う。
「ふぇ、どこだ、ここ」
しばらく考えている様子だったが、わからないようなので、その問いに答えた。
「昨夜、俺の部屋の前で気を失ったんですよ。覚えてませんか」
ぺトラは怪訝な表情で俺の顔を見つめながら、言った。
「……おまえ誰だ」
まさかそんなところから忘れているとは思わなかった。俺は内心いらだちながら、努めて冷静に言った。
「床屋のハンクです。俺に傷を縫って欲しいって、大怪我した雪狼を連れてきたんでしょうが」
その言葉を聞いて、ぺトラははっとしたように目を見開いた。どうやら、全てを思い出したらしい。ベッドから身を乗り出し、急き込みながら俺に問う。
「雪狼、どうなった」
床に横たわる雪狼を、俺は無言のまま、あごで示した。それを受けてぺトラは毛布を跳ねのけてベッドから降り、雪狼の傍にかがみこんだ。しきりに傷のあった部分に見入っているが、縫合痕を見つけて安堵したのか、ついに肩の力を抜いて息をついた。そして俺を振り返って、
「傷を縫ってくれたのか。やっぱりハンクは私が見込んだとおりの奴だったな」
と言って微笑んだ。目覚めた瞬間は顔を見ても誰だか判らなかったくせに、まったく虫のいいやつだ。俺は肩をすくめて答えた。
「単なる気まぐれですよ」
この言葉を使うのは最近で二度目だが、便利なものだ。それ以上動機を説明する必要がない。もちろん、ぺトラと雪狼を部屋の前に放っておいて、問題になるのが嫌だった、というのが本音なのだが、それをくどくどと弁じたてるのは、かえって言い訳がましく、みっともない気がした。まあ、気まぐれという言葉を、どう捉えるかは相手の勝手だが。
「ずいぶん、やさしい気まぐれなんだな」
ぺトラがからかうように言ったので、俺は少し憮然とした。
「何か問題でも」
「とんでもないよ。こいつの代わりに礼を言う。ありがとう」
だからといって、面と向かって礼など言われると、調子が狂った。そのついでに、がらにもないことまで口走ってしまう。
「……昨夜は俺も少し言い過ぎましたからね」
「なんのことだ」
ぺトラは微笑んだままあっけらかんと返す。どうやら口論したことも忘れているらしい。せっかく恥を忍んで謝ったのに、損をした。
「なんでもありません」
俺はそっぽを向いて、たばこをふかした。
外は相変わらずの薄暗い雪空だが、朝が近くなればそれなりに明るくなってくる。今日も仕事があると思うと、ついつい気が滅入った。昨日、自分を見失ってはいけないと心に決めたばかりだったのに、このままだと何かしくじりそうだ。その感覚の原因になっているであろうものを、排除する必要がある。俺はぺトラに言った。
「雪狼のことは俺に任せてください。今は動かせないが、しばらく安静にしていれば、いずれ元気になるでしょう。そうなったら雪原に帰します。安心してお帰りなさい」
「ん……そうか」
雪狼を野生に返すということに対してか、ぺトラの返事には少し寂しげな調子があった。やけに物分りがいいが、それに越したことはない。今の時間に外に出れば、その姿が誰かの目に留まることもあるまい。俺は彼女が動き出すのを待った。しかし、ぺトラは雪狼の傍に座ったまま、ぼーっとしている。まだ寝ぼけているのだろうか。そのとき、ぽつりと口元が動いた。
「借りができてしまったな」
そしておもむろに立ち上がり、眠っているあいだじゅう着たままでいた、モッフルのコートのボタンを外し始めた。俺は嫌な予感がした。こいつは何か勘違いをしているのではないか。出て行くのならコートを脱ぐ必要はないが、逆にぺトラはあっという間にそれを脱ぎ捨ててしまう。そして、すぐさま下に着ていたドレスにまで手をかけた。俺は慌てて立ち上がり、彼女の手首を掴んでそれを阻止した。
「ちょっと、あんた。なにしてるんです」
ぺトラは不思議そうに俺の顔を見上げる。
「なにって、借りを返すんだよ」
その言葉に、頭痛がした。
「頼んでませんよ。俺は帰ってくれと言ってるんです」
しかし、ぺトラは頑として聞き入れなかった。
「だめだ。それでは私の気が済まない。貸しを作ったままでは、エレクトリスいちの高級娼婦の名がすたる」
そう言って、あくまでドレスの裾をまくろうとする。俺はそれを押し止めながら思った。この女はやはり阿呆なのか。そんなプライドにこだわればこだわるほど、俺が迷惑するということを、理解しようとしない。一体どう言えば納得するのか。考えあぐねたところで、名案が浮かんだ。
「貸し借りなんていらないですよ。俺たちは友達じゃないですか」
ぺトラは俺の言葉がよく飲み込めないとでもいうように、ぽかんとしていた。ここは勢いで言いくるめるしかなかった。
「昨日あんたも言ったじゃないですか。『友達だと思って頼みに来た』って。そうです。俺たちは友達です。だから貸し借りは無しにしましょう。ね。あんたは何もしなくていい。だから、大人しくコートを着て、帰ってください」
「ハンク、お前は私のことが嫌いなのか」
話を聞いているのか聞いていないのか、言葉尻だけ捉えてぺトラが反論する。まだ納得させるには至らないようだ。俺は全力で頭を回転させた。そして、とうとう口からでまかせを言った。
「好き嫌いの問題じゃなくてですね。俺の生まれ育った国では、友達同士でそういうことをする風習がないんです。ちゃんと正式に結婚した者同士でないと、逮捕されてしまう。だから売春宿もありません。残念ながら、エレクトリスに住んでても、その習慣が抜けないんですよ。あんたがそんなことをしたって礼にはなりません」
俺は努めて真剣な口調でまくし立てた。半分嘘で、半分本当だ。夫婦でなければ交わってはいけないという法はないが、確かにケクロピアに娼館はない。ジギスヴァルトが、人身売買につながる可能性のある、あらゆる産業をクーニッツ領から淘汰した際、売春も規制されたのだ。体を売るという行為が、万民平等の思想に相応しくないという論理らしい。不満を口にする市民も少なくなかったが、この瞬間の俺にとっては、方便になる。俺の話は、娼婦としての仕事に誇りを持つぺトラに、衝撃を与えたようだった。隠し切れぬ哀れみと驚愕とが、その目に浮かび上がっていた。
「お、お前は、なんという、つまらない国で育ったんだ」
ぺトラの口調は切実だったが、エレクトリスの住民に言われちゃ、世界一平和なケクロピアも形無しだと、俺は思った。ぺトラは続けて俺に尋ねる。
「お前、結婚してるのか」
「いや、女房がいたことはありません」
何の気なしに答えてから、しまったと思った。ぺトラの表情に新たな衝撃が走る。
「ということは」
その先は皆まで言われずともわかる。俺は誤解を受けることになったが、危機を乗り切ることさえできれば、この際なんと思われても構わなかった。しかし逆効果だったのか、ぺトラの間違った認識が、かえって心に火をつけてしまったらしい。
「その年まで女を知らんのはかわいそうだ。私が教えてやる。なあに、遠慮はいらん」
そしていそいそと俺の衣服に手をかけた。懸命にそれを阻止しながら、内心では二重の意味で憤死してしまいそうだった。この女が思惑どおりに反応してくれることはないのだろうか。だが、ここで投げ出してはならない。俺はあえてぺトラの誤解の上を突っ走った。
「ええ、そういうわけですからね。いますぐここでって言われても、心の準備が出来てませんから、困ります。もし決心がついたら、こっちからお願いしますんでね。とにかく今は勘弁してください」
破れかぶれなことを言いながら、頬は引きつっていただろう。ここを押し切られたら、もう手はないというところまできていた。最終的には、なんと言われても力ずくでコートを着せてたたき出すしかないが、そこまでむきになる必要があるのかどうか、俺にもわからなくなりかけていた。しかし、幸いその必要はなかった。
「そ、そうか。確かに無理やりは嫌だよな。わかるぞ。……じゃあ、決心がついたら言ってくれ。いつでも力になるからな」
ぺトラは俺の手を握り、真摯な眼差しで言った。俺はすっかり憔悴してしまい、もう彼女の的外れの厚意などどうでも良かった。ただ無感情に、
「ええ、わかりました」
と答えるのが精一杯だった。ぺトラはようやく服を脱ごうとするのをやめ、床に落ちていたコートをかきいだいてベッドに腰掛けた。大人しくなったのをこれ幸いと、俺は話題を変えた。
「そのコート、ずいぶん気に入ってるんですね」
そして、いつもどおりお湯を沸かすため、ポットを手に持って窓を開け、屋根の上に積もった新雪を詰め込んだ。気分を変えたかった。ぺトラが少し照れくさそうな口調で、俺の言葉に答える。
「うん……レックスからのプレゼントなんだ」
朝っぱらから嫌な名前を聞いたと思った。娼婦たちの話では、レックスはずいぶんこの極上のエルフ女にご執心だが、当のぺトラもまんざらではないらしかった。詳しい成り行きは知らないが、戦う力もなく、性格も愚鈍そのものであるぺトラが、アルカトラズの幹部になることができたのは、ひとえにレックスの働きかけによるらしい。そうでなければ、ぺトラはもっと劣悪な地位で暮らしていたはずで、果たして今日まで無事に命を永らえてきたかどうか、はなはだ疑わしい。いかに本性が極悪非道といえど、ぺトラにとってレックスは、大の恩人というわけだった。また、恩義に報いる気持ちが、好意に変わるのはよくある話だ。
レックスに対していかなる感情を持とうとぺトラの自由ではあるが、ただ、この二人の関係の先にあるのが幸福ではないことは目に見えていた。奴の性格上、ぺトラを庇護下においているのは、ただ単に美しいものを思い通りに確保しておきたいからであって、その美貌に飽き、価値を見出せなくなれば、レックスはためらいなく彼女を見捨てるか、あるいは処分してしまうだろう。きっとぺトラのことだから、奴に寄せる好意は純粋で、掛け値ないものであるはずだ。やるせないことではあるが、現実は過酷である。彼女のような心の持ち主が報われないのは間違っている。しかし、そんな不条理は世の常だ。何もエレクトリスに限った話ではない。
俺はそんな思いを隠したまま、淡々と言った。
「汚れてしまったなら、一階のカヴァティーナに預ければいい。あいつは性格は悪いが、衣類のメンテナンスの知識は並外れている。血の痕だってすぐに洗い落としてくれますよ」
「そうだな。そうしよう」
ぺトラは答えて、コートの毛に鼻をうずめた。その何気ない子供のようなしぐさが、痛ましくすらあった。ストーブの上でお湯が沸いた。俺はいつもどおりそれを、カップの上に設置したコーヒードリッパーの上に注いだ。湯気と共に、独特の酸味のある香りが立ち上る。ぺトラがそれを見て、怪訝そうな顔をする。
「なんだそれ」
「眠気覚ましですよ。外部に出向してるオーリックの兄貴から、流してもらってるんです。飲みますか」
本当は報告書を受け取りに来る騎士団の間者に運んでもらっているのだが、それを言うわけにはいかない。ぺトラは顔をしかめて、俺の持ちかけを拒否した。
「いらない。変なにおいだ」
それはそうだろう。ケクロピアでコーヒーが流行したのもかなり最近の話だ。俺も最初はその匂いと味を受け付けなかったが、気がつけば、たばこと同じように、生活にはなくてはならないものになっていた。ぺトラが何かに思い至ったように、声を上げる。
「オーリックの出向先というと、ケクロピアか」
「ええ。行き場のなかった俺を、アルカトラズに紹介してくれた恩人です」
口からでまかせばかりだった。ヘンリー・バーバーという男が、さも実在する人物であるかのように、仕立て上げるための嘘。俺はハインリヒ・バルビールだ。ぺトラは虚構と言葉を交わしている。
「ハンクは、なぜエレクトリスに来たんだ」
ぺトラの問いに、俺はあらかじめ用意していた作り話を、もっともらしく言って聞かせた。
「若い頃、つまらないけんかで、人を殺しちまいましてね。ちょっとした口論が高じて小突いただけだが、相手は頭を打って、そのまま動かなくなった。俺はすぐにしょっぴかれて、裁判にかけられました。ケクロピアの法に死刑はないから、こうして今も生きているわけですが、その代わり長いこと塀の中で暮らすことになった。領主のジギスヴァルトって奴は、エレクトリスじゃ考えられないような甘ちゃんでしてね、罪を犯した人間でも社会復帰ができるように、ムショの中で職業訓練が受けられるんです。俺は刃物を使うのが得意で、手先が器用だったから、床屋の技術を学んだ。そして、定められた期間、模範的に務めを果たして出所した。だが、罪人のレッテルを貼られた俺を雇ってくれるところは、なかなか見つからなかった。働く技術を学ばせるのはいいが、必ずしも受け入れ先があるとは限らないんです。だからといって、店を開く資金もない。そんな中、オーリックの兄貴に出会って、エレクトリスに行くよう、勧められたんです。『ドン・コルラードの御用達になれれば、ここにいるよりも、いい暮らしができるぞ』ってね。家族にも見放され、行くあてを失っていた俺は、その言葉を信じて国を出たんです。財産は床屋の技術と、くしと、はさみと、剃刀だけ。ほとんど無一物でやってきて、どうなることかと思いましたが、あんたも含めて、街の連中が目をかけてくれるおかげで、何とか生きながらえています。この土地は過酷ですが、罪人にとっては居場所があるだけ、万々歳ってもんだ。堅苦しいケクロピアの街にしがみついているより、よっぽどよかったと思っています」
話をしているうちに、俺は、これが自分の本当の境遇なのではないかと錯覚すらした。本来の目的さえ忘れなければ、それでいいのだ。別の人間を演じるためには、自分自身を騙すほどに、なりきる必要がある。役者などは及びもつかない。俺がやっているのは命がけの芝居なのだ。正体がばれれば命を奪われる、そんな舞台の上に立っている。
ぺトラは俺の話に真剣に耳を傾けていた。どうやら全て信じ込んでいるようだった。普通に考えれば嘘をつくような場面でもない。だからよかった。何気ない身の上話に虚偽をちりばめるのが、一番効果がある。これだけ事細かに話せば、もうぺトラに正体を疑われることはないだろう。ぺトラは顔を上げ、俺に訊いた。
「家族がいるのか」
俺はまた嘘と真実とを織り交ぜる。
「ええ。妹が一人ね。両親はムショに入っているあいだに死にました。心配ではありますが、あいつにとっては俺などいないほうが、生活しやすいでしょう」
現実にも、そうあって欲しかった。こんな仕事をしている以上、まともな死に方はできないだろうから。特殊部隊員の特別手当で、妹は大学に通っている。勉強して相応しい職に就き、良い相手が見つかれば結婚して、幸せに暮らせばいいと思っていた。俺には望むべくもない生活だが、あいつにはそれを手に入れて欲しかった。
「たった一人の肉親が、いなくなっていいなんてことがあるもんか。寂しいことを言うな、ハンク」
とぺトラは憮然として言った。実に彼女らしい反応だ。俺はすげなく答えた。
「血がつながっていようが、いないほうが良い奴ってのはいるもんです。俺は罪人ですから」
そうだ。罪人といわずして何というのか。この口は偽りばかりを吐き、両手は暴力と暗殺によって血にまみれている。エレクトリスの人間と上手くやれるのは、心の根底にある罪の意識や後ろめたさが、響きあっているからだ。俺は、選ばれるべくして選ばれた。しかしなぜ、こんなことを思うのか。いくら嘘とはいえ、俺は少ししゃべりすぎている。ぺトラは俺の言葉を受けて、はっきりとした口調で反駁した。
「ちがう。お前がいくら罪を犯したのだとしても、妹はきっと兄の帰りを待っている。もし私がハンクの妹ならそうしている。いつかはこの街を離れて、ケクロピアに帰れ。家族は、一度失えば、もう二度と得ることができないんだ。お前はきっと赦してもらえるよ」
ぺトラの眼差しは、気圧されるほどに真っ直ぐだった。一体この女は、馬鹿なのか、聖人なのか。もちろん生きて任務を遂行できるなら、ケクロピアに帰るのは当然だ。しかし、それは潜入捜査官ハインリヒの事情であって、ぺトラは罪人の床屋ヘンリーに対して言っているのだった。まさかエレクトリスで、赦しという言葉を聞くことになるとは思わなかった。俺は面食らってしまい、それ以上口にすべき言葉が見つからなかった。もうでまかせは打ち切りだ。俺は黙って、少し冷めたカップに口をつけた。
しばし沈黙が流れる。ぺトラは何か考えるように、ベッドに腰掛けた両ひざの上に両ひじを突き、頬杖をしている。一体今度はその頭の中で、どんな素っ頓狂なことが回っているのか。もう朝日が昇る。そろそろ、この茶番もお開きにせねばなるまい、と思ったところでぺトラが口を開いた。
「娼館がないってことは、ケクロピアには性病も少ないんだろうな」
その問いはこれまでの話の流れから外れたものだったが、切実な調子があった。確かに、ケクロピアでは性病という言葉そのものが一般的ではないほど、それにかかることは稀である。売春業のみならず、市民のあいだでも過激な性行為や、不純異性交遊は、法律で厳しく取り締まられていたから、ほとんど感染しようがないのだった。俺がそれを事実の通りに伝えると、ぺトラは目を輝かせた。
「そうか。実は私の娼館では、いま問題になっていることがあってな。従業員のあいだに性病が蔓延してしまって、特定のサービスを控えざるを得ない状況なんだ。現状、ほとんど飲食業だけでまわしているけど、売り上げは下がる一方で、レックスに穴埋めしてもらいながら、どうにか組織から切られずにすんでいる。性病が治りさえすればいいんだ。どうやら、ケクロピアにはその秘密があるようだな」
秘密かどうかは知らないが、ケクロピアは医療体制が整っているし、娼婦たちのあいだに蔓延している性病を治すヒントぐらいは、あるのかもしれない。俺にはぺトラの考えが、手に取るようにわかった。ぺトラは決意したように立ち上がって、言った。
「よし、私もケクロピアに出向しよう。そして性病にかからないプレイとやらを学んで、エレクトリスに広める。そうすればこれ以上部下も苦しまないし、収益も元通りにできる。ハンク、お前は良いことを教えてくれた。ありがとう」
そしてぺトラは窓際に座っている俺に近づき、頭を抱きかかえた。その抱擁に表れていたのは、単純な感謝の気持ちだけだ。だから拒絶するまでもなく、俺はなすがままにされた。ぺトラがケクロピア出向を決行したとして、純粋に部下の身を案じての行動だし、逮捕されたとしても、ヒューマニストのジギスヴァルトなら悪いようにしないだろう。俺が直接手を貸すことはできないが、ケクロピアにはオーリックがいる。クーニッツ領に渡るのは、さほど難しくあるまい。
ぺトラは、雪狼の命が助かったことと、俺から得た情報とに満足して、鼻歌を歌いながら帰っていった。ようやく面倒は去った。俺は一息ついてから、剃刀とはさみを取り出して、ストーブの前に座り、いつものようにそれを研ぎ始めた。物思いにふけりながら、俺は少しだけジギスヴァルトのボウヤに期待した。レックスのような極悪人を当てにしながら、エレクトリスで先の見えない生活を続けるより、いっそ騎士団にとっつかまって保護されたほうが、ぺトラの身のためだ。任務が終われば俺はエレクトリスを離れることになるが、もしぺトラが騎士団に保護されれば、ケクロピアに戻っても、また会うことがあるかもしれない。と、そこまで考えて、俺は自嘲気味に鼻を鳴らした。まさか、あんな娼婦と本当に友達になったつもりでいるのか。俺はばかげた考えを捨てた。女ごときにかまけている場合ではない。アルカトラズとプロッティとの抗争が、予想通りの結果となるならば、エレクトリスの状況は変わる。俺は新たな情報集めに奔走しなければならない。仕事の気を抜くことはできないのだ。捜査官ハインリヒ・バルビールとしても、床屋ヘンリー・バーバーとしても。
丹念に研ぎ澄ました剃刀の刃を、俺は自分の腕に当てた。そして軽く上下させると、そこに生えていた細い毛は、音もなく剃り落とされた。調子は上々だ。俺は椅子から立ち上がり、商売道具をしまうと、徹夜で固まった体をほぐすように、首と肩の関節を回した。