或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より 作:アツ氏
組織アルカトラズとアルド・プロッティ会、エレクトリスを牛耳る二大ファミリーの雌雄を決する戦いは、予定通りの日に、番外地で行なわれた。
戦力で勝るアルカトラズに、策を弄する必要はなかった。両ファミリーの戦闘員たちは、合戦さながらに正面から対峙した。レックスは、切り込み隊長であるオルヴァーの部隊に、元プロッティ所属の戦士トーティシェルを配置し、先陣を切らせようとした。ほんの数日前まで同胞であったドワーフに対して、どれほど非情に戦えるかを見極める狙いがあったのだろう。もしトーティシェルが、同族殺しを少しでもためらえば、背後から首を刎ねられることになる。奴は裏切り者の汚名を、真っ向から浴びせられながら、戦わなければならなかった。残酷な処置だが、アルカトラズに絶対の忠誠を誓いうる人材であるかどうか判断するには、効果的ではある。裏切りは、裏切った相手を死に追いやることによって、完成を見るというわけだった。
兵の数は、プロッティの五百人あまりに対し、アルカトラズが約五千人だった。ドワーフが人間と比べて屈強なのは言わずもがなだが、十倍の戦力差を覆すのは無理がある。アルカトラズの戦闘員も、総大将のイラーリオをはじめ、選りすぐりの無頼漢たちである。腕力では多少劣っても、殺人術にかけては引けを取らない。そこに剣も魔法も一騎当千のレックスが加わっている。プロッティの勝利は、誰の目にも絶望的だった。
数で圧倒するだけでは興が乗らなかったのか、イラーリオはある提案をした。両陣営から代表者を数人立てて一騎打ちをする。より多く勝ち星を挙げたほうが条件を提示でき、相手はそれを必ず呑まなければならない、というものだった。正面からぶつかっても勝ち目はなく、選択の余地のないプロッティ一家はイラーリオの提案を受け入れた。プロッティ陣営からは大親分のアルド、長男のバルバロ、次男のバロルドの親子三人が自ら代表に立った。抗争を仕掛けた張本人であるバルバロは、もとより責任を取って戦わなければならなかったが、同族意識の強いアルドとバロルドも、それに付き合う形となった。彼らが敗北すれば、プロッティは事実上の壊滅である。が、そこには負けるとしても死者は少ないほうが良いという大親分の思惑もあったと推察される。
必然的に、一騎打ちは三番勝負となる。組織アルカトラズからは、切り込み隊長のオルヴァー、その側近のクレト、そして元プロッティの戦士トーティシェルの三名が指名された。
オルヴァーはアレーナで会ったとおりの粗暴で薄汚い大男だが、かつては自ら海賊団を率い、クーニッツの領海であるチュレニー海を荒らしまわっていた。当時、オルヴァー海賊団にはブラント海賊団というライバルが存在し、互いにしのぎを削りあっていたが、このブラント海賊団の副長を務めていたのが、ほかでもない現クーニッツ水軍司令官のアルレットだった。
この若き女海賊が美貌の持ち主であることに目をつけて、ジギスヴァルトが引き抜きを行なったことはすでに述べたとおりだが、その魅力的な外見のみならず、水軍司令官に任命されてからの彼女の働きには、目を見張るものがあった。
ジギスヴァルトが受け入れを認めたため、アルレットがクーニッツ騎士団に降ると共にブラント海賊団もその傘下に入り、チュレニーを縄張りとするのはオルヴァー海賊団だけとなった。だからといって、チュレニーがオルヴァーの天下になることはなかった。アルレットは元海賊としての一隻眼を発揮して脆弱なクーニッツ水軍を改編し、自ら型破りな指揮を執って、オルヴァーの船団をことごとく打ち破ったのだった。騎士団という軍事的なバックアップのあるクーニッツ水軍に対し、オルヴァー海賊団は敗戦を重ね、壊滅寸前にまで追いこまれた。海賊として生き残るためには、アルレットと同じように、強力な組織の庇護を受ける必要があった。そこで、かねてより密輸や密航の下請契約を結び、近年勢力を拡大しつつあったアルカトラズの傘下に入ることを選んだのである。
一時はチュレニー最大とまでいわれた海賊団を率いていたこともあって、オルヴァーは表面上は幹部としての待遇を受けたが、新参者には変わりなく、抗争では必ず先陣を切らされていた。ただし、奴は荒くれ者揃いの海賊の頂点に立っていただけあって戦が強かったので、その務めを存分に果たしていた。巨躯に似合わぬ素早い動きから放たれる、強烈なトマホークの連撃を完全にかわすのは、不可能だといわれていた。
そして、その側近のクレトという男だが、こいつは若さゆえか思慮が浅いため、アルカトラズ参入後も軽んじられ、重要な任務が与えられることはなかった。せいぜい鉄砲玉扱いであったが、恐るべき悪運の強さと、向こう見ずな戦いぶりとで数々の抗争を生き延び、戦における評価は高かった。オルヴァーと比べれば、いささか華奢な小男だったが、奴もまた見かけによらず打たれ強く、激すればナイフで刺されても動きを止めないほどの気迫を放った。戦闘員としては優秀だが、失って損害を被るような人材ではないという点で、組織にとって有用な男だった。代表に選ばれるには、選ばれるなりの理由があるものである。
トーティシェルについてはすでに少し触れたが、奴はハンマーを自由自在に操る職人及び戦士であり、どんな固い鎧でも簡単に破壊してしまう、『亀甲羅割り』という独自の技術を持っていた。防具を失って裸同然となった敵を容赦なく殴打し、全身の骨まで砕ききる戦い方を身上としていた。数々の優れた工芸品を生み出し、ファミリーの収益に貢献してきた職人のハンマーが、恩義あるプロッティの血族の頭上に振るわれるという、あまりにも皮肉な展開であった。
先鋒のバルバロにはオルヴァー、中堅のバロルドにはクレト、大将のアルドにはトーティシェルという組み合わせで対戦が決まった。雪が地面を覆うだだっ広い番外地は、一騎打ちを見守るならず者たちの声援や罵声に沸き返った。
まず先鋒戦だが、これはあっという間に決着がついた。バルバロは自分の身の丈とほぼ変わらぬ大斧の使い手だったが、先手を取って真横に薙いだ一撃を跳躍したオルヴァーにかわされ、体勢が整わぬうちに首筋に反撃を食らい、頚動脈から血を噴き出してあっけなく絶命した。バルバロは、プロッティの血族として権力を持ってはいたが、ベルトルドのような一流の戦士ではなかった。そのベルトルドであっても、オルヴァーに果たして勝てたかどうかは疑わしい。武器を持っての戦闘と拳闘とでは、戦いのやり方も緊張感もスケールも違う。幾多の海戦で豊富な経験をつんだオルヴァーは、武器戦闘にかけては百戦練磨だった。この一戦は、アルカトラズの切り込み隊長としての面目躍如というところだった。事切れたバルバロの体を見下ろしても、奴は勝利の雄叫びひとつ上げず、ただただ不機嫌に戦いの場をあとにした。
中堅のクレトの対戦相手バロルドは、バルバロよりもさらに小柄で、ドワーフとしては珍しく、ナイフの使い手であった。バロルドもまた巨漢のベルトルドのように突然変異であるのか、身長の割りに腕が異様に長いうえ、ナイフ捌きに無駄がなく、動きも身軽であった。そのため他の組織でいう暗殺者のような役割をこなすこともあった。クレトの得物もナイフだったが、奴の場合、戦い方はさほど洗練されておらず、あくまでちんぴらのけんかの延長でしかない。事前予想ではアルカトラズ側の不利と見られていた。
死合いが始まると、両者はナイフ格闘術のセオリーどおりに間合いを測りつつ、互いに飛び込む隙をうかがった。が、クレトのそれはぎこちなく、バロルドのちょっとしたフェイントにも反応して、体勢を崩さんばかりであった。やがてバロルドは、相手の死角に入るように、体を横に振りながらクレトに接近しはじめた。バロルドは人間と比べると身長が圧倒的に低いため、ほんの少しの動きで、相手の視界から姿を消すことができるのだった。クレトは敵の姿を見失わぬよう、懸命に周囲を警戒したが、やがて背後を取られ、脚を切られてしまう。このように数回にわたって脚を狙い、やがて相手が立てなくなったところを、首を切り裂いて止めを刺す、というのが、小柄なバロルドの常套戦法だった。クレトは見事にその術中にはまった。反撃をする間もなく続けさまに二回、三回と脚を切りつけられ、ついにひざをつき、バロルドに絶好のチャンスを与えてしまった。バロルドの右手がクレトの首筋を襲った。クレトは腕を上げてガードする。が、そこにナイフはなかった。右手の動きはフェイントで、ナイフはいつの間にかバロルドの左手に渡っており、それがクレトのわき腹に突き刺さった。苦悶の表情を浮かべるクレトを見て、口元に笑みを漏らすバロルド。
しかし、それから数瞬の後に倒れたのはバロルドだった。敵のフェイントに混乱したクレトが、無我夢中で繰り出したナイフの一撃が、バロルドの心臓にまっすぐ突き立っていたのである。これぞ悪運であった。対してクレトのわき腹の傷は浅くはなかったが、あばらの下層で刃がとまり、致命傷とはならなかった。わき腹への攻撃で動きを鈍らせたあと、ゆっくり料理するつもりだったバロルドのもくろみは破れ、奴もまた倒れた。その心臓を突き破ったナイフの刃が、奴の命を奪うのは確実だった。
三人の代表のうち二人が死に、すでにプロッティの敗北は決したと思われた。しかし、そんな生ぬるい終わらせ方をしないのがイラーリオである。奴は、一人残されたアルドに対してこう言った。
「アルドの大親分よ。息子二人が殺されて、きっと腹の虫がおさまらねえだろう。……一矢報いるチャンスをやる。最後の一戦、あんたが勝てば、この抗争はプロッティの勝ちでいい。俺たちはおとなしく兵を引く。しかし、戦わないのなら、総攻撃をかけるぞ。あんたが戦えば、勝っても負けても部下の命は保障してやる。もちろん五百人の部下を盾にして逃げるなら今だが、どうするね、誇り高きプロッティの長よ」
このような卑劣な誘導尋問をしてまで、イラーリオはどうしても、ドワーフ同士の殺し合いが見たくて仕方がないらしかった。トーティシェルを先陣に配置したレックスの思惑もあった以上、アルドがどう答えようとも、鎧砕きのハンマーはかつての主君を襲ったろう。しかし、さすがは、その日までエレクトリスを生き残ったファミリーの長たる男である。アルドは、イラーリオの提示したチャンスという名の罠を、誇りを持って受け入れた。そして斧を構え、対峙する同族の男に対して言った。
「トーティシェル。冥土の土産によく見ておくがいい。貴様の見限ったプロッティの長が、どれほどの男であったかを。同族のよしみで、せめて骨だけは拾うてやる。貴様がこれ以上裏切り者と罵られぬよう、わしの戦斧で、その素っ首を落としてくれるわ」
アルドの言葉を受けて、トーティシェルもまた、ハンマーをかまえた。表情はなく、声も発しなかったが、その佇まいはどこか哀しげであった。アルドは、かつてエレクトリスでも一、二を争う強者だったが、現在はすでに初老の域に差し掛かり、若いころのような膂力は見る影も無かった。対するトーティシェルは、その生涯で最も活力に満ちた時期にある若者で、さらに職人としても、戦士としても才能に溢れていた。武器を交える前から、力の差は歴然であった。
アルドが雄叫びを上げて地面をけり、鈍重な足で駆け出す。トーティシェルもそれにあわせて走る。両者はどんどん接近し、やがて共に攻撃の間合いにはいった。斧を振り上げたアルドに対して、ハンマーを持ったトーティシェルの腕が横に振られる。
何かが砕ける、鈍い音がした。
トーティシェルのハンマーは、斧が振り下ろされるより早く、アルドの頭を打ち抜いていた。白髪に覆われた側頭部が陥没し、眼窩から、ゆがんだ骨に圧迫された眼球がこぼれ落ちる。戦斧を取り落とし、鼻と耳から血を流しながら、アルドは地面へ向かって力無くくずおれていった。容赦ない、しかし慈悲ある必殺の一撃だった。地面に横たわったアルドはしばらく痙攣していたが、十秒もしないうちに動かなくなった。その様子を見て、レックスとイラーリオは頬を歪めて笑った。恩義ある同族に対しても微塵もためらうことなく、冷徹な戦いぶりを見せたトーティシェルの働きに、二人とも満足したらしかった。アルカトラズ陣営の戦士たちは歓声を上げ、プロッティ陣営は静まり返った。勝敗は決した。
こうして二つのファミリーの抗争は、三人という最小限の死者を出したのみで、幕を下ろしたのだった。ボスを失ったプロッティの構成員たちは、イラーリオの約束どおりに助命され、職人として組織に引き入れられた。アルカトラズは、プロッティが支配していた武器、宝石の商権と加工技術、流通網をまるごと手中に収め、ますます勢力を強めることとなった。また、この抗争で指揮を取ったイラーリオは、ドン・コルラードに新たに功績を認められ、空席だったアンダーボスの地位にまで登りつめた。これによって、奴は時期ボスの地位を、不動のものとした。
アルカトラズに敵対するファミリーは残すところあと一つ、人間族のみで構成されるバスティアニーニ一家だけだった。亡国の王族がエレクトリスに流れ着いて成立したバスティアニーニファミリーは、その祖先の人脈と処世術とを駆使して、世界各国の王侯貴族と関わりを持ち、暗殺や違法物品の取引を高額で請け負う、いわば裏世界の貴族なのだった。バスティアニーニの秘密の人脈はアルカトラズにとって魅力であり、それを手に入れられる確証がなければ、抗争を仕掛けるには尚早だった。バスティアニーニにとってもアルカトラズはもはや脅威であり、正面衝突を避けたい相手だった。エレクトリスに最後に残された、この二つのファミリーの存亡が、どのような形で決着がつくかを見るには、もう少し時を待たねばならない。
とにかく、アルカトラズは抗争に勝利した。まるで実際にこの目で見てきたかのように話したが、その通り、俺は結局、仕事を返上して番外地へ足を運び、誰にも見つからないよう、事の成り行きを見守っていたのである。そのぶんだけ、確かに得るものはあった。オルヴァー、クレト、トーティシェルの三人は、戦時には要注意人物だと認識しておく必要がある。今後の展開によっては、クーニッツ騎士団と組織アルカトラズとが交戦状態となる可能性もある。敵の戦力を把握しておくに越したことはない。俺は、エレクトリス二大ファミリーの抗争の顛末を報告書にまとめ、受け渡しの日を待った。
しばらくは、何事も無い日が続いた。ぺトラの連れてきた雪狼の子供は徐々に体力を回復し、一週間後には、やわらかい食べ物なら受け付けるようになっていた。もちろん、なついてはいないので、えさやりも一苦労だ。雪狼は一日中、部屋の隅っこにうずくまり、近づけば牙をむき、うなり声を上げて威嚇してくる。俺は噛まれないように、まず床にえさ皿を置き、それをつま先で追いやって雪狼の足元まで近づけるのだった。最初は警戒してえさを口に入れなかったが、においをかいだり、なめてみたりして、ためつすがめつするうちに、食べるようになった。そうなれば、しめたものだ。体内に栄養が行き渡りさえすれば、回復の速度は段違いになる。娼館や街でぺトラと行き会えば、雪狼の経過を訊かれたが、そのたびに良い報告ができた。ぺトラは自分の目で様子を見たいとせがんだが、俺は許可しなかった。危険だし、暴れて傷が開いたら、雪狼自身の予後の経過も長引くことになる。ぺトラは大人しく引き下がった。もう、幹部の地位を笠に着て、強引にことを進めるようなことはしなかった。
ぺトラは雪狼に名前をつけろと言った。飼い犬にするわけじゃなし、無意味なことだと思ったが、下手に反対して、また妙な言い合いに発展するのは面倒だったので、俺は素直にうけがった。
「じゃあ、あんたがつけてください」
考えるのが手間なのでそう言うと、ぺトラはしばらく思案した挙句、俺に尋ねた。
「雪狼の餌には何をあげてるんだ」
「豚肉の切れ端をすりつぶして、ぬるま湯で溶いたものを少し」
と答えると、ぺトラはひらめいたような顔をして言った。
「わかった。あいつは豚肉だ」
意味がわからなかった。
「豚肉ではなく、あいつは雪狼です」
「ん? わかってるぞ。自分の好物と同じ名前にされれば嬉しいじゃないか」
やはり理解できない感性だ。俺にも好物はあるが、もしスペアリブなどと呼ばれたら、雪狼よろしく相手を噛み殺す気になるかもしれない。仮にぺトラの好物がジャガイモだとして、ジャガイモと呼ばれて彼女は喜ぶのだろうか、と考えると、本当に喜びそうだったので、俺はその空想をかき消した。こいつに常識は通用しない。しかし、豚肉ではまるで暗号である。豚肉の傷が治る、豚肉が吠える、豚肉が噛み付く、豚肉が走る……。なんのことだかわからない。このままでは雪狼があまりにもかわいそうなので、俺は仕方なく意見した。
「もう少し、尊厳のある名前をつけてあげてください」
「そんげんってなんだ」
「……あんたにだって、ぺトラっていう立派な名前があるでしょう。そういうことです」
おそらくよく分かっていないだろうが、ぺトラは完全に理解したとでもいうように、大いに頷いた。
「な、なるほどな。そうだな、雪狼にもそんげんは必要だ。じゃあ、ハンクってのはどうだ」
「それは俺の名前です。そしてあいつはメスです」
「むう、そうか……困ったな」
ぺトラは腕組みをして、再び考え込んでしまったが、彼女が頭脳をいくら絞ったとしても、ろくなアイディアが沸いてくるとは思えなかった。俺はあきらめて言った。
「いいです。俺がつけます」
雪狼にはビアンカという名前をつけた。古代語のひとつで言うところの『シロ』。ひねりはないが、豚肉よりはましだった。それにしたってぺトラとの会話の便宜上、あくまで記号としてつけたのであって、俺自身がその名前で雪狼に呼びかけることは、ほとんどなかった。
明朝、またしても来客があった。狭い部屋に扉をノックする音が響く。起き抜けだった俺は、例によってストーブの前でタバコを吸いながら、ガタガタ震えていた。動くのが面倒なのと、ろくな人物が訪問してきたためしがないのとで、俺は無視を決め込もうとしていた。しかし、扉の外から聞こえてきた言葉を聴いて、俺ははじかれたように立ち上がった。
「小人の酒の材料が欲しいんだが」
俺と同じくらいの年齢か、少し上と思しき男の声だった。用心のため、ナイフを忍ばせながら扉に近づいて返答する。
「何が足りないんだ」
「レモンだ」
緊張が高まる。俺は重ねて問うた。
「なんて名前の酒だ。俺にも飲ませて欲しい」
すると扉の外の男は、低い声で答えた。
「早く開けてくれ。『もうあとがない』」
俺は扉の鍵を開けた。これはクーニッツの間者のあいだのみで交わされる、合言葉のパターンのひとつだった。報告書の受け渡しなら、エレクトリスの西、イスメヌス湖畔の雪原で行なわれ、三日後そこへ向かう予定だったので、この突然の訪問に俺は驚いた。そして扉の向こうから姿を現した人物を見て、さらに驚愕した。大きなフードのついた旅行服に身を包み、ひげを生やして正体を隠しているが、その頑健な長身と、武人として非の打ち所のない佇まいを、他の誰と見間違えるはずもなかった。特殊部隊の男達の憧れ。軍事総司令官ディルクが、そこに立っていた。
「久し振りだな、ハインリヒ。貴様のおっかない顔が、急に拝みたくなってな」
ディルクが口元に笑みを浮かべ、言った。もちろん、方便に決まっている。エレクトリスの現状視察と、俺が二重スパイになっていないかを調べるための、抜き打ち監査が目的だろう。それにしたって軍事総司令官がじきじきにお出ましになるとは、思いもよらない。潜伏生活も、もう一年近くになる。その間に俺が報告書に記した情報量は膨大で、エレクトリスの現状を知らせるには充分であったが、肝心の麻薬の所在と、それをケクロピアに持ち込んだパイプ役については、ほとんど詳しいことがつかめていなかった。俺一人の手に余る事態に陥っていると、騎士団が判断したのだろう。それで、よりにもよってディルクの旦那がやってきた。もし、俺が意図的に麻薬の情報を流さずにいるのだとしたら、処断するというおまけつきで。敵国からも、本国からも命を狙われる可能性があるという点で、スパイはあまりにも孤独である。しかし、それを承知の上で仕事をしている。俺はディルクに椅子を勧めた。
「ちょうどコーヒーを入れるところです」
ディルクはその長身をストーブの前にこごめながら、答えた。
「ブランデーがあったら垂らしてくれ。さすがにこの街の朝は冷える」
のんきな口調ながら、その目は俺が妙な動きをしないかどうか、つぶさに観察しているのだろう。後ろめたいことは何もない。俺は普段どおりの動作で、コーヒーをいれ、ちゃんと味見して見せた上で、ディルクのカップにブランデーを垂らした。ある程度訓練を受けたものなら、疑わしい相手の入れた飲み物に口をつけないが、ディルクはそれを超えている。一瞬の観察とやり取りだけで、すでに危険はないと判断したのか、実に無造作に、カップを口に運んだ。
「ハインリヒ。少し雰囲気が変わったようだな」
悪い意味ではないだろう。ただの世間話のような調子だった。俺は方頬だけで笑って答えた。
「もともと強面ですが、ここでの生活で、すっかり悪党らしさが板につきましたよ」
それに対して、ディルクが冗談交じりの皮肉を口にする。
「そうだな。板につきすぎて、かえって穏やかですらある。罪人としての生活にも、楽しい部分があるのか、それとも貴様には罪人の素質があるのか」
「否定はしませんが、そりゃあんまりな言い草です」
「気にするな。貴様がそうなら、俺もそうだ。団長の要求する必要悪に、すっかり染まっている。意外と、俺にもこの街は居心地がいいかも知れん」
そう言って、ディルクは自嘲気味に笑う。彼は部屋を見回して、隅からこちらの様子をうかがっているビアンカの姿に気がついた。
「あれは雪狼か」
俺もまた、ディルクと同じ方向に視線を向けながら答える。
「そうです。町外れで大怪我していたそいつを、治療してくれと連れてきた物好きがいるんです。強引な奴でしてね。断りきれずに、傷が治るまで面倒を見ています。野生に戻るだけの体力を取り戻すには、あと半月ぐらいかかるでしょう」
ビアンカは、唸りもせず、顔を上げてじっと俺たち二人を見据えていた。気高く、わきまえたその態度と眼光とには、知性すらうかがえた。決して心を許しはしないが、命を救われた義理は感じているようで、その日までに俺を威嚇することはほとんど無くなっていた。ディルクは俺の話を聞いて、一人納得したようにつぶやいた。
「なるほど。丸くなったわけだ。特殊部隊いちの無頼といわれた男がな」
俺はそれには答えなかった。そろそろ本題に入るべきだ。俺はテーブルの裏の隠し引き出しの中から、報告書を取り出した。ディルクが無言で手を差し出したので、受け渡す。書面に目を落としながら、ディルクが俺に質問する。
「何か困っていることはないか」
俺は自分が直面している問題を、正直に話した。
「この一年近くで、俺の床屋の評判は上がり、幹部から依頼を受けるまでになりました。だが、肝心のドン・コルラードの屋敷に呼ばれたことはない。前任の床屋がしぶとく生き残っているんです。そいつがいなくなれば、次は俺に声がかかり、調査も大幅に進められるはずなんですが」
ディルクは返答せず、ざっと報告書を最後まで読み通したようだった。そしてそれを鞄にしまうと、椅子から立ち上がった。用事は済んだらしい。ディルクは部屋の扉に向かいながら、言った。
「ハインリヒ。貴様の働きぶりは立派だ。団長も俺も、今後に大いに期待を寄せている。このまま調査を続行しろ。いずれ問題は解決する。求めよ、さらば与えられん、だ」
そして途中で立ち止まり、付け加えるように言った。
「妹君のことは騎士団に任せておけ。日夜、配下の者に監視させているが、今のところは何事もなく生活しているようだ。だが、貴様の正体がアルカトラズに知れれば、彼女の身にも危険が及ぶだろう。ケクロピアでも水面下で捜査を続けているが、パイプ役を割り出すにはいたっていないのだ。言うまでもないことだが、くれぐれも用心しろ」
その言葉に俺が頷くのを見届けると、ディルクは扉を開け、部屋を後にした。
同日の夜、床屋の仕事を終えて『ラ・フィンタ』に行くと、街で新たに起こったひとつの殺人についての話で、人々は盛り上がっていた。人死には珍しいことではないが、話題性があり、俺にとっては大いに関心を引く事件でもあった。ドン・コルラードの御用達の床屋が、仕事帰りに何者かの襲撃を受け、命を落としたというのだ。
背後から心臓を一突きにされ、おそらくは即死。目撃者もいなかったという。背中から胸部に突き抜けた細く鮮やかな傷口から、凶器はエレクトリスのごろつきどもが使うようなナイフではなく、騎士の使うような細身の剣であると推定された。しかもかなりの手練の者による犯行。エレクトリスで正統な剣術を修めた人間の話は聞いたことがない。もちろん床屋の同業者である俺も疑われないではないが、その日は日没まで休みなく仕事をしていたというアリバイがあった。そもそも、エレクトリスに殺人を裁く法はない。命を落としたのは、あくまで自分の身を守りきれなかった、御用達の床屋の責任なのだ。
誰もが、殺人事件の犯人像の分析に熱を上げていた。正騎士崩れの殺し屋だとか、旅の辻斬りだとか、的外れなことを互いに言い合い、今宵の酒の肴にしているのだった。
もちろん俺にはわかっていた。犯人は誰か。
求めよ、さらば与えられん。そういうことだ。