或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より 作:アツ氏
雪狼の傷痕から糸を抜き、あと一週間もすれば野生に返せるだろうという時期になって、ぺトラのケクロピア出向が決定した。
アルカトラズ上層部との交渉の末、クーニッツ領で性病対策を学び、赤字続きの売春業を立て直すため、という動機が承認され、出向先の幹部であるオーリックと渡りがついたのだった。密航用の偽装船をオルヴァーから借り受けて、ぺトラはチュレニー海を渡ることになった。その前夜、ぺトラは雪狼に別れが言いたいと、またしても俺の部屋を訪れた。すでにビアンカは、鳥かごでの生活にある程度順応し、暴れることもなかったので、餞別代りに俺は彼女の頼みを聞き入れた。義理堅いビアンカは命の恩人の匂いを記憶していたのか、ぺトラが姿を現すと、激しい反応は見せないものの、代わりに穏やかな様子で床に寝そべったまま尻尾を二、三度振ったようだった。そして、自分に向かって無用心に差し出された掌を避けもせず、おとなしく撫でられるがままにされた。
そんなビアンカを見て、ぺトラは満足げに微笑んだ。
「野生に帰るところに立ち会えないのは残念だが、受け入れてくれる群れを見つけて、しっかりやるんだぞ。今度は悪い奴に狙われないようにな」
気持ちよさそうに目を閉じ、手首に鼻を擦り付けてくるビアンカに向かってそう言うと、ぺトラは立ち上がって俺を振り返った。
「ケクロピア出向の期限は決まっていないが、部下を放っておくわけにはいかないし、さほど長居はしないつもりだ。まあ、それはそれとして、ハンク、私の言ったことを覚えているか」
言いながら、その大きなグリーンの瞳で俺の顔を覗き込む。何のことかわからずに答えあぐねていると、ぺトラは俺の胸の辺りを小突いた。
「早いところ、この街での生活は切り上げて、妹の元へ帰ること。わかったな」
つくづくおせっかい焼きな奴だ。俺はあえて冗談めかして答えた。
「ああ、そっちの話ですか」
「そっち?」
ぺトラがきょとんとした表情で訊きかえす。
「俺はてっきり、女を教えてくれるって約束のほうかと」
するとぺトラはにっこり笑い、
「残念ながら、これから旅の準備があるから、今日は無理だ。だが、もし行き違いになっても、おまえなら、ケクロピアまで出張してサービスしてやるよ」
と本気ともつかない調子で言った。
「そりゃどうも」
ケクロピアで買春すれば例外なく逮捕されてしまうため実現しようのない話だが、俺はその気持ちだけは友好の表れとして受け取ることにした。ぺトラは、ビアンカのことをくれぐれも頼むと言って、帰っていった。その姿を見送りながら、果たして再びあいまみえることがあるのか、それともこれが終生の別れになるのか、不意にそんな想いを抱いた。そしてすぐに打ち消した。それ自体どうでもいいことだし、今後がどうなるかなんて、いまだ任務の途上にある俺の知るところではないのだ。
さて、とうとう来るべき時がきた。ある日、仕事の受注のため一階の貸衣装屋に降りると、カヴァティーナのババアが息せき切って、俺に言った。
「でかい仕事の依頼だよ。さっき使いが来たんだ」
俺は何の気なしに返答した。
「どこからです」
カヴァティーナは、枯れ木のような節くれだった腕で、俺の肩を目一杯はたいた。
「ドン・コルラードだよ。あんた、御用達に指名されたのさ」
そして、まるで自分の手柄だとでもいうかのように、痙攣的に笑った。
とうとうエレクトリスの床屋の最高峰として、認められたのだ。俺はババアの言葉を聞いて、身が引き締まる思いがした。もちろん、床屋としてではなく、潜入捜査官としてだ。諜報活動もいよいよ大詰めだ。俺は今まで以上に、自分に何ができるかを考え、それを最大限に果たさなければならない。組織の中枢に迫る以上、危険も段違いとなるだろう。しかるべき情報を手に入れて、願わくば、妹の待つ本国の土を生きて踏みたいものだが、そのためには俺自身の能力以上に、運が必要だ。聞き入れる神がいるか知らないが、人事を尽くしたら、あとは祈るほかはない。
俺は細心の注意を払って道具の点検を行い、ドン・コルラードの屋敷へ出張する日を待った。もし剃刀にほんの小さな刃こぼれがあって、コルラードの頬から一滴でも血を流したとしたら、俺はその場で消されるのだ。首領の血を流させた者には、必ずその報いがあるという掟の通りに。
前任者は、そんな重圧の中でよくも一年、務めを果たしたものだ。しかも、仕事をしくじって消されたのではない。あくまで『通り魔』の襲撃を受けて死んだのだった。奴の存在を常に意識して暮らしていながら、最期まで一度も会うことはなかったが、少なくとも床屋としては、計り知れぬ技術と胆力の持ち主だったろう。死ぬには惜しい男だったのかもしれない。しかし俺はそれを望み、そして叶えられた。この任務もまた、犠牲の上に成り立っている。つまらないどじを踏んで、失敗するわけにはいかなかった。俺には責任がある。前任者の死にも、人知れず奴に手を下した『通り魔』にも、ぺトラとの約束にも、帰りを待つ妹にも。
当日、貸衣装屋の前に、迎えがきた。カヴァティーナに頓狂な声で呼び出され、準備をして一階に降りていくと、通りには二頭立ての馬車が止まっていた。御者も、馬も、車体も、何もかもが黒尽くめである。俺がそれに乗り込むと、中で待ち受けていた構成員に、黒い布で目隠しをされた。襲撃や暗殺、そして俺の如きネズミがもぐりこむのを防ぐため、組織アルカトラズの本拠地を知らされているのは、ごく一部の幹部や構成員のみである。目隠しは、コルラードの屋敷までの道筋を覚えられないようにするための処置だろうが、残念ながら俺には通用しない。馬車の向かっている方角、速度、走行時間、車体の揺れ方、角を曲がった回数、車外から流れ込む物音や匂い、それらを俺は正確に記憶し、頭の中で地図を描いた。目隠しをされても方向感覚を失わないのは、訓練の賜物だ。記憶術も、推理能力も然り。これだけの要素がそろえば、視覚的な情報がなくても、改めて場所を割り出すのはそう難しくない。今後は、行きたいときに、その場所に行けるということだ。これだけでも大きな進展である。
やがて目的地に着いたらしく、車体の揺れが収まった。馬車を降りてからも目隠しは解かれず、前を歩く構成員の肩に手を置かされ、それに従って歩かなければならなかった。晴れて屋敷の中に足を踏み入れたわけだが、この厳戒態勢では、さすがにドン・コルラードの待つ部屋までの情報しか得られない。下手な動きもできない。俺を取り囲むように歩く数人の構成員は、足音から察するに、おそらく相当な手練の殺し屋だろう。不意をついたとしても、一度に倒す自信はなかった。むしろ俺の生命は完全に奴らの手の内にあり、まるで断頭台へ赴く死刑囚のような気分がした。
扉の開く音がし、目隠しが解かれた。薄暗く、さして広くもない部屋に、ソファーと大理石のテーブル。奥にはマホガニー製のプレジデントデスクが置かれ、黒いスーツを着た初老の男が腰掛けている。両脇には、イラーリオとレックス。それ以外に、戦闘が専門と見られる、屈強そうな構成員が四、五人控えていた。おそらく、壁の向こうにはもっと多くの戦闘員が控えているに違いない。目の前に広がっているのは、組織アルカトラズの中枢そのものだった。中央にいる初老の男こそが、おそらくドン・コルラード。目つきは鋭いが、殺気立ってはおらず、不気味なほど静かな佇まいで、こちらを見つめている。肌の色は蒼白で、痩せた体つきをしており、とてもエレクトリス最大のファミリーの頂点に立つほどの力を持つ男には見えない。奴の両脇を固めているイラーリオとレックスのほうが、よほど大物らしい雰囲気を放っている。しかし、こうして事実を目の当たりにしながら、俺の抱いた感想など無意味なものである。見た目がどうあろうと、ドン・コルラードはドン・コルラードだ。俺はひざまずいて頭を下げ、決められた通りの挨拶をした。
散髪を始めるまで、ドン・コルラードは一言も口を開かず、全ての指示はイラーリオが行なった。タオルを濡らし、シェービングクリームをあわ立てるためのお湯は構成員が運んだ。俺は合図を受けてドン・コルラードの肩に刈布をかけ、その灰色の髪にはさみを入れ始めた。俺もまた、無言で作業に向かった。特権を持つ一部の幹部や構成員以外は、アンダーボスかそれに準ずる地位にある幹部を通さずに、首領に口をきくことを禁じられている。何人もの人間が詰めているにもかかわらず、部屋はまるで墓場のような静けさに包まれていた。俺の手にある櫛がドン・コルラードの髪を梳き、はさみを入れる音だけが、断続的に響き渡る。
俺は、作業を続けながら、いつか街で耳にした他愛ない噂話を思い出していた。ドン・コルラードの屋敷の場所が知られないのは、相応しくない者が足を踏み入れれば、必ず命を奪われるからだと。確かにアルカトラズ以外のファミリーから捕縛された者や、国外から潜入したスパイがいかなる運命にさらされるかは、よく話に聞いていた。屋敷に併設された研究所で、劇薬の被検体として悲惨な最後を迎えるか、苛烈な拷問を受けて命を奪われるか、どちらにしても助かる道はないのだった。おそらく、末端の人間にも恐怖を植え付けるため、あえて広められているのだろうが、所在地は知られないのに、犠牲者の死の有様だけは生々しく音に聞こえてくるため、ドン・コルラードの屋敷は半ば伝説化しており、エレクトリスの住民たちに、皮肉と畏怖とを込めて『死の家』と呼ばれていた。実にふさわしい蔑称だと、まるで死人のように静かな男達に囲まれながら思う。俺もまた、自分自身を亡霊のように感じていた。なにしろ、この世に実在しないヘンリー・バーバーという男として、はさみを操っているのだから。
散髪が終わり、出来上がりを確認させるため俺が鏡を向けると、ドン・コルラードは静かに頷いた。及第点に達したようだった。この瞬間、俺はひとつ命を永らえた。しかし、まだ髭剃りが残っている。今度は肌に直接刃をあてるため、無事にやりおおせるのは散髪よりよっぽど難しい。俺はコルラードの顔の輪郭に沿ってに温かいクリームを丹念に塗ってから、道具入れから剃刀を取り出し、革砥に走らせた。周りに控えている男達の緊張が、さらに鋭くなったのを感じる。イラーリオの立ち位置も近い。俺はいま、ドン・コルラードを殺そうと思えば殺すことができる。隙を見て、喉に剃刀を突きたてれば、この初老の男の命を奪うのは容易いだろう。まあ、その瞬間レックスかイラーリオの手が動いて、俺の首が飛ぶだろうが。今日はそれを試すのが目的ではない。情報を得るまでは床屋に徹するのだ。
俺が慎重に剃刀を使っていると、それまでまったく言葉を発しなかったドン・コルラードが、突然口を開いた。少しかすれているが、地の底から聞こえてくるような、不気味な響きの声。そして、問うた。
「床屋よ……。お前が最も恐れるものはなんだ」
俺はイラーリオの顔を見た。返事をするにもアンダーボスの許可が要るのだ。イラーリオは普通に頷くよりも長く、頭をたれた。会話をしていいというサインだ。俺は手元が狂わないように注意しながら、答えた。
「エレクトリスで暮らす者にとって、ドン・コルラード以上に恐れるものなどありません」
お決まりの返し文句だった。常にドン・コルラードを最高の権力者として崇め奉るよう発言していれば、間違いはなかった。一切の感情をさしはさまない、儀礼的な挨拶のようなものである。しかし、コルラードは俺の返答に対して、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「わしのようなか弱い老人を恐れるというのか……。それならためしてみるがいい。貴様の手にある剃刀で、わしを殺すなど簡単なことだ」
俺はいきなり自分の胸のうちを見透かされたような気がした。もちろん殺す気など無かったが、その場面が頭をよぎったのは間違いない。背筋につめたいものが走る。これが誘導尋問だとすれば、答えようによっては殺されるかもしれない。取り合わないのが一番だ。
「ご冗談を」
俺は短く答えて、作業を続けた。それで会話は終わると思っていた。しかし、ドン・コルラードは再び口を開いた。しかも一言ならず、実に抽象的な長話を。
「本当に恐るべきものが何か、わしはずっと考え続けている。若いころは死を恐れた。同年代には勇敢な連中もいたが、そいつらは例外なく早死にしてしまった。わしは自分の命を守るためならば、なんでもした。殺される前に相手の寝首をかいて殺し、助かるために仲間を敵に売り渡し、地位を得ればそれを脅かすおそれのある人間を、ことごとく消した。多くの人間を蹴落として、この掃き溜めでボスになることに躍起になっていた。
そんなわしが何を欲していたかわかるか。平和だよ。全ての敵をひざまずかせ、絶対の安全に身をおくこと。わしがここまで生き延び、今の地位を築いたのは、臆病であるが故なのだ。貴様はそんな卑劣な年寄りを、誰よりも恐ろしいなどという。実に滑稽だ。まるで喜劇ではないか。さしずめわしは道化だ。誰もが大仰に、わしに芝居じみた敬意を払うが、ドン・コルラードという化粧を落とし、衣装を剥ぎとれば、残るのは骨ばった老いた体だけだ。わしはこの部屋にいる誰よりも弱い。床屋、貴様よりもな。この弱い体さえも朽ち果てれば、わしのことなど誰が思い出そう。わしが庇護を与えた者は、新たに頂点に立った者に対して、同じようにかしずくだけだ。いかに死を恐れ、それを忌諱しようとも、結局は逃れることはできない。空しいことだ。いったい何のために、生き延びることに固執してきたのか。そう考えると、死を恐れてきたこと自体が、誤りだったような気がしてならない」
話を聞きながら、俺はドン・コルラードがこんなにも感傷的で、弱弱しい人格の持ち主だと知って、内心驚愕を禁じえなかった。目の前にいるのは、生きることに倦んだ、ただの老人に過ぎなかった。年齢的な問題もあるにはあるだろう。しかし、それにしたって、あまりにも自分の弱さに正直すぎる。俺を油断させ、しっぽを出させるための策略にすら思えてくる。だとすれば、正体がすでにばれていることになるが、そう信じたくはない。イラーリオやレックスが動かないあいだは、とにかく床屋としての務めを果たすしかない。俺は、気ままに口を動かすコルラードの頬を傷つけないよう、細心の注意を払いつつ、剃刀を走らせる。
コルラードが突然、詩のような文句を口ずさみ始める。
「太陽の下、人は労苦するが、
すべての労苦も何になろう。
一代が過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世には誰も心に留めはしまい」
俺は黙ってそれを聞いているしかなかった。年寄りのたわごとにかかずらうより、作業をやりおおせることに集中するほうがよほど建設的だ。俺にはこの詩の意味がわかるような気もするし、わからないような気もした。何しろ視点があまりにも悠遠だ。永遠のうちの一瞬を生きるに過ぎない人間が、永遠に対してなんら感想を抱きようもない。たとえレックスのごときエルフの生きる悠久のときさえも、永遠という単位の前には矮小だ。しかし、それにあえて想いを傾けた馬鹿がいたということだ。コルラードは続けて語り始めた。
「この言葉を知ったのは、もう十年以上も前の話になる。アルカトラズはまだ百人単位の小さな組織で、そんなファミリーが数多く、エレクトリスでしのぎを削っていた頃だ。
ある若者が、当時のわしの縄張りに姿を現した。浅黒い肌、鷹のような油断のない眼差し、白い装束を身にまとい、傍らに蛇を従えていた。一目で砂漠の民だとわかった。奴はアルカトラズ直轄の娼館で、遊蕩の限りを尽くしていた。人が一生をかけて得る快楽を、一度に味わおうとするかのように、三日三晩休みなく娼婦たちと戯れていた。だが金を払う段になってみれば、涼しい顔をして一銭も持たないという。報告を受けたわしは、構成員を差し向けて、目の前に引っ立てさせた。その場で殺さなかったのは、罪人の街で金もないのにしゃあしゃあと遊びふけった怖いもの知らずの顔を拝んでみたいというのと、砂漠の民がわざわざ極寒の地に訪れた理由を聞きたかったからだ。
男はまだ若く、多く見積もってもせいぜい二十台の半ばというところだった。捕らえるときに構成員から激しく殴打されていたが、その間まったく抵抗しなかったらしい。奴の顔は腫れ上がっていたが、その目に怯えの色はなかった。むしろ全ての出来事を見通しているかのような、怜悧な光を宿していた。わしは男に尋ねた。
『砂漠の民が、こんな極寒の地まで何の用で来た』
男は答えた。
『世界中の罪人の流れ着く地がいかなるものか、この目で見にきた。しかし、どんな極悪人がひしめいているかと思えば、まったくの期待はずれだ。他の土地と何ひとつ変わらぬ。おろかで、浅はかで、臆病な人間たちが、みじめに肩を寄せ合っているだけだ。あなたもその例に漏れぬようだな。乱暴な部下を使わなければ、無抵抗の男ひとり捕らえることも出来ない。私に向かってひとこと、来いといえば、素直に従ったものを』
口の減らないがきだと思ったが、わしは退屈しのぎに、問答に付き合ってやろうと思った。
『偉そうな口をきくが、貴様は女が欲しかっただけだろう。聞けば、ずいぶんな遊蕩ぶりだったようではないか。娼婦の中にはお前のことをかばう者までいるぞ。どんな手を使ったか知らないが、よほど遊びなれているらしいな』
すると男は無表情に言った。
『私が彼女たちを欲したのではない。彼女たちが欲しているものを私が与えたのだ』
わしは、それは何かと尋ねた。すると男は答えた。
『私が与えたのは“赦し”だ』
『“赦し”だと?』
『そうだ。私が一言“あなたの罪は赦された。”といえば、暗く淀んでいた女の瞳に希望の光が宿る。そして淡い期待を抱きながらも、こう答える。“こんな私が赦されるはずはない。罪ばかり犯してきたのだから。”私はさらに言う。“いついかなる時も、あなたを赦し、愛する存在がある。祈りなさい。そして悔い改めなさい。そうすれば、どんな罪を犯していようと、あなたは必ず赦しにあずかることができる。”と。すると女は私に訊くのだ。“もっと、その存在について教えてほしい。何でもいうとおりにするから。”私は求められるままに、知る限りのことを女に教えた。決してそれ以上のことはしていない。遊蕩の限りを尽くしたというのなら、それは女たちが勝手にやったことだ』
くだらん詭弁だとわしは思った。娼婦どもを都合よく働かせるために、口車に乗せるのは女衒だってやることだ。ましてや赦しなどという言葉は、この街の人間にとっては冷笑を誘うだけに過ぎん。だが、そんな陳腐な騙し文句も、奴が口にすれば、なぜか金言のように尊く耳に響いた。何か理解を超えた力に守られているかのような風格が、男にはあったのだ。わしは釣り込まれるように訊いた。
『もちろん、貴様自身もその存在を信じているのだろうな。祈り、悔い改めれば、どんな罪人でも赦しにあずかることができると、本気で考えているのか』
すると男は、己を嘲るような薄笑いを口元に浮かべた。
『否。私は信じるどころか、見出してすらいない。旅をしているのは、その存在を探し求めるためだ。咎人の家にこそ、彼は現れるという言葉を手がかりに、私はこの街を訪れた。しかし、得るものはなかった。罪人と呼ばれる者と、そうでない者とのあいだに、なんら違いを見出すことができなかったのだ。私もまた罪人であるがゆえにそう見えるのか、それとも畢竟、人間は全て同じだということなのか。だとすれば、人間は救いがたい存在だ。罪を犯しても、犯さなくても、そこに裁きはないということになる。“善人がその善のゆえに滅びることがあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。”と書いてあるとおりだ。信じるというには、私はあまりにも穢れているのかも知れぬ。だが、求めずにはいられないのだ。他ならぬ私に与えられたこの叡智が、真理に通じていることを確かめるために』
自分自身が信じてもいないものを、さも実在するかのように他人に説く。これをペテンといわずしてなんと呼ぶ。わしは内心腹を立てていた。しかし、男がでまかせを言っているようにも見えなかった。本当にそんな動機で旅をしているとしたら、大ばか者だといわざるを得ない。それこそ風を追うような話だ。
男の言葉の中で、ひとつだけ納得したことがある。それは、罪人と、そうでない者とのあいだに、何の違いもないということだ。罪を犯そうと犯すまいと、強く、賢い者が生き延び、そうでないものは滅びる。エレクトリスは、そうした常世の掟の極北にある街だ。生きようとすれば罪を犯さざるを得ない。わし自身がそうしてきたのだ。誰よりも強く、賢くあらねばならなかった。だが、それに敗れてゆく力なき者、虐げられる者は、どうだろうか。もし、自分を救ってくれる存在があるというのなら、それにすがりたいと思うだろう。娼婦たちが若者の言葉を熱心に求めたのも、自分自身ではどうすることもできない身の上を、変えたいと願ったからではないのか。いくら不確かで貧弱な希望であろうと、絶望よりはましなのだ。この男の言葉は、弱い者たちを操る上でとても有用だと、わしは考えた。そして問うた。
『それはそれとしても、どう落とし前をつけるつもりだ。貴様が娼婦たちを弄んだことは事実だ。それ相応の対価を支払ってもらわねばならない。金以外に、何か差し出せるものがあるのか』
すると男は答えた。
『私は金は持たないが、代わりに叡智を授けよう。古の教典から学んだことの一部だが、それを知れば、やがてあなたの支配は、何倍にも、何十倍にも広がるだろう』
わしはその取引に応じた。罪人の言い伝えの中にも『凡人は金を贈り、賢人は言葉を贈る』という格言がある。男を信じたのではない。ほんの余興のつもりだった。わしは男から様々なことを学んだ。全て理解し切れたわけではなかったが、実践できることは実践した。わしは自分の力を過信することをやめた。そして種族や地位、生い立ちなどにこだわらず、最も優れた言葉を発する者の声に耳を傾け、ただ『然り』あるいは『否』と答えた。するとあらゆる種族の罪人たちが、わしの元に集うようになった。その中には、わしよりもずっと凶悪で、優れた力を持つ者もいたが、わしは受け入れることを拒まなかった。奴らはわしの庇護に対して、忠誠を誓った。それだけだ。組織アルカトラズがエレクトリス随一のファミリーにまで成長したのは、有能な部下の働きによってだ。わしは首領という立場から、ひとつひとつの物事の可否を判断してきただけに過ぎない。わかるか、床屋よ。貴様が恐れているドン・コルラードという男自身に、力など無いのだ」
とっくに髭剃りは終了していた。ドン・コルラードの言う、最も優れた言葉というのは、おそらく近年ではレックスのことを指すのだろう。他の組織の誰もが持て余したであろう奴の力を最大限に引き出せたのは、件の男との出会いがきっかけだった、とでもいうのか。しかし、こんな老人の昔話は情報にならない。報告書は思ったより書き進められないだろう。今日俺が知り得たことは『死の家』の大まかな所在地と、その厳重な警備体制について、そしてあまりにも弱弱しいドン・コルラードの人となりについてだけだった。幹部や構成員に取り囲まれている状況下で、これ以上できることはない。イラーリオを見ると、奴は仕事を終えていいというサインを出した。俺はコルラードの肩から刈布を取り払い、道具を片付けた。するとまた目隠しをされ、送りの馬車まで歩かされた。その間、イラーリオが俺の脇に付いてきて、こんなことを言った。
「おやじも年のせいか、あんな世迷言を言うようになっちまった。十年前にエレクトリスに来た男の話なんて、他の誰も知りゃしねえ。夢と現実の記憶があいまいになってきてやがんのさ。ただ、おやじの度量がアルカトラズをここまで大きくしたってことだけは確かだ。結果だけを見ればいい。だから、今日おやじから聞いた話は、決して口外するな。屋敷で見たことも全て忘れろ。前任者たちは皆そうしてきた。それ以上は言わなくてもわかるな、ハンク」
奴が相手の名前を呼ぶときは、よく心しておけというニュアンスが含まれている。つまり、口外すれば消すという意味だ。たしかにドン・コルラードが、この目で見たとおりのか弱い老人でしかないのなら、構成員たちの士気にかかわるだろう。首領はファミリーの象徴であり、偶像でなければならなかった。床屋のハンクならば、イラーリオの言いつけを忠実に守るだろう。しかし、捜査官ハインリヒ・バルビールがどうするかは、奴の知るところではない。
続けてイラーリオが独り言のように言う。
「おやじは赦しだなんだと、たわごとを抜かしていたが、所詮俺たちは罪人だ。黒い犬は洗っても、決して白くなることはねえ。……逆はどうだかしらねえがな」
そして俺は再び馬車に乗せられ、十六番街へと送られていった。
カヴァティーナの貸衣装屋の前に降り立ったとき、街にはすでに夕闇が迫っていた。今日はもう仕事は終わりだ。すっかり腹が減ったから、『ラ・フィンタ』に飯を食いに行こうと思った。ついでに酒でもあおって一日の緊張をほぐしたかった。俺は商売道具を置きに、いったん部屋へ戻ることにした。そして、鳥かごへ登るはしごに足をかけた瞬間、何か生暖かい雫が顔にかかるのを感じた。何の気なしになぞってみると、赤黒い液体が指に付着した。生臭い匂いが漂ってくる。俺は激しい胸騒ぎを覚え、慌ててはしごを駆け上った。
扉を開けると、そこには凄惨な光景が広がっていた。残酷な場面を見慣れている俺でさえ、部屋で何が起こったかを理解するのに、数秒の時間を要した。血にまみれた床。引きちぎられた臓物。見る影もなく真っ赤に染められた、白い毛並み。体全体をばらばらに切り刻まれたなかで、生首だけがかろうじて原形を止めて床に転がり、しかし、その口も耳まで引き裂かれ、口腔内には肉片が詰め込まれていた。ビアンカだった。その目は白くにごり、焦点もなく虚空を見つめていた。床には血で文字が書かれていた。俺はかつて妹から教えられて、その言葉の意味を知っていた。古代語で『狼の口』、すなわち『がんばれ』あるいは『気をつけろ』ということ。これは組織からの警告に違いなかった。もし言いつけを守らなければ、いかなる末路を歩むことになるか、知らしめるための。俺はぴくりとも動かないビアンカの生首を腕に抱え、へたり込んだ。こんなことになるとわかっていたら、無理をおしてでも、昨日までに野生に帰しておくべきだった。またひとつ、俺のせいで犠牲が出てしまったのだ。こんどは罪のない雪狼の子供が死んだ。任務。任務。こんな風に周りを巻き込んでまで、成し遂げるべきことなのか。だが、つとめなければならない。俺は人間である以前に、国家に身を捧げる兵士なのだ。
俺は思った。殺されたのが、ぺトラの旅立ったあとでよかったと。彼女には、ビアンカは元気に雪原に帰っていったと嘘をつき、誤魔化すことができる。それがせめてもの救いだ。そうとでも考えなければ、とてもやりきれなかった。俺はしばらくのあいだ立ち上がることもできず、冷たくなったビアンカの生首を、ただただ撫でていることしか、できなかった。