或る潜入捜査官の手記~LostTechnology組織アルカトラズ編より 作:アツ氏
俺は鳥かごから引っ越すことにした。
ビアンカが惨殺されたとき、幸い新しい報告書にはまだ手をつけていなかったので、潜入捜査官としての身分を裏付ける証拠が発見されることはなかった。床屋の出納記録を装って暗号化してはいたが、解読されないとも限らない。これまでと同じ隠し場所は、もう使わないほうがよかった。むろん住所を変えてもすぐに組織には知れるだろうが、一度荒らされた部屋に住み続けるよりは百倍ましだ。
精神衛生上の問題もあった。ふとした瞬間に、血に染まった部屋の有様がフラッシュバックすることがあり、俺はそれを振り払うために酒の力を借りねばならなかった。潜伏生活に一定の支障をきたしている以上、速やかに環境を変えるべきだった。
しかし、大家のカヴァティーナは、俺の引越しに難色を示した。一階の貸衣装屋を床屋の窓口にしていた関係で、俺はババアの良い金づるだった。ドン・コルラードの御用達となった今ではなおさらだ。香水や整髪料、ベビーパウダー、シェービングクリーム、ローション、もろもろの化粧品をカヴァティーナの店から仕入れることで譲歩させようとしたが、彼女はなかなか首を縦に振らなかった。かねてよりババアは口利き料として、俺から床屋のあがりの二割を徴収していたが、『死の家』に一度出張するだけで得られる報酬は莫大なもので、それこそ化粧品などは、最高級品をいくら仕入れても使い切れないほどの額を受け取っていた。カヴァティーナのごねっぷりは、その二割を頂いたほうが断然得をするという思惑が見え透いていた。結果として、引き下がらせるのはさほど難しくなかった。俺が何気なく、
「それなら引越しの件、イラーリオの兄貴にも相談してみます。住所を変えると、発注する側も困るかもしれませんし」
というと、カヴァティーナは一瞬口をつぐんだあと、愛想笑いを浮かべて、
「いやいや、それには及ばないよ。イラーリオの旦那にはあたしのほうから執り成しておくからさ。これを機に、好きな場所で店を開くのもいいかもしれないね」
などと、急に正反対の言い訳をした。もし御用達の俺の口から、床屋の仕事を妨害された、などという風に伝われば、カヴァティーナもまた消されるに決まっていたからである。
いまやイラーリオの名は、ドン・コルラード以上に恐れられていた。奴がアンダーボスになって以来、ただでさえ殺伐としていた街の雰囲気は、輪をかけて張り詰めていた。商売のあがりや、ショバ代の取立ては、かなり厳しくなった。また、組織がプロッティの職人たちを吸収して、武器、宝石産業に手を広げてからは、密造、密輸、密売部門が活性化し、かなりの収益を上げていた。
組織アルカトラズは、明らかに今まで以上の力を蓄えようとしていた。最後に残された対抗勢力であるバスティアニーニファミリーは、格式はあっても戦力は無いに等しく、遅かれ早かれアルカトラズの傘下に入るか、壊滅させられるか、どちらにせよ長くはもたないと見られていた。エレクトリスを統一したのち、アルカトラズが何を目指すかは知れている。力さえ手に入れれば、こんな極寒の地で大人しくしているような連中ではない。間違いなく、肥沃な土地を求めて国外への進出を企てるだろう。その際には、もはや組織の象徴として以外にドン・コルラードの出番はなく、実質的な指揮を執るのはイラーリオになるはずだ。いまだ世代交代は行なわれないにしても、奴の権力はもはやボスに匹敵しているといえた。
俺は組織の不動産ブローカーの紹介で、エレクトリスの上層階級が多く住む十一番街の一角に部屋を借りた。店舗開業も勧められたが、やはり捜査の上では、出張専門のほうが何かと動きやすい。俺の推測では、コルラードの屋敷は十番街の近郊にあった。潜入の前段階としては、周辺地区の情勢や土地勘を把握しておく必要がある。また、客の質が上がれば、情報の質も上がる。組織の幹部や役員と交わす世間話は、スラムで金を払って得る情報よりも、ずっと価値があった。
ドン・コルラード御用達という触れ込みさえあれば、高級住宅街であろうと、仕事を取るのは難しくない。アルカトラズのドンと同じ床屋を懇意にしているということは、エレクトリスの住人にとって一種のステータスとなる。俺はそのつど、高額の報酬を受け取った。金はいくらでも転がり込んできた。だからといって贅沢をする気にはなれなかったが、それ相応の身なりと、生活ぶりを見せる心がけをした。あまり質素にしていると、かえって目立ってしまう。仕事以外では仕立ての良いスーツに身を包み、たばこを葉巻に変え、場末のバーではなく、レストランに出入りするようにした。旨い料理と旨い酒には不自由しなかったが、ときにスペアリブの味が恋しくなり、馬車を雇って『ラ・フィンタ』に顔を出すこともあった。そのときは十六番街の出世頭の凱旋だと、マスターは手厚くもてなしてくれるのだった。まったく、申し分のない暮らしぶりだった。クーニッツ騎士団の潜入捜査官など辞めて、この土地に落ち着いたほうが、よほど豊かな暮らしができるとさえ思えた。しかし、これは全て芝居なのだということを、忘れてはならない。俺はあくまで、エレクトリスで成功を収めた、ただの床屋を演じている。ヘンリー・バーバーはすっかり有名人だったが、しかして誰もその本名を知らない、という状態を保っていなければならないのだった。
ある晩、俺はいつものようにレストランで一人で食事をしていた。知り合いは多かったが、友人は作らなかった。裏切りの横行するこの街で、誰も信用せずに独りでいるのは、なんら不自然なことではない。俺の向かいの席はいつも空いていた。
特にその日は食が進まず、俺はワイングラスを片手に持ったまま、しばらく呆けたように物思いにふけっていた。妹のことを思い出していた。晴れて任務を終えて帰ったら、俸給でケクロピアいちの高級レストランに妹を連れて行き、二人でお祝いをしよう、などと想像していた。柄にもない考えだったが、もしかすると知らずのうちに安らぎを欲していたのかもしれない。自分とは異なる人間を、長いこと演じ続けるのはとても疲れることだ。エレクトリスに告解師でもいれば、喜んで訪ねるのだが。胸のうちにある想いを全て言葉にしてぶちまけられたら、どんなに気が晴れるだろう。この欲求ばかりは、いくら高い酒を飲んでも、解消することができない。
「お席、空いてるかしら」
突然声をかけられて、俺は我に返った。目を上げると、ベルベットのチョーカーを首に巻き、赤いドレスに身を包んだ女が、テーブルの傍に立っていた。俺は息を呑んだ。ぺトラに匹敵するほどの恐ろしい美人だが、身に纏っている雰囲気はまるで異なっている。少し病的なほどの白い肌に、氷のような冷たい目つき、艶やかな動作一つ一つにはまるで隙がなく、三日月形の薄い唇からは色っぽいハスキーな声がこぼれ、体つきは細いのに、乳房は今にも火を噴いて飛んでいきそうなほど大きく、張りがあった。文句なしの上玉だった。
『死の家』に出入りするようになって以来、俺が金を持っているのは周知の事実だったので、こんな風に一人でいるところを、娼婦に声をかけられることは少なくなかった。この女も、洗練された外見と、立ち振る舞いからして、おそらく幹部クラスの客をとる高級娼婦だろう。
しかし俺は、十一番街に引越しをしてからも、女を買うことだけは控えていた。人間が無防備になるのは、生物としての欲求を忠実に果たしているとき、すなわち、寝ているときと、食べているときと、女を抱いているときだ。前二者は一人きりになることでほとんど解決するが、最後のひとつは相手がいないと成り立たないだけに、禁欲する以外に方法がない。つい欲望に負けてベッドに連れ込んだ女が、組織の回し者ではないとは限らないのだ。
俺は努めてぶっきらぼうに答えた。
「悪いが、酒は一人で飲む主義だ」
しかし、女は妖艶な笑みを浮かべ、
「孤独を愛するのもいいけど、いい女が目の前にいれば、もっとお酒がおいしくなるんじゃないかしら」
と言って勝手に座ってしまった。メリハリのある身体のラインを見せ付けるかのように、横向きに腰掛け、長い脚を組む。自分の美貌をよく分かっている女の振る舞いだ。こういうごり押しには、あまり有効な対処法がない。邪険に追い払えば、評判を落とすことにもなりかねないからだ。確かに、任務でなければ、これ以上旨い酒はないが、任務であるがゆえに、これ以上苦い酒はなかった。女が美しければ美しいほど、俺は自制しなければならない。もともと食が進まずにいたところだったので、さっさと切り上げて帰るのが最善だろう。俺は傍を通りかかったギャルソンを呼び止めながら、女に言った。
「気遣いの礼に、一杯おごらせてくれ」
女は遠慮しなかった。
「うれしい。じゃあ、あなたと同じものをもらうわ」
俺は言われたとおりに注文して席を立ち、帽子を手に取った。すると女が、
「あら、もう帰っちゃうの」
と薄笑いを浮かべたまま抗議する。
「俺は早寝早起きなんだ。あんたはゆっくりしていきな」
あまり上手い方便ではないが、そんなことはどうでもいい。この場から離れることが目的だ。俺はきびすを返して足を踏み出しかけたが、次に女の発した言葉を聞いて、思わず立ち止まった。
「残念ね。ドンの御用達どうし、仲良くなれると思ったんだけど」
俺は振り返って、女に訊きかえした。
「ドンの御用達だって?」
「そう。ドン・コルラードはあたしのお客。アルカトラズのトップだって、男である以上、女を買うわ」
女の口調は自信に溢れていた。
もし本当なら、この女も『死の家』に出入りしている可能性が高い。床屋の俺では知りえない情報を握っているかもしれない。コルラードを見る限り、もはや若い頃の精力は残っていないだろうが、性欲そのものが枯れているとは限らない。お気に入りの娼婦の一人や二人いても不自然ではなかった。俺は迷った。女の目的が金ではないことが分かったからだ。コルラードのお気に入りなら、相当贅沢な暮らしができるはずだ。それなのに、俺ごときに声をかけてきたのは、何か別の目的があってのことに相違ない。俺の正体は、まだばれていないはずだった。しかし、ドン・コルラードの身辺に出入りするようになったからには、何らかの形で素性を洗われることもあるだろう。俺にしっぽを出させるために餌をまくのは、ありうることだった。その可能性を視野にいれたうえで組織の思惑を探るのなら、あえて女と話してみる必要がある。刺客だったとしても、相手は女だ。油断しなければ負けることはないだろう。そう、油断しなければ。俺は自分の胸にしっかりと言い聞かせた。
席に戻ると、女はいかにも芝居じみた調子で、嬉しそうに微笑んだ。
「あたしに興味を持ってくれたみたいね」
俺は脱いだ帽子を机の端に置きながら答える。
「興味は最初からあったさ。ただ、あんたがあまりにも綺麗なんで、思わず逃げ出しちまった。育ちが悪いせいか、いい女にはめっぽう弱くてね」
「ふふふ。エレクトリスに育ちのいい男なんているのかしら」
「違いない」
俺は笑って見せたが、内心ではうんざりしていた。この白々しい腹の探りあい。横っ面をひっぱたいて、てめえの狙いは何だと凄むことができたらどれほど楽か。
「ヘンリー・バーバーだ」
俺は紳士らしく先に名乗って見せた。
「知ってるわ。だから声をかけたんですもの。あたしはアダっていうの」
自己紹介など何の意味も持たない。お互い偽名に決まっている。アダと名乗った女は、目配せで葉巻を所望した。吸い口をカットして一本差し出すと、実に官能的な仕草でそれを口に咥え、こちらに向かって突き出した。マッチを擦り、火をつけてやる。アダは、細い煙を吐き出しながら、言った。
「あなた、ケクロピアから来たんですってね」
「ああ」
俺も葉巻を咥えながら、返事をした。誰にでも言っていることだ。嘘をつく必要はない。
「いいところなんでしょう」
「そうだが、性に合わなかった」
「どうして?」
「治安が良すぎたのさ。俺が非暴力主義者に見えるか」
そう低い声で発した俺の顔を一瞥してから、アダは噴き出した。どうやら本当に面白かったらしい。ごろつきらしく振舞ったつもりだったが、予想外の反応でばつが悪かった。俺は黙って葉巻をふかした。アダは笑いをこらえながら、
「ごめんなさい。気を悪くしないでね。あたしには、あなたが乱暴な人には見えなかったから。言われてみれば確かにちょっと怖い顔かも。でも、あたしはかわいいと思うわよ。熊みたいで」
と言った。実に歯の浮くような言い訳だ。何がかわいいだ。熊は猛獣だろうが。時間の無駄にさえならなければ、俺の顔が笑えるかどうか、なんてことはどうでもいい。早く手の内を見せろ、と腹の中で繰り返した。アダはひとしきり笑ったあと、一息ついてから、打って変わってしみじみとした調子で言った。
「いいわね。あたしは生まれも育ちもエレクトリスだから、一度でいいからケクロピアみたいな、きれいな街に住んでみたいわ」
「退屈だよ」
芝居じみた台詞に少しいらだちながら、俺は煙を吐いた。相手が気に留めた様子はない。あくまで世間話を装いつづける。
「退屈だなんてうらやましいじゃない。何をしてもいいってことでしょう」
「平和すぎると、することがなくなるんだよ」
「することはいっぱいあるわよ。そこに男と女がいればね」
アダはなめるような目つきでこちらを見る。誘惑しているつもりなのだろう。警戒しているからこそ俺には通用しないが、普通の男ならいちころに違いない。まったく、任務でなければどれほどいいか。さっさと本題に入りたい。俺は意を決して、冷淡な口調で言った。
「俺はあんたを買うつもりはないよ。回りくどいのはやめにしてくれ」
「回りくどいって、なんのこと」
アダはしらばっくれたが、わずかに身を固くするのが見て取れた。俺は続けた。
「まさか本気で、俺の熊みたいなご面相に惹かれたわけじゃあるまい。ドンのお気に入りなら、暮らしにも不自由してないだろう。何を期待しているか知らないが、俺はただの床屋だ。はさみと剃刀以外に能はないぜ」
「……ずいぶんつれないのね。ひょっとしてホモなの?」
「ばかいえ」
俺は吐き捨てるように否定した。だったらいちいち苦労していない。同性愛には同性愛の苦しみがあるだろうが、知ったことではない。今まさに目の前に鎮座している危機が、俺には何よりも辛いのだ。アダは脚を組み替えてテーブルにひじをつき、身を乗り出した。ドレスの深いスリットから肉感的な太ももがのぞき、その白さが俺の目を針のように刺す。アダは俺の耳元に口を寄せて、声に吐息をたっぷり絡ませながら言った。
「あなたの存在自体に興味があるってんじゃ、ダメかしら」
葉巻のバニラ・フレーバーと、ローズ系の香水、そして女の肌の匂いとが混ざり合い、鼻をくすぐる。俺はアダの言葉の真意を量りかねた。床屋という見せ掛けの職業以外の何かを暗示しようとしているのか、それともただの殺し文句なのか。平静を装いつつ、俺は訊いた。
「どの辺に興味を持ったか、詳しく聞きたいね」
アダはじっくり俺の目を見据えながら、薄い唇を動かした。
「そんなこと、二人っきりじゃなきゃ話せないわ。場所を変えましょう」
俺は沈黙でもって肯んじた。アダは葉巻をもみ消すと席を立ち、外に向かって歩き始めた。俺はテーブルの上に金を置き、そのあとを追った。出入り口のまえでアダはギャルソンからコートを受け取っていたが、それは真っ白い雪狼の毛皮でできていた。ビアンカのことを思い出し、俺は嫌な気分がした。
表通りでは雪が強風と共に吹きつけていた。俺は馬車を呼びとめ、御者に十番街へやるよう指示した。こんな怪しい女を自宅に連れ込むわけにはいかない。アダの言う通りにするなら、ホテルを使うべきだった。十番街を選んだのは、国外からの賓客向けの店が数多くあり、中立地帯の名残から警備体制もしっかりしていたからだった。その分だけトラブルは起きにくく、身を守る上での気休めにはなる。しかし、馬車の中で肩を並べているあいだ、アダは指で俺のひざを弄んだり、揺れに任せて身体をすり寄せてきたり、太ももを押し付けてきたりと、たまらなかった。一年間、肉欲を断ってきた俺にとって、この仕打ちは地獄以外の何物でもない。理性の骨組みが、強引にやすりで削られていく音がする。捜査のプロの名に恥じない仕事をするという誇りだけが、俺を支えていた。
ホテルに到着し、空室に案内され、ベルボーイにチップをやって追い払うと、アダの望みどおり、俺たちは二人きりになった。彼女は毛皮のコートを脱ぎ、ソファにゆったりと腰掛けた。俺もそれに倣って、斜向かいに座る。相手と距離を取ることができ、視線も合わせなくてすむ。ようやく中身のある話ができるというわけだ。俺は言った。
「さて、あんたの頭の中にあることを、聞かせてもらおうか」
「部屋に着くなり、それなの。せっかちね」
いちいちはぐらかすのが癪に障る。
「ルーム・サービスでも呼ぼうか?」
「結構よ。まあ、前振りは短いほうがいいわね。あなた、ケクロピアから来たなら、オーリックのことはよく知ってるわよね」
「ああ。エレクトリスに来る時には世話になった。俺の恩人だ」
「最近、彼のことでよからぬ噂が立ってるの、知ってるかしら」
「……いいや」
思い当たることはあるが、俺はしらばっくれた。もし噂が立っているとすれば、その内容はある程度見当がつく。アダは念を押すように言った。
「ここにはあなたとあたししかいない。つまりここだけの話にして欲しいってこと、分かるわね」
「安心しろ。俺の口は堅い」
「さすが、ドンの御用達だけのことはあるわね。その言葉、覚えたわよ」
「能書きはいい。早くその噂とやらを話してくれ」
アダはしばらく俺の表情を吟味するかのように間をおき、そして言った。
「オーリックが、クーニッツ騎士団と通じてるって情報があるの」
やはりその話か。そろそろ嗅ぎ付けられるのではないかと思っていた。
オーリックは数年前にアルカトラズから派遣され、俺と同じように内偵としてケクロピアに潜伏していたが、どじを踏んでジギスヴァルトにしっぽをつかまれ、逮捕を免れる代わりに、組織の情報を騎士団に横流ししていた。要するにオーリックは二重スパイだった。そのおかげで俺もエレクトリスに潜入できたわけだ。
奴が組織から信用を失いつつあるのは、ケクロピアに持ち込まれた麻薬と拳銃の件を、まったく知らされていなかったことからも窺い知れる。オーリックはもともとコルラード直属の部下だったので、たとえその動向に不審な点があったとしても、粛清命令がない以上、同格の幹部が手を下すことはできなかった。しかし今は、裏切りの証拠さえあれば、アンダーボスにのし上がったイラーリオの権限で消すことができる。オーリックの本国への報告は、部分的にジギスヴァルトに操作されていた。アルカトラズの下請けだったオルヴァー海賊団が、新生クーニッツ水軍にことごとく敗戦を喫したのは、偽の情報に踊らされたからでもあった。
情報が操作されていることを、アルカトラズの誰かがいずれ感づく可能性はあった。おそらく、イラーリオの勅命を受けた構成員が、現在オーリックの身辺をかぎまわっているのだろう。奴はクーニッツ騎士団からも一日中監視されているので、かなりの数の人間にプライベートが筒抜けになっているわけだ。スパイの末路は哀れなものである。人のことは言えないが。
そんな同情を寄せるよりも、俺はアダの思惑のほうが気になっている。オーリックの裏切りの証拠を独自に掴んでイラーリオに報告し、組織で優遇されようって腹だろうか。それでケクロピア出身で、奴と関わりの深い俺に協力を仰ぎに来たのか、とか、そんな推論を立てていた。が、アダの口にした計画はその真逆だった。彼女は言った。
「実はあたし、クーニッツ領への亡命を考えているの」
「なんだって?」
「亡命よ。もううんざりなの、この国には。犯罪ばかりで気が休まらないし、寒いし、暗いし、豚肉ばかり食べさせられるし。ドン・コルラードのお気に入りって言ったって、要するに年寄りのお守りをするだけ。ベッドの上じゃ赤ん坊みたいなもんで、ちっとも役に立たないの。お金はたくさんもらえるけど、全部が懐に入るわけじゃない。あたしたち娼婦が、組織からどれだけ搾取されてるか、あなたもよく知ってるでしょ」
「知っているが、ドンの情婦までがそうだとは思いもよらなかったよ」
「そうなのよ。アルカトラズの連中は女を性奴隷としか見なしていないわ。人権なんてないの。でも、ケクロピアでは女性にも権利が与えられるっていうじゃない。あたしは娼婦以外の仕事がしたいの。そうね。綺麗になることだけは頑張ってきたから、美容師とか、デザイナーとか」
よくできた話だった。確かに、エレクトリスの、特に下層の娼婦の暮らしぶりはひどいものだった。娼館では一人で暮らすような部屋に五人も六人も詰め込まれて共同生活し、稼ぎが悪くともあがりは容赦なく徴収され、日によっては食べるものもない。客との交わりの結果妊娠、出産すれば、男児は奴隷として売り飛ばされ、女児はそのまま娼婦として仕込まれてしまう。親子で客を引いている悲惨な境遇の女たちが、ぺトラの娼館には何組もいた。しかも現在性病が蔓延して、ろくに仕事もできずにいる。幸福になれる可能性などない。そんな劣悪な環境から、逃げ出したいと思う者がいても、おかしくない。特にアダのような若い女が、自由な生活を夢見るのは至極当然なことだ。ただし、彼女が自称するとおり、本物の娼婦であれば、の話だ。まだ信用したわけではない。
「で、あんたは俺に何をして欲しいんだ」
俺が静かに尋ねると、アダはしなをつくって返事をした。
「そんなこわい訊きかたしないで。それと、あんた、じゃなくて、アダ、ってちゃんと名前で呼んで」
偽名かもしれない名前を真面目に呼ぶ気にはなれないが、俺は言うとおりにした。口調をやわらかくして、
「アダ、俺に何かできることがあるのか」
と訊くと、彼女はますますしなをつくった。
「いいわ、そのやさしい訊き方。……あたしの望みはふたつ。組織に知られないようにオーリックに渡りをつけてくれること。そして、ケクロピアまで、あたしについてきてくれること」
「はあ?」
「鈍いわね。一緒に逃げようって言ってるのよ。いくら亡命が成功したって、急に女一人じゃやっていけないわ。でも、手に職持った男が一緒なら、大丈夫。ね? いい話だと思わない?」
そこで俺はアダの話をさえぎった。
「ちょっとまて。俺はそもそも人を殺してムショに入った。職業訓練で床屋になったはいいが、ケクロピアじゃ雇ってもらえなかったから、エレクトリスに来たんだ。いまさら帰っても、同じ轍を踏むだけだよ」
「だから、クーニッツ騎士団の上層部に取り入るの。『死の家』であたしが掴んだネタをジギスヴァルトに持って行けば、謝礼はいくらでももらえるわ。それを元手にして、店を開けばいいのよ」
ここでようやく核心に触れた。アダの言う『死の家』の情報、これこそ俺の求めていたものだ。逸る心を抑えつつ、アダに問う。
「確実に、金になるネタだってのか?」
「ええ。クーニッツ騎士団が血眼になって嗅ぎまわっていることよ」
そのかぎまわっている人間というのは、ほかでもない俺のことなのだが、アダはそれを知ってて、言っているのだろうか。やはり罠かもしれない。しかし、俺は踏み込んだ。
「いったい何のネタなんだ」
「……アルカトラズが秘密裏に作っているクスリの話よ。あたし、研究所の場所、知ってるの」
ビンゴだ。しかし、なぜこの女が、そんな組織の中核の情報を知っているのか。俺がそのことを尋ねると、アダは鼻で笑って答えた。
「野暮なこときかないで。もちろんドン・コルラードに直接教えてもらったのよ。ベッドでね」
信じるに値するとは思えなかった。確かにドン・コルラードは俺が思っていた以上にしょぼくれた年寄りに過ぎなかったが、間抜けではないように思われた。しかし、性的嗜好からか、女を抱く時に人格が変わる男は少なくない。特に国家や組織のトップのような、常日頃、自我を抑制している立場の人間はその傾向がある。可能性はあるが、俺には確かめようのないことだ。
「……とにかく、詳しく教えてもらわないことには、判断のしようがない。俺は現状には満足してる。だが、ケクロピアでより良い生活ができるってんなら、それに越したことはない。割に合うほうをとるってことだ。リスクが大きければ、降りるぜ」
俺の言葉に、アダは表情を崩さず、低い声で言い返した。
「せっかく女が腹を割ったってのに、そりゃないわよ。ここで逃げられたら、あたし、あなたを殺さなきゃならないわ。他の人に言いふらさないとも限らないもの」
殺す、か。今までの芝居じみた台詞より、よっぽど本当らしく聞こえる。俺はその言葉を、あえて笑い飛ばした。
「いいネタなら聞くと言ってるんだ。自信があるんだろう、アダ。だから、さっさと話してくれ」
「ええ、いいわ。でも、その前に体を洗いたいの」
「なんで?」
「ベッドで聞いた話は、ベッドで話すってこと。いいでしょ」
アダはそう言うと、勝手にソファから立ち上がり、バスルームへ歩いていった。俺は止めなかった。もう後戻りはできない。彼女が組織からの回し者だとすれば、すでに術中にはまってしまったのかもしれない。とにかく、気を抜かないことだ。俺も騎士団で厳しい訓練を受けてきた。やるときはやらなくちゃならない。ベッドのマットレスの下に剃刀を忍ばせておき、女がおかしな動きをしたら、容赦なく喉を掻っ切る。あるいは腕力にまかせて首の骨をへし折るか。咄嗟に身を守るにはそれが確実だ。あんな美人を殺さなきゃならないかもしれないなんて、つくづく嫌な商売だ。
バスルームへ入る瞬間、アダが首からチョーカーを外した。その下から、小さなバラの刺青がのぞくのが見えた。が、似たようなものは他でも見たことがあったし、エレクトリスの女のあいだで流行っているのだろうか、ぐらいに考えて、俺は気にも留めなかった。