とある公園のランニングコースを、花月雫はゆっくりと歩いていた
彼にとって早朝活動は日課の一部だ。勉強、ボランティア、動画編集、生配信──日によって内容は違えど、朝に何かをしているのが常だった。だからこそ、この時間に起きていること自体は珍しくもない
だが、今朝は少しだけ特別だった。いつものように一人で走るつもりだったのに、前日の夜、メッセージが届いたのだ
『明日の朝、一緒に走りませんか?』
メッセージの差出人は、B組の塩崎茨
花月が軽く肩を回していると、見知った人間が近づいてくるのが視界に入った。そのまま視線を向けると、雄英のジャージではなく、淡い緑色の自前のジャージを身に着けた塩崎が立っていた。髪を結い、背筋を伸ばしたその姿は、いつも通り清楚で凛としている
「おはよう。塩崎からランニングのお誘いなんて初めてじゃないかな」
花月が笑みを浮かべると、塩崎は深く頭を下げた
「お付き合いありがとうございます」
「別にいいよ。この時間は大体起きてるし」
花月が軽く答えると、塩崎は安堵したように小さく微笑んだ。彼女も規則正しい生活を送っているため、約束の時刻より早く着いていたらしい
「準備運動は終わってますか?」
「うん、僕はいつでも走れる。ペースは合わせるよ」
「分かりました。準備が済んでいるのなら、走りましょう」
塩崎が一歩踏み出す。花月もそのすぐ隣を、同じリズムで走り始めた。暖かい陽を浴びながら、二人の足音が重なっていく
数分が経過したころ、塩崎がぽつりと口を開いた
「優勝、おめでとうございます」
体育祭の優勝を称える、真っ直ぐな一言だった
「ありがとう。まあ、完勝には程遠かったけどね」
轟焦凍の辞退によって得た優勝。形としては紛うことなき勝利だが、彼の中には『完全に勝ち切れなかった』わずかな悔しさが残っている。それに対し、塩崎は首を振った
「そんなことはありません。花月さんの気迫が、轟さんに自らの誓いを破らせたのです。堂々たる勝利だったと思います」
塩崎が轟本人に聞いたわけではないが、炎の個性を使わないようにしているのは明らかだった。その個性を使わせた上で、相手に負けを認めされたのだ。完勝と同じくらい難しいことではないだろうか
「そこまで褒められると、流石に照れるよ。塩崎だって、いい戦いをしていたじゃないか」
塩崎は轟との戦闘に敗れてしまったが、その内容は決して悪いものではなかった。最後まで諦めずに戦い続け、勝利のために全力を尽くしていた。だが、塩崎の表情が少し暗くなら
「ですが、私は負けました。正面から戦って、負けたんです」
その言葉に合わせるように、彼女の走るペースが少しずつ上がっていく。花月は置いていかれないよう隣を並走し、呼吸を整えながら彼女の言葉を待った
「──私は勝ちたかった。決勝で花月さんと戦うために。決勝で待っていると言ってくれた期待に応えるために」
「僕の言葉が重荷になったかな。だとしたら、ごめ」
「違います。そんなことはありません」
塩崎は遮るように言い切った。彼女の瞳はまっすぐで、本心からの言葉であることが伝わる
「ただ、考えていたんです。今の私では、正面から戦っても格上の相手には勝つことができません。勝つためには作戦をしっかりと練ってから戦う必要があると思います」
「うん」
「ですが、私は謀は嫌いです。ある程度の戦い方は考えますが、卑怯な策や謀などではなく、正々堂々と戦いたいです」
言葉を区切り、彼女は小さく息をつく。走るリズムが乱れ、ここまで軽かった足音が少し重くなった
「正々堂々と戦って勝てないのなら──私は自らの主義を押し殺し、謀を受け入れるべきなのでしょうか」
その問いには、迷いが滲み出ていた。あの日、花月が決勝で示した覚悟を見て、塩崎は自分の信念を改めて見つめ直したのだろう
正義を貫くとは何か。勝利のために信念を曲げるべきなのか。その答えを探すために、彼女は花月を誘ったのだ
花月はゆっくりと足を止め、それに気づいた塩崎も止まって振り返る
「仮に僕であれば、相手を騙して戦うのは苦じゃないけど、君はそうじゃない」
花月は言葉を続ける
「自らの支えとなる主義や信条を妥協するヒーローは二流だよ。君が君であるために、自分の考えを貫けばいいじゃないか」
「もし君の価値観が変化して、抵抗がないならいいと思うけど。きっと、そうじゃないよね?」
「ならさ、答えなんて最初から出てるじゃないか」
その瞬間、塩崎の肩の力がふっと抜けた
「──ありがとうございます、花月さん」
微笑む彼女の顔には、清らかな決意の光が戻っていた
塩崎茨は、自分の中で小さく誓う。今後も正々堂々と戦い、信念を貫く。ヒーローになるために、胸を張れる戦い方をする。その考えを貫き通せる強さを身につけると
「また学校でね」
「はい、後ほど学校で」
朝のチャイムが鳴り終わると同時に、B組の教室にはざわめきが広がった。ホームルームを終えたばかりの流れで、ブラド・キングが満面の笑みを浮かべながら教壇に立つ。手には大きなA3サイズの紙が握られていた
「お待ちかねの職場体験だ!」
その声が教室中に響き渡ると、瞬間、空気が弾ける。体育祭の余韻も冷めやらぬ中、いよいよ次のステップへ進む実感が、クラス全体に広がっていった
「職場体験か」
僕は自分の席からその紙面を眺めていた。ブラド先生が用意したA3用紙には、クラス全員分の名前と、その横にスカウト件数の数字が記されている。さながら成績表のように整然と、そして残酷に
俺の名前の横には、ただ一言。
『6,021件』
異常な数だった。クラスの全員がその数字を二度見し、僕に視線を向ける。教室の空気がザワつくのがわかる。僕だって驚いてる
「1人だけ桁間違ってるとかじゃないみたいだね。いや、すごいな。おめでとう、花月」
「というか選びきれんのか、これ?」
自分のことのはずなのに、どこか別世界の出来事を見るような戸惑いがあった。全てに目を通すのは流石に無理だ
「もし特に興味のある事務所があるなら、早めに選んで相談してくれ。悩むとは思うが、気になる事務所を言ってくれれば調べるぞ」
「ありがとうございます」
正直言えば──僕はまだ、自分が何を持っているのかすら理解できていない。いや、これだと語弊が生まれてしまう。自分の個性で出来ること出来ないことは調べ尽くしている──それでも、まだ足りないと僕の本能が訴えかけてくる
僕の個性《静止》は、視界に入った対象を止める能力。強力かもしれないけど、万能ではないし派手さもない。だから、正直この数のスカウトは予想外だった。多分、僕のSNSアカウントの登録者数や発信力に目をつけた弱小事務所もいると思う
放課後、提出用の資料を前に、僕は一人黙々とスカウトリストに目を通していた
大手事務所からのスカウトもあれば、零細に近いような小規模事務所もある。中にはヴィラン対策より、災害救助や市民交流に特化した事務所まで様々だ
「でも、流石に多すぎて目を通せない」
幾つか興味を惹かれる事務所もあった。例えば『リューキュウ事務所』『エンデヴァー事務所』『ミルコ(フリー)』『ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ』『ヨロイムシャ事務所』
リューキュウさんには体育祭の時にお世話になったし、インターンの受け入れ経験も豊富だし勉強になりそう。選択肢としてはかなり良い
エンデヴァー事務所は今回スカウトが来た中でもトップ規模の事務所。実績は他の事務所とも比べ物にならないし、事件解決率はオールマイト越えのNo.1。大手だからこそ、積める経験が限られてしまいそうなきもしなくはない。勉強になることは間違いないと思う
ミルコさんは、インターンの受入実績はなし。活動スタイルを考えると、敵との実戦経験を積むことは出来そう。未知なだけあって怖いけど、実践から得られるものは相応にあるはず。それこそ、A組みたいに
プッシーキャッツは災害現場で活躍するヒーローだ。通常の敵出現よりも不足の事態が起きやすい災害現場、災害現場の救助活動とかに行けるのなら経験は積めるだろうけど、都合よくそんなことはおきないだろうし、何を経験できるかが不明瞭
ヨロイムシャ事務所も悪くないけど、他の事務所に比べると特色がない。どちらかと言えば、現場よりも事務仕事の見学とかそういうのを行うみたいだし、敢えて選ぶ必要はないかな
「──難しい」
呟くとほぼ同時に、拳藤が顔を覗かせ教室へと入ってきた。まだ学校に残ってたんだ
「花月、まだ残ってたの?あ、職場見学先ね」
「ああ、うん。ちょっと整理してて。決めきれなくてね」
「そりゃそうでしょ。6000件とか、もはやバグでしょ」
拳藤が呆れたように笑う。拳藤も100件くらいはスカウトがきていたはず。君のも、例年なら充分多い方なんだけど
「いくつか候補はあるけど、もう少し考えたくてね」
拳藤が僕の机の上のプリントに目を落とす。ずらりと並ぶ事務所名を眺めて、感心したように眉を上げた
「リューキュウ事務所、エンデヴァー事務所....ラインナップが豪華すぎるわ」
「そうだね、評価されてるようでありがたいよ。それで、拳藤はどこに行くか決めたの?」
「まだ決めてない。下手なところ選んで後悔したくないからさ」
「それもそうだね。今日中に決めないといけないわけでもないし、今日はもう帰ろうかな」
「あ、帰るの?私も丁度帰るところだし、一緒に帰ろう」
その後、拳藤とコンビニに寄り道してお互いのスカウト先について話しながら帰路についた。ちなみに、話を聞いた感じでは、拳藤はウワバミの事務所に興味があるみたいだった。一応大手の事務所ではあるからね、いいと思うよ
閑話
「──よし、みんな席につけー!」
教室に入ってきた担任のブラドキングのひと声で、ざわついていたB組の面々がようやく各々の席に落ち着く。が、その空気はどこかソワソワと浮わついていた
「今日の特別授業は、ヒーロー名の決定だ!」
クラス全員から歓声が上がる。一人、花月だけは静かに周囲の反応を見ていた。彼自身は既にヒーロー名を何にするか決めているので、クラスメイトが気になったのだ
「ヒーロー名かぁ....」
「日本語と英語どっちがカッコいいデスカ?」
前の方で角取ポニーが首をかしげながらと真剣に周りと相談している。彼女の後ろでは回原旋がノートに何やらロゴ案を書き殴っていた
「みんな盛り上がってるみたいだ」
そう花月がつぶやくと、隣の席から取陰切奈が花月の脇腹をシャーペンでツンツン
「他人事みたいに言ってるけど、花月は何にするのさ?」
「僕は元から決めているからね。みんなが悩んでいる姿を見ているよ」
「えー、なにそれ。私もその立場がいいんだけど。ずるーいっ」
「『Mr.サイレント』でしょ?」
取陰が笑いながら身を乗り出したその時、後ろの席から拳藤が声を上げた。彼女は腕を組んで、にやっと笑う。それに対して花月は軽くうなずく
「うん。ずっとそれで活動してきたし、名乗り慣れてるから」
「花月の真似して『ミスターフローズン』とか名乗ったらウケるかな」
泡瀬洋雪が冗談を飛ばす
「やめとけ、絶対に事故る」
すかさず返す回原に、教室は笑いに包まれた。そのタイミングで、教壇横のドアがノックされる
「盛り上がっているみたいですね」
教室のドアが開かれ、宇宙服のようなコスチュームを纏っている13号が現れた。名簿を片手に、穏やかな声で言う
「皆さんが提出したヒーロー名案、倫理的・社会的な観点から特に問題がないか、最終確認のためにきました」
「たとえば『デストロイヤー爆裂無敵神』とかはさすがに弾きます。ですが、基本的にはみんなの考えを尊重するから安心してください」
「うむ!ヒーロー名は全員の前で発表してもらうからな!」
ブラドが全体に周知し、全員がより一層真面目にヒーロー名を考え始める
そんな13号の登場を尻目に、花月は静かにペンを走らせた
ヒーロー名:Mr.サイレント
ランニング塩崎さん
悩む拳藤さん
お久しぶりです。
職場体験どこに行こっかなーって感じ。