花月以外に誰もいないはずの花月雫の自室。その空間に、異質な存在が立っていた。紫がかった霧をまとい、輪郭を掴ませない人物──敵連合の黒霧
花月雫はベッドに座りながら、無言でその男を見据えていた。やつれた頬に疲労の影が刻まれているが、その瞳だけは鋭く冴えている
個性『静止』は既に発動しており、黒霧の動きは完全に封じられていた
「──A組がUSJで授業してた時に襲った敵。敵連合の黒霧だね」
静かな声だった。その響きには、氷のような冷たさがあった。黒霧は動けないまま、言葉だけを発する
「落ち着いてください、花月雫。我々はあなたの味方です。個性をといてください」
黒霧は違和感を覚えていた。情報では、花月は精神的に衰弱し、感情も不安定なはずだった。だが、目の前にいる少年の瞳には、確かな理性と生気が宿っている
計画の前提──心の隙があるようには思えなかった
黒霧の仕事は心身弱っている花月をAFOの元に連れていくこと。その計画の大前提が崩れてしまっている
「敵の言うことを聞くヒーロー志望がいるとでも思っているのかな。どうやら、来たのは君だけみたいだね」
荒ぶることなく、極めて冷静に会話をする花月を見て黒霧は感じた。自分が誘い込まれたのだと
黒霧は間違っている。花月雫は間違いなく、精神に多大なるダメージを受けていた。だが、黒霧を見た瞬間──敵が目の前にいる状況にスイッチが入ったのだ。だが、それを黒霧が知る由はない
「おかしいと思っていたんだ。敵連合のボス、死柄木は感情の起伏が激しい『子ども大人型』の敵。先生たちの分析ではそう結論が出てた。そんな人間が、雄英襲撃なんて大それたことを計画できるのかな?」
「.....本人が聞いたら怒り狂うでしょうね、その評価は」
「実際に僕は死柄木を見ていないから、ここからは憶測になる。死柄木はボスではなく、部下もしくは幹部ではないか。死柄木は本当のボスから指示を受けて動いているだけではないかとね」
「そう思うのなら、個性を解いてついてきてください。そうすれば、あなたの疑問は解けるでしょう」
「どうやら当たってるみたいだ。少なくとも君は今、死柄木の命令ではなく本当のボスの命令で動いている」
「そうとは限りません」
「限るよ。どうやら君は嘘をつくのが下手みたいだ。そのボスをここに連れてこなかった理由もある程度絞れる。戦闘向きではないか、動けない状態なのか、はたまた傲慢なのか」
黒霧の霧が、わずかに揺れた。花月は一歩も動かず、視線を黒霧から離さずに淡々と推論を続ける
「君がこのタイミングで現れたのは、僕が精神的に崩れていると思ったから。目的は敵連合に引き込むことかな。違う?」
「あなたの言っていることは、全て憶測に過ぎません」
「そうだね。でも、君がここに現れた時点で、憶測から確信に変わった。君は戦闘員を連れずに単独できた。つまり戦う気はない。僕を拉致しに来たんじゃなく、僕の意思で連れて行くつもりだったんだろう」
「個性を解いてください、花月雫」
「君たちの想定では、僕は両親を失ってまともに思考もできないほど弱っているはずだった──でも、残念だったね。少し計算が甘かったみたいだ」
黒霧の言葉を無視して、花月は話し続ける
「僕を狙ったのは、僕の名前が目当てかな?メディアで持ち上げられた次世代の英雄を連合に迎え入れれば、ヒーロー社会に楔を打てる。ヒーロー社会へ異議申し立てる大義名分にピッタリだ」
「あなたに協力の意思がないことは理解しました。個性を解いてください」
黒霧は反論しようとしたが、その言葉は霧の奥で消えた
「僕の両親が殺されたのも──君たち敵連合の差し金だったりするのかな。それとも、偶然起きた事件を利用しただけなのか。答えろよ、黒霧」
「私からお答えすることは何もありません」
「それは答えているようなものだよ。違うならそう言えばいいだけだからね」
短い沈黙。紫の霧が小さく震えた
花月は小さく笑った。しかしながら、その視線は鋭いままだった
「僕を敵連合に引き込みたいなら、8年は遅かったね。今更僕が揺らぐと思ったら、大間違いだよ」
その言葉は力強く、本心であることが十二分に理解できた
「僕が元気なのが解せないのかな?いいよ、特別に教えてあげるよ」
一瞬の静寂のあと、彼は口を開いた
「ヒーローは──敵の前で、弱ってる姿を見せないのさ」
その瞬間、瞬きと共に静止が解けた
黒霧は即座にワープゲートを開き、逃げるようにその中へ消えた
静寂が戻る。部屋には花月一人。彼は立ったまま、動かなかった。やがて力が抜けたように床に座り込み、無言で膝を抱えた
「必ず捕まえるよ、敵連合。これ以上被害者を出さないために」
掠れた声で、だが確かな意思を込めて呟く。しばらくしてから花月は立ち上がって玄関へと向かい歩みを進める
インターホンの音は、気がつけばいつの間にか止んでいた
花月雫は玄関のドアに手をかけ、ゆっくりと開く。空は暗く、街灯の光と星明かりが目に映った
「──ああ、星空が綺麗だ」
あの日、幼き日に見た星空と同じくらい綺麗だった
個性が伸びるのは、訓練のみにあらず
人は極限の痛みと喪失を越えたとき、心の奥に眠る力へと触れることがある
──残酷な話だが、花月雫は『両親の死』という耐え難い悲劇を越えて、精神的な限界を突破し、自らの本能で抑えている『静止』の個性を覚醒させつつあった
翌日、花月が登校しただけでクラスメイト達は彼の席を囲むように集まった。次々に投げかけられる優しく温かい言葉
「まともに連絡を返せなくてごめん。もう大丈夫だから」
「あんまり無理しなくていいからね。キツそうだったら先生に伝えるから遠慮せずに言って。無理そうだったら早退してもいいし、全然家まで送るから」
拳藤がそう言って花月の肩に軽く手を置いた時、物間が横からニヤニヤ顔で割り込んでくる
「拳藤なんか、このまま君が戻ってこなかったらどうしようって最近暗かったんだから。何はともあれ、お帰り。僕たち全員揃ってのB組だろ?」
物間が言い終わると同時に、拳藤の手刀でガっと落とされる。呻きながら笑い、物間は追撃が来る前に席に戻った
「無理するなよ。話を聞くくらいなら、俺にもできる。だから....溜め込みすぎるなよ」
心操が途中で言い淀みながらも言い切ったのを見て、クラスから感嘆の声が上がる。当の本人は恥ずかしがってしまい、席に戻り突っ伏してしまった
「今日遊びに行こう?」
「話題になってるコメディ映画あるからそれでいい?断るなら恨めしいけど」
小大と柳が花月を映画に誘う。その様子を見て拳藤がソワソワし始める。そんな拳藤に取蔭は苦笑を浮かべる
「いいよ。でも、折角ならホラー映画にしようか。柳のオススメの映画教えてよ」
柳が好きな映画はホラー映画である。小大もそれに付き合ってよく見ている。その2人がホラー映画ではなくコメディ映画を提案したのは、一重に花月に対する配慮だった。人が死ぬシーンのある映画を避けようという思いやりがあった
「わかった、とっておきのやつ見せてあげる。あ、でもそれなら、映画館じゃなくて唯の家かうちでもいい?」
「迷惑じゃなければ構わないよ」
会話が途切れたその瞬間、取蔭が拳藤の腕に絡みつきながら声を弾ませる
「ならさ、明日は私たちと一緒にカラオケでも行こーよ」
「いいよ」
騒がしい空気もも少しずつ落ち着き、殆どの生徒が席に戻ったタイミングで、今度は塩崎が立ち上がり花月に近づいた。
「花月さん、それならお昼ご飯は私とご一緒していただけませんか?」
「ごめん。昼休みは少し予定があって難しいかな」
花月は今日の昼休みに職員室にいかないといけない。敵と会敵したことの詳細説明、今後の職員寮への引越しの話で職員室にいかなければいけない
だが、敵と会敵したことはメディアにも伏せているため、結果的に詳細な説明を出来ずに塩崎の誘いを断ることになってしまった
自身だけ断られたことに、しょんぼりしながら席に戻ろうとしている塩崎の後ろ姿に花月が声をかける
「だから、明日のお昼でもいい?」
「えぇ、もちろんです」
うってかわって微笑を浮かべる塩崎に、クラスは和やかな空気に包まれた
放課後、約束通り映画を観るため小大の家に3人は集まっていた。制服姿の花月と柳とは異なり、小大はラフなパーカーに短パンへと着替えている
花月はそんな姿を目にして、どこか目のやり場に困ったように軽く目線を逸らした。なるべく表情を変えずに部屋へと入った
一歩部屋に入ると、ほんのりと甘い香りと、整頓された女子の部屋が目の前には広がっていた。ベッドの上にはふかふかのブランケットが広がり、テーブルにはスナック菓子とペットボトルが数本並んでいる
部屋に入った柳は、ネクタイを少し緩めてリラックスした様子でベッドへと向かう。二人の女子に挟まれ、場違いさを感じ、花月は思わずため息を飲み込んだ
ベッドに座る小大と柳を尻目に、花月は床へと座った
「なんで床に座ってるの?」
「女子のベッドに座るのはあんまりよくないかなって」
──なぜか妙に落ち着かない。花月の気持ちはこれである。そんな気持ちを知ってか知らずか、小大が花月をベッドに座るよう促す
「気にしなくていいよ。花月なら」
小大は固辞する花月の腕を取り、当然のようにベッドへと引っ張り上げた。柳も軽く笑いながら、反対側から支えるようにして花月を真ん中へ座らせる
「それで、作品は何をみるの?」
空気を変えたい花月が作品の話題に移した
「海外のやつ。結構怖くて面白い」
柳の言葉通り、画面に表示されたのは海外製のガチホラー映画だった。流れている予告編からして既に容赦がない
血しぶき、叫び声、暗闇から這い出す何か。開始数分で花月はホラー映画はやめておけばよかったと内心後悔している
花月のホラー耐性は決して悪くない。だが、今回柳が流している作品はそのホラー耐性を優に越えている作品だった
小大と柳は、対照的に涼しい顔でポップコーンをつまんでいる。柳は花月にちらりと視線を送り、ニヤッと笑った
「もしかして怖い?」
「まさか」
花月は男としての意地で言葉を返したが、画面の向こうでは既に第1犠牲者が壁に叩きつけられ、恐怖の連鎖が始まっていた
彼の両隣には、ホラー慣れした2人の女子。どちらも表情は崩さず、可愛らしい悲鳴をあげることなく、作品に没入しているようにすら見える
花月は教室でホラー映画にしようといったことを心底後悔していた。きっと今後彼は、ホラー映画を提案された時に『ライトなやつね』と条件をつけることだろう
やがて、あるシーンに差しかかった。密室で主人公が足音を追い、突如として天井から垂れ下がった死体が目の前に落ちてくる場面。音響も演出も極めて凶悪で、花月は反射的に体を震わせた
気がついた時には──彼は両隣の手をしっかりと握っていた
「──ごめっ」
我に返った花月が謝罪の言葉と共に手を離そうとするも、左の小大はその手を逆に握り返し、柳もまた、そっと手を包み込むように握っていた
「....いいよ、このままで」
小大は声を潜め、視線を前に向けたまま、花月の耳元で囁く。その表情はどこか嬉しそうで、愛しげだった
「私のオススメ観てくれるって言って嬉しかった。だから、手くらい──好きにしていいよ?」
柳もまた小さな声で呟く。けれど、その頬はほんのりと赤く染まっており、いつもより瞳が潤んで見えた。テレビに視線を向けている花月が、その事を察することはない
また、柳の言葉により花月がホラー映画を避けることができなくなることに気がつくのは、映画が終わってからだった
2人の言葉に花月は何も言えず、ただ小さく頷いた。鼓動がうるさい。恐怖によるものか、それとも──別のものか、彼自身よくわかっていなかった
映画は終盤に近づいていた。怪物との対峙、緊迫した逃走劇、絶望と希望が交錯するラスト。だが、花月の意識は途中から画面には向いていなかった
小さな手の温もり。隣にいる2人の存在。ヒーロー活動中や、授業ならまだしも、プライベートのこの状態で作品に集中出来る男はいないだろう
エンドロールが流れ、テレビが静かに暗転する
柳が先に手を離し、伸びをしながら微笑んだ。小大は無言のまま、花月の手を最後まで握っていたが、名残惜しそうにようやく手をほどいた
「楽しかった?」
「うん。ありがとう、2人とも」
2人が自身を励まそうと遊びに誘ってくれたことを花月は理解していた。花月の言葉を聞いて、小大と柳は顔を見合わせ微笑んだ
「また3人で観ようね」
「断ったら恨めしいからね?」
「ああ、うん。いや、うん。もう少しライトな感じのやつが嬉しいけど、わかったよ」
「花月雫──今度は自身の目の前で失う絶望を味あわせてあげよう。プランBだ」
小大
柳