「おう、調子はどうだい水源確保屋」
「ん? なんだ、ドブさらい屋か」
「なんだ、たぁなんだ。師匠に向かってよ」
俺に話かけて来たのは、禿げ上がった頭が特徴のジイさん。
「師匠って言っても、俺はドブをさらったりしないぞ」
「似たようなもんじゃねぇか」
自分でそれを言うのかよ。
ここ習志野ドームでは、住人同士を職業で呼び合う風習がある。
そのため、俺にドブさらい屋にはなれないと言ったのは、このジイさん自身なのだ。
「調子も何も、いつも通りだよ」
「そりゃあ
「あぁ」
ドブさらい屋の言う通り、俺の仕事は山から流れる細い水路が詰まっていないか確認する事だ。
そんな事が仕事になるのか? なんて言われるかもしれないが、これには特殊な事情がある。
「だがキャンサーには気を付けろよ? 逃げる間もなくやられちまう奴だっているんだからな」
「そうだな……。気を付けるよドブさらい屋」
キャンサー。それはこの地球の外からやってきた謎の生物(?)だ。
奴らは通常の武器で倒すことが出来ず、軍が組織している専門の討伐部隊──セラフ部隊──が唯一の対抗手段だと言われている。
そんな世界だからこそ、安全なドーム内に綺麗な水を引き込む作業は重要なのだ。
「そんじゃあ、おれっちはもう一さらいしてくるか」
「ははっ、ホントに元気なジイさんだな」
俺は仕事に戻ったドブさらい屋を見送り、商売道具である電動スクーターを置き場所に戻すため、車体を押しながら歩き出す。
(電力は貴重だからな)
キャンサーに国土のほとんどを奪われた俺たち人類は、大部分の科学技術を使用困難な状況に置かれてしまった。
特に、電力やガソリンなんかは貴重品だ。
軍もそれらを使う以上、俺たち民間人が使える量はほんのわずかである。
「っしょ……と。さて──」
充電機に繋いだスクーターを置いて、俺はそのまま北へ向けて歩き出す。
駐車場から歩いて北部エリアの農園へと向かうのだ。
「安いよ安いよぉー!」「今日は何にしようかしら?」「ねぇ買って買ってぇ~」
夕暮れに近づくにつれ、この辺りの露店も活気づいてくる。
ドーム住民は皆何らかの仕事をしているため、この辺りの時間が最も繁盛するのだ。
露店で売られる野菜や魚、それらを加工した保存食。
それらドーム住民たちが見慣れた商品を冷やかしながら歩いていると、あっという間に目的地へと到着した。
「あっ、水源確保屋だ!」
農園に着くとすぐ、俺に気づいて走ってくる女の子が居た。
「んっ、ルミちゃんか。こんばんは」
「うん、こんばんはだぜ」
この女の子はルミちゃんと言って、俺の家の近所でおばあさんと二人で住んでいる子だ。
俺がこのドームに来た1年前、まだ右も左も分からなかった頃に色々と世話になった事があり、それ以来ご近所づきあいが続いている。
「今日も手伝いか。偉いなぁ」
「全然そんなことないよ。外で仕事してる水源確保屋の方がえらいぜ!」
ルミちゃんはそう言って笑顔を見せる。
(こんなに小さい子でも働くんだもんな……他のドームでも同じなのか?)
実は俺は記憶という物があいまいで、こういった常識に疎い。
だからこういった幼い子供が働いている状況というのに違和感を感じてしまうのだ。
「おっと、報告をしなきゃ。また後でね、ルミちゃん」
ルミちゃんと話し込みそうになったが、今日の仕事の報告を農園長へと行わないといけない事を思い出し、ルミちゃんに手を振る。
「うん、行ってきな。水源確保屋っ!」
子供特有の元気さに癒された俺は、気持ちを切り替え報告内容を思い出す。
貯水槽には問題なし。異物混入の危険もなし。
よって今回の仕事は水路の障害となる枯れ木や土砂の撤去、不純物を取り除くフィルターの掃除のみだった。
──俺はそれを簡潔に農園長へ報告する。
「ご苦労さん、それじゃあまた三日後に頼むよ。報酬はいつも通りでいいね?」
「はい、ありがとうございます」
一回の報酬が6000ジャスティスだ。
いつも通りの金額であることを確認した俺は、農園長に挨拶をしてその場を辞した。
「おっ。帰って来たね、水源確保屋!」
「ルミちゃん。まだ帰ってなかったのか」
「うん。水源確保屋に、これ渡そうと思って」
そろそろ本格的に日が沈み始め、辺りがオレンジ色の景色へと変わった時間だ。
だというのに、この子は俺を待っていたという。
「ナスか。美味そうだな」
「そう。今日採れた新鮮野菜だぜ!」
ルミちゃんが差し出したナスを受け取りながら、どれも美味しそうな色をしている事に感心する。
しかし、こんなにたくさんもらっても平気なのか。
「ルミちゃんのとこは大丈夫なの?」
「うん。うちは、あたしとばっちゃんだけだし、この季節は野菜がたくさん採れるからね!」
「そっか、ありがと」
俺が三日で6000ジャスティスという報酬で生活できるのも、こういったお裾分けがある為だ。
あとは暇なときにスクーターを使って、下手な釣りをしに行くぐらいか。
「またお魚、期待してるよ♪」
「ははっ、めったに釣れないけどね……」
釣れた時は、いつものお返しという事で知り合いにお裾分けをしている。
このドームの住民は助け合いがモットーなため、こういった事も頻繁に行われる。
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
「うん!」
俺たちは家も近い為、横に並んで帰ることにした。
ルミちゃんはしっかりしているとはいえ、子供である。
このドームに悪人が居るとは思えないが、一応大人の俺が見ておいた方が良いだろうという判断もある。
「人がいっぱいだねぇ。うわぁ、大きいお魚だ!」
「おぉ、凄いなこりゃイナダか?」
俺の腕ではとても釣れそうもない大きな魚だ。これほどの大物を釣るとはタダ者とは思えない。
「あたしはメバルも好きだよ」
「ハハ……ありがとルミちゃん」
子供に慰められる俺。
しかし本当にメバルのような小物しか釣れない俺にとって、子供からのフォローとは逆にダメージを受ける物なのである。
俺たちは露店を見ながら、日照の関係で北部に集中している農園から東部にある家へと向かう。
楽しそうに歩くルミちゃんを見ながら、今夜はナス田楽を食べようかと両手に持った袋に意識を向けた時──
「あぁぁ~~~ッ!!」
──前を通り過ぎようとした男の子に絶叫を上げられた。
「うおっ!? …………なんだ、斡旋屋じゃないか」
「なんだとはなんだ、ボーイ!」
「よう、斡旋屋!」
「るるる、ルミちゃん……っ」
俺の事をボーイと呼び、ルミちゃんを相手に顔を真っ赤にする少年。
彼は斡旋屋と呼ばれ、『仕事を斡旋する仕事』をしている、ルミちゃんと同じぐらいの年の男の子だ。
「斡旋屋は何してるの?」
「えっ!? ぼぼぼ、ボク?」
「君以外居ないだろ」
「ボーイは黙っててくれ、このボーイめ!」
この斡旋屋はルミちゃんの事を好きなようで、話しかけられると緊張して挙動不審になる。
「そろそろ暗くなるから帰った方が良いんじゃないか?」
「ボ、ボクのことはいいんだよ! それよりなんでルミちゃんと一緒に歩いているんだ、ボーイ!」
「水源確保屋とは家が近くだからだよ!」
「そそ、そっかー。それじゃあ、しょうがないか~」
(なんか、微笑ましいな……)
こんな世界でも子供たちは元気だし、純真だ。
「何を笑ってるんだボーイ! このボーイめ!」
「くっくっ、悪い悪い」
俺が笑ってしまったのを、別の意味に
(頑張れよ、斡旋屋)
心の中で応援しながら、俺はかわいい子供たちをしばらくの間見守った。
「──じゃあね斡旋屋! また明日!」
「うん! また明日ね!」
そろそろ良い時間になったことで、俺たちは斡旋屋と別れて家路を急いだ。
……
「ただいま! ばっちゃん!」
「ルミ、えらい遅かったやないか」
「あー、こんばんはアキさん」
「なんや、アンタも一緒やったんか」
ルミちゃんがばっちゃんと呼ぶのはアキさんというご老人だ。
そしてアキさんは俺が路頭に迷っていた時に助けてくれた恩人でもある。
──ちなみに年寄り扱いすると、大声で怒鳴られるので要注意だ。
「じゃあ、俺は帰るね」
「ご飯食べてかないの?」
「いや、アキさんも大変だろうし。ナスも貰っちゃったからね」
「そっか。じゃあまた今度ね!」
「うん。今度は魚を釣って持ってくるよ」
「でっかい大物ね!」
一度も大物を釣ったことは無いけどね。
「ほうか。期待してるでぇ」
「ははっ……」
アキさんが悪い顔でニヤリと笑う。
だが俺は知っている。アキさんは悪い人ではない。
ただちょっと──釣果については圧が強いだけだ。
「またね! 水源確保屋!」
「うん。またねルミちゃん、アキさん」
二人に挨拶をして、俺は二人のアパートの裏手にある四畳半一間の部屋へと帰った。
「──美味いな。これが秋ナスの味か」
七輪で調理した──ナス田楽と白米。
こんな場所では食べられるだけでも幸せな事だ。
にもかかわらず、ルミちゃんに貰ったナスが思った以上にジューシーで、甘味を付けた味噌だれとよく絡み──あまりにも美味すぎた。
俺はそんな豪勢なおかずを供に、ふっくらと炊けた白飯を掻き込んだ。
「ふぅ……ごちそうさま。『ありがとさん』」
食事を終えた俺は、両手を合わせた。そして全ての恵み──人々に感謝する。
それがアキさんに教えてもらった、この世界での俺の生き方であった。
◇
それから何週間かが過ぎた。
季節は秋から冬へ……。
キャンサーという怪物に侵略されていても、自然は相変わらず俺たちに容赦が無かった。
「どすしゃい! 氷菓子あるたい! 是非寄り切ってらっしゃい!」
家を出たところ、冷たい菓子を売ろうとする独特な客寄せの声が聞こえて来た。
「いや、寒いだろ。もう冬だぞ」
「アイスクリームもあるっしゃい!」
「同じだよ」
氷だろうがクリームだろうが寒い日に食う奴は居ない。
それに、アイスは──高い。
「ポテンヒットバー、600ジャスティスたい!」
「いらん」
乳製品が貴重な上に、同じく貴重な電力を使ったアイスは高くて当たり前なのだ。
俺の一食分の食費を遥かに超えるジャスティスを菓子に支払う気にはなれなかった。
「ストロベリーメロンマンゴーアイス、1500ジャスティスたい!」
「高いわ!」
命懸けで働いた稼ぎの四分の一をアイスにつぎ込む気にはなれなかった俺は、思わずツっ込んだ。
「最近は氷菓子が売れんたい……」
「冬だからな」
元の会話に戻ってしまった。
今俺が話しているのは、近所で露店を出している氷菓子屋だ。
恰幅の良い力士の様な風貌をした、甘くて美味しいアイスを売る男である。
「ちゃんこでも売れば良いんじゃないか?」
「……このドームでは材料の調達が難しいたい」
「そうか」
「それに──」
氷菓子屋には何かこだわりがあるようで、真剣な表情をして口を開いた。
「──子供たちが笑顔になるような菓子を作りたいっしゃい!」
よくよく話を聞くと氷菓子屋は子供たちの人気者で、それを生きがいに商売をしているそうだ。
そんな心優しき男に、何か協力をしたいとは思う。
(とは言ってもな……)
俺には甘い菓子の知識など全くない。だから言える事は……。
「暖かい菓子を考えてみたらどうだ?」
「……そうたいね」
具体案が出せない為に、あまり良い反応は得られなかったが、それは後々の誰かに期待しよう。
そう思いながら俺は氷菓子屋に別れを告げ、雑貨屋へ向かうことにした。
「いつもの餌をくれ」
「あぁん、いらっしゃい……」
「……」
この無駄に色気があるのは雑貨屋の自称、看板娘。
どう考えても雑貨に居るべきだとは思えない露出の多い服装にアンニュイな表情。
時折口から漏れ出るため息は、しっとりと甘い音色を奏でていた。
しかし住民からは普通に雑貨屋と呼ばれている。
「いつものミミズね? ……もっと良い餌もあるけど?」
「……ミミズで良い。 ……いや、少しだけゴカイを貰おうか」
良い餌は高いのだ。それに、俺の腕を考えると餌だけ良くてもあまり成果は見込めない。
「うふっ、わかったわぁ。── はいコレ、あなたのミミズ。 とっても元気ねぇ」
「変な言い方をするな」
──1300ジャスティスを支払い、一日中釣りが出来る程度の餌をを購入した。
「さて、今日こそは大物を釣るぞ」
スクーターにまたがりスイッチを押すとモーターに電力が供給され、計器に充電量が表示された。
(うーん。バッテリーがヘタってきてるな……)
俺が来るより遥か前から稼働してきたこの電動スクーターはさすがにバッテリーが劣化してきたのか、一晩経ってもフル充電には至っていない。
「まあ、しばらくは大丈夫だろう」
気にしても仕方ないことは気にしない。このドームではそれが常識だ。
そういう訳で、俺は気合を入れなおし埠頭へ向けてスクーターを加速させた。
…………
……
「はぁ……今日も大物は掛からなかったか」
気合を入れた割に釣れた魚は小物ばかりであった。
しかし今日はサバが多くかかり、合計で10匹と数だけならばかなりの釣果と言えた。
いつものように駐車場にスクーターを停め、充電器を挿しておく。
そして今から目指す先は、先日約束したアキさんの家だ。
「すいませーん。アキさんいらっしゃいますか?」
「なんや、アンタか」
ルリちゃんは今日も何処かへお手伝いのようで、家にはいないようだった。
「どうも、アキさん。魚を持ってきましたよ」
──クーラーボックスから一番太いサバを二尾取り出し、アキさんに渡す。
「サバか。脂は乗ってそうやな」
「ルミちゃんにも食べさせてあげてください」
「サバの中やと
嫌味に聞こえるかもしれないが、アキさんの口の端は笑っており、喜んでくれている様だ。
「替わりにこれ、持っていき」
「大根。これはありがたい」
このドームで作られた辛みの強い大根だ。
大根は煮ても良いし、ご飯に混ぜてカテ飯にしても美味い万能食材である。
結局、物々交換になった俺はサバが痛まないうちに処理するために家へと帰った。
「一夜干しかな……少し塩分を増やしておくか」
8尾のサバを一気に食べる事は出来ないし、日持ちさせるなら濃い塩水に漬け込んで干せばいい。
俺は手早く内臓を取り除き、今日食べる一尾以外は開きにする。サバはウロコが無いので楽だ。
しかし脂がのっている事もあり、やはり予定通り少し濃い目の塩水に漬け込んだ。
「干し網をっと……よし」
干す準備をし──1時間弱。漬け終わったサバの水分をしっかり拭き取り、網の中へと並べた。
「いつもの場所で良いか」
涼しい季節とはいえ、なるべく日陰で風通しのいい場所を選ぶ必要がある。
そういう訳で、家から少し離れた場所に干し網を吊るした。
このドームで他人の物を盗む人間は居ない。
だからこそ、こうやって美味しい干物が簡単に作れるのだ。
「でもまあ、今晩は味噌煮かな」
せっかくの生のサバがあるのだから、今日はそれを活かす料理にする。
「大根もあるし、中骨で出汁を取って吸い物に出来る」
いわゆる船場汁といやつだ。
俺は明日の仕事に備えて、少し早めに晩飯の支度に取り掛かった。
「良い感じに煮えたな」
味付けは甘めで、ショウガは多め。それが俺の好みだ。
汁物は薄味で口安めに丁度いい塩梅に仕上げる。
「大きいサバだったから、二人前はあるな」
片身でも十分な食べ応えがある脂の乗ったサバだ。
無理に一人で食うのはもったいないというもの。
そういう訳で普段お世話になってる人にお裾分けすることにした。
「いるかい、ドブさらい屋」
「おっ、水源確保屋じゃねえか。どうした?」
「少し作りすぎちゃったからさ、お裾分けにって思ってな」
そう言って俺は、別々のタッパーに入れた味噌煮と吸い物を差し出す。
「こりゃ美味そうな味噌煮だなぁ。助かるぜ」
「まだ暖かいから、冷めないうちに食ってくれ」
「おう。ありがとうよ」
これも助け合いだ。このジイさんは俺が仕事を探していた時に、水源確保の仕事を紹介してくれた恩がある。
「お前さん明日仕事だろ? 気を付けろよ」
「分かってるよ」
俺の仕事は壁の外での危険な作業だ。ここいらはセラフ部隊の活躍でかなりのキャンサーを追い出したとはいえ、全くいない訳では無い。
「紹介した俺が言うのもなんだが……仕事ってのは、慣れて来た時が一番危険なんだ」
「……そうだな。肝に銘じておくよ」
普段は陽気なジイさんだが、俺の身の安全については、しつこいぐらいに注意してくる。
少々煩わしいと思う気持ちもあるが、それがこの人の優しだと思うと少し──こそばゆい。
俺はそう思いつつドブさらい屋に別れを告げて、家へと戻った。
「食べたらさっさと寝るか」
明日はスクーターで水路を遡り、近くの山の麓まで見て回らないといけない。
体力を温存する為にも夜更かしは厳禁だ。
「──ごちそうさま。ありがとさん」
命を繋ぐために犠牲になってくれた命へ、そして俺を受け入れてくれたこのドームの人たちに感謝を。
俺はいつものように両手を合わせて、感謝の言葉をつぶやいた。
◇
翌日、明け方から農園長へとあいさつを行った俺は、スクーターにまたがりジャンパーのファスナーを首元まで締めた。
「さて、行くか」
防寒対策をした俺は、気合を入れて右手のアクセルを回す。
電動ゆえに静かな発進を行ったスクーターは早朝の澄んだ空気の中を進んでいく。
目指すは北部の引き込み口から貯水槽へのルートだ。
「枯れ木が増える季節だからな……」
水路には落ちていないが、時々水路近くに落ちている障害物を見つけてはスクーターを降り、邪魔になりそうな物を遠くに放り投げる。
自然のままの土水路は軽くシャベルで土を掻き出し、詰まらないようにする。
そんな事を8回ほど行った頃、中間地点にある貯水槽へとたどり着いた。
しかし、そこには──常にはない異変があった。
「水が、減ってる」
いつもなら8割ほどの容量をキープしている貯水槽の水位が、明らかに下がっていた。
(季節によっては水量が減ることもあるそうだが……さすがにこれは)
三日の間に半分に減っているのだ。
このままいけば数日もしないうちに水が足りなくなってしまう。
「近くで詰まっていればいいが」
貯水槽から山の間であれば、問題はない。
今までのように障害物を取り除けば良いだけだ。
大問題になるとしたら──
「ウソだろう……」
──山の中で水の流れが阻害されていた場合だ。
その問題が今まさに目の前で起こっていた。
…………
……
(どうする……一度戻って報告するか?)
確実を期すならそれが賢明だ。
しかし、水位の状況から考えてあまり時間が無い事は明らかだ。
もし農業用の水が不足すればドームの野菜のいくらかは諦めなければいけなくなる。
そうなれば、ただでさえ厳しい食糧事情が更にひっ迫する事は間違いない。
(それに、どの程度の規模か分からなければ、障害物の除去計画が立てられない)
もしかしたら土砂で水路が詰まったのかもしれないし、倒木で塞がれているのかもしれない。
その程度によって必要な作業人数が変わってくるのだ。
「見にいくしかないか……」
俺は危険を承知で森に入ることを決め、平野から森の入り口にスクーターを停め、必要な道具を入れたバックパックを背負う。
「おっと、一応これも持って行かなきゃな」
スクーターに取り付けられていた発煙筒だ。
いざという時に使えと言われていたが、今までにそういった状況に陥ったことは無い。
しかし、今回ばかりは何があるかは分からないのだ。
俺は一つ大きく深呼吸を入れ、もう数十年も人の手が入っていない自然の領域へと足を踏み入れた。
…………
……
「くそっ……歩きにくいな」
藪を掻き分け、上り坂を歩く俺だが、その足取りは軽快とは言い難い。
長年人が歩いていなかっただけに、足場も悪けりゃ草も生え放題なのだ。
それでもなんとか水の流れた形跡を遡り、やっとの事で水源付近へとたどり着いた。
だが、そこで見たのは──我が目を疑うような光景であった。
(なんだ……あれ……は)
俺が見つめる先にいた巨大な岩ぐらいある生物──それはいわゆるキャンサーという存在であった。
そのキャンサーは全身が真っ白く、その身体の表面はつるりとしており、まるで金属でできた蜘蛛の様な外見をしている。
そしてソイツを確認した瞬間に、水源から水が来なくなった理由が分かった。
キャンサーの巨体が水路跡の上に存在しており、それが水の流れをせき止めてしまっていたのだ。
(マズイな……これは)
何度も言うようだが、人間はキャンサーに勝てない。
例え銃を持っていても、それこそ爆弾で爆破しようとも奴らには傷一つつかないと言われている。
唯一対抗できる存在──それは軍の特殊部隊であるセラフ部隊員だけだ。
俺はじっと息をひそめながらキャンサーを観察していたが、すぐにこのままここに居るのは危険だと思いだし、気づかれないように去ろうとした──のだが、
パキッ
そんな小さな音が足の裏から鳴った。
原因は単純で俺の膝が恐怖で固まり、思っていた以上に強く地面を踏んでしまったからだ。
俺の存在を感知した蜘蛛のようなキャンサーは、凄まじい速さでこちらに向けて飛び掛かり、目にも止まらない速さで節足の一本を振りぬいた。
「しまっ──うおっ!?」
俺の頭の上を強風が薙いだ。
それは恐らくキャンサーの攻撃だったのだろう。
避けれたのは、俺が腰を抜かして尻もちをついただけ──つまりただの偶然だ。
「こんなに、素早いのかよ!」
追撃が来る。そう思った瞬間、俺は自らの身体を後ろに投げるように飛んだ。
瞬間──鋭利な足先が俺の鼻先を掠め、地面へと突き刺さる。
それはもはや視認できる速さではなく、俺の命がある事の方が奇跡であった。
(逃げきれない……!)
とっさにそう感じた俺は、振り向いて走るという選択肢を捨て、斜面を利用して転がり落ちる事を選んだ。
「ぐっ……、あっ!? がっ……」
先の見えない藪の中に飛び込み、脇腹を打ち付けた。
こんな状況でなきゃ絶対にやらない危険な行為。
しかし今の俺には安全策などという上等な物は持ち合わせていなかったのだ。
何度そんな無茶な動きをしたか分からない。
しかし運任せのデタラメな回避行動が功を奏したのか、キャンサーの追撃は奇跡的におれを捉えることは無く、地面に巨大な穴を作るだけに終わった。
(よし、このままいけば……っ)
逃げ切れるかもしれない、そう思った矢先──俺の目の前から地面が消えた。
…………
……
「うっ……う……、ここは……?」
かなりの高さから滑落したらしく、しばらく気絶していたようだ。
俺が目を覚ますと、辺りは真っ暗な闇に包まれており、かなりの時間が経過している事が分かった。
「痛ッ……」
身じろぎした瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。
それに、もっと大きな問題が──足首が紫色に大きく腫れあがっていた事だ。
「くそっ……足をやっちまうなんて」
山の中で動けなくなった。
それは今のこの世界では死を意味する。
なにせ、世界の大部分は奴ら──キャンサーの住処になっているのだから。
多少の覚悟はしていたが、いざ自分がこうなってしまうとやはり恐怖の方が勝る。
俺は本能的な恐怖を紛らわせるために、地面を這いながら少しでも安全な場所を探し、足掻いた。
…………
……
それは単なる偶然だった。
地面を這っていた俺の前に、大人一人分がすっぽり入る程度の──岩の窪みを見つけたのは。
「ハァ……ハァ……、ここなら……しばらくは安全か」
窪みの奥に背中を着けて一息ついた俺は、久々に冷静な思考が戻って来た。
「そ、そうだ! バックパックは…………あった」
マヌケな事に、今の今まで思い出せなかったのは、ずっと背負い続けていた緊急用の道具が入った背嚢だ。
「ナイフ、マッチ、ホイッスル、方位磁石……包帯か」
鎮痛剤が欲しかったが、仕方が無い。医薬品は有効期限があるので常備するのが難しいのだ。
「足が動くなら火を熾せるんだが……。── あっ、そうだ!」
火で思い出した。確か、バックパックの側面に入れたはずの──
「あった……」
──発煙筒だ。
(これがあれば、俺の位置を知らせることが出来る!)
生きている事を、知らせることが──。 出来る……。
「…………」
知らせてどうするのだ。
助けになど来れやしない。こんなキャンサーが跋扈する危険な場所へなんて。
だったら、俺が生きていると知らせるのは──迷惑なのではないか。
生きている事を知りながら助けられないという後悔を、残すだけではないか。
そんな考えが脳裏をよぎる。
「…………っ」
迷いが俺の頭を支配し、勝手に俺の記憶を呼び起こし始める。
◇
「どこだ? ここ……」
俺の一番古い記憶は一年と少し前だろうか。
気が付けば全く見覚えのない裏路地に倒れていたのだ。
「俺は……誰だ?」
しかも最悪な事に、記憶が無かった。
「誰やアンタ。ここらでは見ん顔やな」
「え? え?」
そんな俺に話かけてきた人物──それは一人の老婆だった。
「──記憶が無い? そないなけったいな話、ホンマにあるんかいな」
「それが……どうやら、あった様で」
「ふん」
不機嫌そうな声。どうやら相当にプライドが高い人のようで、俺の返事が気に入らなかったのかもしれない。
「まあ、ええ。とりあえずついて
「へ?」
「ぼさっとするな。置いていくで」
そう言って老婆は杖を突きながら歩き出した──。
それから俺は飯を食わせて貰って、住むところが無いと言ったら裏にある空き家を紹介してくれて……。
知り合いのドブさらい屋に、仕事を教えてやってくれと頼んでくれたのだ。
◇
「くっ……もう一度会いたいなぁ、あの人たちに」
俺の住む場所。優しい人々が住む、あの雑然とした街に。
どうしても──帰りたくなった。
そう思ったら行動は早かった。
発煙筒のキャップを外し、マッチを擦る要領で先端に着火すると、それは凄まじい光と煙を発生させた。
発煙筒を空に向けて掲げ、気づいてくれるように祈る。
もしかするとキャンサーに気づかれるかもと思ったが、そうなればその時だ。
──俺はズキズキと痛む脇腹を押さえながら、煙が出なくなるまで発煙筒を空にかざし続けた。
…………
……
「んっ──。寝ちまってたか……」
疲れが溜まっていたのだろう、あれからしばらくして急に眠気が襲って来たため、俺は防寒着の前で腕をクロスさせながら眠ってしまっていた。
(まだ辺りは暗いから、それほど長くは寝ていないだろうが)
「うぅ……寒ぅ……」
動かずにじっとしていたからか、身体が冷えてしまった。
さすがにこのままでいるのは辛くなり、痛む体を伸ばそうと窪みの外へ出ると──
「おや、生きているじゃないか」
「えっ?」
「なんて顔をしているんだ。わざわざ助けに来てやったってのにさ」
──そこに居たのは、艶やかな長い髪を月光に照らし出した、見たことも無い美人であった。
「た、助けに……? 君が?」
「そうだよ。あたいが今ここに居るのが揺るぎない証拠だろ?」
言われてみればその通りだ。こんな山の中に人が居るなんて偶然のはずが無いのだから。
しかし、俺が信じられなかったのは救助が来たこともそうだが、目の前の女性の人間離れした美しさにもあった。
「歩けないのかい?」
「あ、あぁ…………足首をひねっちまってな」
「どれ。──だいぶ腫れてるねぇ、ここじゃヘリも呼べないし……まいったね」
しゃがみながら俺の足首を見た女性が──そう言って右手を形のいい顎に添えてを思案する。
俺はそんな彼女に思わず見とれてしまって居たのだが……。
「そ、そうだ! 君、ここは危ないから。俺を置いてすぐに帰った方が良い」
いくらなんでもこの女性一人で俺を運ぶことなんて、出来やしないんだから。
「どうしたんだい? 藪から棒に」
「見たんだよ‥‥……あの、キャンサーってのを」
「へぇ」
目の前の女性はキャンサーの恐ろしさを知らないからか、まるで態度を崩さない。
いや、それどころか──
「詳しく聞かせてもらおうじゃないか」
──その美しい顔を、ニヤリと好戦的に歪めた。
(なんだ、この人は……)
一瞬、狂人なのかとも思ったが、そんな人間がこんなところに来れるはずがない。
「一体君は…………何者、なんだ?」
「何者もあるかい。こんな場所へ単独で救助に来れる人間なんて、他に居ないだろ?」
「そ、それって……」
「セラフ部隊員さ」
セラフ部隊。それは人類最後の希望。
キャンサーに対抗できる唯一の存在だ。
それが今、目の前にいる。
「なるほど……な」
俺の勝手なイメージでは、もっと軍人のように厳めしい恰好をしているものと思い込んでいたが、セラフ放送で見ていた彼女たちの服装は軍服と違っていたことを思いだした。
「それで、どんなキャンサーだったんだい?」
「あ、あぁ……。そうだな──」
俺は水源に陣取っていたキャンサーの見た目と襲われた時の状況を思い出しながら、目の前の娘に伝える。
「なるほどね。白い中型のキャンサーかい……ちょいと待ってな」
彼女は何らかの通信機を持っているらしく、俺が言った内容を誰かに報告している様子だ。
「要救助者確保──命に別状なしだよ。ただ、足をくじいているようで自力での帰還は困難だね。それと付近でキャンサーに襲われたって言ってる。目標の特徴は──」
「──────、──────」
「……了解。なんとかやってみるよ」
話し合いは終わったようだ。
しかし彼女の顔色は優れない。
その証拠に、ふぅと一つ息を吐いたあと、俺に真剣な目を向ける。
「そろそろ夜が明ける。あたいが護衛をするから……なんとか下山してもらうよ」
「分かった。よろしく頼む」
キャンサーを倒すために増援が来るのかもと思ったが、そうではないようだ。
恐らくセラフ部隊にも色々と事情があるのだろうと察し、俺は素直に指示に従う事にした。
下山することが決まり、俺たちは手持無沙汰になった。
何かを話せばいいのか、それとも黙っていた方が良いのか、判断に迷う。
「アンタは習志野ドームの住人だよね?」
「あ、あぁ……そんなに長くはないんだけどな」
「ふぅん。それにしては、ずいぶん親身になってくれる人が居たもんだね」
「え?」
何を言っているのだろうかと思ったが、よくよく考えれば彼女は一度ドームで事情を聴いてからこっちに来たのだと気付く。
「小さい女の子がね、助けてくれないなら自分が探しに行くって聞かなくってね」
「……ルミちゃんか」
「あとはスコップを持ったお爺さんとか、力士みたいな男。妙に色っぽい女もいたね」
「……みんな」
関わりの深い人たちが、俺の為に集まってくれていたなんて。
有難くて涙が出る。
「ふふっ、ドームの生活ってのも案外悪くないのかもね」
「……セラフ部隊ってのは」
「悪いけど、あまり話せないよ。軍事機密なんでね」
「そうか」
セラフ部隊がどんな生活をしているのかは分からない。
だけど、実際にキャンサーにやられそうになった俺にはあれと戦うのが、いかに危険かが分かる。
そんな相手だからこそ、深入りしてはいけないと思う。
会話が途切れ、少し気まずい空気が漂う。
だがその時、夜明けを告げるように軽やかな風が吹き抜け、新たな日を祝うように一条の光芒が差し込んだ。
(すごく、綺麗だ…………)
差し込んだ光が風に揺られる長い髪に当たり、きらきらと反射している。
目の前の彼女はそれを右手で抑え、真剣な表情になり俺に向かって言った。
「そろそろ、時間だね」
それはたった数秒の出来事だったかもしれない。
だが、先程見た神聖な光景は俺の瞳の奥に焼き付いており、一生忘れられない記憶になるだろうことは間違いなかった。
「それじゃあ行くよ」
「あぁ。──……っ」
セラフ部隊員の彼女がわざわざ拾って来てくれた良い感じの枝を杖代わりにして──よろよろと歩く。
相変わらず、骨に響くような鋭い痛みが走るが、弱音は吐けない。
「悪いね。手を貸せなくて」
「いや、セラフ部隊員に護衛してもらえるだけで有難い」
なにせ、人類最強の存在だ。
おかげで俺は周りに気を配る必要なく、歩くことが出来る。
それだけでかなり負担が少なかった。
「──ハァっ、──ハァっ、──ハァっ」
「大丈夫かい?」
「あぁ……! このぐらい、なんともないさ……」
彼女は心配そうな顔で見てくるが、俺はそんな顔をさせている事が申し訳なく、虚勢を張っていた。
実のところ、足首に衝撃があるだけで呻き声を上げたくなるぐらいには、痛みがある。
「──ハァっ、ぐっ!?」
しまった。痛みで注意が散漫になった瞬間、杖を突いた場所が悪かったのか滑ってしまった。
危ないと思ったその瞬間には、もう俺の身体は傾いており、そのまま地面へ──
「おっと。危なっかしいね、全く」
「!? あ、あぁ……すまない。ありがとう」
──激突する寸前で、彼女の細い腕に受け止められた。
「もう少しだよ。頑張っておくれ」
こんなに細い腕だというのに余程鍛えているのだろう、男の俺を引き上げてしまうぐらいの力があった。
しかし、助けられた俺がお礼を言う暇もなく──
「お出ましだね」
「!?」
最も恐れていた、奴が上空から襲い掛かって来た。
俺は突然の事に恐怖し、身体が硬直する。スローになる景色の中、俺が死を覚悟したその時。
「ちっ──五穀豊穣、刈り入れ時だね!」
空中に真っ黒な穴が空き、三日月の様な形をした鎌が現れた。
「──!! くぅぅぅ……、はぁ!!」
セラフ部隊員としての本領を発揮した彼女は、その巨大な鎌を用いてキャンサーの攻撃を受け止め、弾き返してしまった。
「全く……そう上手くは行かないって訳かい」
巨大な鎌──セラフを地面に向けて一振り、彼女はそう言って苦々しい顔をした。
「そこの岩陰に隠れてな。あたいがコイツを───仕留めるまでね!!」
息つく暇もなく戦闘が始まった。
巨体にも関わらず、物凄い速さで前後左右に跳ね回る蜘蛛型キャンサー。
それに対し、セラフを持った彼女は巧みに鎌を操りキャンサーの攻撃を受け流していく。
(これが、セラフ隊員の戦闘──!!)
テレビで見るような遠くからの映像ではなく、目と鼻の先で行われる本物の戦いだ。
それは素人の俺にも分かるほど、凄まじい破壊力がこもった攻防であり、普通の人間がその空間に入れば一瞬で命が消し飛ぶことが見て取れる。
そして、そんな戦いを冷静に行う彼女の姿は、死線をくぐって来た強者のそれであり、神業の様な戦闘技術の持ち主であった。
(っと、隠れないとな……)
俺は言われた通りに岩陰へ隠れ、戦闘の行方を見守る──。
「はっぁぁぁぁ!」
「キシィィィ!」
キャンサーの前節足とセラフが激突し、凄まじい金属音を響かせた。
二度、三度とそれらが打ち合わされる度に、まだ薄暗い明け方の森が一瞬だけ明るくなり、衝撃波が枝葉を揺らす。
それはもはや普通の人間が立ち入れる領域に無く、正しく人外たちの戦場と化していた。
「ったく、しつこいねぇ!」
「キィィィィ──」
正に一進一退。彼女は俺を守る為か、岩の側からほとんど動かない。
その為、両者はその位置を変えることなく、攻撃と防御だけを目まぐるしく変える。
そんな膠着状態に対し、先に変化を加えたのは──キャンサーの方であった。
「……?」
キャンサーは鎌型セラフの攻撃圏内から一気に下がり、何かをする構えを取った。
そして、次の瞬間。
「シャァァァァ──!!」
突然、口の様な器官から蜘蛛の糸の様な物が発射された。
「なっ!?」
あまりのことに俺は驚き、隠れている岩陰から大声で叫んでいた。
しかし問題は、それの発射先に居る人物。セラフ部隊員の彼女だ。
今までの接近戦から、突然の遠距離攻撃に変わったことで反応出来なかったのか──彼女は動こうとしなかった。
「あぶなっ───えっ!?」
消えた。
先程まで確かにあった彼女の姿が忽然と消え、蜘蛛の糸が空を切る。
「甘いんだよっ!!」
「ギィ!?」
突然空中に現れた彼女は既に鎌を大上段に構えており、一閃。
キャンサーの外殻に大きな傷を付けた。
「硬いねぇ……全く嫌になるよ」
優雅に着地を決める姿とは対照的に、その顔色は優れない。
(どうしたんだ? 見た感じ優勢のようだけど……)
俺は不思議に思いつつも、心の中で応援する事しか出来ない自分に悔しさを覚える。
そんな俺の気持ちなど関係が無いとばかりに目の前の攻防は激しさを増していく。
鎌で切り裂き、節足の振り回しを受け止め、時折その姿を消しては猛攻を仕掛けた。
その凄まじい攻撃は、確実にキャンサーの外殻に傷を増やし、追い詰めている。
だというのに、彼女の顔には段々と焦りが見え始めた。
「シャァァァァァ」
「……!!」
蜘蛛の糸が発射され、それを喰らうのはまずいのか、またしても彼女の姿が消える。
だがどういう意図かは分からないが、今回はキャンサーの正面へと現れ、鎌を振りかぶった。
「シャァアァ!!」
「くっ……!?」
鎌がキャンサーの外殻を切り裂くと同時に、キャンサーの反撃。
攻撃直後の隙を突かれた彼女は防御が間に合わず、光の壁が展開される。
バチバチと音を鳴らしてキャンサーの攻撃を防いだ壁であるが、どうやらそれで防ぎきることは出来なかったのか、何かが割れる音と共に彼女の身体が真横に吹き飛ばされた。
「あぅ──!?」
初めて聞く、彼女の苦悶の声。
だからこそ、直感的に思ったのだ。
これは本当にマズイのだと……。
「しくじっちまったねぇ……」
「あっ……」
彼女を見ていた俺と、彼女の視線が交わった。
そこに浮かんでいた表情。
それは悔しさや後悔ではなく──俺を逃がすために命を懸ける者の決意だった。
『逃げな』と彼女の唇が形を作った。
それはキャンサーに俺を意識させることなく逃がそうとする、彼女の優しさだ。
「シァアァ……」
キャンサーは獲物が逃げないと分かったからか、すぐに攻撃を仕掛けようとはしない。
(今なら、逃げられる……?)
彼女の稼いでくれたわずかばかりの時間。それを使えば、俺はもしかしたら生き残れるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
「こっちだよ、ウスノロ」
──震える脚で必死に立ち上がる彼女。
ダメだ。
──そんな彼女に向かって、蜘蛛のキャンサーは最後の一撃を加えようと地面を踏みしめた。
やめろ。
だがそんな状況にもかかわらず──彼女の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
それを見た瞬間、気が付けば俺は岩陰を飛び出していた。
紫に腫れていた足首の痛みは消え失せ、脇腹の鈍痛も感じない。
「やめろォォォォ────!!!」
俺は彼女が逃がそうとしてくれた道を逆に走り──
「その人から、離れろォォ──!」
──キャンサーに向かって杖にしていた枝を振り下ろしていた。
(あぁ、なんて遅いんだよ。俺の腕は……)
先程の戦闘を見たからか、あまりも遅すぎるように感じる俺の攻撃。
それにだ、仮に当たったとしても──ただの人間が、ただの棒きれでキャンサーに傷一つ付けられるわけがない。
スローモーションのように振り下ろされる木の枝。
それに対し、比べ物にならないほどの速さで繰り出されるキャンサーの脚。
俺の死はもはや避ける事が出来なかった。
だが、それでいい。
俺の価値と、彼女の価値。どちらが大きいかは一目瞭然だ。
わざわざ下手を打った俺を救助しに来てくれた、人類の希望をここで失う訳にはいかない。
そうだ、彼女を失うぐらいなら……俺の命など安い物だ。
ゆっくりと流れる景色の中で最期に彼女の表情を見る。
──驚いた表情。
逃がそうとしていた一般人が無謀にもキャンサーへ向かっていくという愚行。
彼女の努力を全て無に帰す暴挙だ。
(でも、それでも……俺は)
『逃げろ』
もはや口を開く余裕すらなく、念じる。
俺が殺される一瞬の隙に、彼女なら逃げられると信じ、俺は──
「シャァァ──!!」
ブオンと音が鳴り、キャンサーの巨大な脚が目の前に現れた。
(あぁ、死んだ。ごめん、みんな……)
その一瞬で、今まで世話になった人たちの顔が一気に蘇り、それが走馬灯というものだと確信する。
そんな思考すら消し飛ばす凶悪な攻撃が、俺の頭蓋を粉砕する、その寸前──
「ウォォォォォ───ッ!!」
空から馬鹿でかい剣が降って来た。
「ギィィィィ!?」
砕け散るキャンサーの節足。
突き刺さった剣の衝撃で吹き飛ばれる俺。
ゴロゴロと後ろ向きに転がりながら、必死に見つめるその先では──
「今だッ! 蔵ぁ──!!」
地面に剣を叩きつけた姿勢のまま叫ぶ謎の女。
それを見た彼女は──
「ナイスだよ、月城ちゃん」
──ニヤリと笑い、キャンサーへ向かって大きく飛び込んだ。
「手こずらせてくれたね。でも、そろそろ──」
飛び込みながら頭上で回転する大鎌。
それはみるみる速度を上げ、光の円盤へと変わる。
「──刈り入れ時だよッ!!」
鋭い気合と共に、彼女がそれをキャンサーへと叩き着ける。
一瞬の抵抗を見せたキャンサーの外殻を光の円盤が切り裂き、轟音を立てながら奥へ奥へと引き裂いていく。
「シャ、アァァァァ!!?」
キャンサーの身体が傾く。
あれほどまでに絶望的な防御力を誇っていたキャンサーの身体が──真っ二つに分かれた。
「───!!」
そのままキャンサーはパリンという音と共に砕け散り、粒子へと変わったのだった。
…………
……
「大丈夫か、く……いや」
「あぁ。大丈夫さ、ギリギリだったけどね」
「済まぬ。急いで駆けつけたつもりであったが」
「いいさ。そっちも大変だったんだろう?」
地面に転がる俺を一瞥した後、話し始めた二人の女性。
ずっと俺を護ってくれていた髪の長い艶やかな美人──クラさん(?)と話す、武士の様な佇まいの美人。
どうやらこのツキシロと呼ばれていた人は彼女の仲間──セラフ部隊員のようだ。
「それにしても……無茶をするねアンタ」
「へ?」
突然向けられた視線に驚いた俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「へ、じゃないよ。あんな物でキャンサーに向かっていくなんて、死にに行くようなものだよ」
「は、はは……」
あの時は無我夢中だったのだ。
冷静になった今なら、あれがいかに無謀な行動かよく分かる。
「まあ、良いではないか。結果的に二人とも無事であったのだからな」
「……そうだね。一応礼は言っておこうか」
ツキシロさんに取りなされ、礼を言われたものの、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「そんな顔しないでくれよ。まるで、あたいが悪いみたいじゃないか……。それに助けられたのも事実だしね」
「そ、そうか……? ──そうだな」
実際にはどうなのか知らないが、納得しておくことにした。
そうでもしなければ、この気まずい空気は変わらないだろうから。
「それじゃあ、戻るとするかね」
「我が背負おう」
「えっ……」
聞き返す暇もなく、軽々と持ち上げられた俺はツキシロさんの背中に、まるで荷物のように背負われた。
「行くぞ」
「うわぁぁぁぁ」
完全に日が昇った自然豊かな森、そこに響くのは情けない男の悲鳴。
だがそれも仕方が無い事であろう。
その男は、時速40キロで山の急斜面を駆け抜ける事になったのだから──。
◇
あれから習志野ドームまでは、あっという間だった。
山から出たタイミングでスクーターの場所へと向かってもらい、二人に護衛されながら運転して帰って来たのだ。
「では我らは帰るとする」
「あ、ありがとうございました……」
ドームの入り口で彼女たちも基地へ帰るという。
だがこれだけ世話になっておいて、お礼の言葉だけというのも変な感じだ。
俺は命の恩人たちに何かお礼がしたかった。
「あ、あの……もしよかったら、お礼をさせてくれないか?」
「お礼?」
「あ、いや……お礼と言っても、そんな大層な物では無いんだけどな」
ドームには本当に大層な物は存在しない。
せいぜい食い物か飲み物。それに雑貨屋に売っている、申し訳程度の小物か。
だからこれは単なる──俺の自己満足だ。
「……」
「ふぅん」
ツキシロさんは全く興味が無さそうに目を閉じて腕組みをしている。
興味を示したのはクラさんの方。
「ドームじゃお米も作ってるんだろ?」
「おい……。我は帰るぞ」
「作ってるよ。今年の収穫は終えたばかりだから、まだかなりの新米が残っている」
「へぇ、それは良いねぇ」
「米が欲しいのか?」
意外であった。セラフ部隊は軍属のはずなのに、わざわざ米が欲しいだなんて。
「あたいの趣味でね。良いお米を探しているのさ」
「なるほど。じゃあウチに来てくれ」
「あいよ」
「……」
結局、二人とも俺の家に来ることになった。
途中で出会うドーム住民にお礼と感謝を伝え、我が家へと歩く。
「ここだ。狭い家だが、入ってくれ」
本当に狭いので謙遜でも何でもない。玄関と土間以外は4畳半の畳部屋と必要最低限の家具しかないのだ。
「ドーム住民ってのはこういうところで暮らしているのかい」
「まあ、人それぞれだけどな」
俺は特に物欲が無いので、趣味と言えば下手くそな釣りぐらい。
その釣り道具が部屋の隅に纏めて置かれているぐらいが俺の私財だろうか。
「あっ、そうだ……。アレがあったな……」
釣りで思い出した。昨日干したサバがそのままであったことに。
俺は二人に茶を出したあと、部屋の裏手に吊っていた干し網を回収してきた。
「これは、なんだい?」
「サバの一夜干し……いや、もうちょっと乾燥してるか。でも、美味いぞきっと」
寒い時期なので腐ることは無い。表面に薄い膜が出来ていて、中に旨味が閉じ込められているのが分かる。
「どうやって食べるんだい?」
「そうだな……ついでに飯をご馳走しよう」
「おい……聞いていないぞ」
「なんだい、ちょっとぐらい良いじゃないか。空いてるんだろ? お腹」
「……」
あれだけ戦っていたのだ。腹も空いているだろう。そういう俺もかなりの空腹だ。
「ちょっと待ってろ。大きめの七輪と土鍋を借りてくるから」
小さい七輪は家にあるが、大きいのは近所との共有財産だ。
借りて来た七輪を玄関の外に設置し、成形炭を並べマッチで火を着ける。
その間に俺は研いでおいた米を土鍋に移す。
良い具合に火が落ちついてきた頃に土鍋を乗せしっかりと炊き上げる。
「良い香りがして来たねぇ」
「……うむ」
良い感じになった頃、蒸らすために一度土鍋を家の中に持っていくと、その匂いを嗅いだ二人から期待感の籠った声が上がった。
「あと10分だな」
「あぁ、このご飯の香り……待ち遠しいねえ」
その間に俺は焼き魚を作る為に網を用意し、その上にサバを三尾並べた。
(あとはあれだな。大根おろし)
サバの焼き具合に合わせて俺は大根を切り、皮を剥いてすりおろす。
水分を多く含んだ瑞々しい大根がおろされ爽やかな香りを放つ中、七輪の上からパチパチと脂の弾ける音が鳴り、サバが焼けたことを教えてくれる。
「よし、そろそろ良いだろう」
待ちに待ったというようにクラさんが身を乗り出して覗いてきたので、俺はそんな姿を微笑ましく思いながら土鍋の蓋を上げた。
「ふわぁ……これが、土鍋炊きのご飯の香りかい……」
土鍋は初めてなのか、ふっくらと炊けたご飯の香りを胸いっぱいに吸い込んだ彼女は、恍惚の表情を浮かべていた。
「ご飯は、あたいがよそうよ」
「そうか。任せるよ」
俺はその間に焼き上がったサバを皿に乗せ、山盛りの大根おろしを添える。
ご飯、サバの塩焼き、大根おろし。
質素ながら、味には自信が持てる最高の食材たちだ。
「それじゃあ頂こうか」
俺たち三人はちゃぶ台を囲むように座り、手を合わせて「いただきます」を唱える。
(さて、まずは白飯から……)
「このもっちりとした食感……口に広がる甘味。とんでもなく美味しいじゃないか!」
「うむ」
ここの米は昔から栽培されてきたコシヒカリ系を品種改良したものだ。
粘りと甘みがあり、一粒一粒が大きい為冷めても硬くなりにくい。
それもあってか、ドーム住民の中ではおにぎりにする人も多い。
二人ともご飯の味が気に入ったのか、勢いよく食べ始める。
(さて、サバの方はどうかな……)
「なんだい、この魚の脂はっ! とんでもなくジューシーじゃないか!」
「うむ」
秋鯖は嫁に食わすなと言われるぐらいに、この時期は脂がのっているのだ。
箸で身を解すたびにジワリと滲み出る黄金色の脂。
それを口に放り込むと、濃厚かつまろやかなホクホクなサバの身を楽しめる。
「でも、少ししょっぱいかね」
干すときには塩水に漬け込む必要があるのだ。
それゆえに脂の濃さときつい塩味は、サバを食べるごとに増していく。
だが、そういう時は──
「こうするんだよ」
──俺は大根おろしを箸でひと掴み、口の中に放り込んだ。
「これは、辛いね……! でもなんだか……」
「うむ。口の中がサッパリするな」
そう。このドームで栽培されている大根は辛みが強い。
そしてこの辛みこそが、サバを最も美味しく食べるための名脇役なのだ。
「ご飯の甘味……サバの旨味……大根の辛み。こりゃあ箸が止まらないよ!」
「うむ」
二人はセラフ部隊員だけあって鍛えられているのだろう、大の男よりも早いベースでご飯をかき込んでいく。
「おかわりをお願いするよ」
「……我もだ」
「おう」
サバをおかずにグイグイとご飯を呑み込んでいく二人。
俺はそれを見ながら追加のお茶を沸かしていると、外から子供の声が聞こえて来た。
「水源確保屋、いる?」
「ルミちゃん」
「あ、いた!!」
家に来たのはルミちゃんだった。
随分心配をかけてしまったのに挨拶に行けなかったのが申し訳なくなる。
「心配をかけちゃったね……ルミちゃん」
「ううん。いいんだよ、無事だったなら!」
ルミちゃんはそう言って笑った。
彼女のそんな優しさに感謝をしながら、俺は改めてこのドームは住民全員が家族なのだと実感する。
「あ、昨日のお姉さん! セラフ部隊の人だよね?」
「おや、あんたは昨日の」
「ルミだよ! お姉さん、本当に水源確保屋を助けてくれたんだね!」
「……結果的にはそうだね」
悔しそうな表情だ。しかし彼女は俺を護るために自由に戦えず、苦戦をしいられてしまったのだ。
「彼女たちのおかげで命拾いしたよ……。本当に」
「くすくす。よかったね、水源確保屋!」
本当に、二人が──特にクラさんが来てくれなかったら俺は野垂れ死んでいたのだ。
だから……そんな顔をしないで欲しい。
(ちょっと微妙な空気になってしまった)
そんな空気を読んだのか、ルミちゃんが食事について聞いてきた。
「何食べてるの?」
「ご飯とサバの一夜干しだよ」
「それだけ?」
「う、うん」
──純粋な表情で俺の出した飯を見て、目をパチパチとしばたかせる少女。
「お野菜も食べないとダメだよ」
「そ、そうだね……」
ルミちゃんは野菜が大好きなのだ。
その彼女からすると、俺の食事は落第点という事だろう。
そんなことを思っているとルミちゃんは──
「ちょっと待ってて!」
──何かを思いついたのか、家の外に出て走って行ってしまった。
そして数分後。
「はい。これも一緒にどうぞ!」
「なんだい? これは……ナス?」
「うん、煮浸しだよ。ばっちゃんのお手製!」
アキさんの作るナスの煮浸しだ。
ルミちゃんはわざわざ自宅から大きめの器に入れて持ってきてくれたようで、期待するようにニコニコしながらセラフ部隊員の二人の前に置いた。
「いいのかい? まあ、せっかくだから頂くよ。はむっ……」
「むぐむぐ…………── ん!?」
皿に乗った黒いナスを持ち上げ、口に放り込む二人。
今回先に反応したのは、ツキシロさんであった。
「だし汁が……溢れてくる……」
「本当だねぇ……噛めば噛むほど味が染み出してくるよ」
「そうでしょ! ばっちゃんの煮浸しは絶品なんだから!」
ルミちゃんが得意げになる。
それもそのはず、アキさんの煮浸しは本当に美味いのだ。
出汁の取り方が良いのか、それとも何かコツがあるのか。
とにかく信じられないぐらいに、うま味のある出汁が染みている。
(ご飯、サバ、大根おろし、ナスの煮浸し……これはもう止まらん)
俺たち三人はルミちゃんがいるにも関わらず、夢中で飯をかき込む。
「……また、おかわりをお願いするよ」
「……すまぬ。我もだ」
「おうよ」
三杯目だ。五合炊いた飯が足りなさそうな勢いであった。
食べ過ぎたと思ったのか、恥ずかしそうにしている二人。
しかし俺としては命の恩人にたくさん食べて貰えるのは嬉しい限りである。
「もっと炊こうか?」
だから少しデリカシーが足りなかったのかもしれない。
「い、いいよ! もう、これでお腹いっぱいさ。ね、月城ちゃん!」
「う、うむ」
やや未練があったのか、土鍋の方を見ながら同意するツキシロさん。
それを察したルミちゃんが笑いながら言った。
「じゃ、あたしがおにぎりにしてあげる! それなら帰ってからでも食べられるでしょ?」
「それは良いな。お願いするよルミちゃん」
ここの米は温かいうちはもちろん、冷めてからが美味いのだ。
おにぎりや寿司、巻物にするには最高だ。
俺がそう熱弁すると──
「……それは楽しみだねぇ。やっぱりお米はこの国の宝だよ」
クラさんはそう言って微笑んだ。
それは彼女の本心なのだろう、いかに米を愛しているのかがその声色から伝わって来た。
(お礼には、一応なったのかな……?)
おにぎりを握るルミちゃんを見つめるクラさん。
それと、そんな彼女を見るツキシロさんの優し気な表情が──俺の瞳の奥に記憶された。
…………
……
「それじゃ、あたいたちは行くよ」
「……馳走になった」
「あっ……」
どうしてだろう、出会ってたった数時間でしかないのに。
こんなに離れがたいのは。
彼女たちの役目を考えれば、俺なんかがその貴重な時間を奪う事は許されないはずなのに。
「どうしたんだい?」
「あ、そうだった。少ないが、この米を持って行ってくれ」
俺は袋に入れた5キロほどの玄米を差し出し──。
「良いのかい? ここじゃ食料は貴重なはずだよ」
「いいのさ。貴方みたいな人に食べられるなら米も喜ぶってもんだ」
──そう言って、手渡した。
(俺に出来る事なんて、この程度だ。これが、俺の精一杯……)
命の対価としてはあまりにも
「そうかい。それじゃ有難くいただくとするよ、ふふっ」
だというのにクラさんは、俺の申し訳なさを吹き飛ばすように艶やかに笑った。
それは今まで見て来た何者よりも美しく、尊く、そして慈愛に満ちた笑顔であった。
「そろそろ時間だ」
「じゃあね。あんたのご飯、美味しかったよ」
名残惜しい、そんな気持ちを表に出すわけにはいかない。
だから俺は無理矢理に笑顔を作って答える。
「あぁ、本当にありがとう。……君たちの事は一生忘れない」
セラフ部隊側としては、忘れてもらった方が良いんだろうが──忘れられるわけがない。
そんな思いを込めて、身をひるがえし去って行く二人を見つめた。
その時、小さく囁く独り言の様な声が──
「──ふっ、このお米があれば……あたいの夢も叶うかもね」
「え?」
──聞こえた気がした。
しかし、もう彼女たちは振り返らない。
大事そうに米袋を胸の前で抱えたセラフ部隊員と、背筋を伸ばし堂々と歩くセラフ部隊員。
それを見送る俺は、もうただの一般人であり彼女たちと関わる理由は無くなった。
この時──俺たちの繋がりは断たれたのだ。
(ありがとう。クラさん、ツキシロさん)
感謝と共に、よくわからない感情が俺の胸に渦巻くのを感じた。
しかしそれはもはや余分なこと。
俺には、贅沢な感情だ。
だというのに。
背を向けて歩き去って行く二人のセラフ部隊員を見ながら──俺の頬を暖かい物が流れ落ちて行った。
◇
あれから数か月が過ぎ、季節は春。
俺は相変わらず水源確保屋を続け、ドームで穏やかな生活を送っていた。
ただし、今日は少しだけ夜明け前に用事がある。
「んんん、はぁぁ……! 朝はまだ少し寒いな……」
本業の日でもないのに早起きをした俺は、家を出て農園の方へ向かう。
まだあまり活動している人間の居ない、雑多で静謐な道を一人で歩み──たどり着いた。
「綺麗に植え終わったな」
「水源確保屋じゃないか。どうしたんだ?」
「農園長。いや、ちょっと見に来ただけさ」
俺が見に来たのは、綺麗に苗が植えられ水が張られた水田だった。
今年から俺は米作りを手伝う事にしており、時折こうして田んぼを見に来るようになったのだ。
「豊作になると良いな」
「そうだね。そうなればみんなお腹いっぱい食べられる」
農園長はそう言って笑う。
こんな宇宙から来た怪物に侵略された世界でも、腹は減るし生きるために食わねばならない。
そしてそれを続ける事で子供たちが育ち、未来へと繋がる希望へと変わるのだ。
「こっちの田んぼは?」
「あぁ、それね。粒の大きな稲を掛け合わせた新品種を試験中なんだ」
俺は水田の一角で少数植えられた苗に目が行って、尋ねたのだ。
(新品種か……ちょっと楽しみだな)
よりたくさん実り、美味しくなれば喜ばしい事だ。
そう思って田んぼを見ていると、農園長が何の気なしに呟いた。
「何か名前でも付けてやろうかって思っているんだけど……」
なかなか思いつかないようだ。
今の品種から少し名前を変えるだけだと、それはそれで紛らわしいのだと。
「だったら──」
俺は遥か遠くの地平線から登って来た朝日を見つめながら──思い出す。
夜明けを告げる光と、吹き抜ける風。
それを受けるのは、ただ一人の女性の長く美しい髪だ。
朝日と風を受けた髪が、まるで黄金の稲穂の海のようにそよぐ光景──それはあまりにも神秘的であった。
──思い出す。
あの人の声、表情、細かなしぐさ。
忘れやしない。一生忘れるわけがない。
あの昏い森を照らし出す、神々しい姿を。
「あけのくら、なんてどうです?」
俺は昇る朝日を見ながら、そう言った。
「明けの……あぁ、なるほど」
俺の目線を辿って朝日を見た農園長が得心いったとばかりに頷いた。
「それは良い名前だね。明るい未来にしていこうって気になる」
うんうんと気に入った様子で満足げな様子の彼に、俺はもう一言添える。
「これは豊穣の女神をイメージしたんです」
「へぇ? 私にはあまりピンと来ないけど……」
それはそうだろう。
だってそれを見たことのある人間は、この世界でたった一人なのだから。
「きっと豊作に恵まれます」
「そうだね。じゃあ、この米の名前は『あけのくら』だ」
──こうして、習志野ドームに新たな米の品種が誕生した。
『あけのくら』
後年、この米は従来の物よりも大粒で味が良く、かつ大変実りの良い最高の米と言われるようになる。
そんな事を知らない俺であったが、ある思いが胸を支配する──願わくばこの米が、彼女の元に届けば良いなと。
(あぁ、また思い出してしまう。彼女の……姿を)
あの凛々しくキャンサーに立ち向かう姿を。
炊き立ての米を頬張る姿を。
そして、将来叶えたい願いがあると言った声を。
そのどれもが色鮮やかで鮮烈な記憶だ。
もう二度と会うことは無いのかもしれない。
彼女が軍を辞めて、ここで生活をすることなど、想像もできない。
だから、俺は願う。
彼女が幸せでいられますようにと。
ずっと笑顔で過ごせますようにと。
そう願いながら、俺は気持ちの良い風にそよぐ若々しい苗たちを、いつまでも見守るのであった。