逃げるなサイレンススズカ   作:帝都造営

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秋の果て

 

 

 日本一のウマ娘になる――――とても大きくて、素敵な夢。

 

「私は、全力だったよ。スペちゃん」

 

 京都大賞典。G2だからと気を抜いていた訳じゃない。

 調子は万全の筈だった、作戦も完璧な筈だった。それなのに、全然駄目だった。

 

「スペちゃんは、全力じゃなかったの?」

「ちがうの、ツルちゃん。私……っ」

 

 何が間違っていたのだろう。積み上げたモノが間違っている気がしている。何処で間違えたかは、ホントのところでは分かっている。でも、どうしようもなくて。

 

「――――――――っ!」

 

 目が覚めた。

 目覚まし時計の鳴る五分前。

 

 ゆっくりと通り過ぎつつある夏が、少しだけ部屋を冷たくする。

 ああ、でも。比べようにないくらいに冷たい。心の奥が。

 

「どうしたらいいのかな、スズカさん」

 

 その問いに答えてくれる同室のウマ娘はいない。初めて出会った、私以外のウマ娘さん。素敵な走りをみせてくれたウマ娘さん。みんなの夢になった、ウマ娘さん。

 

 もしも彼女がまだここに居たら、きっと微笑んでくれるだろう。

 

 そして次の瞬間には、もう朝練に向かっていることだろう。

 

 ずっとそんな毎日が続くって、本気でそう思ってた。

 

「さみしいですよ。わたし」

 

 やっぱり寮長の言うとおり、新しい同室の子を受け入れた方が良かったのだろうか。きっと心配させてしまっている。無理に拒否したような気がするから、余計に。

 

 それでもいつかは、同室の子を受け入れないといけないのだろう。今度は私が先輩になる番だ。洗濯のルールや食堂の使い方を教えてあげて、一緒に朝練に行って、そんな日常に慣れて、昔みたいに……。

 

「……でも、やっぱり嫌だ」

 

 これまでの毎日を上塗りすることが、嫌だ。忘れてしまうのが嫌だ。

 朝昼晩という毎日、グルグル回る日常という名前の暴力で、あの人の名前が消えていってしまうのは嫌だ。絶対に嫌だ。

 

 引き出しを開ける。そこにはあの人が置いていった髪飾り。

 

「ズルいですよ。スズカさん。これじゃ私、忘れたくても忘れられない」

 

 まるで忘れないでと残された深い傷。不可視の爪痕がじくじくと痛む。

 この痛みがある限り、私はスズカさんのことを忘れない。

 

 

 でも、みんなはそうじゃない。

 

 

 サイレンススズカというウマ娘は、数字だけで見ればG1を一回勝っただけのウマ娘。強いウマ娘は何度でも勝つ。七冠馬のシンボリルドルフや、春秋グランプリを制覇したグラスちゃんのように。

 きっとそういうウマ娘だけがレース史に、みんなの記憶に残るのだろう。

 マグレ勝ち――――G1レースが開催されれば必ず一人はG1ウマ娘が生まれる。当日の天気や、出走ウマ娘の層の薄さ、そういう時代の揺らぎが、本来G1級でなかったウマ娘に勝利をもたらすことは、ありえない訳ではない。

 

 

「だけど、マグレだなんて言わせない」

 

 

 だってスズカさんは、サイレンススズカはとてつもなく速かったのだから。

 みんなに夢を見せてしまうくらい、速かったのだから。

 

 

「トレーナーさん」

 

 扉を開ける。勢いよく。

 書類から顔を上げた彼は、驚いた様子も見せない。

 

「僕のせいだな。スペ」

 

 きっと彼は、こうなることを知っていた。

 だから多分、足りなかったのは私の覚悟。

 首を振る必要なんてない。

 彼の優しさを否定するには、たったひとつの行動だけでいい。

 

「いいえ。わたしたちのせいです」

 

 躊躇いを打ち消すように足音を立てる。蹄鉄付きシューズのように床を踏みならして、乱暴にデスクの前に迫る。倒されたひとつの写真立てを、起こす。

 

 

「私たちの望んだ、景色です」

 

 

 そこに写されたのは――――私と。あと2人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……およ?」

 

 幸か不幸か。「それ」に最初に気づいたのはセイウンスカイだった。

 三冠を分け合ったスペシャルウィークはセイウンスカイにとって警戒してもし足りない存在だったのだから、それは必然ともいえただろう。

 

「やっほ~スペちゃん。今日は気合い入ってるみたいだね」

 

 鎌掛けも兼ねたご挨拶。グラスワンダーならともかく、スペシャルウィークであれば変化球なしの返事が返ってくる。

 

「あ……スカイ()()。よろしくね」

 

 はずだった。

 

「……――――がーん! セイちゃんもしかして嫌われちゃった~?」

 

 黄色信号が点る。今のスペシャルウィークは何かがおかしい。なんとなくの勘だったそれが、確信へと変わっていく。

 

「あ、ううん! そんなことないよ、セイちゃん、ごめんね?」

 

 取り繕うあたりが余計に怪しい。むむむとセイウンスカイはおどけてみせる。

 もちろん心当たりは、ある。突いてみますかと、彼女は小さな賭けに出た。

 

「もしかしてアレかな? 去年の先輩に想いを馳せてみたり?」

「……まさか。そんなことないよ」

 

 こりゃ後で怒られるな、とか。ちょっとフェアじゃない盤外戦術だな、とか。そういうことを考える反面で、黄色信号が赤信号に変わる感覚がある。

 もしもセイウンスカイの勘が正しければ。彼女は、スペシャルウィークは。

 

「言っとくけど」

 

 ゲートインが始まる。発バ機、出走ウマ娘を全て飲み込む巨大な金属製の機械にウマ娘たちが押し込まれていく。

 それを尻目に、セイウンスカイは釘を刺す。

 

「宝塚記念は、本業の逃げがいなかったからあのレース展開になったんだよ?」

 

 こちらに目もくれないウマ娘を、セイウンスカイは細目で睨む。

 

「逃げウマ娘の私から逃げられるなんて、思わないことだねぇ」

「ううん。私は逃げないよ」

「ほう?」

「だって私は」

 

 

 

 

 

 ――――――――サイレンススズカだから。

 

 

 

 

 

 

 †

 

 

 

 

「スペシャルウィーク、アイツやりやがった……ッ!」

 

 ゲートが開いた瞬間、悪態を吐かずにはいられなかった。バ群から抜け出すスペシャルウィーク。京都大賞典では見せなかった、大逃げ。

 

『スペシャルウィーク仕掛けた。ぐいぐい前に持って行く』

 

 それが意味するのは。スペシャルウィークの大逃げが意味するのは。

 

「いやぁホント、喜べばいいのやら、怒ればいいのやら……」

 

 マグマのように煮えたぎる声が聞こえる。真横に並んだ芦毛のウマ娘。

 皐月賞、菊花賞を制した逃げウマ、セイウンスカイ。

 

『控えた、一番人気セイウンスカイは仕掛けません。これは何かの作戦なのか』

 

 そんな彼女が逃げを封じる。もしくは封じられた。

 にも関わらず彼女は、笑っている。

 

「……楽しそうだな、セイウンスカイ」

「おや。お声がけ頂き恐縮ですステゴ先輩……イヤほんと、楽しいですよ~」

 

 なにせあの、憧れのサイレンススズカと走れるんですからね。

 

「てめえ……」

「おっとぉ、怒らないで下さいよ先輩? トゥインクル・シリーズの夢、我らが最速の機能美――サイレンススズカに挑みたいウマ娘は、いくらでもいるんですから」

 

 ああでも、いまセイちゃん。史上最大級におこなんですよねぇ。

 

「私は、スペちゃん……スペシャルウィークと戦いに来た。ダービーウマ娘、スペシャルウィークはどこ行った」

「フンッ。それで自分の強み(にげ)を棄てるなんて、スカイさんもまだまだね」

 

 横から割り込む声。スペシャルウィークの同期……キングヘイロー、だったか。

 

「私たちは私たちの道を征くしかないのよ。相手に併せて自分を変えるなんて、一流じゃないわ」

「いやぁ、王道に拘っている(しばられている)キングにはスペちゃんも言われたくないんじゃない?」

 

 セイウンスカイが茶化すが、キングヘイローは耳も貸さない。

 

「周りがどう走ろうと関係ない。このキングが、一流の何たるかを示してあげる」

 

 

 

 ――――――再生産。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 

 

 

 それはグラスワンダーが宝塚記念でやっている。己の走りを貫き、見事にスペシャルウィークを差し切った。3着に滑り込んだ俺すらも突き放す、見事な走りだった。

 

 けれど、それでもスペシャルウィークは大逃げを選んだ。

 

『2コーナーから向こう正面に入るところ。スペシャルウィーク先頭です。リードは10バ身くらいといったところ』

 

 中盤戦に入ろうという所で既にこの差。遠いはずのスタンドから聞こえる大歓声がいよいよ高まる。そりゃそうだ。10バ身、10バ身である。そうそうお目にかかれる大逃げではない。

 

『先頭スペシャルウィークひとり旅、先行集団も釣られて前に出るか。キングヘイロー前進、外からステイゴールド。セイウンスカイは中団に控えたまま』

 

 テンポが高まっていく。正確には、スペシャルウィークが息を入れたことで、相対的にテンポが上がったようにみえる。このままでは逃げ切られる。

 

「(いや……)」

 

 違うだろ。己の冷静な部分が語りかける。

 スペシャルウィークは破滅に向かって大逃げをかましている。放っておけば自滅する。最終直線まで脚を残すのがセオリーじゃないのか。

 

「待ちなさいっ! スペシャルウィークさんッ!」

 

 しかしキングヘイローは前に出ようと脚を回す。ぐんと前に進むが、差は縮まらない、縮まらない? そう、縮まっていない。

 縮まらないどころか、小さくなっていくスペシャルウィークの背中。

 

『1000メートルを通過、タイムは57秒と少しといったところ――――――』

 

 奴は息など入れていなかった。ハイペースなマイペースだ。

 この走りには――――覚えがある。歓声が激流に変わる。

 

『大逃げ、大逃げです! スペシャルウィーク10バ身差でキングヘイロー、追いますステイゴールド、メジロブライト6バ身ほど』

「あらぁ~。今日はわたくし、けっこう急いだつもりだったのですが……」

 

 今度真横に現れたのはメジロブライトだった。天皇賞の春秋制覇が掛かっている。

 

「宝塚記念でお勉強したのは正解でしたわ……私が知っているより、ずっとお早い」

「なに言ってんだ、どう考えても破滅逃げだろ。アレは」

「ではどうして。ステイゴールドさまもそこまでお急ぎに?」

 

 そんなの決まってる。

 

『圧倒的なリードで3コーナーに向かう! 止まりません大逃げです!』

 

 今のスペシャルウィークは、このまま走りきってしまう。そういう確信がある。

 スペシャルウィークは後ろを見ない。セーフティリードだとか、ペースだとか、レース展開を見ているようには思えない。なにかを()()ような――――

 

「……ッ!」

 

 

 なにかを、追う?

 

 

「クソっ! そういうことかよ!」

 

 脚に力を込める。まだ脚を使うほどではないが、一段階上の感覚で筋肉を回す。蹄鉄がターフを抉り、景色が加速する。負荷が脚に、肺に、のしかかる。

 

『キングヘイロー仕掛けた。キングヘイロー外からステイゴールド、あとはメジロブライト、ツルマルツヨシ後ろにセイウンスカイ、先頭まで15バ身くらいのところ』

 

 3コーナーを回る。東京レース場の象徴、大欅(オオケヤキ)を越える。残り600。

 スペシャルウィークは垂れてこない。だが差は確かに縮まっていく。アイツはもうおかしくなっている。自分の走りを見失ったヤツに、最終直線は戦えない。

 しかし、己の全てを()()()()()でも成し遂げなければならないと。そう考えているなら、話は別だ。

 

『さぁ直線に向いた。先頭スペシャルウィーク、追ってキングヘイロー』

 

 黒鹿毛の背中が迫る。

 

「お前は、なにを見ていやがる……ッ!」

 

 

 そして、その横顔が――――――――涙で濡れた笑顔が、みえる。

 

 

()()()()()っ……わたし……!」

 

 太陽のような笑みだった、滝のような泪だった。

 理性のたがを吹き飛ばして、残った激情の渦だけが脚を前に進めている。

 空が爆ぜる。

 雲が引きちぎれ、太陽が沈み、満点の星空が空をスタンドを芝を、包み込む。

 

「なっ……スペシャルウィークさん、アナタそれはッ!」

 

 キングヘイローの声が聞こえる。スペシャルウィークの同期である彼女の声を聞いて察した、これはアレか、スペシャルウィークの――――。

 

 空が落ちてくる、流星が降る。

 音のない大合唱、沈黙の一番星(サイレントスター)

 その憧れ(ほし)が、栗毛のウマ娘に変わる。

 

「あなた()差します(なります)……よぉっッッッ!」

 

 夜明けが迫る。最終直線の果て、誰も居ない、たった1人の道(ヴィクトリーロード)

 

「させるか、スペシャルウィークぅぅぅぅぅぅッ!」

 

 大地が割れる。噴き出す水が太陽に襲いかかる。これは幻想だ、存在しない水だと踏ん張るが、舌の上にはねちっこい塩味が残る。

 

「スカイさん……あなたまでッ! くぅうッ……!」

『さらに外からセイウンスカイ、バ場の一番外、セイウンスカイがここで迫るッ!』

 

 文字通りの横紙破り。逃げウマ娘差し強襲。セイウンスカイが一気に真横に飛んでくる。耐えきれなかったキングヘイローはしかし、意地で食らいつく。

 

「バッカじゃないの! スペちゃん、わたしはさぁッ! 楽しみにしてたんだよアナタと戦うのをッ! スペちゃん!」

「そうだよ! わたしはヒドイこと、悪いことをしてるんだ! 分かってるよそんなことッ! でも、私は……! 証明しなくちゃならないんだぁあああッ!」

 

 そしてスペシャルウィークが、誰かを、差す。

 

「はぁああああああああ――――――ッ!」

『だがスペシャルウィークだっ、スペシャルウィーク先頭ッ! 坂を登るっ!』

「!」

 

 おい、いまなんつった。実況(おまえ)

 天皇賞秋の舞台、東京レース場。最終直線は緩やかな坂。

 だが、その台詞は、その走りは。どこまで行っても逃げてやるのは、アイツだけの――――サイレンススズカだけに与えられるべき、()()じゃないのかよ。

 

「させねぇ……このまま逃げ切りなんて、させてやるかッ!」

『夢だ、夢が走るッ、夢の続きが、スペシャルウィークが……! 外目を割ってステイゴールド、ステイゴールド!』

 

 脚を回す。笑いながら泣きながら走るスペシャルウィークのような誰かに並ぶ。

 

『スペシャルウィークッ! セイウンスカイは五番手集団、スペシャルウィーク、スペシャルウィークだっ! スペシャルウィークいまゴールインッ!』

 

 

 しかし、届かない。

 

 

『スペシャルウィークッ! 逃げ切った、スペシャルウィーク大逃げで大復活ッ!』

 

 スタンドが燃える。紙吹雪が舞う。下手くそなバーベキューの煙みたいに、チリチリと燃えて、燃え崩れて、燃え上がる。

 

 

 

『いちねんッ、一年遅れの天皇賞秋!』

 

 

 

 一年遅れの――――――――あぁ、そうか。

 

 

 

 サイレンススズカがいなくなってから、そんなに経ったのか。もう。

 

 

 

 

 

 

 †

 

 

 

 

 

 

「びっくりしたわ。急にLANEを送ってくるなんて」

「お前だって急に送ってきただろ」

 

 東京駅から新幹線、名古屋駅から私鉄。

 すっかり冬を迎えたその町は、もう暗がりに沈もうとしていた。

 

 国道沿いには郊外型の店舗が建ち並び、以前いった店の外には、順番待ちらしい人々が寄せ合うようにストーブで暖を取っている。

 

「ごめんなさい。あんまりにも急だったものだから、焼き肉屋さんは行列が出来ちゃってて……」

「別にいい、肉を食いに来たわけじゃねぇからな」

 

 少し歩くぞと、焼き肉屋を通り過ぎて国道を進む。アイツは後ろから、なにも言わずについてくる。

 

「俺がなんの話をしに来たか、分かってるんだろ」

「いいえ。分からないわ」

「面白くもない冗談だな」

 

 もし分からないフリをしているなら、それは悪辣を通り越して暴虐だろう。

 

「スペシャルウィークのことだ」

「ああ、スペちゃんの……頑張ってるわよね、彼女」

「お前、それ本気で言ってんのか?」

 

 声を荒げなかった自分を褒めたい。

 いや、そう答えるだろうという予想があったからこそ、声を荒げずに済んでいる。

 

 そもそも天皇賞以来、いや宝塚記念からずっと怒っているのだから、いまさら怒鳴り散らす気にもならない。

 

「アイツが今、なんて呼ばれてるか知ってんだろ」

「ええ、夢の続きですってね。すごいわ、スペちゃんは」

 

 それは本心か、はたまた現実逃避の賜物か。

 

「誰の夢の続きかって、お前は知ってんのかよ」

 

 誰も口には出さないから、その「夢」には所有格がない。誰の夢なのか、皆なんとか誤魔化そうとしている。

 そして誤魔化しきれない当事者は、口を噤む。

 

「URAはこの流れをむしろ歓迎してる。アイツらは興行収入のことしか考えないから、夢とか希望とか、そういう話が大好きなんだ」

 

 宝塚記念で散々利用したのだ。天皇賞も許されるに決まっている。黄金世代と夢の物語は、いまやクラシック期のウマ娘たちの話題を歯牙にもかけないほどの人気と熱気で溢れている。その歪さを、URAはよしとする。アレはそういう組織だ。

 

 そして、歯止めのなくなったトィンクル・シリーズは夢まみれになっていく。

 

「で。そうやって利用されているお前はいいのかよ、それで」

 

 やろうと思えば版権使用料だって取れるんじゃねえのかと、乗って来なさそうな挑発もしてみる。もちろん反応は薄い。まるで私には関係ないと言わんばかり。

 

「ダシにされてんだぞ、今のお前は」

 

 最初は、スペシャルウィークも夢の続きを求めていた。けれど夢はあっという間に彼女を飲み込んでしまった。彼女の走りを、ゴールを変えてしまうほどに。

 

「でも今のスペちゃんは、とても速いわ。だから、いいんじゃないかしら」

「アイツがどれだけ苦しんでるか知らねぇのかッ!」

 

 勝利や出走に拘るうちに、自分の走りを見失う奴はいないわけじゃない。焼き肉に例えるなら、そう。焦げてしまった肉。夢に憧れた。そうして焦がれた。

 

「天皇賞を見てたんだろ? アイツは『誰か』と走ってやがった」

 

 焦げて変質した肉は、もう二度と元には戻らない。そういうのはよくある話で、多くのウマ娘がそうして学園を去って行く。

 だがスペシャルウィークはまだ、焦げていない。彼女の本質は変わっていない。

 彼女が再現したのは「差して逃げる」だ。本当の意味での「逃げながら差す」ではない。あいつはまだ戻れる――――だが。

 

「アイツの眼には、もう他の誰も映っちゃいねえ」

 

 大ケヤキを超えた最終コーナー。スペシャルウィークは誰かを捕まえた。そうして彼女は流星になった。一人旅であんな走りは出来ないだろう。誰かと競り合わなければ、あの輝きは生まれない。

 逃げて差したのではない、逃げを差したのだ。

 

「そうね。すごいわ、きっと私より」

「悔しくないのかよ」

 

 カメがゴールにたどり着いたと知ったとき、ウサギは大層悔しがったという。

 レースに負けたのだから悔しがるのは当たり前で、悔しがるべきなので。

 

「どうして? むしろ嬉しいわ。スペちゃんは言っていたもの、日本一のウマ娘になるって……今のスペちゃんは日本最強、日本一だと思わない?」

 

 しかし、もしもウサギが別のゴールにたどり着いていたのなら?

 

 既にウサギはゴールしているのだから、レースに負けたということにはならないだろう。だから悔しがるわけがないのだ。

 むしろゴールにまで辿り着いたカメを見たら無邪気に喜ぶかもしれない。コイツのように。

 

「勝手なこと言うな。お前にスペシャルウィークの気持ちが分かるのかよ」

「分からないわ」

 

 他人だもの。

 即答だった。

 

「ああ、そうだろうよ。それでこそサイレンススズカだ」

 

 そもそも、宝塚記念の前に俺を呼び出した理由からしてそうだ。

 お前、最初から分かってたんだろ? スペシャルウィークがどうなるか。

 

「お前は、逃げて勝手に夢を終わらせた」

「そうね」

「スペシャルウィークは、お前の粉々にした夢をかき集めて、必死に夢の続きを見ようとした……誰のためか分かるか? アイツが誰のために、自分の脚をなげうってまで夢の続きを見ようとしたのか!」

 

 答えはない。それで十分だ。

 

「逃げた先に、お前の夢はあったのかよ。サイレンススズカ」

 

 これだけの対価を払うだけの価値があるのかよ。

 

「ねえ、知ってる? ステイゴールド。私、走るのが好きなの」

「知ってるよ」

 

 というか、それを知らない奴はいないだろ。

 

「走るのが好きで、気付いたらレースを走ってたわ……気持ちいいのよね、誰も居ない先頭を走るのが。それに、みんなと走ると速く走れる気がして」

 

 競り合えば速くなる、負けたくない気持ちが限界を超えさせる。

 だから走るのが好きなウマ娘は、みんなレースの世界にやってくる。

 

「クラシック期のこと、覚えてる? 酷かったでしょう、私の走り」

 

 否定はしない。もっとも、あの頃は俺の方も相当酷かったが。

 

「こわかったの。走れなくなるのが」

 

 風が止む。サイレンススズカが、じっとこちらを見つめている。

 

「逃げは王道の走りじゃないって聞いたわ。勝てるかどうか分からないし、身体にかかる負担も並大抵じゃない。逃げでダービーを獲った子は、みんな脚が壊れたって」

 

 俺たちのクラシック三冠路線、勝ったのは逃げウマ。フロックと呼ばれた皐月賞バ――――周りを見返して、そのままターフを去った彼女。

 

「私は、走るのが好き。ずっと走っていたい、なにがあっても、ずっと、ずっと」

「だが、お前は逃げ以外じゃ先頭を取れなかった」

 

 俺の言葉に、アイツは首肯。やはりウサギは悔しがったのだ。レースには1着しか存在しない。1着以外に価値はない。

 

「レースがつまらないのはいいの。でも走ることがつまらなくなるのは、イヤ」

「その台詞、URAだけには聞かせられねぇな」

 

 そうかもね、と笑うサイレンススズカ。

 本当に、どうしてそんなに面白そうに笑うんだよ。お前は。

 

「けど、お前は逃げで宝塚記念を勝ったじゃねぇか。G1を獲っても、お前の脚は壊れなかった」

「そんなの偶然よ」

「毎日王冠でのお前は圧倒的だっただろ、それで脚が壊れたか?」

 

 壊れていない。壊れていないからこそ、彼女はここにいる。

 

「でも、全力を出してしまったわ」

 

 それが普通だろう。全力を出さなければ、レースで1着を獲ることは叶わない。

 

「トレーナーさんは言ってくれたの」

 

 苦しんで走っちゃいけない。レースは楽しく走らなきゃって。

 

「お前、まさか」

「ええ、そうよ。私は、走るのが好きなの」

 

 でも、負けたくない。

 負けたくない、たった6文字の言葉が、彼女のゴールを変えてしまった。

 

「走れなくなるのはイヤ、でも逃げてたらきっと、いつか私は壊れてしまう……いやよ、走れなくなって、窮屈な場所に閉じ込められて一生暮らすなんて、イヤ」

 

 でも負けるのは、もっとイヤなのだと。彼女は言う。

 

「ふざけんな、そんな身勝手で、お前は全部を滅茶苦茶にしたのかよ」

 

 負けない方法は簡単だ。レースに出なければいい。

 

「お前が天皇賞秋でどれだけ期待されているのか知ってたんだろ? その次は海外遠征だって言ってたじゃねぇか。それはどうしたんだよ」

「別に、私は外国に行きたいわけじゃないわ」

「そうかもしれねぇけど!」

「私は先頭の景色がみたいだけで、一番人気になりたいわけじゃないの」

 

 クソ、こいつになにを言えば届くんだ。

 そもそも届いたところでコイツは俺たちを見るのか? 例に漏れず自分のことが一番大事で、周りを気に留めもしないG1ウマ娘が、そこら辺の芝と同じ俺たちに目をくれるのか?

 

「でも、ありがとう。叱ってくれて」

「は?」

「身勝手なのは、私だって分かっているから」

「お前……ッ!」

 

 

 俺がなんで掴みかかったのか。お前には分からないんだろうな。

 

 

 お前が()()()()()俺は怒ってるんだ。

 目をくれるんじゃねぇ、G1ウマ娘ってのは、傲慢なんだ。傲慢であるべきなんだ。それが唯一、踏み潰した奴らに胸を張らせてやる方法だから。気にも掛けずに踏み潰すのが、誰も傷つかない方法なのだから。

 それを、まるでただの一般人みたいに、謝るんじゃねえ。

 

「……少しは、怯えた顔をしてみろよ」

「怖くないわ。あなたは優しいから」

「黙れ」

「いいえ。だからお願いね、スペちゃんを止めてあげて」

 

 ただの一般人みたいに、他人を思いやるんじゃねぇ。

 踏み潰せよ。滅茶苦茶にしてくれよ。お前らG1ウマ娘に情けを掛けられた俺たちは、どんな顔をしてその情けを受け取ればいいんだよ。

 

 ふざけんな、ふざけんなよ。

 

「それは違うわ。本当に偶然だったのよ」

 

 G1の称号を、そんな無下にするんじゃねぇ。

 

「私が勝てたのは偶然なの」

「じゃあ夢はどうなる! お前の走りに、みんな夢をみたんだぞ!」

「私の走りに……そうね、それには。とても感謝しているわ」

「ならッ!」

「でも別に、誰でもよかったのよ。夢を見れるなら、誰でも」

 

 現にいま、トィンクル・シリーズは夢を見続けている。

 サイレンススズカがターフを去っても、今なお。

 

 

 

 

「わたしはもう、そこにはいないのにね」

 

 

 

 

 そして、スペシャルウィークはジャパンカップを制覇する。

 脚質は大逃げ。

 

 夢は、もう誰にも止められない。

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