陰謀論おじさん「ゴジラなんて本当にいるわけねえしwww」   作:よよよーよ・だーだだ

3 / 4
逃亡先にて

「ほら、やっぱりね。このデータの開示請求、また却下された」

 

 イオリはノートパソコンの画面を私に向けて、まるで勲章でも見せるように誇らしげに言った。居間のテーブルに散らばった資料の海の中で、彼女の細い指が画面上の文字を何度もタップする。

 

「政府は都合の悪い真実を隠しているんだ。ゴジラの行動パターンと地殻変動の相関性、プラズマ反応の詳細なログ……全部、意図的に伏せられている。これが何よりの証拠だよ」

 

 私はコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。苦い。砂糖を入れ忘れたのは私だが、このタイミングで席を立つと彼女の話を遮ることになる。

 私は答えた。

 

「それとも、そもそもデータを取っていないのかもしれないね。予算削減で観測体制が縮小されているって、この前ニュースで——」

「リン、あなたまでそんなこと言うの?」

 

 イオリは驚いたように目を見開いた。

 

「それこそ政府の言い訳だよ。本当は取ってるんだ。取っているけど、公開すると困る。なぜなら、私の仮説を裏付けてしまうから」

 

 イオリの目は真剣そのものだった。嘘をついているわけではない。心の底からそう信じている。それが問題なのだ。

 

「……ねえリン、聞いてる?」

「聞いてるよ」

 

 私は微笑んだ。

 

「で、今日の記事は書けたの?」

 

 とたん、イオリの表情が曇る。

 

「まだ……ラフはできてるんだけど、決定的な資料が足りなくて」

 

 ……また、か。いつものパターンだ。

 イオリは毎週のようにブログを更新し、独立系ジャーナリストとしてゴジラ関連の記事を発表している。

 閲覧数は決して多くない。熱心な支持者——といっても、大半は彼女と同じような陰謀論者だが——が百人ほどいて、その人たちが「いいね」を押してくれる。それで彼女は満足している。

 いや、満足している()()をしている。

 

「……ねえ、イオリ」

 

 私は言った。

 

「Gフォースの新型兵器の件、あれについて書いたら? 公開されている情報だけでも、けっこう興味深い分析ができると思うけど」

「ふん、あんなもの」

 

 彼女は不快そうに鼻を鳴らした。

 

「人間の傲慢の象徴だよ。ゴジラを『対処すべき脅威』として扱っている時点で、根本的に間違っている。私たちが今考えるべきはどう戦うかじゃない、どう共存するかだよ」

 

 ……正しい。彼女の言うことは、ある意味で正しい。でも、正しいだけでは人は動かない。特に、命がかかっている時には。

 イオリはまた画面に向かい、キーボードを叩き始めた。彼女の横顔を見つめながら、私は思う。

 私は、この人を愛している。その頑固さも、融通の利かなさも、時に子供じみた理想主義も含めて。

 でも同時に、この人は愚かだとも思う。もっと賢く立ち回ればいいのに。もっと人の話を聞けばいいのに。もっとデータを集める努力をすればいいのに。いつもそう思う。

 

 でも、それができないのがこの人なのだ。

 そして、それを知りながら傍にいるのが私なのだった。

 

 

 10年前、私が一ノ瀬(いちのせ)イオリに初めて会ったのは、モナーク主催の国際タイタン研究学会の東京大会でだった。

 秋の終わりの、乾いた空気。品川のホテルの大宴会場には、世界中から集まった研究者たちの熱気が満ちていた。学会発表を終えた人々が、ワイングラスを片手に談笑している。氷の溶けるカラカラという音、遠くで誰かが笑う声、スライドプロジェクターの機械音――それらが混ざり合って、学術的な祝祭の空気を作り出していた。

 

 私:篠田(しのだ)リンはとある大学の研究員として、怪獣の体液から採取された未知の生体物質の分析結果を発表したばかりだった。緊張で手が震えていたプレゼンテーションは、どうにか無事に終わった。何人かの研究者に名刺を渡して回りながら、ようやく肩の力が抜けていくのを感じていた。

 

「……すみません」

 

 背後から声をかけられて振り返る。そこに彼女がいた。

 黒縁の眼鏡をかけた、細身の女性。髪を後ろで一つに束ねている。年齢は私と同じくらい——二十代後半だろうか。シャツの袖を少し捲り上げていて、右手には学会プログラムを丸めたものを持っている。仕事に没頭する人特有の、どこか研ぎ澄まされた雰囲気があった。

 

「……篠田さんだよね。さっきの発表、とても興味深かった」

 

 その声は、落ち着いていて、でもどこか期待に満ちていた。目が、知的な好奇心で輝いている。

 

「ありがとうございます」

「モナークの生態学部門でゴジラの行動分析をしてるんだ。一ノ瀬イオリ」

 

 そう言って、彼女は名刺を差し出した。指先に、わずかにインクの染みがついている。フィールドノートに書き込む癖があるのだろう。そういう細部に、私は妙に心を惹かれた。

 イオリは言った。

 

「怪獣由来の生体物質が既存の化学構造と異なるっていう部分、もう少し詳しく聞かせてもらえないかな? もしかすると、私たちが観測しているゴジラの代謝パターンと関連があるかもしれない……」

 

 それから一時間、私たちは立ち話をした。

 会場の隅、窓際の静かな場所。外では東京の夜景が広がり、レインボーブリッジの明かりが湾を照らしていた。でも私たちは、ほとんど外を見なかった。互いの研究に夢中になっていた。

 イオリは頭の回転が速かった。私の説明に対して的確な質問を返し、自分のデータと照らし合わせ、新しい仮説を次々と口にする。興奮すると、少し早口になる。その姿が、どこか初々しかった。

 

「……面白いね。怪獣という存在は、私たちの科学の前提そのものを問い直させる。生物学の定義、生態系の概念、自然の法則……全部、再検討が必要なのかもしれないよね」

 

 その言葉には、畏怖と興奮が混ざっていた。未知なるものへの、純粋な憧憬。科学者が最も美しく見える瞬間だった。

 でも、と私は答えた。

 

「まだデータが少なすぎますよね。サンプル数も限られているし、再現性の確認も――」

「ああ、もちろんだよ」

 

 イオリは頷いた。

 

「だからこそ、もっと多角的な研究が必要なんだよ。生物学者だけじゃなく、化学者、物理学者、地質学者……皆で協力してね」

 

 その時の彼女は、科学者だった。慎重で、謙虚で、でも情熱的だった。

 データの不足を認め、仮説と事実を区別し、それでも前に進もうとする姿勢。それが、本来の一ノ瀬イオリだったのだ。

 

 

 

 三ヶ月後の冬、私たちは再会した。

 日本の巨大不明生物災害対策本部:巨災対が主催する研究会だった。会場は都内の大学の講堂で、暖房の効きすぎた室内には、コーヒーと紙の匂いが漂っていた。窓の外では、冷たい雨が降っている。

 このときのイオリは「ゴジラの移動パターンと地殻活動の相関性」について発表していた。スクリーンに映し出されるグラフ、データポイント、統計的有意性の検定結果。全てが丁寧に整理され、適切に処理されていた。そして結論には、必ず留保がついていた。

 

「……現段階では仮説に過ぎません。さらなる観測データの蓄積が必要です」

 

 発表でイオリはそう締めくくった。質疑応答では、批判的な質問にも冷静に答えていた。分からないことは「分からない」と認め、推測に過ぎない部分は「推測です」と明言した。

 その謙虚な姿勢が、私は好きだった。

 発表後、また話をした。そして、その日のうちに夕食に誘われた。

 

「研究の話、もっとしたくてさ」

 

 イオリは照れたように笑った。雨に濡れた髪を手で払いながら。

 

「でも学会だと時間が足りないでしょう?」

 

 私たちが入ったのは、大学近くの小さなイタリアンレストランだった。窓ガラスに雨粒が流れ、店内は温かく、少し薄暗かった。テーブルキャンドルの明かりが、二人の間で揺れている。

 そこで、私たちは夜遅くまで語り合った。

 怪獣のこと、研究のこと。そして次第に、話題は私的な領域に入っていった。彼女の子供時代、大学での専攻、モナークに就職した経緯。

 

「……ゴジラに初めて出会った時、」

 

 イオリは遠くを見る目で言った。グラスに注がれた赤ワインが、キャンドルの光を反射している。

 

「人生が変わったんだ。あれは生物というより、自然現象に近い。でも同時に明確な意志、心を持っている。この矛盾が私を魅了するんだよね」

 

 イオリの目には、あの時と同じ光があった。未知なるものへの憧憬。でも今回は、もっと個人的な何かが混じっていた。まるで、恋をしている人のような。

 ゴジラという存在に、イオリは恋をしていたのかもしれない。

 私は、その情熱に引き込まれていった。

 気がつけば、週に一度は会うようになっていた。研究会の後のカフェ、週末の美術館、時には彼女のアパートで論文を読みながら。話題は尽きることがなかった。

 一年後、私たちは一緒に暮らし始めた。

 

 

 墨田区の、古いマンションの一室。二DKで、北向きのベランダからはスカイツリーが見えた。家賃は二人で出せば何とかなる程度。部屋は狭かったが、それでも私たちには十分だった。

 あの頃は、幸せだった。

 朝、二人で食卓を囲む。イオリは必ずコーヒーを二杯飲む。一杯目はブラック、二杯目には少しミルクを入れる。その習慣を知っていることが、何故か嬉しかった。

 

「今日はサンプルの分析があるんだ」

 

 イオリは言う、トーストにジャムを塗りながら。

 

「去年のゴジラ出現時の海水サンプル。何か面白いデータが出るといいんだけど」

「うまくいくといいね」

「ありがと」

 

 イオリは微笑む。その笑顔は、まだ屈託がなかった。

 イオリはモナークで着実に実績を積み、私は大学で研究を続けた。週末には二人で論文を読み、互いの研究について議論し、時には映画を見に行った。

 ただ、平凡で、幸福な日々。

 それがいつまでも続くと、あの時は信じていた。

 でも、変化は少しずつ、気づかないうちに始まっていた。

 

 

 季節が変わり、また秋が来た。イオリと私が出会って三年目になる頃。

 

「……また却下された」

 

 私が仕事から帰ってくると、イオリがダイニングテーブルで頭を抱えていた。部屋の電気もつけずに、薄暗い中で座っている。窓の外では、夕暮れが東京の空をオレンジ色に染めていた。

 

「研究提案?」

 

 私は鞄を置いて、電気をつけた。蛍光灯の冷たい光が、部屋を照らす。イオリの前には、却下された提案書のコピーが広げられていた。赤いペンで、びっしりと上司のコメントが書き込まれている。

 

「うん、ゴジラの行動原理についての包括的調査」

 

 イオリの声に、苛立ちと疲労が滲んでいた。

 

「予算も人員も必要だけど、これができれば、ゴジラという存在の本質に迫れる。でも上司は『現実的じゃない』だってさ」

「どのくらいの規模?」

「五年計画で、チーム十人、年間予算三億円くらいかな」

「…………。」

 

 私は黙った。確かに、現実的とは言えない数字だった。ぺーぺーの若手研究員が提案する内容ではない。

 でもさ、とイオリは続けた。

 

「これくらいやらないと、本質は見えてこないんだよ。断片的なデータをいくら集めても、全体像は掴めない」

 

 イオリの指が、紙の上で神経質に動いている。時折見せる爪を噛む癖が、最近また出始めていた。

 

「もう少し、小規模な提案から始めたら?」

 

 私は慎重に提案した。

 

「実績を作って、それから規模を拡大していくっていうのは……」

「時間がないんだ」

 

 イオリの目には、焦燥が宿っていた。

 

「ゴジラは動いている。人類との関係も刻一刻と変化している。悠長なことは言ってられないよ」

 

 ……それからというもの、その言葉を、私は何度聞くことになっただろう。

 「時間がない」――それが彼女の口癖になっていった。

 

 

 冬が過ぎ、春が来て、また夏が来た。

 イオリの様子は、明らかに変わっていった。

 会議から帰ってくると、不機嫌そうに鞄を放り投げる。リビングのソファに倒れ込んで、天井を見つめている。その目は、何かを探しているようで、でも何も見ていないようだった。

 

「……誰も分かってくれない」

 

 イオリは呟く。独り言のように。

 夜遅くまで、一人でデータと向き合っている。ノートパソコンの青白い光が、暗い部屋で彼女の顔を照らしている。背中は丸まり、姿勢が悪くなっている。時々、大きなため息をつく。

 

「……イオリ、少し休んだら?」

「休んでる暇はないんだ」

 

 ようやく返ってきた声は、画面から目を離さないまま発せられた。

 

「私が気づいたこと、誰も理解しようとしない。でもこれは重要なんだよ」

「何に気づいたの?」

 

 私の恐る恐るの問いかけに、イオリは振り返った。

 その目には、今まで見たことのない光があった。確信――いや、それ以上の何か。まるで啓示を受けた預言者のような、危うい輝き。

 

「ゴジラは、大自然の化身なんだ」

 

 その言葉で、部屋の空気が一瞬で変わった気がした。何かが、決定的に変わってしまった瞬間。後から振り返れば、それが分岐点だったのだと分かる。

 それが、全ての始まりだった。

 

 

 秋が深まる頃、イオリは新しい仮説を提唱し始めていた。

 

“ゴジラは単なる巨大生物ではない。地球の生態系そのものの顕現である。自然の調和を守る存在であり、人類の傲慢を罰する審判者である。”

 

 彼女の部屋――今やそう呼ぶしかなかった。以前は「私たちの部屋」だったリビングは、完全にイオリの研究スペースになっていた――には、資料が山積みになっていた。論文、新聞記事、手書きのメモ。壁には、ゴジラの出現地点を記した世界地図が貼られ、赤い糸で様々な点が結ばれている。

 まるで、刑事ドラマの捜査本部のようだった。いや、実際には陰謀論者の部屋だった。

 部屋の隅に追いやられた小さなスペースで、私は彼女の作業を眺めながら訊ねた。

 

「……データは?」

「まだ完全には揃っていない。でも断片的な証拠は全て、この方向を示してるんだ」

 

 イオリは地図を指差した。指先が、不規則に震えている。睡眠不足なのだろう。目の下にクマができている。

 

「断片的な証拠だけでは――」

「リン」

 

 イオリは私の言葉を遮った。その声は、鋭かった。

 

「科学には、時に直感が必要なんだよ。全てのデータが揃うまで待っていたら、手遅れになってしまう」

 

 それは、科学者の言葉ではなかった。

 かつてのイオリが学会で学んでいたはずの方法論、慎重な検証、反証可能性の追求――それらは、どこに消えてしまったのだろう。

 

 

 

 その年の冬、モナークと私の大学で合同の会議があった。

 そこでイオリは自分の仮説を発表した。PowerPointのスライドには、断片的なデータと、大胆な結論が並んでいた。論理の飛躍を、修辞的な言葉で埋めている。

 会議室は静まり返っていた。

 でもそれは、感銘を受けた静寂ではなかった。戸惑いと、当惑の静寂だった。

 

「……興味深い視点ですが」

 

 一人の上級研究員が口を開いた。慎重な、でも批判的な口調で。

 

「裏付けとなるデータが不足しています」

 

 別の研究員が続けた。

 

「もう少し客観的な証拠を集めてから、再提案してください」

 

 年配の教授が、眼鏡の奥からイオリを見て言った。

 

「生態学的な分析としては、やや詩的に過ぎるのでは」

 

 イオリの表情が、硬くなっていくのが分かった。イオリは廊下で待っていた私に、会議の様子を後で話してくれた。その時の声は、怒りと屈辱で震えていた。

 

「彼らは理解しようとしない」

 

 その夜、私たちは久しぶりに一緒に食事をした。でも会話は弾まなかった。イオリは料理にほとんど手をつけず、グラスの水を睨んでいた。

 

「私の主張が、人間にとって都合が悪いからだよ」

「そうじゃないよ」

 

 私は言った。フォークを置いて、彼女を見た。

 

「ただ、もっと証拠が必要なだけ。イオリなら、ちゃんとデータを集めて――」

「データは隠されているんだ」

 

 イオリはそう言い切った。その声には、もう疑いがなかった。

 

「政府が、モナークが、都合の悪い情報を隠している。私がアクセスできないようにしてるんだよ」

「それは考えすぎじゃ――」

「考えすぎじゃない!!」

 

 イオリは声を荒げた。レストランの他の客が、こちらを見た。

 イオリは気にせず続けた。

 

「なぜ分かってくれないの? リンまで、彼らの側に立つの??」

 

 私は何も言えなかった。

 このときのイオリの目を見て、私は理解した。

 もう、言葉は届かない。理性的な議論は、意味をなさない。かつての一ノ瀬イオリは、どこか遠くへ行ってしまっていたのだと。

 

 

 雪の降る日だった。

 四年目の春――といっても、まだ三月で、東京には珍しく雪が積もっていた。窓の外は白く、音が吸収されて、世界が静かだった。

 

「Gフォースの新兵器開発に、モナークのデータが使われてるんだ」

 

 イオリは雪を見つめながら言った。その背中は、小さく見えた。

 

「これは間違っている。ゴジラと戦うなんて、愚かの極みだよ」

「でも」

 

 私は毛布にくるまりながら言った。部屋は寒かった。暖房費を節約するため、設定温度を下げていた。

 

「実際にゴジラは都市を破壊してるじゃないの。防衛手段を考えるのは当然では……」

「だけどこれじゃあ防衛じゃない、挑発だよ!」

 

 イオリは振り返った。その顔は蒼白で、眼鏡の奥の目は落ち窪んでいた。

 

「人間が自然の調和を乱しているから、ゴジラは怒っているんだよ。武器で対抗するんじゃなく、行動を改めるべきなんだ」

「でも、それを証明するデータは?」

「またデータの話か。データがなければ、真実は真実じゃないって言うの?」

 

 その日の会議で、イオリは上司と決定的な衝突を起こしたらしい。

 詳細は教えてくれなかった。後で人づてに聞いた話では、イオリは上司に向かって「モナークは人類の傲慢の手先に成り下がった」と言い放ったらしい。公開の会議で、大声で。

 組織で働く人間として、それは致命的だった。

 

「……謝罪すれば済む話だよ」

 

 私は何度も説得した。でもイオリは頑なだった。

 

「謝罪なんかしない。私は間違ったことは言っていない。間違っているのはあいつらだし」

 

 一ヶ月後、桜が咲き始める頃。

 イオリは「依願退職」という形でモナークを去った。

 

 

 辞表を出した日、彼女はまるで憑き物が落ちたように明るかった。

 久しぶりに見る、屈託のない笑顔。でもそれは、どこか虚ろだった。まるで、現実から逃避しているような。

 

「独立系ジャーナリストとして活動するんだ」

 

 イオリは宣言した。リビングの真ん中に立って、まるで演説をするように。

 

「これで、誰にも邪魔されずに真実を伝えられるよ」

 

 ……このとき私は、不安だった。

 でも、何も言わなかった。言葉にすれば、イオリを傷つけることになる。そして傷つけば、彼女はさらに頑なになる。それは、もう何度も経験していた。

 だから、ただ微笑んで頷いた。

 

「……うん。頑張ってね」

 

 その笑顔を作るのに、どれだけのエネルギーが必要だったか、イオリは知らないだろう。

 初夏の朝、イオリはブログを開設した。

 

「大怪獣の真実」――そういうタイトルだった。

 

 「ゴジラの真実」「隠された自然の調和」「人類が犯した過ち」――記事のタイトルは勇ましかった。

 でも内容は、モナークで却下されたものと本質的に変わらなかった。

 証拠のない主張。仮定の上に立てられた理論。そして、次第に色濃くなる陰謀論の影。

 最初の半年、閲覧数は一桁だった。

 時々、イオリはアクセス解析の画面を見せてくれた。「今日は7人が読んでくれた」「昨日は3人だった」――その声には、必死さが滲んでいた。

 

「まだ認知度が低いだけだよ」

 

 イオリはそう言っていた。だけどなんだか自分に言い聞かせるようだった。

 

「続けていれば、分かってくれる人が現れる」

 

 夜、イオリが眠った後、私はこっそり彼女のブログを読んだ。ノートパソコンの冷たい光を浴びながら、一つ一つの記事を。

 そこに書かれているのは、もはや科学ではなかった。信念だった。いや、信仰だった。

 データではなく、確信。検証ではなく、断言。そして至る所に散りばめられた「隠蔽」「真実」という言葉。

 私は画面を閉じて、暗い部屋で座っていた。

 隣の部屋から、イオリの寝息が聞こえてくる。規則正しい、穏やかな呼吸。眠っている時だけ、彼女は安らかだった。

 ……どうすればいいのだろう、と私は思ったけれど答えは出なかった。

 

 

 秋が来て、少しずつ読者は増えた。

 でもそれは、イオリが期待していた層ではなかった。

 

「政府の陰謀を暴いてください!」

「マスコミは真実を報道しない!」

「目覚めよ、人類!」

 

 コメント欄には、そういう言葉が並んだ。絵文字と感嘆符に満ちた、熱狂的な、しかし内容の乏しいメッセージ。

 既存の権威を信じず、隠された真実があると信じる人たち。科学的な思考とは無縁の、感情と確信で動く人たち。

 そういう“陰謀論者”たちが、イオリの主な支持者になった。

 

「これは違う」

 

 最初、イオリは戸惑っていた。コメント欄を見つめながら、眉をひそめていた。

 

「私は陰謀論を語りたいんじゃない。科学的な真実を――」

 

 でも、科学的な真実を求める人は、彼女のブログを読まなかった。

 データのない主張を、科学とは呼ばない。それは、イオリ自身が一番よく知っていたはずなのに。

 次第に、変化が起きた。イオリは、読者に迎合するようになった。意識的にではなく、無意識のうちに。

 「政府の隠蔽」「都合の悪いデータ」——そういう言葉を多用するようになった。そうすると、反応が良かった。「いいね」が増え、コメントが増え、シェアされた。

 承認欲求。それは誰にでもある。でも、承認してくれるのが間違った人たちだった時、その承認は人を間違った方向へ導いていくのだ。

 

 

 冬、購読者数は百人を超えた。

 イオリは喜んでいた。でも、その喜びには影があった。

 なぜなら、収入はほとんどなかったから。広告収入は月に数千円。時々、支持者から寄付があるが、それも月に一、二万円程度。コンビニでアルバイトでもした方が、よほど稼げる金額だった。

 私の給料で、二人が暮らした。家賃、光熱費、食費、全て私が払った。イオリの収入は、あってないようなものだった。

 

「……ごめんね、リン」

 

 イオリは時々言った。夜、ベッドの中で。暗闇の中で、彼女の声だけが聞こえる。

 

「もう少ししたら、ちゃんと稼げるようになるから」

「気にしないで」

 

 私は答えた。暗闇の中で、天井を見つめながら。

 

「大事なのは、イオリが自分の信じることをできているかどうかだから」

 

 嘘だった。

 気になっていた。イオリが稼げないことではなく――それは、実はどうでもよかった――イオリが変わっていくことが。

 かつての聡明な科学者が、どんどん遠ざかっていく。

 代わりに現れたのは、頑なで、被害妄想的で、でも時々ひどく脆い人だった。

 それでも、私は傍にいた。

 

 

 独立系ジャーナリストとしての活動を始めてから二年目、状況はさらに悪化した。

 イオリの活動は零細化した。記事の更新頻度は落ち、内容も繰り返しが多くなった。新しいデータを集める手段がないから、同じ主張を別の言葉で言い換えるだけになった。

 購読者数は横ばい。百二十人前後を行ったり来たり。新しく購読する人と、飽きて去る人が、ちょうど釣り合っていた。

 まるで、底の抜けたバケツに水を注ぎ続けているようだった。

 そして、ある雨の夜。

 

「……ねえ、リン」

 

 窓の外では、雨が降っていた。梅雨の、終わりのない雨。部屋の中は湿気を含んで重く、カーテンが少し湿っている。

 

「私、間違ってるのかな」

 

 私は本から顔を上げた。

 イオリは、自分の手を見つめていた。その手は、かつてフィールドノートにメモを取り、試験管を扱い、データを分析していた手。今は、ただキーボードを叩くだけの手。

 

「何が?」

「全部だよ」

 

 イオリの声が震えていた。

 

「モナークを辞めたこと。ジャーナリストになったこと。こんな風に、誰も聞いていない警告を発し続けていること」

 

 私は本を閉じて、隣に座った。

 イオリの手を取った。冷たかった。いつも冷たかった。血の巡りが悪いのだろう。それとも、心が冷えているのだろうか。

 

「イオリが信じることをやってるんだから、間違ってないよ」

「でも何も変わらないんだ」

 

 イオリの声が、さらに震えた。

 

「思うんだ。世界は変わらないし、人々の意識も変わらない。Gフォースは兵器を作り続けているし、誰も大自然の調和なんて、ゴジラの意思なんて気にしていない。私は、ただ無駄なことをしているだけなんじゃないか、って」

 

 外では、雨が強くなっていた。窓を打つ音が、部屋に響く。

 思わず、私はイオリを抱きしめた。

 細い体が、小刻みに震えていた。まるで、壊れやすい器物を扱うように、そっと抱きしめた。

 

「……大丈夫」

 

 私は囁いた。何が大丈夫なのか、自分でも分からなかったけれど。

 

「イオリは、ちゃんと伝えてる。少なくとも、百人以上の人が読んでくれてる」

「百人の陰謀論者にね」

 

 イオリは自嘲的に笑った。涙声で、笑った。

 

「私が本当に届けたかったのは、そういう人たちじゃないのに」

 

 その夜、彼女は私の腕の中で泣いた。

 声を殺して、肩を震わせながら。

 私は何も言わず、ただ抱きしめ続けた。窓の外では雨が降り続け、世界はどこまでも冷たかった。

 ……でも、翌朝になると、また彼女はパソコンに向かっていた。

 いつものように、記事を書いていた。誰も求めていない警告を。まるで何事もなかったかのように。

 

 

 そして三年目の今。季節は再び巡り、秋が来た。最初に出会った季節と同じ。でも、全てが変わっていた。

 

「彼らは知ってるんだ。ゴジラが大自然の化身だって。でもそれを認めたら、今までの政策が全部間違いだったことになる。Gフォースへの莫大な予算、対ゴジラ兵器の開発、全部無駄だったって認めることになる。だから隠すんだよ」

 

 イオリは完全に陰謀論者のコミュニティに取り込まれていた。自覚はないだろう。彼女は今でも、自分は科学者だと思っている。真実を追求していると信じている。

 

「分かったんだ、リン。なぜ私の研究が妨害されるのか。真実が明るみに出ると、彼らにとって都合が悪いからだよ。ゴジラは敵じゃない、自然の守護者だって分かってしまう。そうなったら、Gフォースへの莫大な予算が正当化できなくなる」

「誰も私の警告を聞かない理由が分かったんだ。彼らは聞きたくないんじゃない、聞かせないようにされてるんだ。メディアも、学会も、政府の統制下にある。私の声は、届く前に遮断されて隠蔽されてるんだよ」

「でも私は真実を知ってる。そしてそれを伝え続ける。いつか人々は目覚めるんだ……」

 

 今のイオリの言葉は、もはや陰謀論者たちの言葉と区別がつかなくなっていた。「真実」「隠蔽」「目覚めよ」――同じようなフレーズ、思想の繰り返し。論理ではなく、感情。データではなく、確信。

 生活は、完全に私の収入に依存していた。家賃、光熱費、食費、通信費、全て私が払っていた。イオリのブログ収入は、月に一万円にも満たなかった。それすら、不定期だった。

 

「……ごめんね、リン」

 

 イオリは定期的に謝った。でもその謝罪には、もう重みがなかった。習慣的な言葉になっていた。

 

「負担かけてさ」

「いいよ」

 

 私は答えた。これも習慣的に。

 もう、何も感じなくなっていた。怒りも、失望も、悲しみも。ただ、諦念だけがあった。

 

 

 ……時々、思う。私はなぜ、まだここにいるのだろう、と。

 かつて出会った聡明で情熱的な科学者は、もういない。今、私の隣にいるのは、陰謀論にとらわれた零細ジャーナリストだ。

 生活費を稼ぐこともできず、現実から目を背け、誰も聞いていない警告を発し続ける人。

 

 でも、離れられない。

 彼女の横顔を見る時、時々、あの頃の光が一瞬だけ戻る。

 

 何かについて真剣に考えている時。新しい発見――彼女にとっての、という意味だが――に興奮している時。まれに、素直な笑顔を見せる時。

 その瞬間のために、私はここにいる。

 ……愚かだと、自分でも思う。

 共依存なのかもしれない。あるいは、サンクコストの誤謬なのかもしれない。ここまで何年も一緒にいたから、今さら離れられない、という。

 でも、これが私の選んだ道だ。一ノ瀬イオリという人を愛すると決めた時から、この道は始まっていたのかもしれない。

 

 窓の外で、東京の夜景が輝いている。

 何百万という人々が、それぞれの人生を生きている。それぞれの幸福と不幸を抱えて。それぞれの正しさを信じて。

 その中で、私たちは小さな部屋で、小さな生活を営んでいる。

 世界を変えようとして、何も変えられなかった人と。

 その人を見守ると決めて、ただ見守り続けている人と。

 イオリは警告を発し続け、私はその傍にいる。それ以外の選択肢を、もう私たちは持っていない。

 

 部屋の隅で、イオリがキーボードを叩く音が響く。

 その音が、私たちの日常だった。

 

 

 それは、突然始まった。

 独立系ジャーナリストとして活動を始めてから4年目の初夏、日本の雀路羅(じゃんじら)市で電磁波怪獣ムートーが出現した。

 

 最初の報道が流れたのは、深夜だった。緊急ニュース速報のチャイム音で目が覚めた。テレビをつけると、画面には信じられない光景が映っていた。

 巨大な繭のようなもの。そこから這い出してくる、異形の生物。

 ペルム紀の古代生物であるムートー。巨大な翼を持つ、寄生性の怪獣。電磁パルスを放ち、半径数キロメートルの電子機器を一瞬で無力化する。雀路羅市は瞬く間に暗闇に沈んだ。停電、通信途絶、交通機関の停止。

 画面に映る映像は、電磁パルスの影響を受けない旧式のフィルムカメラで撮影されたものだった。粗い画質の中で、ムートーは街を這い回っていた。

 

「リン、起きてる?」

 

 イオリが寝室から出てきた。彼女も、緊急速報で目を覚ましたようだった。髪は乱れ、パジャマ姿のまま、でも目は完全に覚めていた。

 

「これ、見てよ!」

 

 彼女はテレビ画面に釘付けになった。

 三日後、さらに悪いニュースが入った。

 もう一体のムートーが、ヤッカ山の処分場から出現した。つがいだった。雄と雌。そして彼らは、繁殖しようとしていた。

 テレビの解説者が顔面蒼白で言った。

 

〈もし卵を産んだら何百、何千というムートーが……〉

 

 その言葉に、日本中が凍りついた。

 雄のムートーはアメリカ海軍の艦艇を襲撃し、核弾頭を奪って運び去った。目的地はサンフランシスコ。そこで雌が待っている。核の放射線を餌にして、繁殖する――。

 アメリカ政府は、核兵器の使用を検討した。サンフランシスコごと、ムートーを焼き払う。そうしなければ、人類の未来はない……。

 

 

 その時、ゴジラが現れた。

 

 

 最初の目撃はオアフ島の沖合だった。

 海面が盛り上がり、巨大な背鰭が現れた。青い光を放つ、荘厳な背鰭。

 ゴジラは、ムートーたちを追っていた。

 オアフ島で、最初の交戦があった。ゴジラと雄のムートーの対決、その映像は断片的だった。電磁パルスの影響で、ほとんどのカメラが機能しなかった。それでも、わずかに残った映像には、信じられない光景が映っていた。

 海から立ち上がる、巨体。咆哮。波が逆巻き、空が震える。

 そして、放射熱線。青白い光が、夜を切り裂いた。

 でもムートーは逃げた。空を飛び、サンフランシスコへ向かった。ゴジラは、海を泳いでそれを追った。

 

「ねえ、見た、リン!?」

 

 イオリは興奮していた。リビングのテーブルには、すでに新聞記事とノートが広げられていた。

 

「ゴジラはムートーを追っている。なぜだと思う? ムートーは自然の調和を乱す存在だからだよ。寄生者だ。際限なく繁殖する。生態系のバランスを完全に破壊する。だからゴジラは止めようとしているんだ!」

 

 私は何も言わなかった。

 ムートーが「自然の調和を乱す」存在だという証拠はなかった。寄生虫だって自然の一員だ、調和を乱す存在とは限らない。それよりも単純に、ムートーがゴジラの獲物――核弾頭――を奪ったから追っている、という可能性の方が大きい。あるいは縄張り争いかもしれない。

 でも、それを指摘しても無駄だと分かっていた。

 

 

 サンフランシスコでの戦いは、全世界が固唾を呑んで見守った。

 夜、霧に包まれた街に、三体の巨獣が集結した。ゴジラ、そして二体のムートー。

 戦いは凄絶だった。

 ビルが倒壊し、橋が崩れ、地面が裂けた。ゴジラは圧倒的なパワーを持っていたが、二体を同時に相手にするのは困難だった。ムートーたちは連携し、ゴジラを翻弄した。

 人々は避難し、軍は撤退し、街は戦場になった。

 そして、核兵器のタイムリミットが刻々と迫っていた。もしゴジラが倒れれば、サンフランシスコは核の炎に包まれる。そうしなければ、ムートーの卵が孵化する――。

 

 だが、ゴジラは倒れなかった。

 

 夜明け前、ゴジラは雄のムートーをビルに叩きつけた。そして、その翼を引き裂いた。絶命する雄。

 怒り狂った雌が襲いかかる。しかしゴジラは、その顎を掴んだ。

 そして――。

 口を大きく開け、体内から溢れ出す青い光。必殺の放射熱線が、至近距離で雌のムートーの体内に注ぎ込まれた。

 雌のムートーは、内側から焼かれた。

 崩れ落ちる巨体。そして、静寂。戦いは、終わった。

 

 ゴジラは咆哮した。勝利の雄叫び。それは、サンフランシスコ中に響き渡った。

 

 ……そして、ゴジラは海へ帰っていった。倒れたビルの谷間を、ゆっくりと歩いて。人々は避難所から、その姿を見つめた。恐怖と、そして奇妙な安堵を感じながら。

 核兵器は、使われなかった。

 サンフランシスコは救われた。

 

 翌朝、世界中のニュースが同じ映像を流していた。

 ゴジラの雄叫び。崩れ落ちるムートー。そして、海へ帰る巨大な背中。

 イオリは一睡もせずに、記事を書いていた。

 

「……書いたよ、リン」

 

 朝日が部屋に差し込む頃、彼女は目を赤くしながら言った。

 

「ゴジラは地球の守護者だ――ムートー殲滅が証明した真実」

 

 記事の内容は、いつもの論調だった。ムートーは「寄生者」であり「侵略者」であり「自然の秩序の破壊者」だった。だからゴジラは戦った。地球を守るために。生態系のバランスを守るために。

 データは相変わらず不足していた。論理の飛躍も健在だった。

 

 でも、今回は違った。

 タイミングが、完璧だったのだ。

 

 ……人々は、説明を求めていた。なぜゴジラはムートーと戦ったのか。なぜ人類の都市で、人類を気にせず戦ったのに、結果的に人類を救ったのか。

 イオリの記事は、その答えを提供した。

 シンプルで、分かりやすく、希望に満ちた答えを。

 

「ゴジラは敵ではない。自然の守護者だ。そして私たちが自然の調和を守る限り、ゴジラは味方なんだ」

 

 記事は、SNSで拡散され始めた。

 最初は、いつもの支持者たちだった。百二十三人の陰謀論者たち。

 でも今回は、そこから広がった。一日で一万回。三日で十万回。一週間で百万回。イオリのブログは、突然世界中から注目された。

 

「これを見て、リン!」

 

 イオリは興奮で頬を紅潮させながら、アクセス解析の画面を見せてくれた。グラフが、垂直に立ち上がっていた。

 

「百二十三万アクセス! コメントが五千件以上! シェアが……数えきれないよ!!」

 

 イオリは笑っていた。久しぶりに見る、心からの笑顔だった。屈託のない、子供のような笑顔。

 私も、笑った。でも、その笑顔の奥に、何か冷たいものがあるのを自分でも感じていた。

 ……喜ぶべきなのだろう。四年間、誰にも相手にされなかった彼女がようやく認められたのだから。

 

 でも、何かが違う気がした。

 

 人々は、イオリの論理に納得したのだろうか。データの裏付けを求めたのだろうか。科学的な検証をしたのだろうか。

 違う。

 人々はただ希望が欲しかっただけだ。ゴジラという恐ろしい存在を、味方だと信じたかっただけだ。

 そしてイオリの記事は、その希望を与えた。真実かどうかは、関係なかったろう。

 

 

 メディアからの取材依頼が殺到した。

 テレビ局、新聞社、オンラインメディア。誰もが、一ノ瀬イオリという「ゴジラ研究の第一人者」に話を聞きたがった。

 ゴジラ研究の第一人者――しばらく前までは、モナークを追い出された元研究員に過ぎなかったのに。

 

「明日、テレビ出演なんだ」

 

 イオリは言った。鏡の前で、久しぶりにちゃんとした服を選びながら。

 

「全国ネットの朝の情報番組だよ。信じられる?」

 

 私は答えた。

 

「すごいね、イオリ」

 

 イオリは嬉しそうだった。でも、どこか落ち着かない様子でもあった。まるで、夢を見ているような、現実感のない表情。

 翌朝、私は大学を遅刻して、イオリのテレビ出演を見た。

 画面の中の彼女は、いつもより緊張しているように見えた。髪を整え、化粧をし、新しいブラウスを着ている。

 それでも、話し始めると、いつものイオリに戻った。

 

「……ゴジラは大自然の化身なんです」

 

 イオリは言った。スタジオの明るい照明の下で、カメラを見据えながら。

 

「人類が自然の調和を守る限り、ゴジラは私たちの味方なんです。ムートーとの戦いが、それを証明しました」

 

 司会者は頷きながら訊ねた。

 

「では、私たちは何をすべきなんでしょうか?」

「自然と共生することです」

 

 イオリは答えた。その声は、確信に満ちていた。

 

「環境を破壊せず、生態系を尊重し、地球の一部として生きる。それができれば、ゴジラは私たちを守ってくれるんです」

 

 画面の外から、拍手が起きた。スタジオの観客たちだ。

 私は、テレビを消した。部屋は静かだった。時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいた。

 イオリは、何も変わっていなかった。

 相変わらず、データはなかった。論理の飛躍も、そのままだった。

 変わったのは、聞く人の数だけだった。

 そして、人々が聞きたがる答えを、彼女は提供していた。

 

 

 その後も、ゴジラは戦い続けた。

 

 まず秋には、南極でキングギドラが目覚めた。三つの首を持つ黄金の龍。氷の下に封印されていた、太古の破壊者。その咆哮は嵐を呼び、口から放つ引力光線は都市を灰燼に帰した。

 さらにギドラは他の怪獣たちを目覚めさせた。世界中で眠っていたタイタンたちが、ギドラの呼びかけに応じて動き出した。メキシコでラドンが火山から飛び立ち、ベヒモスが、スキュラが、メトシェラが、世界各地で怪獣が復活を遂げた。人類文明は、崩壊の危機に瀕した。

 Gフォースは総力を挙げて戦ったが、歯が立たなかった。ギドラの引力光線の前に、戦闘機は紙飛行機のように墜落した。

 

 その時、再びゴジラが現れた。

 南極で、二体の怪獣王が激突した。

 

 ギドラは手ごわかった。三つの首が別々に動き、ゴジラを翻弄した。氷の大陸が砕け、海に沈む中、戦いは続いた。

 そして、ボストンの廃墟で、最後の戦いがあった。

 核兵器によって回復したゴジラが、燃え上がるような赤い姿で浮上した時、人々は息を呑んだ。モスラの命を受け継いだゴジラは、圧倒的な力でギドラを圧倒した。そして最後に、ギドラの三つの首を全て焼き尽くした。完全に消滅させた。

 

 世界中が、その光景を目撃した。

 

 ライブ配信された映像は、何十億回も再生された。ゴジラの咆哮が、勝利の雄叫びが、全世界に響き渡った。

 イオリの記事「ゴジラは地球の免疫システムである――ギドラとの戦いが証明した真実」は、ムートーの時以上にバズった。

 

「ギドラは地球外生命体だった」

 

 イオリはインタビューで語った。もう彼女は、カメラの前でも堂々としていた。

 

「この星のものじゃない。宇宙からの侵略者だ。だからゴジラは戦った。地球を守るために」

 

 視聴者は頷いた。コメント欄には「その通り!」「全てが繋がった」という言葉が溢れた。

 ……キングギドラが本当に地球外生命体だったのかどうか、確たる証拠はなかった。でも、もはや誰もそれを問題にしなかった。

 

 

 さらに冬、香港でメカゴジラが出現した。

 エイペックス社が秘密裏に建造した、対ゴジラ兵器。人類の科学技術の結晶。ギドラの残された頭骨を制御システムに組み込んだ、究極の戦闘兵器。

 しかし、メカゴジラは制御を失った。ギドラの意識が残っていたのだ。

 暴走したメカゴジラは、香港を破壊し始めた。ビルを薙ぎ払い、人々を踏み潰し、破壊の限りを尽くした。数時間で、何千人もの命が失われた。

 ゴジラは、それを止めに来た。

 でも、メカゴジラは強かった。プロトンスクリームキャノンがゴジラの体を焼き、ドリルアームがゴジラの肉を抉った。ゴジラは、劣勢に立たされた。

 

 その時、キングコングが現れた。

 

 髑髏島から連れてこられた、巨大な類人猿。人類とゴジラの仲介者。彼は、ゴジラと共にメカゴジラに立ち向かった。

 二体の共闘。それは奇妙な光景だった。

 そして最後に、コングがメカゴジラの総身を切り刻んで頭部を引っこ抜いた。

 メカゴジラは、倒壊した。

 イオリの記事「人類の傲慢への審判――メカゴジラ破壊が示すもの」は、さらにバズった。

 

「見たでしょう?」

 

 イオリはインタビューで言った。

 

「人類がゴジラに対抗しようとした結果です。自然の調和を無視し、力で支配しようとした傲慢への、審判なんです!」

 

 視聴者は頷いた。コメント欄には「目が覚めました」「人類は反省すべき」という言葉が溢れた。

 ……メカゴジラを作ったのは一企業であり、しかもその計画は秘密裏に進められていて、多くの人々は何も知らなかったという事実は、無視された。

 メカゴジラの失敗は、人類全体の罪として受け止められた。

 

 

 そして夏、今度はリオデジャネイロでスカーキングが出現した。

 巨大な類人猿型の怪獣。傷だらけの体に、赤い毛皮。咆哮し、胸を叩き、ビルを破壊する。

 そして、彼は一体の怪獣を従えていた。

 氷結怪獣シーモ。口から冷凍光線を吐き、周囲の気温を急激に下げる。リオの熱帯の気候が、一瞬で冬に変わった。

 二体の怪獣は、街を蹂躙した。

 その時、ゴジラが現れた。

 そして意外なことに、キングコングも現れた。リオデジャネイロで、彼らは再び共闘した。

 

 戦いは激しかった。スカーキングのパワーとシーモの冷凍光線は、強力だった。でも、ゴジラとコングの連携プレーが暴君スカーキングを倒した。

 夕暮れ時、二体の巨獣は海へ帰っていった。ゴジラは海を泳ぎ、コングは地下空洞にある住処への船に乗った。

 その背中を、人々は見送った。

 

「邪念だよ!」

 

 イオリの説明は、もはや疑問視されることなく受け入れられた。

 

「スカーキングは生態系のバランスを乱す存在、邪念を持っていたんです……」

 

 邪念? なにそれ。誰もが疑問に思うはずだが、誰一人指摘しなかった。

 データはなかった。検証もされていなかった。

 でも、誰も疑わなかった。

 なぜなら、それが人々の信じたい答えだったから。

 

 

 

 そして独立系ジャーナリストとして活動を始めてから、6年目の現在。

 イオリのブログの購読者数は、五百万を超えていた。

 書籍化された彼女の著作『ゴジラと自然の調和』は、ベストセラーになった。講演の依頼は週に何件も来た。テレビ出演は月に二、三回が当たり前になった。

 収入は、急激に増えた。

 

「……リン、新しいマンションに引っ越そうか」

 

 ある日の夕食時にイオリは言った。久しぶりに、二人でちゃんとした外食をした帰り道。

 

「もっと広くて、明るい場所。あなたも、もっと快適に過ごせるよ」

 

 私は答えた。

 

「今のままでいいよ」

「でも――」

「今のままで、十分」

 

 イオリは黙った。私の顔を見て、何かを理解したようだった。

 家に帰ると、彼女はまたパソコンに向かった。次の記事を書いて、講演の原稿を準備するために。

 私は窓辺に立って、東京の夜景を眺めた。

 

 変わったこと――イオリは有名になった。お金を稼げるようになった。人々に認められた。世界中の人々が、彼女の言葉を信じている。

 変わらなかったこと――イオリの主張には、まだデータがなかった。論理の飛躍も、そのままだった。科学的な検証は、一度もされていなかった。

 

 ……イオリは正しかったのだろうか?

 ゴジラがムートー、ギドラ、メカゴジラ、スカーキングといった人類の脅威を倒してくれたのは事実だ。

 でも、それは「自然の調和を守るため」だったのか?

 証明されていない。検証もされていない。

 ただ、人々がそう信じたかっただけだ。

 そして、信じる人が増えれば、それは「真実」になる。

 科学ではない。でも、社会学的な意味では、真実だった。

 

 イオリは今、世界中の人々に向けて、メッセージを発信している。

 かつて百二十三人の陰謀論者にしか読まれなかった言葉が、今は何百万人に届いている。

 でも、本質は何も変わっていない。

 

「ねえ、リン」

 

 その夜、ベッドに入ってから、イオリが訊いた。暗闇の中で、彼女の声だけが聞こえる。その声には、不安が滲んでいた。

 

「……私、正しかったよね? ずっと誰にも信じてもらえなかった。モナークからも追い出された。でも、私は正しかったんだ。それが証明されたんだよね?」

 

 ……私は答えなかった。

 答えられなかった。

 なぜなら、何も証明されていないから。

 ただ、時代が彼女に追いついただけ。人々が、彼女の答えを求めただけ。

 

「……リン?」

「……うん」

 

 私はようやく答えた。「そうだね」、と。

 イオリは安心したように、息を吐いた。

 

「そっか、そうだ、そうだよね……」

 

 やがて、規則正しい寝息が聞こえてくる。私は暗闇の中で、天井を見つめていた。

 ……窓の外では、東京の街が眠らずに光っている。何百万という人々が、それぞれの真実を信じて生きている。

 そして今、多くの人々が、イオリの真実を信じている。

 

「ゴジラは大自然の守護者である」

「自然の調和を守れば、ゴジラは味方だ」

 

 イオリの真実は、世界中で受け入れられた。

 政府も、それを否定しなかった。否定する根拠がなかったから。そして、人々を安心させる効果があったから。

 世界は、一ノ瀬イオリの説に基づいて、動き始めていた。

 それは幸福なことなのだろうか。

 

 それとも――。

 

 

 世界は、変わり始めた。

 

 一ノ瀬イオリの主張――「自然の調和を守れば、ゴジラは味方だ」――は、もはや一つの思想ではなく、政策の基盤になっていた。

 最初はアメリカだった。ムートーとギドラの被害を最も大きく受けた国。議会で「自然調和法」が可決された。大規模な森林伐採の禁止、化石燃料の段階的廃止、生態系を乱す開発計画の凍結。

 次にヨーロッパ諸国が続いた。EU全体で「タイタン共生計画」が発動された。再生可能エネルギーへの移行、都市の緑化、自然保護区の拡大。

 そして日本。ゴジラが最も頻繁に出現する国。「自然調和推進基本法」が制定され、環境省の権限が大幅に強化された。

 イオリは、これらの政策のアドバイザーとして、各国政府から意見を求められるようになった。

 

「すごいでしょう、リン!」

 

 イオリは誇らしげに言った。国際会議から帰国した夜、疲れた顔で、でも満足そうに。

 

「世界が変わり始めているんだ。私の言葉で」

 

 私は頷いた。何も言わなかった。

 窓の外では、東京の夜景が広がっている。でもその光は、以前より少し暗くなっていた。エネルギー使用の削減政策により、街灯の数が減らされていた。

 

 

 

 それから3年が過ぎた。

 

 世界は、確かに変わった。

 森林は保護され、海は浄化され、大気汚染は改善された。工場の排煙は減り、車の数は減り、都市の空は青さを取り戻した。

 そして、ゴジラは現れなかった。

 3年間、一度も。

 人々は、一ノ瀬イオリの説が正しかったのだと信じた。自然の調和を守ったから、ゴジラは怒らない。だから平和なのだ、と。

 その間、世界の人口は増え続けた。

 戦争がなく、大規模な災害がなく、医療は進歩し、平和が続いた。ゴジラという絶対的な力が「味方」であるという安心感の中で、人類は繁栄した。

 

 そして、“矛盾”が始まった。

 

 

 世界が変わり始めてから4年目の春、最初の兆候が現れた。

 気候変動に対する電力不足。

 再生可能エネルギーへの移行は進んだが、それだけでは足りなかった。太陽光、風力、水力——これらは天候に左右される。安定した大規模電力供給には、限界があった。

 人口は増え続けた。一人一人のエネルギー使用量は減らしたが、人数が増えれば総量は増える。

 

「計画停電を実施します」

 

 政府の発表に、人々は戸惑った。先進国で、計画停電? 二十一世紀に?

 夏には、さらに深刻化した。

 食糧不足。

 農地を拡大する必要があった。でも、森林は保護されている。湿地は生態系保全のため開発禁止。海洋資源も乱獲を避けるため厳しく制限されている。

 「自然の調和を守る」――その原則が、人類の生存と衝突し始めた。

 国連で緊急会議が開かれた。イオリも、アドバイザーとして招かれた。

 

「どうすればいいんだ、一ノ瀬博士」

 

 ある国の代表が訊いた。疲労と苛立ちを隠さずに。

 

「我々は自然の調和を守ってきた。でも人々は飢えている。電気が足りない。これ以上、どうやって調和を守りながら生き延びればいいんだ?」

 

 イオリは答えた。

 

「大自然の調和を守れば大丈夫です!」

 

 会議室に、沈黙が流れた。

 

「……具体的には?」

「自然と共生する道を見つけるんです。人類はこれまで、自然を征服しようとしてきた。そうじゃなく、自然の一部として生きる。そうすれば――」

「だから! 具体的にはどうすればいいんだ!?」

 

 代表の声が、わずかに荒くなった。

 

「農地はどこに作る? 電力はどう確保する? 具体的な解決策を教えてくれ」

 

 イオリは、言葉に詰まった。

 ……私は、モニター越しにその様子を見ていた。会議は一般公開されていたのだ。

 画面の中のイオリは、苦しそうだった。

 

「それは……各国の状況に応じて、慎重に検討する必要があるんです。一概には――」

「あなたは『自然の調和を守れ』と言う。我々はそれに従った。しかし今、矛盾に直面している。あなたは思想家としては素晴らしいが、政策立案者としては――」

 

 会議の議長が割って入り、その発言を遮った。でも、言いたいことは全員に伝わっていた。

 一ノ瀬イオリは、答えを持っていない。

 

 

 秋になって、事態はさらに悪化した。

 各国で、議論が始まった。

 プラズマエネルギー。新しいエネルギー技術。理論的には、少量の燃料で膨大なエネルギーを生み出せる。効率は従来の原子力発電の数十倍。そして、放射性廃棄物も少ない。

 問題は、一つだけあった。

 

 かつてメカゴジラに使われていた技術だった。

 

 基本となる技術はエイペックス社が開発し、メカゴジラの動力源として使用されていた。あのメカゴジラが暴走し、香港を破壊した時の――。

 

「絶対にダメだ」

 

 イオリは新しいブログ記事で警告した。

 

「プラズマエネルギーの危険性――人類が再び犯そうとしている過ち」

 

 記事の論旨は明確だった。プラズマエネルギーは危険である。なぜなら、ゴジラが敵視するから。メカゴジラに使われていたことが、その証拠だ――。

 私はその記事を読んで、ため息をついた。

 ……また始まった。

 

「……ねえ、イオリ」

 

 夜、彼女がキーボードを叩いているところに声をかけた。

 

「ゴジラがプラズマエネルギーを敵視しているって、どうやって分かるの?」

「メカゴジラに使われていたでしょう?」

 

 イオリは答えた。画面から目を離さずに。

 

「それは、メカゴジラという存在を敵視していたんじゃないの? プラズマエネルギーへの反応とは限らないでしょ」

「でも可能性は高いんだよ」

「可能性だけじゃ、説得力が――」

「データがないのは、」

 

 イオリは私の方を向いた。その目には、かつての確信が宿っていた。

 

「政府が隠しているからだよ。メカゴジラの戦闘データ、プラズマ炉の詳細な出力ログ、ゴジラの反応パターン……全部、機密扱いだ。なぜだと思う? 都合が悪いからだよ」

「あるいは本当に機密だからじゃない? 軍事技術だし――」

「……ねえ、リン」

 

 イオリは悲しそうに私を見た。

 

「あなたまで、彼らの側に立つの?」

 

 私は何も言えなかった。

 かつてと同じだった。何も変わっていなかった。

 

 

 イオリの警告は、確かに広まった。

 ブログ記事は数億回以上シェアされた。テレビでも特集が組まれた。彼女の支持者たち――今や数百万人に膨れ上がった――は、プラズマエネルギー反対運動を始めた。

 

「政府の陰謀を許すな!」

「隠された真実を明らかにせよ!」

「ゴジラの怒りを買うな!」

 

 デモが各地で起きた。SNSには、陰謀論的な投稿が溢れた。

 ……でも、世間一般の反応は、冷ややかだった。主要紙の社説は指摘した。

 

「一ノ瀬イオリの主張は理解できるが、根拠が薄弱だ」

 

 専門家たちは声明を出した。

 

「プラズマエネルギーが危険だという科学的証拠はない」

 

 政治家たちは批判した。

 

「エネルギー危機に対する具体的解決策がないまま、反対だけを唱えるのは無責任だ」

 

 世論調査では、プラズマエネルギー開発への賛成が六十パーセントを超えた。人々は、生き延びる必要があった。理想論よりも、現実的な解決策を求めていた。

 ある夜、イオリは荒れていた。

 

「……どうして誰も分かってくれないの」

 

 イオリはソファに座り、頭を抱えていた。その日、テレビ討論番組に出演して、科学者たちと激しい議論をしたばかりだった。

 

「私は警告しているのに。ゴジラの怒りを買うって。でも誰も聞かない」

「イオリ」

 

 私は隣に座った。

 

「もし、具体的な代替案を提示できたら、もっと説得力が――」

「代替案?」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「大自然の調和を守ることが代替案だよ。人口を適正規模に抑え、エネルギー消費を減らし、自然と共生する。それが答えなんだって」

「でも、今すぐ飢えている人たちがいる。電気が足りなくて病院が困っている。『自然を守れ』だけじゃ——」

「じゃあ何だって言うの!?」

 

 イオリの声が荒くなった。

 

「プラズマエネルギーに手を出せっていうの? ゴジラの怒りを買ってもいいっていうの??」

「ゴジラが怒るかどうか、確証はないでしょ」

「確証がないのは、データが隠されているからだってば!」

 

 イオリは立ち上がった。部屋の中を歩き回る。その動きは、焦燥に満ちていた。

 

「政府は知っているんだ。メカゴジラの時のデータを。でも公開しない。なぜか分かる? プラズマエネルギーを使いたいからだよ。エネルギー危機を解決したいから。だから都合の悪い真実を隠しているんだ」

 

 また、陰謀論に戻っていた。

 

「……昔と同じだよ、リン」

 

 イオリは窓辺に立ち、外を見つめた。

 

「誰も私の言うことを聞かなかった。でも結局、私が正しかったじゃない。ゴジラはムートーもギドラもメカゴジラもスカーキングも倒してくれた。今回も同じなんだ。今は信じてもらえなくても、いずれ――」

 

 私は何も言わなかったが本当は、今回は違う、と言いたかった。

 かつてのイオリの主張は検証されなかった。ただ、偶然にも人々が信じたがる物語と一致しただけだ。

 でも今回、イオリは具体的な解決策を持っていない。抽象的な理想論だけだ。

 そして世界は、理想論で動かない。

 

 

 半年後、国連で決議が可決された。

 

「プラズマエネルギー開発推進計画」

 

 賛成百二十カ国、反対三十カ国、棄権二十カ国。世界は、プラズマエネルギーに賭けることを選んだ。

 発表の日、イオリは一日中、部屋に閉じこもっていた。

 

「……終わった」

 

 夜、彼女は呟いた。ベッドの中で、天井を見つめながら。

 

「人類は、また間違った選択をした。ゴジラの怒りを買う道を選んだ」

「まだ分からないよ」

 

 私は言った。

 

「もしかしたら、大丈夫かもしれないし……」

「大丈夫なわけがない」

 

 イオリの声は、確信に満ちていた。でもそれは、希望のない確信だった。

 

「ゴジラは必ず怒る。そして――」

 

 彼女は言葉を切った。

 そして、小さく震える声で続けた。

 

「……私は警告したのに。誰も聞いてくれなかった。また、誰も聞いてくれなかった」

 

 私は彼女の手を握った。冷たかった。

 窓の外では、東京の夜が更けていく。街の明かりは、以前より暗い。でももうすぐ、プラズマエネルギーによって、また明るくなるだろう。

 人類は生き延びるために、賭けをした。

 そして一ノ瀬イオリは、その賭けが失敗すると確信していた。

 どちらが正しいのか。それは、誰にも分からなかった。

 

 

 一年後、世界各地でプラズマエネルギー発電所の建設が始まった。

 アメリカ、中国、ヨーロッパ、そして日本。巨大な施設が、次々と建設されていく。

 イオリのブログの閲覧数は、減少していた。

 彼女が警告を続けるたびに、「また始まった」という反応が増えた。かつての熱狂的な支持者たちも、徐々に離れていった。

 残ったのは、コアな陰謀論者たちだけだった。

 

「政府の隠蔽を許すな」

「真実を求めよ」

「目覚めよ、人類」

 

 彼らは、イオリの投稿に「いいね」をつけ、シェアし、同じような言葉を繰り返した。

 まるで11年前、陰謀論者に取り囲まれていた頃に戻ったようだった。

 いや、11年前よりも悪かった。11年前のイオリは無名だったが、まだ可能性があった。今、イオリは有名だが信用を失いつつあった。

 

「……ねえ、リン」

 

 ある日、イオリは私に訊いた。

 

「私、間違ってるのかな」

 

 窓辺に立って、外を見つめながら。遠くに、プラズマエネルギー発電所の建設現場が見える。巨大なクレーンが、空に向かって伸びている。

 私は答えた。

 

「……間違ってないよ」

 

 嘘だった。

 間違っているかどうか、私には分からなかった。

 ただ、イオリの“やり方”が間違っているのは確かだった。

 データのない主張。論理の飛躍。陰謀論への逃避。そして、具体的な解決策の欠如。それでは、誰も説得できない。

 でも、それを言うことはできなかった。言えば、彼女は傷つく。そして、さらに頑なになる。

 だから、ただ傍にいるしかなかった。

 

「ゴジラが来る」

 

 イオリは呟いた。

 

「必ず来る。そして皆、分かるんだ。私が正しかったって」

 

 その声は、祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。

 

 

 ゴジラによる最初の「攻撃」は、千葉県のプラズマエネルギー発電所だった。

 深夜、海から現れたゴジラは、何の警告もなく放射熱線を放った。青白い光が夜空を裂き、発電所を直撃した。

 爆発。

 プラズマ炉が臨界に達し、連鎖反応を起こした。光が溢れ、熱波が広がり、半径五キロメートルが一瞬で焼き尽くされた。

 死者、一万三千人。

 避難が間に合わなかった住民、発電所の職員、警備にあたっていた自衛隊員――。

 ゴジラは、それだけで海に帰った。破壊だけを残して。

 

「見てよ、リン!」

 

 イオリは言った。テレビのニュース映像を見つめながら。

 画面には、焼け野原になった街が映っていた。建物の残骸、黒焦げになった車、避難する人々。ヘリコプターからの空撮映像は、被害の規模を容赦なく映し出していた。

 

「ゴジラが怒ったんだ。プラズマエネルギーに」

 

 イオリの声は、不思議と落ち着いていた。むしろ、どこか満足そうですらあった。

 

「私の警告は正しかった」

 

 私は何も言えなかった。画面の中で、泣き叫ぶ人々がいた。家族を失った人々、家を失った人々、全てを失った人々。

 イオリは続けた。

 

「これも大自然の調和であり、運命なんだよ。人類がその調和を乱したから、ゴジラは――」

「イオリ」

 

 私は、彼女の言葉を遮った。

 

「一万人以上が死んだんだよ」

「分かってる」

 

 イオリは私を見た。その目は、複雑な感情に満ちていた。

 

「分かってるよ。でも、これは避けられたことなんだ。私は警告したのに、誰も聞かなかった。政府が、世界が、プラズマエネルギーに手を出さなければ――」

 

 イオリの声が、わずかに震えた。

 

「これは、悲劇だ。でも、人類自身が招いた悲劇なんだよ」

 

 私はイオリから目を逸らした。

 テレビでは、被災地からの中継が続いていた。避難所に詰め込まれた人々、医療物資の不足、行方不明者の捜索――。

 

 次の攻撃は、一週間後だった。

 アメリカ西海岸のプラズマエネルギー発電所。今度は昼間だった。避難勧告が出され、周辺住民は逃げた。でも、全員は逃げ切れなかった。

 ゴジラの放射熱線が、また発電所を焼いた。死者、八千人。

 その次は中国。上海近郊の発電所。死者、一万五千人。

 そしてヨーロッパ。フランスの発電所。死者、六千人。

 ゴジラは、世界中のプラズマエネルギー発電所を、一つずつ破壊していった。

 イオリへの取材依頼が、再び殺到した。

 でも今回は、称賛のためではなかった。

 

「……一ノ瀬博士、あなたの予言が的中しました」

 

 テレビのインタビュアーが言った。生放送だった。

 

「ゴジラは確かに、プラズマエネルギーに反応して攻撃を始めた」

「ええ」

 

 イオリは答えた。カメラを見据えながら。

 

「私が一年前から警告していたとおりですね」

「では、なぜこのような事態になったと?」

「人類が大自然の調和を理解しなかったからですよ」

 

 イオリの声は、確信に満ちていた。

 

「プラズマエネルギーは、ゴジラが敵視する技術だった。メカゴジラに使われていましたからね。でも政府は、エネルギー危機を解決したいがために、私の警告を無視した。結果がこれです」

「しかし、四万人以上の方々が亡くなっています」

「痛ましいことです」

 

 イオリは言った。

 

「でも、これは避けられたことなんですよ。私の警告に耳を傾けていれば――」

「あなたは『自然の調和を守れば、ゴジラは味方だ』と言っていました」

 

 インタビュアーの声が、わずかに鋭くなった。

 

「多くの人々が、その言葉を信じていました。しかし今、ゴジラは人類を攻撃しています。これをどう説明しますか?」

「そ、それは……」

 

 イオリは、一瞬言葉に詰まった。

 

「……人類が調和を乱したからです。プラズマエネルギーという、自然に反する技術に手を出したから——」

「では、ゴジラは味方ではなかったのですか?」

「味方ですよ」

 

 イオリは言い張った。

 

「でも、人類が裏切ったんです。約束を破ったんだよ。だから――」

 

 画面が切り替わり、CMに入った。

 私は、テレビを消した。

 

 

 二日後、イオリは避難所を訪れた。

 千葉の被災地。体育館に設営された、仮設の避難所。数百人の被災者が、そこで生活していた。

 テレビ局の取材に同行する形だった。「一ノ瀬博士が被災者を慰問」という企画。イオリの側から申し出たものだった。私もついていった。

 体育館の中は、疲弊と絶望に満ちていた。

 段ボールで仕切られた狭いスペース。毛布の上に座る人々。泣き続ける子供、呆然とする老人、怒りを抑えている若者――。

 イオリは、カメラを引き連れて入っていった。

 

「……皆さん」

 

 彼女は言った。体育館の中央で、マイクを持って。

 

「私は、一ノ瀬=イオリです。この度の災害で被害に遭われた方々に、心からお見舞いを――」

「ふざけるな!」

 

 怒号が飛んだ。

 三十代くらいの男性が立ち上がった。作業着を着ている。発電所の職員だったのだろう。顔は煤けて、目は充血していた。

 

「あんたが言ったんだろ! ゴジラは味方だって! 自然の調和を守れば、守ってくれるって!」

 

 イオリは、動揺した。

 

「それは……そうです。でも――」

「俺たちは信じたんだよ!」

 

 男性の声が大きくなった。

 

「あんたの言葉を! ゴジラは敵じゃない、味方だって! だから安心してたんだ! なのに――」

 

 男性の声が震えた。

 

「……妻と娘が死んだんだ。家も焼けた。全部なくなった。これが、『味方』のすることか?」

 

 避難所全体が、ざわめいた。他の被災者たちも、立ち上がり始めた。

 

「そうだ!」

「あんたのせいで、油断してた!」

「ゴジラは味方だって、信じてたのに!」

 

 イオリは後退した。でも、人々は詰め寄ってくる。

 

「ま、待ってください!」

 

 イオリは声を上げた。

 

「私は警告していたんです! プラズマエネルギーは危険だって。一年以上前から、ずっと警告していた! これは政治の責任なんです!」

「政治のせいだって? じゃああんたには何の責任もなかったっていうのか?」

 

 イオリの声が弱くなった。

 

「それは、データが隠蔽されていたから……」

「また陰謀論かよ」

 

 若い女性が叫んだ。赤ん坊を抱いている。

 

「いつもそれだ。都合が悪くなると『隠蔽』『陰謀』! テレビでも見てたけど、あんたは何の責任も取らないよね」

「私は警告したよ!」

 

 イオリは言い返した。いつのまにか声が大きくなっていた。

 

「私は正しいことを言っていた! でもあなたたちが、世間が、政府が聞かなかった。大自然の調和を理解しようとしなかった。プラズマエネルギーなんかに手を出して――これは私たち人類の自業自得なんだよ!」

 

 避難所が、静まり返った。

 

イオリは、言ってしまったことに気づいた。でも、もう遅かった。

 

「自業自得……?」

 

 最初に怒鳴った男性が、低い声で繰り返した。

 

「俺たちが、自業自得……?」

「あ、いや、違う、そうじゃないんです」

 

 イオリは慌てて訂正しようとした。

 

「私が言いたかったのは――」

「出て行け」

 

 男性は言った。

 

「ここから出て行け。あんたの顔なんか、見たくもない」

 

 

 帰りの車中で、イオリは泣いていた。

 声を殺して、肩を震わせながら。

 私は運転席で、ただ前を見ていた。何も言わなかった。

 

「私は……」

 

 イオリは涙声で言った。

 

「間違ったことは言ってない。警告したのに、誰も聞いてくれなかった。私のせいじゃない……」

 

 でも、その声には確信がなかった。

 彼女は私を見た。涙で濡れた顔で。

 

「ねえ、リン、私、間違ってないよね?」

 

 私は答えなかった。答えられなかった。

 なぜなら、イオリは間違っていたから。

 警告したことは正しかったのかもしれない。でも、やり方が間違っていた。データのない主張。陰謀論への逃避。具体的な解決策の欠如。そして、人々を説得する努力の不足。

 もっと本気で訴えるべきだった。もっと多くの人を説得すべきだった。もっと信頼される形で、警告を発するべきだった。

 でも、イオリはそれをしなかった。自分の思い込みだけを頼りに、データなしで主張し、批判されると陰謀論に逃げた。

 そして今、その結果がこれだった。

 

「私は……」

 

 イオリは続けた。震える声で。

 

「もしかして、もっと、できたことがあったんじゃないかな……?」

 

 ……ああ、と私は思った。

 ようやく気づいたのだ。

 でも、遅すぎた。

 すでに四万人以上が死んでいた。そして、ゴジラはまだ攻撃を続けている。

 イオリは私の手を掴んだ。

 

「ねえ、リン、私、どうすればいいの?」

 

 その声は、助けを求めていた。

 でも、私には答えがなかった。

 もう、手遅れだったから。

 

 

 

 その夜のニュースは、避難所での出来事を報じた。

 編集されていない映像が流れた。イオリが「自業自得」と言った場面も、そのまま放送された。

 SNSは炎上した。

 

「最低だ」

「被災者に何て言い草だ」

「責任を被害者に押し付けるな」

「一ノ瀬イオリは終わった」

 

 コメントは、数万件に達した。そのほとんどが批判だった。

 イオリのブログには、非難のコメントが殺到した。一時間で数千件。サーバーがダウンした。

 「恨むならプラズマエネルギーに手を出した政府を恨め」、イオリの発言はそういうふうに解釈された。

 

「責任転嫁だ」

「自分の影響力を自覚していない」

「予言が当たったからって、被害者を責めるのか」

 

 翌日の新聞各紙は、社説でイオリを批判した。

 

「警告することと、結果の責任は別だ」

「科学者としての誠実さを欠いている」

「一ノ瀬博士の主張は、もはや信頼できない」

 

 一週間、イオリは外に出なかった。

 カーテンを閉め、電話にも出ず、メールも見ず、ただベッドに横たわっていた。食事も、ほとんど取らなかった。

 私は仕事を休んで、彼女の傍にいた。

 

「……リン」

 

 ある夜、暗闇の中で、イオリが呟いた。

 

「私、間違ってたのかな」

「何が?」

「全部だよ」

 

 彼女は天井を見つめていた。その目は、虚ろだった。

 

「ゴジラは味方だって言った。でも、今、ゴジラは人を殺してる」

「プラズマエネルギーのせいだよ」

 

 私は言ったけれど、イオリは頷かなかった。

 

「私は、『自然の調和を守ればゴジラは味方だ』って言った。でも、何が『調和』なのか、ちゃんと説明しなかった。具体的なことなんて何一つ言っちゃいなかった」

 

 イオリの声は、自嘲的だった。

 

「プラズマエネルギーは危険だって警告した。でも、証拠を示せなかった。『政府が隠してる』って言うだけだった。そんなの、陰謀論者と変わらない」

 

 彼女は、自分の手を見つめた。

 

「もっと、できたことがあったんだ。ちゃんとデータを集める努力をするべきだった。もっと多くの科学者を説得するべきだった。もっと具体的な解決策を提示するべきだった」

 

 その言葉を聞いて、私は初めて泣きそうになった。12年かかって、イオリはようやく気づいたのだ。

 

「……でも、もう、遅いんだよね」

 

 部屋は暗かった。窓の外では、東京の街が眠らずに光っている。

 でもその光は、不安に満ちていた。次にゴジラが来るのは、いつか。どこか。世界中が、恐怖の中で生きていた。

 そして、一ノ瀬イオリは、その恐怖の一端を作った人物として記録され、そして忘れられてゆくことになるだろう。

 

 

 すべてのプラズマエネルギー発電所が停止されても、ゴジラは現れ続けた。

 理由は分からなかった。もう人類はプラズマエネルギーを使っていない。自然の調和を守ろうと努力している。

 それでも、ゴジラは攻撃を続けた。沿岸都市が、次々と襲われた。東京、ロサンゼルス、上海、ロンドン……ゴジラは容赦なく放射熱線を放ち、街を焼いた。死者は、百万人を超えた。

 人類は、理解した。

 もう、引き返せない。

 イオリが言っていた「自然の調和」――それはきっと、すでに取り返しのつかないほど壊れてしまったのだろう。人類がプラズマエネルギーに手を出したことで、何かが決定的に変わってしまった。ゴジラの中で、人類は「排除すべき存在」になってしまったのだ。

 そして、人類は決断した。

 戦うしかない、と。

 

 そして、人類は最後の賭けに出た。

 

 メカゴジラ。

 かつて暴走し、香港を破壊した兵器。でも今の人類にはそれしか選択肢がなかった。世界中の国々が協力し、莫大な予算を投じ、新型のメカゴジラを再建した。

 制御システムは完全に刷新された。ギドラの残骸は使わず、人工知能による制御。プラズマエネルギーも使わず、従来型の核融合炉。あらゆる失敗を教訓に、人類の英知を結集した。

 「人類最後の希望」――メカゴジラのことをメディアはそう報じた。

 

 建造は急ピッチで進められた。一年という異例の速さで、メカゴジラは完成した。

 その日、テレビの前に座っていた私の隣で、イオリが小さく呟いた。

 

「無駄だよ」

 

 彼女の声は、感情を欠いていた。

 

「また、同じことを繰り返してる。人類は何も学んでいない」

「で、でも」

 

 私は言った。

 

「他に方法がないんだよ、これは仕方ないことなんだよ、イオリ」

「…………。」

 

 イオリは何も答えなかった。ただ、画面を見つめていた。

 メカゴジラの出撃は、世界中で生中継された。東京湾から出航する巨大な船。その甲板に、銀色に輝くメカゴジラが立っている。人類の希望が、そこにあった。

 

 そして、ゴジラが現れた。

 

 海から立ち上がる、あの巨体。青く光る背鰭。咆哮。

 二体の巨獣が、激突した。

 最初は、互角に見えた。メカゴジラのミサイルがゴジラに命中し、ドリルアームがゴジラの体を抉った。人々は歓声を上げた。希望が見えた。

 でも、それは長くは続かなかった。

 

 ゴジラの尾が、メカゴジラの腕を叩き落とした。ゴジラの顎が、メカゴジラの首に食い込んだ。そして、放射熱線が、至近距離で放たれた。

 メカゴジラの装甲が溶けた。内部から火花が散った。システムダウン。

 ゴジラは、動かなくなったメカゴジラを、ゆっくりと引き裂いた。腕を、脚を、頭を。まるで、人類の希望を一つ一つ粉砕するかのように。

 戦いは、三十分で終わった。

 海に沈むメカゴジラの残骸。そして、勝利の咆哮を上げるゴジラ。

 

 画面の前で、世界中の人々が絶望した。

 

 

 メカゴジラが敗北した翌日から、イオリは壊れ始めた。

 

 最初の兆候は、眠らなくなったことだった。

 夜、布団に入っても、彼女はすぐに起き上がる。足音を忍ばせてリビングに行き、窓辺の椅子に座る。カーテンを開けて、ガラス越しに外を見つめている。

 何を見ているのか、私には分からなかった。窓の外には、いつもと同じ東京の夜景が広がっているだけだ。ビルの明かり、街灯、時々通る車のヘッドライト。でもその光は、以前より少し暗くなっていた。節電のため、多くの照明が消されていた。

 午前二時、三時。私が目を覚まして見に行くと、イオリはまだそこに座っていた。同じ姿勢で、同じ方向を見つめて。まるで石像のように。

 

「……イオリ、寝よう」

 

 声をかけても、反応が遅い。数秒してから、ようやく私の方を向く。その目は、焦点が合っているのかいないのか分からなかった。ガラスに映る街の光が、虚ろな瞳に反射している。

 

「……うん」

 

 力のない返事。でも、布団に戻っても眠らない。天井を見つめたまま、瞬きもせずに横たわっている。

 次に変化が現れたのは、食事だった。私が作った朝食――味噌汁と焼き魚、ご飯――を、イオリは見つめるだけで手をつけない。箸を持ち上げることすらしない。

 

「食べないの?」

「お腹空いてないんだ」

 

 彼女の声は平坦だった。感情の起伏がない。まるで、自動応答のように。

 昼も、夜も、同じだった。一週間で、イオリは目に見えて痩せた。頬がこけ、鎖骨が浮き出て、服が体に合わなくなった。腕を見ると、血管が青く透けて見える。

 そして、独り言が始まった。

 

「……もっと、できたことがあったんじゃないかな」

 

 最初は小さな呟きだった。でも、日を追うごとに頻度が増えていった。

 洗面所で顔を洗いながら。リビングで窓を見つめながら。布団の中で天井を見ながら。

 

「ちゃんとデータを集めるべきだった」

「もっと多くの人を説得するべきだった」

「もっと具体的に、もっと真剣に……」

 

 同じ言葉の繰り返し。まるで壊れたレコードのように。

 ある夜、私は彼女の隣に座った。窓辺の、いつもの場所。外では冷たい雨が降っていた。ガラスに雨粒が流れ、街の光を歪めている。

 

「イオリ」

 

 私は彼女の肩に手を置いた。骨ばっていて、冷たかった。

 

「もう、終わったことだよ」

「終わってない」

 

 イオリは私を見た。その目には、何か狂気じみたものがあった。

 

「まだ、人々は死に続けている。ゴジラは止まらない。テレビで毎日、死者の数が増えていく。私が、もっとちゃんとしていれば……」

 

 彼女の声が震えた。両手が、膝の上で小刻みに震えている。

 

「私のせいだ。百万人が死んだ。メカゴジラも負けた。これから何人死ぬか分からない。全部、私が……」

「そんなことない、そんなことないったら……」

 

 私は彼女を抱き寄せようとした。でも、彼女は立ち上がった。

 

「全部、私のせいなんだよ!」

 

 イオリは叫んだ。その声は、部屋中に響いた。

 

「私がもっと説得力のある警告をしていれば、プラズマエネルギーは使われなかった。ゴジラは怒らなかった。でも私は、データも集めずに、陰謀論みたいなことばかり言って……」

 

 イオリの呼吸が荒くなった。過呼吸の一歩手前だった。

 

「誰も信じてくれなかったのは、私のせいだ。私が愚かだったから。私が無能だったから。私が、私が、私が……!」

 

 そして、イオリは崩れ落ちた。

 床に膝をつき、両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。子供のように。全身を震わせながら。

 私は、彼女の隣に座った。背中をさすった。でも、どんな言葉をかけても、届かなかった。

 彼女の泣き声だけが、部屋に響いていた。

 

 

 二ヶ月が過ぎた。イオリの状態は、良くならなかった。

 むしろ、悪化していた。体重は十キロ以上減った。目の下には深いクマができ、髪は艶を失い、肌は不健康な灰色を帯びていた。まるで、生気が抜けていくようだった。

 そして、ある朝のことだった。

 私が仕事に行こうと準備していると、イオリがスーツケースを引きずりながら寝室から出てきた。

 

「……何してるの?」

「荷物をまとめてるんだ」

 

 答えるイオリの声は、かすれていた。何日も水を飲んでいないような。

 

「もうここにはいられない」

 

 イオリは私を見た。その目は、追い詰められた小さな動物のようだった。

 イオリは言った。

 

「街を歩けば皆が私を見るんだ。『あの人だ』って。『ゴジラは人類の味方だって言った人だ』って。『被災者を自業自得って責めた人だ』って……」

 

 それは真実ではなかった。

 先週、私たちは一緒にスーパーに行った。イオリは帽子を深く被り、マスクをして、できるだけ人目を避けようとしていた。

 でも、誰も彼女を見なかった。

 レジの店員も、他の買い物客も、誰もイオリに注意を払わなかった。世界は、もっと切迫した問題に直面していた。今日の食料は手に入るか。次のゴジラの襲撃はいつか。避難勧告が出たらどこに逃げるか。一時的に持て囃されただけの一ノ瀬イオリみたいなつまらない小物のことなんて、世間はみんな完全に忘れていた。

 でも、今のイオリにはそれが分からなかった。

 

「どこか、静かな場所に行きたいんだ」

 

 そう言って、イオリはスーツケースを抱きしめた。まるで、それが命綱であるかのように。

 

「誰も私を知らない場所に。誰も私を責めない場所に」

 

 窓の外では、灰色の空から冷たい雨が降っていた。十一月の雨。冬の足音が聞こえる季節。

 私は大学に電話をかけた。今日は休むと告げた。そして、イオリの隣に座って言った。

 

「……分かった。一緒に行こう」

 

 行く場所は、すぐに決まった。

 イオリの古いメールフォルダを漁ると、半年前に来た招待状があった。

 長野の山奥に、ある集団が村を作っているという。「自然との調和を求める人々の共同体」――そう自称していた。

 送り主は、イオリのかつての支持者の一人だった。ブログが最盛期だった頃、熱心にコメントを書いていた男性。

 

「一ノ瀬先生、もし都会の喧騒に疲れたら、ここに来てください。私たちは先生の教えを信じています。一緒に、本当の自然との調和を実現しましょう」

 

 私はその集団のウェブサイトを調べた。画面には、森の中の木造の家々。笑顔で農作業をする人々。焚き火を囲んで歌う集団。

 そして、散りばめられた言葉――「覚醒」「真の自然」「浄化」「調和」「導き」。

 明らかに、カルトのコミューンだった。

 

「……ねえ、イオリ」

 

 私は言った。

 

「ここ、ちょっと怪しくない?」

「でも」

 

 イオリは画面を見つめていた。その目に、一筋の光が宿っていた。

 

「ここなら、私を受け容れてくれる」

 

 それが全てだった。世界はイオリを忘れていたが、この小さな集団だけは覚えていた。

 イオリには、他に行く場所がなかった。

 そして私には、彼女を止める理由がなかった。私は大学に辞表を出した。引き継ぎもそこそこに、二週間で退職した。

 アパートを引き払った。家具のほとんどは処分した。残ったのは、衣類といくつかの私物だけ。

 十二月の初め、私たちは東京を離れた。

 

 

 村は、山の奥深くにあった。

 最寄りの駅からバスで二時間。そこから、さらに山道を歩いて一時間。携帯電話の電波は、途中で途絶えた。

 冬の山は、静寂に包まれていた。落葉した木々が、灰色の空を背景に立っている。足元には枯れ葉が積もり、歩くたびにカサカサと音を立てる。冷たい風が吹き、頬を刺す。

 イオリは、重いリュックを背負って歩いていた。痩せた体には重すぎる荷物だったが、彼女は弱音を吐かなかった。ただ黙々と、前を向いて歩いていた。

 

 やがて、森の奥に、開けた場所が見えてきた。十数軒の木造の家が、森の中に点在している。煙突から白い煙が立ち上り、冬の空に溶けていく。薪を燃やしているのだろう。

 畑があった。冬野菜が植えられている。キャベツ、大根、ネギ。手入れが行き届いていた。

 井戸があった。古い様式の、手押しポンプ付きの。

 そして、人々がいた。

 五十人ほどだろうか。年齢は様々だった。若い人も、年配の人も。皆、素朴な服装をしていた。ジーンズとセーター、作業着。でも、何か統一感があった。表情だろうか。皆、同じような、穏やかで、でもどこか空虚な笑顔を浮かべていた。

 私たちが村の入口に立つと、人々が集まってきた。

 

「一ノ瀬先生!」

 

 最初に声を上げたのは、三十代くらいの男性だった。メールを送ってきた人物だろう。

 

「お待ちしていました!」

「ようこそ!」

「先生の教えを、直接学べるなんて!」

 

 人々は口々に言った。その声は、明るすぎた。その笑顔は、作り物のようだった。

 そして、人垣が割れて、一人の老人が現れた。六十代だろうか。白い髭を蓄え、長い白髪を後ろで束ねている。痩せていて、でも背筋は真っ直ぐだった。目は、鋭かった。

 

「一ノ瀬先生」

 

 老人は、イオリの前で立ち止まった。

 

「遠いところを、よく来てくださいました。私は、この村を預かっている者です」

 

 彼の声は、落ち着いていた。でもその落ち着きは、表面的なものに感じられた。その下に、何か熱狂的なものが隠れているような。

 老人は続けた。

 

「どうか私たちに教えを授けてください。あなたこそ、真の自然の声を聞ける方です。私たちの導き手になってください」

 

 イオリは、戸惑っていた。リュックを背負ったまま、人々に囲まれて、どう反応していいか分からない様子だった。

 でも、その戸惑いは長くは続かなかった。

 

 なぜなら、人々の目が、彼女を求めていたから。

 飢えた者が食べ物を見るような目。渇いた者が水を見るような目。

 世界は忘れていた。でもここでは、彼女は必要とされていた。

 私たちは頭を下げた。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 私たちに与えられた家は、村の外れにあった。

 小さな木造の平屋。二部屋と台所だけの、簡素な造り。でも清潔で、手入れが行き届いていた。窓からは、森が見えた。裸になった木々の向こうに、さらに深い森が広がっている。風が吹くたびに、枝が軋む音がした。

 

「ここが、私たちの家なんだね」

 

 イオリは窓辺に立って、外を見つめていた。その横顔は、穏やかだった。久しぶりに見る、穏やかな表情。

 夜、私たちは布団を並べて横になった。電気はなかった。ランプの灯りだけが、部屋を照らしていた。オレンジ色の、柔らかい光。

 

「……リン」

 

 布団の中でイオリが言った。

 

「ありがとう」

「何が?」

「ついてきてくれて」

 

 彼女の声は、涙声だった。

 

「私、一人じゃ何もできなかった。でもあなたがいてくれたから——」

 

 私は何も言わなかった。ただ、彼女の手を握った。

 外では、風が吹いている。森がざわめいている。遠くで、梟が鳴いた。

 ここは、世界の果てのようだった。

 

 

 一ヶ月が過ぎた。

 村での生活は、規則正しかった。

 朝六時に起床。井戸で顔を洗い、共同の食堂で朝食を取る。玄米と味噌汁、漬物。肉や魚はなかった。完全な菜食だった。

 七時から、「朝の集い」。村の中央にある広場に、全員が集まる。長老が祈りの言葉を唱え、皆で復唱する。

 

「自然よ、私たちを導きたまえ」

「調和よ、私たちに宿りたまえ」

「浄化よ、私たちを清めたまえ」

 

 そして、イオリの「教え」の時間。最初はイオリも戸惑っていた。何を話せばいいのか分からず、言葉に詰まっていた。

 でも村人たちは辛抱強く待ってくれた。そして、イオリが口を開くと熱心に聞いてくれた。

 

「……ゴジラは、大自然の化身なのです」

 

 イオリは言った。朝日を背に、人々の前に立って。

 

「人類が自然の調和を乱したから、ゴジラは怒った。でもそれは、罰ではないんですよ。教えなんです。私たちに、正しい道を示すための――」

 

 人々は頷いた。「その通り」「深い教えだ」と呟き合った。

 イオリの顔に、わずかに色が戻った。

 教えの後は、労働。畑仕事、薪割り、水汲み、料理、掃除。皆で分担して、村を維持する。

 私も畑を耕し、薪を割った。都会育ちの私には慣れない作業だったが、体を動かすことは悪くなかった。何も考えずに済んだから。

 昼食の後は、「学びの時間」。村の人々がイオリを囲んで、質問をする。

 

「先生、自然との調和とは、具体的にどういうことでしょうか」

「ゴジラの怒りを鎮めるには、何をすればいいのでしょうか」

「この村は、正しい道を歩んでいるのでしょうか……?」

 

 イオリは答えた。時に曖昧に、時に確信を持って。

 そして人々は、その全てを受け入れた。批判も、疑問も、なかった。

 

 夕方、再び労働。

 夜は、「夕べの集い」。焚き火を囲んで、歌を歌い、踊り、祈った。

 そして就寝。九時には、村全体が静まり返った。毎日、同じことの繰り返し。

 でも、イオリは穏やかだった。

 かつての焦燥も、罪悪感も、表面的には消えていた。村人たちに教えを説き、彼らから感謝され、尊敬された。それが、イオリの新しい現実になった。

 ある夜、布団の中で、イオリが言った。

 

「……リン、ここは平和だね」

 

 外では雪が降り始めていた。初雪だった。窓ガラスに、白い結晶が張り付いていく。

 

「うん」

 

 私は答えた。

 

「もう誰も私のことを責めない」

 

 それは違う、と私は思った。

 誰も責めないのではなく、もう誰も覚えていないのだ。世界は前に進んでいた。新しい災害、新しい恐怖、新しい課題――それらが、一ノ瀬イオリという存在の記憶を上書きしていた。

 でも、それは言わなかった。イオリは続けた。

 

「ゴジラのことも、世界のことも、もう考えなくていい」

「……そうだね」

「ここにいれば、私は役に立てるんだ。人々を導ける。間違いを正せる」

 

 イオリの声は、確信に満ちていた。

 でもその確信は、脆かった。まるでガラスでできた建物のように、一撃で崩れてしまいそうな。

 

「これでよかったんだよね?」

 

 その問いに、私は答えなかった。

 答えられなかった。なぜなら、何が「よかった」のか、分からなかったから。

 イオリは、逃げた。現実から、責任から、罪悪感から。でも結果としてイオリは壊れることを止めた。少なくとも、表面的には。

 

 村での暮らしは、穏やかだった。

 春が来て、雪が溶けた。畑に種を蒔いた。夏が来て、作物が育った。秋が来て、収穫した。冬が来て、雪に閉ざされた。そしてまた、春が来た。

 季節が巡り、時間が流れた。でも、村の中では何も変わらなかった。

 朝の集い、イオリの教え、労働、夕べの祈り――それが、私たちの日常になった。

 イオリは、安定していた。痩せた体には、少しずつ肉がついてきた。目の下のクマも薄くなった。夜は、穏やかに眠るようになった。

 村人たちは、イオリを敬愛してくれた。「一ノ瀬先生」と呼び、その言葉の一つ一つを大切に受け止めた。「自然との調和」「ゴジラの教え」「人類の在るべき姿」——イオリが語る言葉は、村人たちの聖典になった。

 私は、その光景を眺めていた。畑仕事の合間に、井戸で水を汲む時に、薪を割りながら。イオリが人々に囲まれて、穏やかに微笑んでいる姿を。

 

 ……これでいいのだ、と私は自分に言い聞かせた。

 イオリは幸せそうだ。村人たちも満足している。誰も傷つけていない。これでいいのだ。

 

 

 最初の『噂』は、村に物資を運んでくる行商人から聞いた。

 二ヶ月に一度、年配の男性が村を訪れる。米、塩、布——村で作れないものを、麓の町から運んでくる。

 ある秋の日、彼は疲れた顔で言った。

 

「……もう、これが最後かもしれないな」

 

 薪を運んでいた私は、手を止めた。

 

「……どうしてですか?」

「町が、もう機能してないんだ」

 

 男性は荷物を下ろしながら言った。

 

「人がどんどん減ってる。店も閉まってる。道路も荒れてきた」

「ゴジラですか?」

「それもあるが」

 

 男性は首を横に振った。

 

「それだけじゃない。若い者が都市に行かなくなった。いや、行けなくなった。都市も崩壊してるからな」

 

 彼は空を見上げた。灰色の雲が、低く垂れ込めていた。

 

「ゴジラが来るたびに、街が壊される。でも誰も、もう再建しようとしない。何のために再建する? どうせまた壊されるのに」

「……」

「人間は、諦めたんだよ。戦うことも、建てることも、進むことも。ただ、ゴジラに怯えて、その日暮らしをしてる」

 

 彼はため息をついた。

 

「文明ってのは、希望がないと続かないんだな。みんな希望を失った。だから、全部止まっちまった」

 

 男性は、次の春には来なかった。

 代わりに、若い男が一人、村を訪れた。よれよれの服を着て、痩せこけて、目が虚ろだった。

 

「……ここに、受け入れてもらえないでしょうか」

 

 彼は私たちに懇願した。

 

「町には、もう何もないんです。食べるものも、仕事も。みんな飢えて、病気になって……」

 

 私たちは、彼を受け入れた。

 それから、次々と人が来るようになった。麓の町から。遠くの都市から。行く場所を失った人々。

 村の人口は、七十人、八十人と増えていった。

 

 

 二年目の夏、新しい噂が流れてきた。

 新型感染症。最初は中国で発生したらしい。高熱、呼吸困難、多臓器不全――致死率は三十パーセント。

 

「昔なら、すぐにワクチンができたんだろうな」

 

 新しく村に来た元医師の男性が言った。彼は都市の病院で働いていたが、病院が閉鎖され、行き場を失ってここに来たという。

 

「でも今は無理だ。研究施設も、製薬工場も、ほとんど機能してない。ゴジラに破壊されたか、放棄されたか」

 

 彼は井戸で水を汲みながら続けた。

 

「医療システムも崩壊してる。医師も看護師も、都市から逃げ出した。残ってる病院も、電力不足で満足に稼働できない」

「感染症は、広がってるんですか」

 

 「ああ」と、男性は頷いた。

 

「止められないだろうな。国境管理もできてないし、衛生状態も悪化してる。そして何より――」

 

 男性は空を見上げた。

 

「人々が、もう戦う気力を失ってる。病気になっても、諦めるだけだ」

 

 秋になって、その感染症は日本にも上陸したという噂が流れた。

 冬には、隣の県にまで広がったらしい。

 でも、村には届かなかった。

 私たちは山の中に隔絶されていて、外部との接触は最小限だった。新しく来る人もいなくなった。道が雪で閉ざされたこともあるが、おそらく、もう来られる人がいなくなったのだろう。

 

 

 三年目の春。

 雪解けと共に、一人の旅人が村に辿り着いた。四十代くらいの女性。服はボロボロで、靴は破れていた。顔は日に焼け、痩せこけていた。

 でも、彼女の目には、まだ生気があった。

 長老が彼女に水と食べ物を与え、話を聞いた。私も、その場にいた。

 

「都市は、終わりました」

 

 女性は言った。乾いた声で。

 

「東京も、大阪も、名古屋も。もう人が住んでいません。建物は崩れ、道路は草に覆われ、残された人々は廃墟の中で飢えています」

「ゴジラに破壊されたんですか」

「それもあります。でも、それだけじゃない」

 

 女性は首を振った。

 

「人々が、街を捨てたんです。維持できなくなったから」

 

 彼女は震える手で、水を飲んだ。

 

「電力網が崩壊しました。発電所を動かす人がいなくなったんです。水道も止まりました。ゴミも処理されなくなりました」

「なぜ、人がいなくなったんですか」

「感染症です」

 

 女性の声が沈んだ。

 

「新型の感染症が、都市を襲いました。治療法がない。ワクチンもない。病院も機能していない。だから、人々はただ死んでいくだけでした」

 

 彼女の目に、涙が浮かんだ。

 

「私の家族も、死にました。夫も、子供たちも。私だけが、なぜか生き残った」

「それで、ここに?」

「どこに行けばいいのか分からなくて」

 

 女性は言った。

 

「ただ歩いていたら、ここに辿り着きました」

 

 私たちは、彼女を受け入れた。

 その夜、私は眠れなかった。布団の中で、天井を見つめていた。

 隣では、イオリが穏やかに眠っている。規則正しい寝息。何も知らずに、何も心配せずに。

 でも私は、分かっていた。

 

 人類は、終わろうとしている。

 ゴジラに殺されるのではなく、自ら崩壊し始めている。

 

 きっとゴジラを恐れて文明の発展を止めたことで、文明そのものが維持できなくなったのだろう。電力も、水道も、医療も、全てが人々の努力と技術で支えられていた。でもその努力も技術も、希望がなければ続かない。

 そして人類は、希望を失った。

 ゴジラへの恐怖。いつ襲われるか分からない不安。何を作っても壊される絶望。それが、人々の心を蝕んでいった。

 そこに新型感染症が襲った。

 文明が機能していた時代なら、対処できただろう。ワクチンを開発し、治療法を確立し、感染拡大を防げただろう。

 でも今は無理だ。研究施設も、製薬工場も、病院も、もう機能していない。

 だから、感染症は広がり続ける。

 そして、人類は滅びる。

 ゴジラに殺されるのではなく、自らの愚かさと無能さによって。

 

 

 秋が来た。

 村の畑は、豊かに実った。私たちは収穫し、保存食を作った。イオリは、相変わらず教えを説いていた。

 誰も、外の世界のことを話さなかった。まるで、外の世界など存在しないかのように。ここは、隔絶された楽園だった。

 私は薪を割りながら、村の景色を眺めていた。紅葉が山を染めていた。赤、黄、橙――燃えるような色彩。

 ……美しかった。世界が終わろうとしているのに、自然は変わらず美しかった。

 

「……リン」

 

 イオリが声をかけてきた。籠いっぱいの栗を持って。

 

「手伝ってほしい。栗の皮むき」

「ええ、いいよ」

 

 私たちは家の前に座り、栗の皮を剥いた。

 秋の日差しが、柔らかく降り注いでいた。風が吹き、落ち葉が舞った。

 イオリが言った。

 

「……平和だね」

「うん」

「ここに来てよかったよ。リンと一緒に、こうして暮らせて」

 

 イオリは微笑んだ。屈託のない、穏やかな笑顔。

 かつての焦燥も、罪悪感も、もうそこにはなかった。

 

「ずっと、こうしていられたらいいね」

 

 そう言われて、私は目を閉じた。

 ……ずっと、は続かないだろう。外の世界は滅びようとしている。都市は崩壊し、文明は衰退し、新型感染症が蔓延している。おそらくあと数年で、愚かで無能な私たち人間は地球上から消えるだろう。あとは待つだけでゴジラの勝利だ。

 いずれこの村にも終わりが来る。感染症が届くか、食料が尽きるか、あるいは――。

 

「……そうだね」

 

 でも、今それを言う必要はなかった。明日も、同じ日が続くだろう。朝の集い、教え、労働、祈り。そして、いつか終わりが来る。

 でも今は、まだ。私は目を開いた。

 

「ずっと、こうしていられたらいいね」

 

 私はイオリの手を握った。その手は、温かかった。




モンバスゴジラ、実は和製より好き。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。