2095年の初春のある日の夜は雨が降っていた。雨音が立つような雨ではなく、霧吹きを浴びせかけるような雨。七草弘一は書斎で当主としての決裁を回しつつ、ブラックの珈琲を飲んで思惟にふける。
冴種真由美、かつては七草真由美として生まれ、そのあまりの才覚ゆえに元々後継者として育てていた智一よりも次期当主に相応しいかと自分なりに目を掛けていた。しかし、ある日、言動が急変。言動がエスカレートしていく中で、当主であった自分の言う事を全く聞かなくなり、挙句の果てに離反。そのままクーデターを起こして此方の制裁の手をへし折り、名前から七の字を消して去った七草家におけるタブー、間違いなく七草家史上最悪かつ最強の魔女。
気圧のせいか全身が軋むように痛む。クーデターの際には彼女は一方的に容赦なく七草一家を病院送りになるまで叩きのめした。自分達が退院した時には全てが終わらされていた。
「第四次世界大戦が始まるかも知れない、か」
思えば、彼女が本格的におかしくなり始めたのは2089年のこんな雨の日、しばらく調子が悪そうな日が数日続いた後だった。彼女は第四次世界大戦について言及し、七草弘一はこれを聞き流した。彼女の言葉は今の所最悪の形では実現していない。しかし、沖縄と佐渡ヶ島への侵攻は起き、これに当初から迎撃の構えを見せていた娘は獅子奮迅の活躍を見せた。
娘に第四次世界大戦を危惧する言動が見られだしてからしばらくして、娘が一体何を見てしまったのかは、自前の情報網によって察しがついた。
娘が第四次世界大戦を危惧した出来事が何だったのか、察しがついた後も七草弘一は彼女の好きにさせた。家庭教師からの報告では、紛れもない天才でありながらもどこか魔法を学ぶことに消極的だった彼女が、鬼気迫る勢いで取り組むようになったとあり、素直に良い傾向であると思ってしまったからだ。
振り返ればどうも己は当時小学六年生の娘に既に見限られていたようだ。
沖縄と佐渡ヶ島、立て続けに起きた二つの侵攻に最初から第四次世界大戦の始まりを想定して備えて来ていた彼女は直感任せに家から手勢を連れて介入し、手勢の多くを戦死させながらも生き残り、戦果を挙げた。決め手となったのが彼女の魔法だったと判明した時はよくやったと素直に思った。この時すでに、娘の頭の中にあったのは英雄としての凱旋ではなく、次の敵に備えての潜伏だったと言うのに。
「どうしてこんなことをって?あんたこそ、いつまで中学二年生やっているつもりなのよ、この負け犬が!こんな負け犬のいう事を聞いていたら、勝てる戦いにも勝てやしない。例え氷海に身を投げ出すことになろうとも、タイタニックからは降りなければならない!」
気付けば疼痛は義眼で埋めている右目の眼窩を中心にしたものになっていた。2062年、七草弘一は当時14歳、国際魔法協会アジア支部主催の少年少女魔法師交流会にて、その中身を婚約者と共に喪った古傷である。
2095年の初春のじとじとした雨の日の夜。寝床に就こうとしていた冴種真由美はホットティーで喉を潤しながら、長い溜息を吐く。
「また夢を見てしまうのかしら。あの時も、こういう夜だったっけ」
冴種真由美にとって、夢とは最も厄介な時間の一つである。世の人間の大多数がそうであるように、夢を見ているときは、その知覚を制御することが極めて困難である。
普通の人間ならば、目を閉じて静かな環境で眠る、特にサウンドスリーパー*1を使っているときなんかは知覚を制御出来なかったところで、何の実害もありはしない。
だが。サウンドスリーパーが出すノイズが苦手な少数派にばっちり入っており、そもそもサウンドスリーパーを使ったところで外界から刺激を摂取することが全く難しくない自分にとって、知覚の制御を喪う夢はどんな事故が起きるか分からない。
夢を見ること、即ち知覚魔法の暴走そのものに致死レベルの自滅の可能性はほぼ皆無に近い。でなければ自分は多分とっくに死んでいる。だが。それでも事故は起きる時には起きるのだ。観測をする自分が自我を持つ以上、変な観測は自分を変えてしまう。今まで見ていなかったから見えていなかったものが見えるようになってしまう。
かつて自分が
とはいえ、眠いものは眠い。大人しく冴種真由美は床に就き、寝息を立て始めるのであった。案の定、起きた時の寝間着は嫌な汗で湿っていて、速攻で洗濯物に突っ込む羽目になった。
2095年度の新入生歓迎週間は、本来の予定よりも日程が一週間繰り下げられている。原因を一言で言うならば、2094年に冴種真由美がブランシュ日本支部を壊滅させた後の後始末、である。実の所、反魔法師政治組織を謳うテロリストであったブランシュ及び下部組織エガリテによる二科生を中心とした侵蝕は、真由美が早期発見して対処したことで部活一つを汚染しつくすような規模には至っていなかった。
だからこそ、第一高校の教師陣、生徒会、部活連、風紀委員はこの問題を隠蔽しなければならないほど酷い重大事ではなく、こういうことが起きたのだと周知して全国を巻き込んで大掃除をすべき出来事とみなした。その大掃除の煽りを受けて諸々のスケジュールが少しずつずれた結果がこの繰り下げである。
スケジュールの繰り下げは悪いことばかりではない。加熱する新入生勧誘競争を前に、それを抑える役割である生徒会と風紀委員会は準備時間が例年よりも長く取れた。司波達也の勧誘について鷹揚に構えられたのも、この余裕あっての話である。
「これは……やっぱり酷いですね」
「同感だ、実戦を見据えるなら自分の命を預ける得物の管理がなっていないのはどうかと思ってこれでも特化型CAD周りを一応片づけたんだが……流石に汎用型CADはそんなに知識がなくて全然手が付けられていない。分かるなら頼めるか?」
風紀委員の居室にて顔を合わせた司波達也と森崎駿。駿の側に達也が二科生だからと侮るような反応はない。達也はまた冴種真由美案件かとスルーしたが、実際の理由はもう少し複雑である。当時中学生の冴種真由美に遭遇し、森崎駿はこと自分のお家芸である先手必殺に対して真剣に向き合うようになった。
幾らCADを抜き放ち魔法を放つ速度が速かったところで、不意を突かれてCADを抜くまでの速度が遅かったら意味がないと言う当たり前の弱点を自覚し、それを潰すべく魔法と同様に体術や戦術など、魔法が直接関わらない分野にも熱心に取り組んできた。最近ではそれが実を結び、逆に相手の不意を突いて魔法に頼らずとも先手を奪う芸当も出来るようになってきたのだが。
そういうことを頭の隅に置きながら司波達也を観察してみれば、出てきた印象はなんだこいつやべえ、であった。恐らく系統としては自分達と同じ護衛に近いのだろうが、護衛対象に手を出す奴は絶対にぶっ殺してやると言う殺意が鞘に収まっているのだと、森崎は直感的に理解出来てしまったのだ。冴種真由美と言う脅威が近くにいなければ、森崎が気付くのはもう少し遅かっただろう。だが、例えその可能性が低いとはいえ、冴種真由美という怪物が傍にいると言う意識が司波達也を縛っていた。
とはいえ、鞘に殺意を収めている以上は咎める意味は無い。先輩たちの散らかしぶりに呆れ果てる思いは同感なので、自分が専門外で手を付けられなかった部分を頼めば、快諾してくれた。
「これなんか、旧式だがエキスパート仕様の高級品だぞ。調べた感じ、ちゃんと調整できる人がいればまだまだ現役でやれそうなんだが……、僕程度じゃCADの調整周りは自己診断が精々だ。手が回らん」
「その辺は俺の専門分野だから任せて欲しい。魔工師志望だからな」
ガラクタ扱いされていた山からサルベージしたお宝に森崎が磨ける人がいればと零し、司波達也が自分ならやれると言い切って森崎は何となく納得した表情を見せる。
「そっちの腕前は生徒会の司波さんがご満足いただける出来なのかな?」
「何故そう思った?」
「この前の授業で司波さんが授業用のCADの出来に大層ご不満そうだったからな。不満が出るほど良い技師の知り合いがいるのかってダメ元で聞いてみたら、すっごいいい笑顔で内緒だと言われてな。何となく司波じゃないかなと思っただけだ。無論、言いふらすつもりもCAD調整を頼む気もない。自分の命を預ける得物を信頼できるいい腕の身内に見て貰えるほど恵まれている司波さんが羨ましいとは素直に思うが、まあそれだけだ」
そう言うなり視線を逸らす森崎。本当にすっぱり割り切っているのだろう。その態度には好感が持てるが、それはそれとして、自分が関わらなければ母の教育の成果として完璧な淑女を演じることが出来るのが司波深雪だと達也は分かっている。それが授業用CADの出来に対する不満を森崎という然程親しくもないクラスメイトにも分かるレベルで漏らすとは、彼女に相当なストレスが溜まっていることを示唆する話であり、兄としては複雑な思いである。何せ、この問題の本質は自責による自傷、森羅万象から妹を守ると豪語したい己がどうやっても抗えない最悪の敵でもある。
母のガーディアンであった桜井穂波には、なんであんなところであっさり即死しやがったんだ馬鹿野郎と言う思いが今でもあるが、届きもしないのに吠える気にはなれなかったし、そもそも母に逆らって留まれば、或いは巡回を手早く済ませていれば、というたらればの呪いは自分にも突き刺さるものである。
「ライセンスはまだ持っていないからな。高く売りようがない以上、技術を身内割引や友人割引以外で安売りする趣味はこっちもないな」
「とはいえ、司波さんが九校戦に参加するつもりなら、レギュで得物が縛られるからこそ、信頼できる得物を調達できるように準備ぐらいはしておいた方が良いんじゃないか?先輩みたいに評価を稼ぐ意味が薄いから参加しないって言うなら話は別だろうけどさ」
「考えておこう」
そう零して会話を打ち切り、委員会の備品を整理しつつ、オペレーターとして始動する準備を始める達也であった。
生徒会の仕事を終えて兄と合流すべく生徒会室を出た深雪の目の前には、冴種真由美がいた。
「ごめんなさいね、驚かせてしまって」
「いえ、何か御用でしょうか、先輩」
空き教室に入った真由美は簡単な遮音結界を張る。
「先に言っておきましょうか。私の力には、結構厄介な弱点が存在するわ」
「弱点?」
「夢を見ているときに、私の知覚はほぼ確実に暴走する。七草家も含めて誰にも喋ったことはないけれども、貴女には知る権利が出来てしまったと判断したわ」
いきなりの弱点のカミングアウト。夢を見ると知覚が制御できないと言う弱点。何が弱点なのか、話が唐突過ぎて司波深雪には理解できなかった。
「6年近く前には、ベーリング海峡を挟んでUSNAと新ソ連が魔法師同士の戦争をしているのを東京に居ながらにしてこの目で目撃してしまったわ」
「
なんてものを目撃しているんだと司波深雪は思わず口から出た言葉を押さえつける。その言葉は、一般家庭出身という事になっている自分の口からは飛び出すはずのない呼び名だった。
「そして、1年前には生と死の境目で、あの世からこの世に生まれ、この世からあの世に還る魂の循環とでも呼ぶべきものを見ていたわ。それ自体は何度かある話なのだけれど、その時は、死にかけていた人と目が合ってしまったのよ」
「っ!?」
何が言いたいのかを理解してしまった深雪の背筋が総毛立つ。
「私の知覚能力は、恐らく人類が知覚し得るものに対して、何であっても簡単に慣れて適応出来てしまう。ただ、問題なのはそんな事が出来るのは多分私だけで、死にかけて自我の境界が危うくなっている人が私の世界を覗き込んでしまったら、壊れてしまうことは目に見えている話だった」
「……だから、お母様から魔法を奪ったのですか?」
「信じる、信じないは勝手よ。咄嗟の思いつきでやったことだし、自我の境界すら危うい半死人だったからこそ、魔法演算領域のコントロールを乗っ取って相手の精神構造干渉魔法で自我を再構築させると言う選択肢があった。勿論、ぶっつけ本番だったから、素人の生兵法以外の何物でもなかったし、自我の境界を再構築する上で、コンソールを返しながら操作を乗っ取り続けるなんて曲芸は到底無理だった。だから、私はあの人から精神構造干渉魔法を可能とする魔法演算領域を摘出して自分の精神に取り込んだわ」
そして、明かされた真実は叔母からの話より輪をかけてとんでもない話だった。母親が焼き切れたと証言した魔法演算領域は、実際には奪われていた。精神構造干渉魔法が母を蝕む病巣でもあったことは理解していたし、精神的に死にかけていたところから蘇生を試みる場合はそれくらいの荒療治は必要であろうと理解は容易かった。恐らくは病巣を取り除かれて延びてくれた余命のおかげで自分が貰えたものも少なくなかった。だが。だからといって己の心を凍り付かせることが出来るほど、司波深雪は大人ではない。母の遺骨を勝手に盗まれたようなものだ。
「……何故、明かしたのですか?先輩なら、私達がそれを先輩に気軽に問えるような状態ではないことを見抜いている筈です」
部屋は既に、極寒の冷気に包まれて凍り付いていた。恐らくは防御できるはずだろう冴種真由美は、一切それを防がずに表情一つ変えずに冷気に耐えている。
「どうしてかしらね。まあでも、結局の所大海が見える所に来てしまっても、蛙の子は蛙ということかしら。きっと、大した理由なんて無いわよ」
至極どうでも良さそうに、余人に理解させる気のない独白を吐きながら、真由美は告げる。この自白に大した意味は無い。司波深雪が入学後に母の最期に冴種真由美が関わっていたことを知ったこと、そしてそれが一発で冴種真由美に見抜かれたことは既にお互いの共通認識としてある。焼き切れた魔法演算領域ではなく、焼き切られて剝がされた魔法演算領域であったなどという真実の暴露は四葉の逆鱗を踏みかねない話であり、冴種真由美であれば、普通に隠すことも、なんなら捨てて闇に葬る事すら出来た筈だ。
「人類の例に漏れず、自分の心なんて、見えたところで理解が及び得ないものの最たるものだわ。……でも、もし返せと言われれば、今の私なら、技術的には可能よ。貴女のように、精神構造を観測できる器があるなら、ね」
深雪はしばし沈黙し、視線を落としたまま問いを投げかける。
「……先輩から見て、その時のお母様は、どのように見えていたのですか?」
真由美は一拍の間を置き、ふ、と息を吐くように語り始める。
「再構築されていく自我の中で、意識が朧げなまま――それでも、私のことを本気で恐れていたわ。『こんな化け物に、我が子らまで食われてたまるか』って、そんな声が聞こえてくるようだった」
目線を遠くに向ける彼女の言葉には、ほんのわずかな――だが確かな、自嘲が混じっていた。
「でもそのうち、何かがおかしいって気付いたみたい。私を恐れていた意識が、どこかで戸惑いを覚えて……けれど、その時にはもう限界だった。生と死の狭間から、私も彼女も現実に引き戻されて、夢は終わったわ」
母が――あの四葉の女とは何たるかを体現してその姿で自分に示してきた母が。感情が摩耗した身で尚、冴種真由美を「恐れていた」。深雪は唇を噛み締め、爪が掌に食い込むのも構わず拳を握りしめていた。怒りではない。否定したい気持ちでもない。ただ、言葉にできない――名前の付けようのない感情が、胸の奥に澱のように沈んでいた。母の欠片を、先輩が抱えているという事実。先輩が、母の命を長らえさせてくれたかもしれないという可能性。それでも、奪われたという実感が拭いきれないという矛盾。
(お母様……)
ふと、気付いた。我が子ら?
「一つ、聞きます。お母様は本当に、我が子
「腐っても社交大好き七草生まれ、元から人の感情の向き先を見切るのは得意よ。感情の方向性が二股に分かれていたのは確かに覚えているわ。片方は、自己矛盾らしきものに絡め取られてまずまともに表層意識に上がってくるようなものではなかったけれどもね?」
極限状況になって、漸く兄への親子の情が見える辺り、あの人らしいなと司波深雪は思ってしまった。親子としての愛を示されてきた娘だったから理解できる。自分への愛もどこかぎこちないところがあったと今ならわかる。司波深夜という人間は、愛情表現に関しては間違いなく不器用な部類とされる人だ。四葉に生きる柵がどれだけ愛情表現を難しくしているかは理解しているつもりだが。
いつの間にか、部屋の冷却は終わっていた。有り体に言うならば、興が削がれた。少なくとも、鬱憤をそのまま暴力として先輩にぶつける気にはなれなかった。結局のところ、喪ったものは取り戻せない。弱く愚かな自分は姉のようだった桜井穂波を死なせ、ひいては母の心の柱を折った。だが、墓の前で泣き続ける時分はもう終わりにしなければならない。自責による自傷は自分以上に、兄――致命傷すらなかったことにできる人になかったことにできない傷を刻み付けて泣かせてしまう行為だと自覚している。
「お母様の魔法演算領域は今しばらく、先輩に預けておきます。ですが……預けておくには私はあまりにも先輩を知らなさすぎます」
「それはそれとして一発殴りたいから殴らせろ、とでも言いたそうね」
「そうかもしれませんね。でも、先輩の自罰的な感情とか、そういうものに付き合う気はありませんよ」
「流石にバレているわね。偶に思うのよね。6年前のあの日から、第四次世界大戦に押し潰されないようにと空騒ぎに酔いながら足掻いてきて、3年前にそんなものまとめて簡単に吹っ飛ばせてしまいそうな本物の英雄の産声を聞いて漸く酔いが覚めた。その後はずっと悪足掻きの跡片付け。何だったんだろ、私の青春時代ってね」
四葉に母の魔法演算領域を返して貰った所で、自分が納得できる決着にはならない。そう理解した司波深雪は生まれて初めて、四葉に小さな裏切りを働くことにした。頭が冷えて、目の前の先輩が別に死んでも良いかと言う投げやりになっていることは理解できていたから指摘してみれば、帰って来たのは徒労感を伴うぼやき。怪物はどんなに怪物的でも同時にただの人間でしかなかった。
「私は先輩の独り相撲に何も返せる言葉はありませんが、先輩こそ、私達に文句の一つや二つあるのではありませんか?」
「そりゃあ、ねえ。無いとは言わないわよ」
「じゃあ、喧嘩をしましょうか」
「あら、生きが良いわね。何ともまあ、魔法師らしいというか、
結構いい評価を貰えているからこそ、感想乞食、評価乞食になる作者の思いがようやくわかって来た今日この頃。
と言う訳で、入学編ボスは司一から冴種真由美になりました。