いつも誤字脱字の報告ありがとうございます。
大変助かっております、一度書いた文面を見返すと、勝手に脳内保管してしまうので矛盾点などのご指摘も助かっております。
ある日のこと。
先生は一人、雨の降り止まぬアビドスを散策していた。
決して徘徊ではない。広いアビドスをより詳細に把握するための探索である。と、先生が自分の心に言い訳をしながら傘を片手に歩いていると。
「……おや。こんにちは、ここに来られる方がいるとは思いませんでした。道にでも迷われましたか? 『先生』」
”……あなたは? 私を知ってるんですか?”
「はい? ええ、もちろん存じております。我々ゲマトリアもあなたには大変注目しておりまして」
出会ったのは、アビドスの外れに開かれたささやかなカフェ、のような何か。
コーヒー有〼、とだけ書かれた看板が外に立てかけられ、恐る恐る中に入った先生を待っていたのは、黒いスーツにひび割れた黒い体を持つ異形の男だった。
一目でわかった。不審者だ。
「ゲマトリアは、まあ研究サークルとでも考えていただければ結構です。私の研究対象は、このアビドス」
”研究ですか。ここでどういった研究を?”
「ククク、大したことはしておりません。神秘が満ち、降りしきり、そして神秘に覆い尽くされた潤いの砂漠アビドス。この素晴らしき土地をただ観察しているのですよ」
”はあ……”
いまいちピンとこない先生に苦笑し、彼は先生へ席に座るよう促した。
「……ところで、ここへ来たのも何かの縁。いかがでしょう、よろしければ何か飲んでいかれますか?」
”ああ、外に書いてあった……”
「日々の探求は心動くことばかりですが、それはそれとして最近豆に凝っていまして……。ええ、そうです。コーヒーですよ」
豆の入った瓶を見せながら、彼が言う。
「挽き方、湯の温度、抽出時間。そしてもちろん豆そのものも。一つでも違えば全く違う味が出来上がる。何十年も一所に留まっていると、こういうものにも手を出してしまうもので」
”じゃあ、一杯お願いします”
「では、少しお待ちください。……ああ、ところで。このアビドスについて、色々とお調べのようですが」
”よくご存じですね……”
「情報収集は研究の基礎ですからね。本質を見出すためには、あの沼に手を伸ばすしかないでしょう。神秘の根源、全ての始まり、アビドスの中心地。今はオアシス沼と呼ばれるあそこにこそ、真実が眠っているのですから」
”オアシス沼……。あそこに、何かがあると?”
先生の瞳が男を見た。焙煎されたコーヒー豆の挽かれる音と香りが立ち上り、カーテンを掛けるように二人の間に立ち込めていく。
「……ククク、少しお喋りが過ぎましたか。しかし、なぜ今になってオアシス沼が急激に拡大したのでしょうね?」
”今までは広がってなかったんです?”
「ええ。もとより普通の沼ではないあの地が広がるということ。それが何を意味するのか……。実に興味深い事象だとは思いませんか?」
これだから学者は、と映画の中でそんな台詞と共に眉を顰める男の顔が思い出された。
彼らにとって興味のある事象は研究対象であり、そうでないものには関わる理由が見いだせないということなのだろう。
そんな話をしているうちに、いつの間にかコーヒーの抽出が終わっていた。
「お待たせしました、先生。どうぞ」
”ありがとう、いただきます。……ぅまい……”
「おや、そう言っていただけて何よりです。時間を割いただけの出来にはなったようですね」
”いや、本当に美味しい。……ああ、お代を”
「いえ、お代は結構ですよ。貴方と一言言葉を交わせただけでも、千金に値します。残念ですが先生、今日のところはそろそろ……」
”そうですか? ……ではお言葉に甘えさせていただきます。ところで、あなたのことを何とお呼びしたら?”
「……私の名前? いえ、ありませんね。必要だとも思いませんが……」
何かに思いをはせるようにそう言ってから、彼がふと思い出すように、
「ああ、ですが一度だけ。暁のホルスにこう呼ばれたことがあります。一度会っただけの相手ではありますが」
”暁のホルス?”
「アビドスの今の副会長、小鳥遊ホシノです。ですのでこうお呼びください。『黒服』と」
学校間での問題に発展しかけた(というか上の人間同士でのお話合いが出来なければそうなっていた)一件から時は経ち。
先生はアビドスの生徒たちにある提案を持ちかけていた。
「え、本校舎? 本校舎に行くの、先生? それは、ちょーっとおじさんお勧めしないなあ……」
「本校舎ですかー? 難しいと思いますよ?」
「なに、先生本校舎に興味あるの? めちゃくちゃ大変よ?」
「ん、あそこはもう沼の領域内だから、一人でいったらたぶん死ぬ」
「行くとしてもきちんと準備をして、全員で行かないと危険すぎます。というか、本校舎へ何をしに……?」
”本校舎に残っているかもしれない資料を回収したいんだ。アビドスの事情をもっと深く知るために必要だと思って”
先日、黒服に言われた言葉。
アビドスの本質を知るならオアシス沼に向かうしかないと。
そして本校舎はオアシス沼の近くに位置している。調べるのならまずはそこからだろうと辺りをつけたのだ。
結果は、まあこういうことだが。
「うへー、大したものは残ってないと思うけどなあ」
「りじおじの作戦に目途がついたら、本校舎への道も少し楽になるはず。その時じゃダメ?」
「そうだねー、それまで待てるならその方がいいよ。大丈夫大丈夫、校舎に足が生えて逃げ出したりはしないからさー」
おもむろに、シロコが紙へ何かを描き始める。それを眺めているうちにユメが入ってきた。
「おっはよー! あれ、みんな揃って何かあった?」
「おはようございます、何もないですよユメ先輩」
「ひぃん、ホシノちゃんが冷たい……」
「いや今のは普通でしょ……。あとなんでホシノ先輩は嘘ついたの……」
「嘘なの!?」
「先生が本校舎に用があるというので、カイザーPMCの作戦が終われば少し楽に行けるのでそれまで待ちましょうという話をしていたんです」
「あ、そうなんだ。理事さんも最近顔出してくれないし、忙しそうだよね……」
「ん……! 何か作って持っていこう」
ぴん、と紙から顔を上げてシロコが言った。
「差し入れってことですか?」
「そう。ついでに前線基地を私たちも使えるように約束を取り付ければ一石二鳥」
「いいかもしれませんね☆ それじゃあ、何を作りましょうか……?」
「クッキーとか?」
「ありきたり」
「えぇ……? じゃ、じゃあシロコちゃんは何作るの!」
「バッテリー流用EMP」
「スタンボムじゃん! それもう差し入れって言うか売り込みだよぉ!」
「ならワニを……」
「ホシノちゃん、どうしていつもワニ肉に固執するの……?」
「違います、肉は私たちで食べて、皮をあげるんですよ」
「ああ、加工すればなんちゃってブランド革になりますね♣」
「それ『頑丈だけど見てるとなぜか不安になる』って言われてダメになったやつ!!」
地元で消費されているものの、以前外に売り込んだ際に「なんか怖いんだよねこれ」だの「見えないところに使ってほしい」だのと散々に言われてブランド化を諦めた過去がある。
なにか良くないものを感じるらしい。
「じゃあ適当に機械獣でも狩って持ってく? 開拓の手伝いでも良さそうだけど」
「それは主題からずれちゃうから……。やっぱり食べ物系が一番手堅いですよね」
「むぅ……。でもクッキーはありきたりって言うでしょ?」
「ユメ先輩、人数分のクッキー焼いてたら今日終わっちゃいますよ」
「あー……」
「じゃあいっそ、矢でも手作りして持っていくとか? ほら、それなら私たち皆手慣れてるし……」
セリカの提案に、ユメは歯ぎしりしながら考える。
クッキーは実に女子高生らしい差し入れだが、役に立つと言えば矢の方だろう。
特に今は消費が激しいはずだから喜ばれるだろう。
そう考えに考えて、
「ぐぬぬ……。わかった! じゃあ私はクッキー焼くから皆は矢の手作りで!」
「私もクッキー係やりたい」
「シロコちゃん、今お腹空いてる?」
「空いてる」
「じゃあダメだね」
「なんで……!?」
愕然とするシロコ。今までの実績を鑑みれば当然である。
「もうつまみ食いする気しかないですね……♠」
「はいはい、シロコちゃんは私たちと一緒に矢の材料取りに行くよー。アヤネちゃん、矢柄の木ってどれくらい残ってたっけ?」
「ちょっと待ってください、今在庫表を……」
「あ、先生は私と一緒にクッキー作りだよ! このアビドス高校生徒会長の実力を見せてあげよー!」
”任せなさい、先生も腕を振るっちゃおう”
「お、腕に自信あり?」
”いや初めてだけど”
「……うん!」
「描けた」
”……シロコ、これは?”
「足の生えた校舎が駆け出す絵。力作」
”そっか……”
家庭科室。
矢作りのために皆と別れてやってきたユメと先生は、エプロンと頭巾をつけて準備完了。
「それじゃあ先生、とりあえずバターを出してくれる?」
”今から室温にするの? 時間がかからないかな”
「……うん、ほっといたら時間がかかるから、体温で!」
”えぇ……”
「あ、そんな嫌そうな顔しないでよー! ビニール手袋付けてバターを揉み揉みしてほしいの!」
”ああ、それで温度を上げながら柔らかくするんだね”
「そう! 前にケーキ屋のおばちゃんに教わったんだよね。バターやってもらってる間に準備しちゃうから!」
ユメに言われ、バターを丸々一つボウルに入れると、ビニール手袋をはめてぐい、ぐい、とバターをもみほぐしていく。
その横で、ユメは手際よく次の準備を進めていく。その様子を、先生はじっと見つめていた。
「薄力粉を振るって―、卵を白身と黄身に分けて―、砂糖も準備して—」
”じー……”
「……ぶふっ、せ、先生、バター練りながら真顔でこっち見るのやめて!? お、面白い……!」
”人の顔を見て笑うのは失礼だよ、ユメ君”
「ご、ごめ、ごめんってば……! 笑ってごめんなさい! はいバター、良い感じになったでしょ?」
そう言われ、手元のバターの感触が大分柔らかくなってきたのを伝えると、
「じゃあバターのボウルに砂糖をざばー! はい混ぜまーす!」
”混ぜるのは任せて”
「あ、先生がやる? はいどうぞ、結構力いるから頑張って!」
むん、むん、とバターと砂糖を手で混ぜ合わせていく。
ある程度混ざってきたところでユメが別の容器を傾け始めた。
「んー、そろそろかな? 分けた白身を少しずつバターに入れて、はいまだまぜまぜー。重たくなってきたら、薄力粉を加えるよー」
”量が量だから、結構、重たいねっ”
「でしょー。あ、先生変わろうか? 結構腕に来るよね」
”くっ、大人は無力だ……”
「これは慣れだからね……。あとはヘラで切るみたいに混ぜれば、生地の元が完成!」
一通り生地を纏めると、一塊になった生地の元が出来上がる。
先生が手袋を外し、二人が一度手を洗うと、
「うへへー、ここからはお楽しみのもみもみタイムだよぉ! さあ、先生も張り切って! 生地を素手でむに、むに、ぐい、ぐいっ! っと!」」
”うわ、初めての感触……”
「はーい、オッケー! それじゃあ生地をラップの上に移して、素手でざっくり伸ばしてー。ラップで挟んで、冷蔵庫にぼーん!」
冷蔵庫を閉めてタイマーをセットしたユメが一息入れる。
「はい、じゃああとは生地を休めるので少し休憩! 先生お疲れ様!」
”ユメもお疲れ様。ふう、腕がちょっとぷるぷるしてるよ”
「あはは、初めてでほとんど機械使わなかったから大変だよね。あ、あったかいものどうぞ。って言ってもインスタントのお茶だけど」
”ありがとう。……うん、美味しい”
二人して椅子に座り、タイマーがゆっくりと進む中で穏やかな時間が流れていく。
音は外の雨に吸い込まれて消えてしまう。ここ以外の全てが失われてしまったような恐怖すら掻き立てるような静寂だった。
そんな中で、ユメがぽつりとつぶやく。
「……ねえ先生。ちょっと、相談してもいいかな?」
”もちろん”
「私はさ、今でこそホシノちゃんたちに先輩って言われてるけど、本当はもう卒業してるはずだったんだ。って、知ってると思うけど」
ユメがうつむきがちになりながら語り始めたのは、自分の身の上だった。
このキヴォトスでも珍しい、成人した高校生。
「遭難して、その時の怪我と衰弱で入院して。リハビリして、ってやってるうちにホシノちゃんが三年生になって」
「留年して戻ってきたときには、ホシノちゃんが同級生になっちゃった」
「もちろん、嬉しくないわけじゃないよ? 新しい生徒も増えて、アビドスはまだまだ頑張れるって思ってる」
「だけど、私はどうすればいいだろうって思っちゃうときがあってね?」
軽く笑いながら、
「ほら、私ってもう、年齢としては大人なわけで。大人として、アビドスの皆に、ホシノちゃんたちに、してあげられることはないのかなって思っているわけです」
しん、とユメの言葉が途切れる。
「……な、なーんて! あはは、ちょっと重いよね! ごめんね!」
”ユメは、先生に興味はない?”
「ナンパ!?」
”そうじゃなくてね……。アビドス高校の『先生』を目指してみる気はない?”
先生は言葉を纏めながら、ユメに向き合った。
真っすぐに彼女の瞳を見つめ、アビドスの生徒たちを考えながら口を開く。
”アビドスの皆は、凄くたくましくて、自分の力で立つ方法を知っている子たちだ。だけど、だからって誰かに頼っちゃいけないなんてことはない”
”ユメ、君がその『頼れる誰か』になりたいなら、先生になるのもいいと思うんだ”
「私が、先生に……」
”もちろん、ユメがそうしたいなら、という前提だけれど”
話のタネ、くらいにでも考えておいて。先生はそう言って、それからお茶をぐい、と飲み干す。
先生になる。生徒会長としてみんなの前に立つのではなく。
『先生』のように、皆の背中を押してあげられるようになる。
それは、きっとすごく素敵な未来で。
「……うん、でもやっぱり、私には向いてないよ」
”どうして?”
「だって、私はどんくさいし、いつもホシノちゃんに怒られてるし。……誰かの道を支えられるほど、私は強く居続けられないと思う」
ただでさえ、一度死にかけているのに。どうして自分を信じて、誰かを導くような存在になれるというのだろう。
そう言うと、先生はまたはにかんだ。
”ずっと強く居られる人なんていないよ。私もそうだし、きっと他の皆もそうなんだ”
「先生も……?」
”うん。だけど、意地を張った先に見たい景色があるから、いつだって頑張れる。生徒の皆が、自分で選択し、自分の未来に責任を持てるように成長する。そんな景色が見たいから”
「……うーん、やっぱり私にはちょっと荷が重いかも」
”そっか。ううん、いいんだよ。自分にはできないと考えるのは無責任じゃない、それは自分をちゃんと見ている証拠だから”
こくり、と頷くと、先生も同じようにして、それからマグカップをテーブルの隅に置いた。
”ユメ、どんなものでもいいんだ。貴方は、貴女のなりたい貴女になれる。それを忘れないで”
「……うん。ありがとう、先生。──さ、クッキー作りのラストスパートやろっか!」