あいつぶっ殺そうぜ   作:キューブケーキ

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その後

 安土城・上洛殿。

 霧煙る未明の盆地を見下ろしつつ、織田信長は机前に腰を据えていた。

 燭の火は静かに揺れ、筆先が白紙に影を落とす。

 机上に並ぶは三通の文案。いずれも家中の行く末を左右する命文である。

 一通目は信雄、次に信孝。そして、最後は津田信澄の名が記されていた。

 しばし筆を止め、信長は三名の名を見比べる。

(信雄は凡庸。信孝は才あるも偏り過ぎておる。いずれも器には欠ける)

 信長にとって家督とは、単なる血筋の承継ではなかった。

 それは乱世を制し、天下を保つ器を有する者にのみ許される大命であった。

(……であれば、澄よ。お前しかおらぬ)

 津田信澄――信長の実弟・信行の遺児である。

 かつて敵対し自らの手で弟を屠った信長にとって、その子は本来ならば遠ざけられるべき存在であった。

 だが信澄は生き残り、怨むことなく剣を磨き家中に忠節を尽くした。勇も才も備え、慎みを知る。

 そして己が宗家の嫡子に非ざることを自覚しながら、黙して職分を果たす姿に、信長は心を動かされていた。

「……澄を、棟梁と定めよう」

 小さく呟いた声を、背後に控える右筆の武井夕庵が聞き取った。

「左様に……」

 信長は迷いを断ち、三通の文を破り捨て、新たな朱書状を起こす。

 その文面は、簡潔にして決然たるものであった。

 

 

 

《命令》

 

 

 織田惣領家は、信澄これを継ぐべし。

 但し、三法師には屋敷一棟を与え、家名の名目を保たしむ。

 信雄、信孝は一門として遇すれど、跡目には非ず。

 

 信長 朱印

 

 

 

 この報が家中に伝わると、瞬く間に動揺が広がった。

 信雄は烈火の如く怒り、信孝は沈黙のなかに憤りを滲ませた。

 柴田勝家は「正気か」と呟き、丹羽長秀は肩をすくめる。

 羽柴秀吉のみが表情を崩さなかったが、笑うこともなかった。

「……あの方らしい御采配じゃ。最も厄介な札を切られたのう」

 信澄は一言も泣かなかった。ただ、信長が残した「天下を保て」の言葉を深く胸に刻んだ。

 

 

 

 

 安土城・天主二階、黄金の間。

 正面に座す信長が、二人の実子を見下ろす。

 右手の信雄は目を充血させ、膝上の拳が震えていた。左手の信孝は唇を引き結び、怒気を瞳に宿していた。

「澄に家を継がせる。それがわしの裁可じゃ」

 信雄が叫ぶ。

 

「父上、それはおかしい……! われら、実子にございます!」

 信長のまなじりが微かに吊り上がる。だがまだ親子の情はある。

「……それが、何じゃ」

 信孝が低い声で続けた。

「せめて、納得のいく理由を賜りとうございます」

 信長は立ち上がり、金襖の前に進むと、黙然とブラックバスの存在しない湖面を見やる。

「おぬしらは家を継ぐに足らぬ。器ではないからじゃ」

 信雄が喰らいつく。

「それは……偏見です! 試されたこともございませぬ!」

「試すに及ばぬ。信忠が斃れた今、わしは家を託すに足る者を見極めねばならぬ」

 やがて振り返った信長の眼差しは、父ではなく裁定者のものとなっていた。

「澄は、かつてわしに殺された弟の子よ。されど、その価値は殺したからこそわかる」

 続けざまに言い放つ。

「……この命に背くか?」

 沈黙のなか、信孝が口を開く。

「父上。あなたは、あまりにも……」

 その言葉を遮るように、信長は右手を上げた。

「信雄、信孝。ここで申せ。従うか、否か」

 視線が交錯し、やがて信孝が絞り出すように言った。

「……従えませぬ」

 信雄もそれに続いて頷いた。

 信長は微かに嘆息し、静かに告げた。

「ならば、切腹せよ。織田の名を穢すわけにはいかぬ」

 ――その日の午後、信雄、信孝は自邸にて腹を切った。

 介錯役は、丹羽長秀、前田利家の両名に命じられた。

 あえて病等と伏せずに、その報は布令として諸将に下された。

  織田家に逆らう者、たとえ我が子といえど容赦せぬ。澄こそ棟梁と定まれり。これに異を唱うる者、逆臣と見なす。

 

 

 

 ――安土城・西の間。ここは平時、戦功の報告や奏者の謁見が行われる広間である。

 この日、織田家の宿老が顔を揃えていた。

 柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、前田利家――その列に羽柴秀吉の姿もあった。

 信長が現れると、誰一人として異を唱えず、ただ静かに膝を正した。

「……家を保つための裁断よ」

 信長の声は、決して高くはなかった。だが、誰の耳にも深く染み渡った。

「澄に迷いあらば、そなたらが導け。これは情ではない。理の選びじゃ」

 沈黙のあと、柴田勝家が重々しく頷いた。

「御尤も。信雄様は戦を見誤り、信孝様は情に流されましたれば……殿の御判断、しかと承りました」

 利家が静かに言った。

「家を保つことの重み、今にして知り申した」

 秀吉は、事務的に口を開く。

「澄様には、しかるべき家臣が要りまする。政務の布令、早急に」

 信長は頷くのみであった。

 ――かくして、織田家は理によって新たな棟梁を迎えた。

 信長は政務の一切を信澄に委ね、自らは山科に隠棲する。

 濃姫とともに、わずか三十の供回り。家老も側近も伴わぬその姿は、引退と呼ぶにはあまりに唐突で、あまりに静謐であった。

 だが隠棲は敗退ではなかった。

 時に政の背後から、信長は重臣を通じて軍制や刑律、外交に助言を与えた。

 信澄はそれを「前殿のご高見」として受け入れ、織田家は名実ともに津田信澄の時代へと移行する。

 信長はまた、かつて敵視した寺社・朝廷との和解を進めていった。

 比叡山には新たな僧録制度を導入し、冷泉家・中院家には再興資金を下賜。

 吉田兼見との往復文書は再開され、後陽成天皇への伺候も度重ねられた。

「奪うのではなく、保つことが今の天下よ」

 信長はそう語った。

 かつての剣は鞘に収められたが、その刃はなお、磨かれていた。

「……澄を誤らせた者あらば、そなた、またわしに刀を取らせよ」

 濃姫だけが聞く、その呟きに隠された爪の鋭さが宿っていた。

 信長は隠れたのではない。潜んでいたのである。

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