ぼく、メタモン   作:輸出企業カイオーガ

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ぼくとピクシー

 

月の出ない夜だった。

 

 空は黒い布を何枚も重ねたみたいに厚く、星だけがぽつぽつと針穴のように光っていた。

 おつきみ山の入り口に立つと、ひんやりした風が洞窟の奥から吹いてきて、僕の頬を撫でた。

 

「……本当に、ここにいるのかな」

 

 僕は小さくつぶやいた。

 

 探しているのは、ピッピだった。

 

 数日前、街のポケモンセンターで聞いた話だ。

 おつきみ山の奥で、傷ついたピッピが一匹、仲間からはぐれているらしい。夜になると洞窟の奥から鳴き声が聞こえる。けれど、人間が近づくとすぐ逃げてしまう。

 

 山に詳しいおじさんは言った。

 

「ピッピは臆病だが、心を許した相手にはとことん懐く。だがな、あいつらには月が必要なんだ」

 

「月?」

 

「ああ。月の光と、月の石。あれはピッピにとっちゃ、ただの進化の道具じゃねえ。故郷のかけらみたいなもんだ」

 

 その言葉が、ずっと頭から離れなかった。

 

 僕はライトをつけ、洞窟に入った。

 

 中は思ったよりも広かった。壁は湿っていて、ライトの光を受けると銀色にぬらぬら光る。足元には小さな石が転がっていて、踏むたびにぱきり、こつん、と乾いた音が響いた。

 

 しばらく進むと、どこか遠くから声が聞こえた。

 

「ぴ……」

 

 僕は足を止めた。

 

 ライトをそっと下げる。

 

「ピッピ?」

 

 返事はない。

 

 けれど、また聞こえた。

 

「ぴぃ……」

 

 泣いているような声だった。

 

 僕は声のする方へ進んだ。岩の隙間をくぐり、細い道を抜ける。途中、ズバットがばさばさと飛び出してきて、心臓が跳ねた。何匹かのイシツブテが壁際で丸くなっていて、こちらを眠そうに見ている。

 

 そして、洞窟の奥。

 

 広場のように開けた場所に出た。

 

 天井には大きな穴が空いていた。そこから、夜空が丸く切り取られて見える。月はまだ出ていない。ただ、星明かりだけが静かに降っていた。

 

 その真下に、ピッピがいた。

 

 小さな丸い体を抱えるようにして、岩陰に座り込んでいた。耳はぺたんと伏せられ、短い腕には擦り傷がある。近くには木の実がいくつか落ちていたけれど、ほとんど手をつけていないようだった。

 

「大丈夫?」

 

 僕が一歩近づくと、ピッピはびくりと震えた。

 

「ぴっ!」

 

 逃げようとして、足をもつれさせる。痛めているのか、右足を地面につけた瞬間、顔を歪めた。

 

「待って。何もしないよ」

 

 僕はリュックからきずぐすりとオレンのみを出した。

 

 ピッピはじっとこちらを見ている。黒い瞳に、ライトの光が小さく映っていた。怯えと警戒が混ざったその目は、まるで「信じたいけど、信じるのが怖い」と言っているみたいだった。

 

 僕はきずぐすりを地面に置いた。

 少し離れて座る。

 

「使っていいよ。僕はこっちにいるから」

 

 ピッピは動かなかった。

 

 洞窟の中に、ぽたり、と水滴の落ちる音が響く。

 

 長い時間が過ぎた気がした。

 

 やがてピッピは、そろそろと手を伸ばした。きずぐすりを拾い、不器用に自分の腕へかける。

 

「ぴっ……」

 

 少ししみたのか、肩をすくめた。

 

 僕は笑わないように口を結んだ。

 笑ったら怒られそうだったからだ。

 

「上手だね」

 

「ぴ」

 

 ほんの少しだけ、返事みたいな声が返ってきた。

 

 それから毎晩、僕はおつきみ山へ通った。

 

 最初の夜はきずぐすりを置くだけ。

 二日目はオレンのみを渡せた。

 三日目には、ピッピは僕が近くに座っても逃げなくなった。

 

 ピッピは不思議なポケモンだった。

 

 明るい場所は苦手なのに、星の光は好きだった。

 大きな音には驚くのに、僕が小声で話す物語には耳を傾けた。

 木の実は小さくかじるのに、甘いポフィンだけは頬いっぱいに詰め込んだ。

 

「それ、そんなに好き?」

 

「ぴっぴ!」

 

 ピッピは両手を上げた。

 好き、という意味らしい。

 

 僕が笑うと、ピッピも目を細めた。笑ったのかどうかは分からなかったけど、少なくとも最初の夜よりずっと柔らかい顔になっていた。

 

 けれど、ピッピは洞窟の外には出ようとしなかった。

 

 入り口の方へ行こうとすると、すぐ立ち止まる。

 空を見上げて、それから奥を振り返る。

 

「仲間を待ってるの?」

 

「……ぴ」

 

 ピッピは小さくうなずいた。

 

 おつきみ山のピッピたちは、満月の夜になると集まって踊るという。

 だけどこのピッピは、前の嵐の日に足を怪我して、群れからはぐれてしまったらしい。

 

 月の出ない夜が続いていた。

 

 空はずっと雲に覆われ、満月は近づいているのに、肝心の月明かりが見えない。

 

 ピッピは毎晩、天井の穴を見上げていた。

 

 その横顔は、少し寂しそうだった。

 

「月が見たいんだね」

 

「ぴぃ……」

 

 僕には、その声が胸の奥に残った。

 

 四日目の夜。

 

 僕は街の道具屋で買った小さなランタンを持ってきた。光が強すぎないように、青い布をかぶせてある。

 

「月みたいにはいかないけど」

 

 ランタンを地面に置くと、洞窟の広場が淡く照らされた。青白い光が岩肌に広がり、ほんの少しだけ夜空の色に似た。

 

 ピッピは目を丸くした。

 

「ぴ……?」

 

「偽物の月。ちょっと不格好だけど」

 

 僕が言うと、ピッピはランタンの周りをゆっくり歩いた。

 一歩、二歩。

 怪我した足はまだ少しぎこちない。

 

 それでもピッピは、くるりと回った。

 

「ぴっ」

 

 小さな声。

 

 もう一度、くるり。

 

 それは踊りだった。

 

 星のない夜に、月のない洞窟で、ピッピは一匹で踊った。

 ぎこちなくて、時々ふらついて、それでも一生懸命に腕を振る。

 僕は息をするのも忘れて見ていた。

 

 その姿は、弱々しいのに、なぜかとてもまぶしかった。

 

「上手だよ」

 

 そう言うと、ピッピは照れたように耳を揺らした。

 

 その時だった。

 

 洞窟の奥から、低い音がした。

 

 ごご、と岩が震える。

 

「地震?」

 

 違う。

 

 足音だ。

 

 大きな影が、暗闇の奥から現れた。

 

 イワークだった。

 

 巨大な岩の体が、洞窟の壁をこすりながらこちらへ進んでくる。どうやらランタンの光に驚いて、縄張りを荒らされたと思ったらしい。

 

「まずい……!」

 

 僕はピッピの前に立った。

 

 イワークが咆哮する。洞窟中がびりびり震え、天井から小石が降ってきた。

 

「逃げよう!」

 

 ピッピを抱き上げようとした瞬間、イワークの尾が横薙ぎに振られた。

 

 僕はとっさに身を伏せた。

 風圧が頭上を通り過ぎ、ランタンが弾き飛ばされる。青い布が裂け、光が激しく揺れた。

 

「ピッピ!」

 

 ピッピは僕の腕から飛び出していた。

 

 小さな体で、イワークの前に立っている。

 

「だめだ、危ない!」

 

「ぴっぴ!」

 

 ピッピは両手を広げた。

 

 その瞬間、淡い光がピッピの体を包んだ。

 

 ゆびをふる。

 

 ピッピの指先が小さく揺れた。

 何が出るか分からない技。頼れるけれど、頼りきれない、運命のくじ引きみたいな技。

 

 光が弾けた。

 

 次の瞬間、洞窟の床から無数のツタが伸びた。

 

「くさむすび……?」

 

 ツタはイワークの体に絡みついた。巨体が前のめりに倒れ、地面に激突する。洞窟がどすんと揺れた。

 

「今だ!」

 

 僕はピッピを抱えて走った。

 

 細い道に飛び込み、岩陰へ隠れる。イワークは怒って暴れたが、巨体ではこちらの小道に入れない。しばらく唸っていたが、やがて諦めたように奥へ戻っていった。

 

 僕はその場に座り込んだ。

 

「助かった……」

 

 腕の中のピッピを見る。

 

「すごかったよ。ピッピ」

 

「ぴ……」

 

 ピッピは得意げに胸を張ろうとして、すぐにへなへなと力を抜いた。怖かったのを我慢していたらしい。

 

 僕は笑って、そっと頭を撫でた。

 

「怖かったよね」

 

「ぴぃ……」

 

「でも、勇敢だった」

 

 ピッピは顔を僕の服に押しつけた。

 

 小さな体が、まだ震えていた。

 

 その夜、洞窟を出る直前だった。

 

 崩れた岩の下で、何かがきらりと光った。

 

 僕は足を止めた。

 

「ん?」

 

 手で石をどかす。

 そこにあったのは、丸くて不思議な石だった。淡い光を内側に閉じ込めたような、白とも銀とも言えない色。

 

 月の石。

 

 僕は息を呑んだ。

 

 ピッピもそれを見て、動きを止めた。

 

「……これ」

 

 ピッピはゆっくり近づいた。

 小さな手で、月の石に触れる。

 

 すると石がほんのり光った。

 

 ピッピの体も、同じように淡く輝き始める。

 

 進化する。

 

 そう思った。

 

 ピッピからピクシーへ。

 

 きっと、それは自然なことなのだろう。

 月の石を見つけたピッピが、月の力を受けて進化する。図鑑にも載っている。誰でも知っている。

 

 けれど、ピッピは手を離した。

 

 光が消える。

 

「……進化しないの?」

 

「ぴ」

 

 ピッピは首を横に振った。

 

 僕は少し驚いた。

 

「どうして?」

 

 ピッピは月の石を見つめた。

 そして、洞窟の天井を見上げた。

 

 そこにはまだ月はない。

 

 雲に隠れた空だけが、黒く沈んでいた。

 

「仲間と一緒がいいの?」

 

「ぴっぴ」

 

 ピッピはうなずいた。

 

 それはたぶん、こういう意味だった。

 

 一人で強くなることはできる。

 一人で進むこともできる。

 でも、自分にとって大切な瞬間を、誰にも見てもらえないまま終わらせたくない。

 

 僕は月の石を拾い、ピッピに差し出した。

 

「じゃあ、預かっておく?」

 

「ぴ?」

 

「満月の夜まで。君が仲間に会えたら、その時に返すよ」

 

 ピッピはじっと僕を見た。

 

 疑う目ではなかった。

 

 確かめる目だった。

 

 僕は月の石を両手で包んだ。

 

「約束する」

 

 ピッピは少し考えてから、こくりとうなずいた。

 

 それから満月の夜が来た。

 

 その日は朝から晴れていた。

 夕方になっても雲は増えず、空は少しずつ藍色に沈んでいった。

 

 僕はいつもより早くおつきみ山へ向かった。

 

 ピッピは広場で待っていた。怪我はほとんど治っていて、足取りも軽い。僕を見ると、ぱっと表情を明るくした。

 

「ぴっぴ!」

 

「待たせたね」

 

 僕はリュックから月の石を取り出した。

 

 その瞬間、洞窟の天井から月光が差し込んだ。

 

 満月だった。

 

 大きく、白く、静かで、少し怖いくらい美しい月。

 その光が広場の中心へ落ち、月の石をきらきらと輝かせた。

 

 そして、声が聞こえた。

 

「ぴっ」

 

「ぴぴっ」

 

「ぴぃ」

 

 岩陰から、次々とピッピが現れた。

 

 一匹、二匹、三匹。

 小さな影が月明かりの下へ集まってくる。

 

 はぐれていたピッピは、目を見開いた。

 

「ぴ……」

 

 仲間たちが近づく。

 最初は恐る恐る。

 次に駆け足で。

 

「ぴっぴ!」

 

 ピッピたちは一斉に集まり、はぐれていたピッピを囲んだ。

 押し合い、抱きつき、跳ね回る。

 小さな歓声が洞窟いっぱいに広がった。

 

 僕は少し離れて、その様子を見ていた。

 

 胸の奥がじんわり温かくなった。

 自分が何かすごいことをしたわけではない。ただ、傷ついた小さなポケモンに、きずぐすりを置いただけ。偽物の月を灯しただけ。月の石を少し預かっただけ。

 

 それでもピッピは、こちらを振り返った。

 

「ぴっぴ」

 

 僕は月の石を差し出した。

 

「約束、返すよ」

 

 ピッピは両手でそれを受け取った。

 

 月光が強くなる。

 

 ピッピたちは輪になった。

 はぐれていたピッピが、その中心に立つ。

 

 踊りが始まった。

 

 一歩、二歩。

 くるり、くるり。

 月明かりの上で、ピッピたちが跳ねる。

 洞窟の床に映る影まで楽しそうだった。

 

 やがて、中心のピッピが月の石を胸に抱いた。

 

 光があふれた。

 

 眩しくて目を細める。

 けれど、僕は目を逸らさなかった。

 

 小さな体が光の中で形を変えていく。長くなった耳ふわりと広がる翼のような腕、少し大きくなった姿。

 

 光が消えた時、そこにいたのはピクシーだった。

 

「ぴくしー……」

 

 ピクシーは自分の手を見つめた。

 それから、仲間たちを見た。

 最後に、僕を見た。

 

 僕は笑った。

 

「綺麗だね」

 

 ピクシーは少し照れたように目を細めた。

 

 その夜、ピクシーたちは月が沈むまで踊った。

 

 僕は岩に腰かけて、それを眺めていた。

 途中で眠くなったけれど、帰る気にはなれなかった。まぶたが落ちそうになるたび、ピクシーが近づいてきて、僕の膝をぽんぽんと叩いた。

 

 起きて。

 見ていて。

 

 そんなふうに。

 

 夜明け前、ピクシーは僕の前に立った。

 

 仲間たちは洞窟の奥へ戻り始めている。

 

「行くんだね」

 

「ぴく」

 

 ピクシーはうなずいた。

 

 僕は少しだけ寂しかった。

 

「元気でね」

 

 ピクシーは僕の手を取った。

 小さな指が、僕の掌に何かを置く。

 

 それは、月の石の欠片だった。

 

 丸い石からこぼれ落ちたような、小さな銀色の欠片。

 満月の光を閉じ込めたみたいに、ほのかに輝いている。

 

「くれるの?」

 

「ぴくしー」

 

 ピクシーはにっこり笑った。

 

 今度は、はっきり分かった。

 笑っていた。

 

 そしてピクシーは仲間たちの方へ走っていった。

 一度だけ振り返り、手を振る。

 

 僕も手を振った。

 

 ピクシーの姿は、洞窟の奥の暗闇へ消えていった。

 

 帰り道、空は薄紫色に明けていた。

 

 おつきみ山の入り口から外へ出ると、街の屋根が朝日に照らされていた。ポッポが鳴き、草むらではコラッタが走り回っている。

 

 僕はポケットの中の月の石の欠片に触れた。

 

 少しだけ温かい気がした。

 

 たぶん、月の石は進化の道具だ。

 

 でも、それだけじゃない。

 

 誰かが変わろうとする瞬間を照らすもの。

 一人では怖い夜に、そっと光ってくれるもの。

 そして、別れのあとにも残る、小さな約束の形。

 

 僕は振り返った。

 

 おつきみ山は、朝の光の中で静かに眠っていた。

 

 また満月の夜になったら、来てみようと思った。

 会えるかどうかは分からない。

 

 けれど、きっとどこかで、あのピクシーは踊っている。

 

 月の下で。

 仲間たちと一緒に。

 

 そしてたぶん、ほんの少しだけ、僕のことも覚えていてくれる。

 

 ポケットの中で、月の石の欠片がかすかに光った。

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