ぼく、メタモン   作:輸出企業カイオーガ

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あーしはフシギダネ

 

 あーしはフシギダネ。

 

 ずっと、ここにいる。

 

 ここは、丘の上に建った小さな家だった。白い壁に赤い屋根。窓のそばには風鈴があって、夏になると、ちりん、ちりん、と鳴った。庭には木の柵があって、その内側に、あーしとあの子が作った花壇があった。

 

 あの子は、あーしのトレーナーだった。

 

 小さな手で土を掘って、汗を鼻の頭につけて、泥だらけになって笑う子だった。

 

「ここに花がいっぱい咲いたらさ、フシギダネ、きっと町からでも見えるよ」

 

 そう言って、あの子は種をまいた。

 

 あーしは横で、背中のタネを揺らしながら見ていた。土の匂いが好きだった。濡れた土。陽を吸った土。あの子の手の温度が混ざった土。

 

 花壇の世話は、あーしとあの子の仕事だった。

 

 朝は水やり。昼は草抜き。夕方は、花びらについた虫をそっと逃がす。あの子はよく歌っていた。歌詞はいつも途中で変わった。昨日は冒険の歌だったのに、今日はカレーの歌になって、明日はたぶん寝坊の歌になる。

 

 あーしはそれを聞くのが好きだった。

 

 あの子の声があると、花壇の花はよく咲いた。

 

 赤。黄。白。青。

 

 風が吹くと、花たちは一斉に首を振った。まるで、あの子に返事をしているみたいだった。

 

「きれいだね、フシギダネ」

 

 あーしは鳴いた。

 

「ダネ!」

 

 あの子は笑った。

 

「うん。お前もそう思うよな」

 

 その顔が、あーしの世界の真ん中だった。

 

 だから、あの子が帰ってこなくなった日から、世界は少しずつ傾いていった。

 

 最初は、すぐ帰ってくると思っていた。

 

 町の病院に行っただけだと、あーしは聞いた。あの子は少し体が弱かった。走ると咳をした。長く歩くと、膝に手をついて休んだ。それでも冒険に行きたいと言って、リュックに地図を詰めたり、バッジケースを磨いたりしていた。

 

「強くなるからさ」

 

 あの子はよく言った。

 

「フシギダネと一緒に、いろんな場所を見るんだ」

 

 けれど、その日、あの子は帰ってこなかった。

 

 一日待った。

 

 二日待った。

 

 三日目の朝、花壇の土が乾いていたから、あーしは自分で水をやった。

 

 つるを伸ばして、古いジョウロを引っ張って、井戸のそばまで運んだ。重かった。何度も倒した。水は半分以上こぼれた。それでも花壇にかけた。

 

 だって、あの子が帰ってきた時、花がしおれていたら悲しむから。

 

 家の中では、大人たちが静かに泣いていた。

 

 あーしはよくわからなかった。

 

 泣くなら、あの子が帰ってきてからでもいいのに。

 

 そう思っていた。

 

 しばらくして、家から人がいなくなった。

 

 風鈴だけが残った。

 

 ちりん。

 

 ちりん。

 

 夏が過ぎた。

 

 秋が来た。

 

 冬には雪が積もった。花壇は白く埋まった。あーしは雪を払った。冷たかった。足が震えた。でも、土の下には根っこが眠っている。あの子が植えた命が、まだそこにある。

 

 春になると、また芽が出た。

 

 あーしは嬉しくて、庭を何周も走った。

 

「ダネ! ダネダネ!」

 

 でも、あの子はいなかった。

 

 花は咲いた。

 

 あの子はいなかった。

 

 次の年も、あーしは待った。

 

 その次の年も待った。

 

 雨漏りで屋根が黒くなった。白かった壁は灰色になった。窓ガラスが割れて、風が家の中を通り抜けるようになった。風鈴はいつの間にか落ちて、縁側の隅で鳴らなくなった。

 

 それでも花壇はあった。

 

 あーしが守っていた。

 

 草を抜いた。土を返した。落ち葉を集めた。冬には霜を払った。夏には水を運んだ。台風の夜には、花壇の前に立って、飛んでくる枝から花を守った。

 

 誰かが見ているわけじゃない。

 

 褒めてくれる子もいない。

 

 でも、あーしは守った。

 

 だって、ここは約束の場所だったから。

 

 あの子が帰ってくる場所だったから。

 

 何年も経った。

 

 町は変わった。

 

 丘の下に新しい道ができた。見知らぬ大きな建物が建った。昔、あの子が好きだったパン屋はなくなって、看板の文字も消えた。旅人たちの服も、持っている道具も、少しずつ変わっていった。

 

 あーしだけが、同じ場所にいた。

 

 若かった体は、いつの間にか重くなった。

 

 走ると息が切れた。つるの伸びも遅くなった。背中のタネは大きく、固く、古い木の根みたいにあーしの体に馴染んでいた。

 

 それでも待った。

 

 朝になれば、丘の道を見た。

 

 昼になれば、花壇の世話をした。

 

 夕方になれば、家の前に座って、遠くの町の灯りを眺めた。

 

 夜になれば、夢を見た。

 

 あの子が帰ってくる夢。

 

「ただいま、フシギダネ」

 

 あーしは夢の中で、いつも走った。

 

 けれど目が覚めると、そこには割れた窓と、伸びた雑草と、静かな朝があるだけだった。

 

 ある年から、花が咲かなくなった。

 

 葉は出る。

 

 茎も伸びる。

 

 でも、蕾がつかない。

 

 あーしは焦った。

 

 水が足りないのかと思って、いつもより多く水をやった。土が疲れたのかと思って、森から腐葉土を運んだ。日当たりが悪いのかと思って、覆いかぶさっていた枝をつるで折った。

 

 それでも、花は咲かなかった。

 

 花壇は、緑だけの場所になった。

 

 あーしはその前に座って、長い時間、動けなかった。

 

「……ダネ」

 

 声が小さくなった。

 

 あの子が帰ってこないことを、あーしは本当はわかっていた。

 

 でも、わかりたくなかった。

 

 待っていれば、いつか丘の道の向こうに小さな影が見えると思っていた。

 

 あの子が、少し大人になって、少し背が伸びて、でも昔と同じ笑顔で手を振ってくれると思っていた。

 

 なのに、何十年待っても、誰も来なかった。

 

 花も咲かなくなった。

 

 約束の場所は、約束だけを残して、ゆっくり朽ちていった。

 

 ある夕方、あーしは花壇の中に顔をうずめた。

 

 土は懐かしい匂いがした。

 

 でも、あの子の匂いはもうほとんど残っていなかった。

 

「ダネ……ダネェ……」

 

 泣くつもりはなかった。

 

 ポケモンだって、泣き方くらい知っている。

 

 でも、長く待ちすぎると、涙は音にならない。胸の奥で小さな石になって、ころん、と転がるだけだ。

 

 その石が、あーしの心の中で何度も転がった。

 

 もう、いいのかな。

 

 そんなことを思った。

 

 もう、守らなくてもいいのかな。

 

 あの子は怒るかな。

 

 悲しむかな。

 

 それとも、笑って言うかな。

 

「ありがとう、フシギダネ。もういいよ」

 

 わからなかった。

 

 あーしには、わからなかった。

 

 だから、次の日も水をやった。

 

 その次の日も、草を抜いた。

 

 心が折れそうになりながら、折れた心をつるで縛るみたいにして、花壇の前に立ち続けた。

 

 そんな時だった。

 

「うわあ!」

 

 丘の下から、元気な声が転がってきた。

 

 声だけで、鳥ポケモンが一斉に飛び立ちそうなほど明るい声だった。

 

 あーしは顔を上げた。

 

 誰かが、坂道を駆け上がってくる。

 

 小さな子だった。

 

 リュックが背中で跳ねている。帽子がずれている。片手には虫取り網。もう片方の手には、半分食べかけのパン。

 

 その子は廃墟になった家を見て、目を丸くした。

 

「すごい! 探検だ!」

 

 あーしは身構えた。

 

 花壇を荒らすなら、追い払わなきゃいけない。

 

 つるを少し伸ばした。

 

 でもその子は、壊れた家より先に花壇を見た。

 

 緑ばかりの、小さな花壇。

 

 あーしが何十年も守ってきた場所。

 

 その子はそっと近づいて、しゃがんだ。

 

「綺麗な花壇だね」

 

 あーしは息を止めた。

 

 綺麗。

 

 花が咲かないのに。

 

 色もないのに。

 

 ただ葉っぱだけなのに。

 

 その子は笑った。

 

「君が守ってるの?」

 

 あーしは、すぐには鳴けなかった。

 

 昔、あの子も同じようにしゃがんで花壇を見ていた。

 

 その横顔が、夕方の光の中で重なった。

 

 でも、この子はあの子じゃない。

 

 声も違う。

 

 匂いも違う。

 

 笑い方も違う。

 

 それなのに、胸の奥の石が少しだけ温かくなった。

 

「……ダネ」

 

 あーしが小さく返事をすると、その子はぱっと顔を明るくした。

 

「やっぱり! すごいね! こんなにちゃんと守ってるんだ!」

 

 ちゃんと。

 

 その言葉が、あーしの古びた心に水みたいに染み込んだ。

 

 その子は花壇のまわりを一周した。

 

「でも、花は咲いてないんだね」

 

 あーしはうつむいた。

 

「ダネ……」

 

「あ、ごめん! 悪い意味じゃないよ!」

 

 その子は慌てて手を振った。

 

「咲いたら、きっとすごく綺麗だろうなって思っただけ!」

 

 あーしは顔を上げた。

 

 その子は、花のない花壇を見て、未来の花を見ていた。

 

 今ここにないものを、あるみたいに信じていた。

 

 あの子みたいに。

 

 それから、その子は何度も来るようになった。

 

 最初は、週に一度。

 

 次は、三日に一度。

 

 そのうち、ほとんど毎日。

 

「来たよ、フシギダネ!」

 

 その子はいつもそう言った。

 

 あーしが返事をすると、嬉しそうに笑った。

 

 名前を聞かれても、あーしは答えられなかった。

 

 人間の言葉で、自分の名前を言うことはできない。

 

 でも、その子は勝手に言った。

 

「じゃあ、フッシーって呼んでいい?」

 

「ダネ」

 

「いいってことだね!」

 

 違うとも言えなかった。

 

 まあ、悪くはなかった。

 

 その子は花壇の世話を手伝った。

 

 水を運ぶのは下手だった。最初の日はジョウロをひっくり返して、自分の靴をびしょびしょにした。

 

「うわああ、冷たい!」

 

 あーしは少し笑った。

 

 何十年ぶりに笑った気がした。

 

 草抜きも下手だった。抜いちゃいけない芽まで抜きそうになって、あーしが慌ててつるで止めた。

 

「あっぶな! ありがと、フッシー先生!」

 

 先生。

 

 あーしが。

 

 花壇の先生。

 

 そんなふうに呼ばれる日が来るなんて、思わなかった。

 

 その子はよく喋った。

 

 学校のこと。

 

 友達のこと。

 

 今日のお弁当のこと。

 

 虫取りで転んだこと。

 

 将来はトレーナーになって、いろんな地方を旅したいこと。

 

「でもね、旅に出るの、ちょっと怖いんだ」

 

 ある日、その子は花壇の前でぽつりと言った。

 

 夕焼けが、まだ咲かない葉っぱを金色に照らしていた。

 

「帰ってきた時に、何かが変わってたらどうしようって思う。大事なものがなくなってたら、どうしようって」

 

 あーしは、その子の横に座った。

 

 その気持ちは、わかった。

 

 痛いほどわかった。

 

 あーしはずっと、変わらないためにここにいた。

 

 あの子が帰ってきた時、昔のまま迎えられるように。

 

 でも、変わらないために待ち続けたこの場所は、いつの間にか廃墟になった。

 

 守っていたはずなのに、時間だけは守れなかった。

 

「フッシーは、ずっとここにいるの?」

 

 その子が聞いた。

 

 あーしは花壇を見た。

 

 ここにいる。

 

 ずっといる。

 

 そのつもりだった。

 

 けれど、その言葉が喉から出てこなかった。

 

 その日から、あーしは迷うようになった。

 

 花壇を守ることは、あの子との約束だ。

 

 でも、この子といる時間も、あーしの中で日に日に大きくなっていった。

 

 その子が来ると、庭が明るくなる。

 

 割れた窓すら、光を集める宝石みたいに見える。

 

 風の音も、ひとりで聞く時より寂しくない。

 

 あーしはその子が来る足音を待つようになった。

 

 丘の下から聞こえる、ぱたぱたした足音。

 

 名前を呼ぶ声。

 

「フッシー!」

 

 その声に、あーしの心はつるを伸ばすみたいに反応した。

 

 でも、そのたびに胸が痛んだ。

 

 あの子を待つためにここにいるのに。

 

 別の子を待つなんて。

 

 あの子を忘れてしまうみたいで、怖かった。

 

 忘れたくない。

 

 あの子の声も、手の温度も、歌も、花壇に水をやる時の真剣な顔も。

 

 忘れたくない。

 

 だから、惹かれていく自分が怖かった。

 

 ある雨の日、その子は来なかった。

 

 雨が強かったから、仕方ない。

 

 あーしはそう思った。

 

 次の日も来なかった。

 

 その次の日も。

 

 あーしは丘の道を見つめ続けた。

 

 昔と同じ待ち方だった。

 

 胸の奥の石が、また冷たくなった。

 

 やっぱり、誰かを待つのは怖い。

 

 来ないかもしれない。

 

 もう二度と、来ないかもしれない。

 

 待つことは、少しずつ自分を削ることだ。

 

 あーしは花壇の前で丸くなった。

 

「ダネ……」

 

 もう、誰も待ちたくない。

 

 そう思いかけた夕方。

 

「フッシー!」

 

 声がした。

 

 あーしは顔を上げた。

 

 丘の道を、その子が走ってきた。

 

 膝に包帯を巻いている。帽子は泥だらけ。息を切らして、それでも笑っている。

 

「ごめん! 転んで怪我して、家から出ちゃだめって言われてた!」

 

 その子は花壇の前で膝に手をついた。

 

「でも、今日は来たかったんだ。フッシー、待ってると思って」

 

 待ってると思って。

 

 その言葉で、あーしの中の何かが崩れた。

 

 ずっと、あーしだけが待っていると思っていた。

 

 あーしだけが置いていかれて、あーしだけがここに残って、あーしだけが過去にしがみついていると思っていた。

 

 でも、この子は来た。

 

 あーしが待っていると思って、来た。

 

 息を切らして。

 

 泥だらけで。

 

 笑いながら。

 

 あーしはつるを伸ばして、その子の腕に触れた。

 

 細くて、温かい腕だった。

 

 その子は不思議そうに首を傾げた。

 

「どうしたの?」

 

「ダネ……」

 

 声が震えた。

 

 泣いているのか、笑っているのか、自分でもわからなかった。

 

 その夜、あーしは夢を見た。

 

 あの子が花壇の前に立っていた。

 

 昔のままの小さな姿だった。

 

 麦わら帽子をかぶって、泥だらけの手を振っていた。

 

「フシギダネ」

 

 あーしは走ろうとした。

 

 でも、足が動かなかった。

 

 あの子は笑った。

 

「守ってくれて、ありがとう」

 

 あーしは鳴いた。

 

「ダネ! ダネダネ!」

 

 まだ待ってる。

 

 ずっと待ってる。

 

 だから帰ってきて。

 

 あの子は困ったように笑った。

 

「ごめんな。ずいぶん待たせたね」

 

 夢の中なのに、風が吹いた。

 

 花壇の葉が揺れた。

 

「でもさ、フシギダネ。花壇って、待つためだけにあるんじゃないよ」

 

 あの子は土に触れた。

 

「種をまくためにあるんだ。次の季節に渡すためにあるんだ」

 

 あーしは動けなかった。

 

「忘れなくていいよ」

 

 あの子は言った。

 

「でも、止まらなくていい」

 

 朝になった。

 

 あーしは目を覚ました。

 

 雨上がりの匂いがした。

 

 空は青かった。

 

 廃墟の屋根から、しずくが落ちている。

 

 ぽたん。

 

 ぽたん。

 

 あーしは花壇を見た。

 

 そして、息を呑んだ。

 

 蕾があった。

 

 小さな小さな蕾だった。

 

 緑の葉の間に、ひとつ。

 

 それから、ふたつ。

 

 みっつ。

 

 長いあいだ沈黙していた花壇が、眠りから起きるみたいに蕾をつけていた。

 

「ダネ……?」

 

 あーしは近づいた。

 

 触れるのが怖かった。

 

 夢じゃないかと思った。

 

 でも、蕾はそこにあった。

 

 雨粒を抱いて、朝の光を浴びて、静かに膨らんでいた。

 

 その日、その子が来た。

 

「フッシー!」

 

 いつもの声。

 

 いつもの足音。

 

 でも花壇を見た瞬間、その子は固まった。

 

「つ、蕾……?」

 

 あーしはうなずいた。

 

「ダネ」

 

「蕾だ! 蕾だよフッシー! すごい! すごい!」

 

 その子は跳ねた。

 

 転びそうになったので、あーしはつるで支えた。

 

「ありがとう! でもすごいね、本当に咲くんだね!」

 

 その子は花壇の前に座って、蕾をじっと見つめた。

 

「ねえ、フッシー」

 

「ダネ?」

 

「咲いたらさ、見せたい人いる?」

 

 あーしは、すぐにあの子を思い出した。

 

 見せたい。

 

 見せたいに決まっている。

 

 何十年も守った花壇が、また咲くところを。

 

 でも、あの子はもうここに来ない。

 

 それを認めるのは、胸が裂けるみたいだった。

 

 その子は静かに言った。

 

「いたんだね。大事な人」

 

 あーしは驚いた。

 

「ダネ……」

 

「なんとなくわかるよ。フッシー、花壇を見る時、すごく優しい顔するから」

 

 風が吹いた。

 

 廃墟の中で、落ちた風鈴がころりと転がった。

 

「その人も、花が好きだった?」

 

 あーしはうなずいた。

 

「そっか」

 

 その子は蕾に向かって、小さく手を合わせた。

 

「じゃあ、咲いたら一緒に見よう。フッシーと、その人と、ぼくと」

 

 その人と。

 

 あーしは花壇を見た。

 

 あの子はここにいない。

 

 でも、いなくなったわけじゃない。

 

 土の中にいる。

 

 花壇の形にいる。

 

 あーしの記憶の中にいる。

 

 水をやる手つきにいる。

 

 草を抜く順番にいる。

 

 花が咲いた時、最初に誰に見せたいと思うか、その気持ちの中にいる。

 

 あの子は、帰ってこなかった。

 

 でも、消えてはいなかった。

 

 蕾は日に日に膨らんだ。

 

 その子は毎日来た。

 

 あーしと一緒に水をやった。

 

「咲くかな」

 

「ダネ」

 

「明日かな」

 

「ダネ」

 

「明後日かな」

 

「ダネ」

 

「フッシー、さっきから同じ返事してない?」

 

「ダネ」

 

「してる!」

 

 笑い声が庭に転がった。

 

 その声を聞いていると、廃墟は少しだけ家に戻る。

 

 窓は割れたまま。

 

 壁は崩れたまま。

 

 風鈴は鳴らないまま。

 

 それでも、誰かが笑う場所は、まだ終わっていないのだと思えた。

 

 そして、その朝が来た。

 

 空はよく晴れていた。

 

 朝露が葉に光っていた。

 

 花壇の真ん中で、最初の花が咲いていた。

 

 淡い白に、少しだけ青が混ざった花。

 

 あの子が昔、一番好きだと言った色だった。

 

 あーしは動けなかった。

 

 花は、朝の光の中で静かに開いていた。

 

 まるで、長い長い手紙の封がようやく切られたみたいに。

 

「フッシー!」

 

 その子が走ってきた。

 

 花を見て、息を止めた。

 

「咲いた……」

 

 あーしはうなずいた。

 

「ダネ」

 

「きれいだね」

 

「ダネ」

 

「本当に、きれいだね」

 

 その子は泣いていた。

 

 あーしも、たぶん泣いていた。

 

 その時、風が吹いた。

 

 落ちていた風鈴が、割れた縁側の上で小さく揺れた。

 

 音は鳴らなかった。

 

 でも、あーしには聞こえた気がした。

 

 ちりん。

 

 ちりん。

 

 あの子の笑い声みたいな音が。

 

 あーしは花を見つめた。

 

 長い間、ずっとこの花壇を守ってきた。

 

 あの子のために。

 

 帰ってくるはずの主人のために。

 

 けれど、この花が咲いたのは、あの子が帰ってきたからじゃない。

 

 この子が来たからだ。

 

 新しい声が水をやり、新しい手が草を抜き、新しい笑顔が庭に光を入れたからだ。

 

 勝手な解釈かもしれない。

 

 花に言葉なんてない。

 

 蕾に意思なんてないのかもしれない。

 

 でも、あーしにはそう思えた。

 

 花が咲いたというのは、あーしも未来へ歩き出せということなのではないか、と。

 

 あの子を忘れろという意味じゃない。

 

 ここを捨てろという意味でもない。

 

 ただ、待つだけの日々を終わらせてもいい。

 

 守ってきたものを、誰かと分けてもいい。

 

 思い出を抱えたまま、新しい道を歩いてもいい。

 

 そう言われた気がした。

 

「フッシー」

 

 その子が言った。

 

「ぼく、もうすぐ旅に出るんだ」

 

 あーしはその子を見た。

 

 リュック。

 

 帽子。

 

 少し震える手。

 

 期待と不安が混ざった目。

 

 昔のあの子と、少しも似ていないのに、どこか同じだった。

 

「一緒に来てくれたら、嬉しい」

 

 その子はまっすぐ言った。

 

「でも、ここが大事な場所なら、無理には言わない。フッシーが決めて」

 

 あーしは花壇を見た。

 

 咲いた花が風に揺れていた。

 

 長い年月を越えて、ようやく開いた花。

 

 あの子との約束。

 

 あーしの誇り。

 

 あーしの檻。

 

 あーしの家。

 

 あーしは、つるを伸ばした。

 

 花壇の端の土をそっと掘った。

 

 そこには、こぼれた種がいくつもあった。

 

 あーしはその種を、古い布に包んだ。昔、あの子が使っていた小さなハンカチだった。色はもう褪せていたけれど、端に下手な刺繍で、あーしの葉っぱみたいな模様が縫ってあった。

 

 それを、その子の手に乗せた。

 

「これは?」

 

「ダネ」

 

「持っていっていいの?」

 

 あーしはうなずいた。

 

 花壇はここにある。

 

 でも、花壇はここだけじゃない。

 

 種があれば、どこにだって続いていける。

 

 その子はハンカチを胸に抱いた。

 

「ありがとう。大事にする」

 

 あーしはもう一度、花壇を見た。

 

 あの子がいた。

 

 水をやっている。

 

 笑っている。

 

 歌っている。

 

 あーしの名前を呼んでいる。

 

 それから、夢の中と同じ声で言った。

 

「行っておいで」

 

 あーしは目を閉じた。

 

 そして、開いた。

 

 丘の上には、花壇があった。

 

 廃墟があった。

 

 朝の風があった。

 

 新しく咲いた花があった。

 

 あーしは花壇の前に立ち、深く頭を下げた。

 

「ダネ」

 

 ありがとう。

 

 待たせてごめん。

 

 守らせてくれてありがとう。

 

 忘れない。

 

 絶対に忘れない。

 

 でも、行ってくる。

 

 その子が手を差し出した。

 

 あーしはその手に、つるを絡めた。

 

「行こう、フッシー」

 

「ダネ!」

 

 丘を下りる道は、思っていたより長かった。

 

 何十年も上から眺めるだけだった道。

 

 一歩進むたびに、草の匂いが変わった。

 

 風の向きが変わった。

 

 世界の広さが、足元から少しずつ戻ってきた。

 

 途中で振り返ると、丘の上の花壇が見えた。

 

 白と青の花が、朝日にきらめいていた。

 

 町からでも見えるよ。

 

 昔、あの子が言った言葉を思い出した。

 

 本当だった。

 

 ちゃんと見えた。

 

 あーしの守った花壇は、遠くからでもわかるくらい、静かに、誇らしく咲いていた。

 

 あーしは胸を張った。

 

 背中のタネが、陽を吸って温かくなった。

 

 旅は怖い。

 

 別れも怖い。

 

 また待つことになるかもしれない。

 

 また泣くこともあるかもしれない。

 

 でも、それでもいい。

 

 花は咲いた。

 

 あーしは歩き出した。

 

 あーしはフシギダネ。

 

 花壇の番人だった。

 

 そして今日から、誰かの旅の仲間になる





ぽこポケのフシギダネともろ被りしたのでボツにしたんですがせっかく書いたので供養も兼ねて
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