-ヒトガミとは
太古の七神の中で、唯一の生き残り。
人神はあくまで称号であり、人の世界の神というわけではないらしい。
本人も人神はあだ名のようなものだと言っており、初代龍神が名付けた仮称であるヒトガミを名乗っている。
つまり、創造神が生み出した人神『ジンシン』とは別の存在。創造神が認識していない、無の世界で生まれた存在が人神『ジンシン』に成り代わるか取り込むかしたのだと魔龍王ラプラスは推測している。
(某考察wikiより)
『………………ふっ…………バカめ、……………のは……だ』
――聞こえた気がした。
かすれたような、歪んだような、それでいて、どこか耳元にまとわりつくような声だった。
男か女かもわからない。
言葉の意味も、何もがはっきりとは掴めない。
遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。
気がつけば、俺は黒い場所にいた。
暗い。何もない。
まるで墨汁をぶちまけたように、視界のすべてが真っ黒に染まっていた。
目を開けているのか、閉じているのかすらわからない。
現実味が欠けた、どこか異質な場所だった。
上を見上げても、無限に広がる闇。
足元にも、地面の感触はない。底があるようで、どこまでも抜けているようでもある。
まるで宇宙の真空に放り出されたかのような、孤独で不安な浮遊感があった。
足元に目を向けようとした瞬間、俺は気づいた。
――足がない。
いや、それだけじゃない。手も、身体も、輪郭すら存在していなかった。
俺という存在は、ただ意識だけがここにある。
動こうと思えば動ける感覚はある。
でもそこに身体が伴っていない。
匂いも、音も感じない、まるで全てが黒に飲まれているようだった。
それなのに意識だけはやけに鮮明で、
むしろはっきりしすぎていて、たまらなく不気味だった。
理由もなく、底知れぬ不安がせり上がってくる。
夢なのか……?
そう思ったが、これまでに見たどんな夢よりも思考は明晰で、妙に冷静だった。
まるで現実に近い感覚。
いや、現実そのものと言ってもいいくらいの、重い在り方だった。
俺は何度かまばたきのつもりで目を閉じ、開いた。
しかし、何も変わらなかった。
光の欠片すらない、絶対的な暗黒。
ここが広いのか、狭いのかもわからない。
ただ、終わりがないということだけは、ぼんやりと感じられた。
――ここは、どこだ?
……そうだ。
確か俺は、ラパンに向かっていたはずだ。
アレクと和解して、事情を話して……転移の迷宮の話もした。
アレクはそれを聞いて、驚いて、喜んで、それで一緒に来ることになった。
……その後のことが、思い出せない。
何があった?
どうして、俺は……こんな場所に?
わからない。何もかもが曖昧だ。
けれど、ただ立ち尽くしていても、状況は変わらない。
俺はなんとなく、この黒一色の空間を歩いてみることにした。
歩いている。
……そんな気がする。
足がないはずなのに、前に進んでいる感覚だけはある。
けれど、景色は一向に変化しない。
上下左右、どこを見渡しても真っ黒なまま。
距離も、方向も、まったく把握できない。
どれほど歩いたのか――何十分か、何時間か。
いや、もしかするとほんの数秒だったのかもしれない。
この場所では、時間の流れすら狂っている気がした。
無音の闇の中を、ただひたすら進み続けたその時――
唐突に、何か固いものにぶつかった。
「……っ」
前方に壁のようなものがあった。
目には見えないが、確かにそこには“何か”が存在していた。
手を伸ばして触れると、冷たく滑らかな感触が伝わってくる。
まるで透明なガラスのような質感。
叩いてみても、鈍い音が響くだけで、何の反応もなかった。
透明な障壁――
まるで、何かと俺を隔てているかのようだった。
ふと、その向こうに、ぽつんと白く光るものがあった。
それは、闇一色のこの空間の中で、唯一の光で。
まるで、墨を垂らした黒いキャンバスにひとつだけ浮かぶ染みのように、不自然なほど際立っていた。
俺は目を凝らして、それを見つめた。
思ったよりもずっと近い。
瞬きをするたびに、それはじりじりとこちらへと近づいてきた。
――いや、違う。
あれが近づいてきているのではない。
気づいたときには、もう目の前にいた。
壁一枚を隔てた、すぐ向こうに。
真っ暗な空間の中、そいつだけが白く、異様に浮かび上がっていた。
明らかに、この空間のものではなかった。
その存在は、どこか断片的だった。
体はバラバラに引き裂かれ、魔法陣のような紋様に縫いとめられている。
そのせいで動けないらしく、ピクリとも動く気配はない。
――なのに、笑っていた。
不気味な笑み。
口元がぐにゃりと吊り上がり、三日月のような形に裂けていく。
笑みは頬を割り、目元にまで食い込もうとする。
その顔が何より不気味だった。
『オルステッド……、これで僕に勝ったと思うなよ』
そいつは、急に話し始めた。
一瞬、俺の姿が見えているのかと身構えたが――どうやらそういうわけではなさそうだ。
傍にいる俺には一瞥もくれない。
ただ、宙を見つめながら、誰にともなく独り言のように呟いている。
『オルステッドは一つ見……………ることがある。
僕は、封………る前に、僕はあいつをもう一度、……………。そして、僕の言うことを…………に、裏……………ないように…………。
まあ、あいつには結局、何の役にも立ってもらえなかったからね。せめてこれくらいはしてくれないと、割に合わないさ』
声が、かすれている。
歪み、途切れ、何を言っているのか聞き取れない。
でも、確信だけはあった。――これは、聞き逃してはいけない言葉だ。
それなのに、はっきりと耳に届かない。
届いてこないこと自体が、まるで何かの罰のようで、もどかしく思えた。
『奴はループをしていたんだ。……最初から僕が勝つ未来なんて存在していなかった。――だったら、あの魔術を逆に利用してやる。あいつを……に送り込んでその………………る魔術を奴に上書きする形でかけてやればいい。…………えばそれが、それが可能なんだ。
……から来た………………使った魔術を使えば……に戻れる』
心臓の鼓動が、激しく脈を打つ。
すっと血の気が引くのを覚えた。
何か大きなものが背後から迫ってくるような錯覚に、呼吸が乱れる。
こいつの話を聞いていると胃の奥から、何か冷たいものが這い上がってくる感覚あった。
気持ち悪い。吐きそうだ。
まるでひや汗が止まらないような、そんな感覚に襲われた気がした。
――けれど、目をそらせないし、耳もふさげない。
俺は、ただ立ち尽くすしかなかった。
何もできなかった。
『……………も問題ない。……に戻って殺せばオルステッドに味方なんか、できない。オルステッドは今まで通り独りだ。独りの奴なんて全く怖くない。奴は単純なバカだからね』
――そうだ。
だから、俺はそれを止めるためにここにいる。
あの魔術を使えるのは……俺しかいない。
生前――日記に詳しく書かれていた断片的な情報から、その魔術の内容を知っていた。
軽く研究もしていた。使うつもりはなかったが、頭の片隅にはあった。
けれど、結局、生きているうちにそれを使うことなんてなかった。
――だけど、死んだあとに――
……魔力が足りなかったんだ。
その魔術を発動させるために必要な膨大な魔力が、俺にはなかった。
生者としての魔力も、肉体も、死とともにすべて失われていた。
俺は何かを生み出す力すら持ち合わせていなかった。
だから、俺が、使ったのは――
『最後に勝つのは、僕だ』
勝利を確信し、今にも声を上げて笑い出しそうだった。
そう感じさせるほどの雰囲気が、執念があった。
こいつは、最後の最後まで諦めていなかった。
勝つための方法を、ずっと探し続けていたんだ。
見て見ぬふりなんて、できなかった。
“こいつが勝つ未来”なんて、絶対に見たくなかった。
何度も、こいつのせいで苦しんだ。
あの人を――俺は助けたかった。
そして――
俺は、
――あの時へ。
もう一度、やり直すために。
すべてを止めるために。
こいつがしようとしている、あの狂った未来が、来ることがないように――
「――君、ルーデウス君」
その声に、ハッとして目を覚ました。
どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
頭が痛い。割れそうなくらい、ズキズキと響いている。
「大丈夫ですか? ルーデウス君。さっきから、すごく魘されていましたよ」
目の前には、アレクがいた。
気遣わしそうな顔で、俺を覗き込んでいる。
どうやら、俺の肩を揺すって起こしてくれたらしい。
……夢を見ていた。
だが、内容が思い出せない。
なにか――ものすごく大事なことを見ていた気がする。
手を伸ばせば届きそうなのに、指の間からすり抜けていくような……
そんな感覚だけが、やけに強く胸に残っていた。
「いえ、……少し頭が痛いですけど、大丈夫です。治癒魔術をかけておきます」
そう言って、俺は小さく詠唱した。
頭痛はまるで、何かを伝えようとするかのような、警告のような痛みだった気がする。
だが、治癒魔術をかけると、その違和感はたちまち消えていった。
もう痛みはなかった。
俺は姿勢を正し、アレクの方を向く。
アレクはずっと夜の見張りを引き受けてくれていた。
不死魔族の血を引いているからか、常人よりも少ない睡眠でも平気らしい。
「もうすぐ、ラパンに着きそうですね」
「はい。おそらく、明日の早朝に出発すれば、日が沈む頃には到着できると思いますよ」
もうそんなに経ったのか。
アレクと出会ってから、もう一週間は過ぎていた。
パウロたちも、無事にラパンへ着いているといいんだけど――
「僕、転移の迷宮って初めてなんです! しかも、最奥にはヒュドラがいるんでしょう! 強敵と戦えるなんて、すごく楽しみです! ワクワクします!」
アレクは拳を握りしめ、興奮気味に語り出す。
俺が転移の迷宮について話してからというもの、ずっとこの調子だ。
まるで夢見る少年のようなテンションで、期待を隠そうともしない。
……もう少し落ち着いてくれてもいいんだけどな。
俺は思わず呆れたような目でアレクを見つめた。
すると、アレクは俺の視線に気づいたのか、ハッとして表情を曇らせた。
「あ! すみません。ルーデウス君のお母様がその奥に閉じ込められているのに、不謹慎でした。……変なこと言って、すみません」
「いや、大丈夫ですよ。アレクの性格はよくわかっていますし、気にしてませんから」
「いえ、でも……やっぱり気をつけようと思います。本当に、すみませんでした」
アレクとは、この一週間でずいぶんと打ち解けた。
まるで以前からの友人のように、自然に会話ができるようになった。
彼と仲良くなれて、本当によかったと思う。
……頭はちょっと残念だけど、頼りになるのは確かだ。
そして、次の朝。
俺たちは予定通り出発し、日が沈む頃にはラパンの街に到着することができた。