アルス編(旧アイシャ編)のちょっとしたネタバレがあります。蛇足編3巻か削除されたWeb版を読んでいることをおすすめします。
ルーデウス・グレイラットが亡くなってから、もう数十年が経っていた。
ラプラスとの決戦も、ヒトガミとの因縁も、すべて過去のものとなり――
ようやく、世界には穏やかな日々が訪れていた。
それぞれが自分の時間を歩みながらも、家族の絆は変わらずにあった。
家を出て旅に出ていたララも、最近では時折ふらりと帰ってきては、懐かしい笑顔を見せてくれるようになった。
――そして今日は、ルーデウスの命日だった。
「ねぇ、ロキシー。今日のお墓参り、お米を持って行くのはどうかな? きっと、ルディも喜ぶよ」
台所で米を研ぎながら、シルフィが微笑んで言った。
「いいですね。ルディはお米が好きでしたし……おにぎりにして持っていきましょう。梅干しを入れて」
ロキシーも懐かしむように目を細めて頷いた。
毎年のように、シルフィとロキシーはルーデウスの命日には欠かさず墓参りに訪れていた。
今日も、その変わらぬ習慣の一日になる――そのはずだった。
その日の空は晴れとは言いがたいものだった。
薄く曇り、どこか重たげな雲が空を覆っていて、陽の光は地上に届かない。
「念のため傘を持っていきましょうか」
ロキシーの一言に、シルフィは頷き、二人は静かに支度を整えて家を出た。
玄関を出ると――
「ギィイイィィィ……」と、扉の軋む音が響く。
成長しすぎて家の半分を覆うほどになったビートがのそりと動いて、ゆっくりと門を開けてくれたのだ。
「ありがとう、ビート」
シルフィが声をかけると、ビートは葉を一枚ふるふると揺らし、応えるように身を引いた。
二人は変わらぬ静けさの中、並んで歩き出す。
目指すのは、静かに眠る彼のもと――。
純粋な人族であるエリスの子供も、すでにこの世を去っていた。
母親であるロキシーやシルフィよりも早く、穏やかにその生涯を終えている。
そして、グレイラット家の名を継いだアルスの墓も、ルーデウスと同じ墓地の一角に立てられていた。
その隣には、ルーデウスの妹であり、生涯にわたってアルスを支え続けていたアイシャの墓も、寄り添うように並んでいる。
それと同じようにルーデウスの墓も――エリスの墓のすぐ隣に、静かに並んでる。
ここは、貴族たちのために整えられた墓地だった。
隅々まで丁寧に手入れされ、季節ごとの花も植えらている。
墓守も常に常駐しており、荒らされる心配など、今まで一度として抱いたことはない、安心できる場所だった。
けれど、その日だけは様子が違っていた。
いつもいるはずの墓守の姿が見えない。
門の周囲にも、人の気配はまったくなかった。
敷地全体が、息をひそめるようにひっそりと静まり返っている。
「あれ……? どうしたんだろう。誰もいないね」
シルフィが不安げに辺りを見渡す。
「なにか、急な用事でもあったんでしょうか……?」
ロキシーも周囲を見まわすが、人のいる様子はなかった。
二人は顔を見合わせ、小さく息を呑むと、そのまま無人の門をくぐり抜けた。
墓所の中は、曇り空の下でいっそう薄暗く、整然と並んだ墓石が重苦しい沈黙の中に立ち並んでいる。
いつもは静謐だったその空間が、なぜか今日は妙に冷たく、そしてどこか――不気味だった。
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「……そんな、なんで……」
震える声が漏れた。シルフィは呆然と、その場に立ち尽くす。
驚愕に目を見開き、震える手は無意識のうちに口元へと添えられていた。
「ルディのお墓が……どうして……荒らされてるの……?」
目の前には、かつて丁寧に手入れされていたはずの墓標が、無残にも地に倒れ、周囲に手向けられていた花々は無惨に踏みにじられていた。
そして――墓の土は深く掘り返されており、そこにあるはずの“彼”は、どこにも存在していなかった。
「いったい……誰が……。誰がこんな酷いことを……」
胸の奥が、焼けつくように痛む。
ルーデウスと交わした記憶、優しい笑顔、最後の言葉――すべてが、泥と土にまみれて踏みにじられたような錯覚に襲われる。
「……と、とにかく……一応、オルステッドに……みなさんにこのことを伝えてきます」
ロキシーは動揺を必死に抑え、できるだけ冷静に言葉を選んでいた。
けれど、その声はわずかに震え、拳は気づかぬうちに強く握られていた。
彼女は荒らされた墓をじっと見つめ、唇をきゅっと引き結ぶ。
「……もしかしたら、ルディを……グレイラット家そのものを狙ってのことかもしれません」
普段は理知的で冷静なロキシーの表情にも、明確な怒りと哀しみが浮かんでいた。
理性では冷静に分析しようとしても、胸の奥底からこみ上げる感情が、それを押し流そうとしていた。
そしてロキシーとシルフィは、踵を返し、その場を後にする。
墓地には荒らされたままのルーデウスの墓が残った。