時は遡り数十ヶ月前。リーリャ達がルーデウスの元を離れ、旅を再開してから数週間が経った頃――。
別れ際の余韻をわずかに残したまま、馬車はのろのろと街道を進んでいた。
この日の空はどこか不機嫌だった。
真昼のはずなのに太陽は厚い雲に隠れ、まるで旅人を試すかのように薄暗い光だけを落としている。
車輪が石を踏むたびにカタン、カタンと軽い衝撃が身体を揺らす。
現代にある自動車などもちろん存在しない異世界では、移動の動力源ははすべて馬だ。
馬は腹が減れば止まり、疲れれば歩みが鈍り、機嫌が悪ければ速度も落ちる。
ノルン達はそのリズムに合わせ、ただ揺られながら旅をしていた。
「大丈夫だよ、ノルンちゃん。団長は約束したことはちゃんと守るお人だから。きっとお母さんも連れて帰ってこれるよ」
「…………うん」
一行は今、ミリスからアスラへ向かう森の街道を進んでいる。
王都周辺のように騎士団が常駐している主要街道ならともかく、ここは深い森の中の道。
盗賊達にとっては格好の狩場だ。
森の奥からギラついた視線で通行人を狙う輩がいることは、このあたりでは有名な話だった。
ヴェラもジンジャーも、それを分かっているからこそ手を抜かない。
常に腰の武器に触れる位置で、目だけが鋭く周囲を探っていた。
そんな張り詰めた空気に――。
風に乗って、突然怒号が響いた。
「おい! 野郎ども!! とっとと殺してササッと奪ってからずらかるぞ!」
声だけでわかる。
血の気が多く、命を奪うことすら躊躇わない盗賊の頭目。
その怒号は、あたり一面に恐怖を撒き散らした。
ノルンは反射的に肩を震わせた。
胃の奥がひやりと冷たい石に変わったようだった。
「お母さん……」
「リ、リーリャさん……」
「アイシャも、ノルンお嬢様も……大丈夫です」
リーリャは二人をそっと抱き寄せた。
いざとなれば、命を懸けて二人を守るつもりだった。
「馬を殺せー! 足止めをしろ!!!」
「金になるもん全部だしやがれー!」
叫び声が近づく。
「うわっーー!」
「ぐ、ぐあああっ!」
ヴェラが舌打ちした。
「まずい……!」
いつも頼りになった護衛達が、一瞬で斬り伏せられていく。
相手はただの盗賊ではない。手慣れている。
無駄な動きが一つもない。
「う……うぅ……っ……」
ノルンは涙をこらえる暇すらなく、声を殺して泣いた。
喉がひくつき、息が浅くなる。
怖い。怖い。怖い。
震えが止まらない。
「頭ァ! こっちに女がいますぜぇ! 上等な服も着ていて、かなりの上物だァ!」
飛び出してきた盗賊は、父親に守られていたノルンが今まで見たことのない人種だった。
風でほつれた服。日焼けした肌には無数の傷。獣のように鋭い目。
腰には短剣をいくつも下げ、いつでも飛び掛かってきそうな雰囲気をまとっている。
ヴェラとジンジャーが前に立ちふさがったが、護衛の多くはすでに倒されてしまっている。
ノルンとアイシャはリーリャにしがみつき、リーリャも必死に二人を抱きしめた。
「へっへっへっ、大人しく従えば悪いようにはしねぇよ?」
ぞっとするほどいやらしい笑み。
アイシャよりも頭のよくないノルンにも理解できた。
捕まれば“良くないこと”が待っている――と。
震える手で、リーリャの服をぎゅっと掴む。
――こわい、たすけて、たすけて……! お父さん……!
心の中で叫んでも、パウロはいない。
家族を救うため、兄と旅に出ている。
ノルンは弱く、力もない。
ただ震えることしかできなかった。
「ぐえっ!」
突如、盗賊の一人が数メートルも吹っ飛んだ。
まるで嵐が通ったかのように、荒っぽい盗賊達が次々と宙を舞う。
あれほど手強そうだった男達が、まるで子どものように弾き飛ばされていた。
暗かった空が、ある人物を中心に割れるように晴れていき、日差しが差し込む。
まさに“ヒーロー”が現れたかのように輝いていた。
実際に、つるりとした頭が……ピカピカと光っている。
ノルンはミリスで読んだ絵本を思い出す。
お姫様を助ける白馬の王子様――。
だけどその人は白馬にも乗っていないし、立派な剣を持っているわけでもない。
手にしているのは、棒……いや、槍だろうか。
それでも、困った時に助けに来てくれるその姿は、ノルンにとってまぎれもなく“王子様”だった。
「……平気か?」
ノルンは、この人に一度会ったことがある。
嫌いだった兄――ルーデウスと一緒にいた人。
――ミリスで、わたしのことを褒めて、優しく頭をなでてくれた人。
「わぁ……!」
胸の奥がじんわり熱くなる。
――それはノルンにとって、はじめての恋だった。
ロキシーはルーデウス達とは別れて、エリナリーゼと一緒に宿を取っていた。
夕飯も済ませ、体も拭き終え、柔らかなベッドに腰を下ろす。
ルディから貰ったペンダントをそっと手に取り、静かにため息を吐いた。
「はぁー…………」
「あら、どうしましたの? ため息なんかついて」
声をかけてきたのは、寝巻きに身を包んだエリナリーゼだった。
「いえ、別に……なんでもないです」
「そんなこと言っちゃって……お顔に『悩んでます』って大きく書いてありますわ」
からかうように言われ、わたしは慌てて自分の頬に触れた。
……そんなに顔に出していただろうか?
するとエリナリーゼは、わたしの手元へ視線を移し、ペンダントに気づく。
「あら、それ……ルーデウスから貰ったペンダントじゃなくて?」
「ええ……わたしが昔ルディにあげた故郷のペンダントの、代わりにって……」
「まあ、素敵ですわね」
エリナリーゼは興味深げにのぞき込み、そのまま隣に腰を下ろした。
しっとりとした深い青が灯りに反射して、静かに輝く。
日光に当てれば、もっと綺麗に見えるのだろう。
それからしばらくは、自然とルディの話になった。
昔はどんな子だったのか、エリナリーゼと旅していた頃はどんな様子だったのか――。
「ゼニスに似て、紳士的な子ですわよね」
「えっ? どっちかって言うとパウロさん似の……えっちな子じゃありませんか?」
「ん?」
「えっ?」
……話が噛み合わない。
でも――思い返せば、確かに久しぶりに再会した愛弟子は、とても紳士的で、礼儀正しい少年だった。
わたしの湯浴みをこっそり覗いていた、あの小さなエッチなルディとは別人のようで。
ペンダントのことも、迷宮でのことも……思い返すと胸が少しあたたかい。
――あの時、わたしはやっぱり少し油断していたのだ。
転移迷宮の三階層。
天井に潜んでいた毒蜘蛛の魔物が糸を吐き、咄嗟に後ろへ下がったはいいが、足がもつれてよろけてしまった。
倒れかけた先には転移魔法陣。
もし踏んでいたら、どこへ飛ばされていたかわからない。
でも――。
ルディが素早くわたしの腕をつかみ、自分の方へ引き寄せて、事なきを得た。
あのときの温もりは、今でも鮮明に思い出せる。
それに、ルイジェルド――スペルド族の彼も、本当に良い人だった。
あんなにスペルド族を怖がっていた自分が、今では恥ずかしいほどだ。
再会した頃、ルディはわたしより少し小さかったのに、一緒に行動するうちにいつの間にかわたしと同じくらいになって、そしていつの間にか追い抜かされてしまった。
……もしかして、このままパウロさんくらいの大柄な男になるのだろうか。
子供らしさはまだ残っているけれど、時折見せる大人びた表情は頼もしくて。
ふっと微笑む顔は、昔よりずっと愛らしかった。
ルディのことを考えると、胸がそわそわして、落ち着かない。
――昔は、もう少しえっちな子だったのに……。
迷宮では、時おり苦しそうというか、怯えるような表情もあった。
その顔を見て、ブエナ村で馬に乗るのを怖がっていた頃のルディを思い出す。
なんでもそつなくこなすルディにも怖いものがあったのだと知れて、微笑ましかったなぁ……。
どれだけ才能があっても、どれだけ強くなっても……。
ルディにも、弱いところがある。
そう思うと、守ってあげたくなるような、不思議な気持ちになった。
『先生、大丈夫ですか? ふふっ……先生って、昔からずっとおっちょこちょいですよね』
ふと耳の奥で、ルディの声がよみがえった。
――もしかしたら。
これは、ロキシーの初めての恋なのかもしれない。