今回は少し駆け足な感じになってます。
重たい空気が、背後からひたひたと迫ってくる。振り返れば、そこには普段とは違う“黄泉先生”がいた。
まるで、こちらのすべてを見透かすような冷たい眼差し――
その姿に一瞬だけ、本物の“死神”を見た気がした。
「だったら、ここで諦めるつもりか?」
黄泉先生の放った言葉。その声音は冷静だったけど、少しの怒りが含まれていた。
「…事の成り行きは、全て聞かせてもらった。アビドスの利息が跳ね上がったのに加えて補償金三億円の預託。さらに、アビドスの抱える借金をシャーレが共に背負うことになったそうだな。」
吹き抜ける風が、私の背中に汗とともに緊張を運ぶ。
黄泉先生が綴った言葉を、私は静かにかみしめた。
”……すみません。”
自然とそんな言葉が出た。
対して黄泉先生は眉を少し動かし、私の心を探るかのように尋ねる。
「それは…何に対しての謝罪だ?」
”……私の判断が、間違っていたのかもしれないと思って…。”
言いながら、胸の奥がじくじくと痛む。
あの時、あの場で、最善だと信じて頭を下げた。
でも、それがどれほど無力で、頼りなかったのか、今さら思い知らされる。
”アビドスの背負う借金の利子が増やされ、さらには補償金を払えと言われた時…私は何も言いませんでした。それどころか…アビドスの人間でもないのに、その話を勝手に受け入れた…。”
言葉を続けるのが、怖かった。
あの時のみんなの顔が浮かぶ。驚いた顔、困惑した顔、悔しそうな顔…。
そのどれもが、私の胸に突き刺さって離れない。
みんなは私を信じてくれていたのに、私はみんなの信頼に何一つ応えられなかった。
”そんな自分を思うと…つい考えてしまったんです。黄泉先生なら変に迷わず、彼女たちを救ける一手が打てたんじゃないかって…。”
言い終えた瞬間、胸の奥から、情けなさが込み上げてきた。
悔しいほどに分かる、黄泉先生と自分の”差”。
あの人のように誰かの前に立ち、心から信じられる言葉で守り抜く力が――自分にはない。
黄泉先生は、しばらく黙って私の言葉を受け止めていた。その沈黙が、少し怖かった。
やがて、ゆっくりと、そして静かに問われた。
「だから、自分は先生失格だと?」
”……はい。”
「…一度決意した行動を後になって迷い、助けを求める生徒たちを放置しているそんな姿こそ『先生失格』だと俺は思うが。」
その言葉に、思わず息を飲んだ。
いつも冷静でどこか達観した空気を纏っていた黄泉先生。彼の眉間にほんのわずか、皺が寄っていた。
胸の奥を、ぎゅっと掴まれたような痛みが走る。叱られたわけじゃない。怒鳴られたわけでもない。
ただ、自分が目指した人に…ほんの少し、失望された気がして――たまらなく、苦しかった
「では…アビドスの借金をシャーレにも背負わせてほしいと頼んだ理由は?」
私は、すぐには答えられなかった。
だけど――言わなければ、意味がない。
”……アビドス砂漠に行こうと提案したのは、私たちです。しかしカイザー理事の話では、すべての責任がアビドスに向けられていました。”
唇を噛みながら、私は続けた。
理不尽だった。怒りもあった。
でも、それ以上に――彼女たちを矢面に立たせることが、たまらなく悔しかった。
”私は……それだけは認められなかった。彼女たちは、私たちについてきただけなのですから。”
最後の言葉は、自然と力がこもっていた。
黄泉先生は腕を組みながら、目を瞑る。まるで私の発言を噛みしめるかのように。
少しして彼はゆっくりと目を開け、話し始めた。
「お前の判断が本当に正しかったのか、それを断言できる者はいない。だが、決して間違いではなかった。」
静かな、けれど重い言葉。それは慰めではなく、黄泉先生なりの“評価”だった。
私は驚きで思わず顔を上げる。
「思うに、奴は初めから交渉する気などなかった。あれは『見せしめ』であり、お前たちに力の差を思い知らせるための舞台だったのだろう。」
そう言って彼は私の隣に立った。
先ほどまでの”死神”としての雰囲気は既に無い。いつもの”黄泉先生”がそこにいた。
「…先ほど『自分は先生失格だ』と言っていたが、俺からすれば逆だ。お前は自分が思っているよりも、しっかりとやれている。」
そう言うと黄泉先生は「生徒を放置していたことは肯定できないが」と付け加えた。
だけどその声音は先ほどとは違い、とても柔らかいものだった。
「今後、行動した後に迷ってしまったなら、その迷いも背負って進め。お前の中にあるその痛みが、誰かを守る力になる。」
その言葉はまるで、自分自身に向けて語っているかのようだった。
…私は少し勘違いしていたのかもしれない。
黄泉先生は決して、迷わない人じゃない。迷い、悩み、それでも――歩みを止めない人だ。
どれだけ苦しくても、立ち止まることなく、前へ進む。それは、このキヴォトスを、生徒たちを、生きる場所を、誰よりも深く想っているから。
”…ありがとうございます、先生。”
その言葉に黄泉先生は小さく頷き、静かに背を向けた。
ふと、優しい風が私の頬を撫でた。
砂漠のような陽射しの下で交わされた会話。そのおかげで少しだけ胸の重さが晴れた気がして、私は無意識にポケットへと手をやった。
その時、指先に紙のようなものが触れた。
瞬間、私はそれが何なのかを思い出した。
砂狼さんから託された、あの“重たい一枚”。
私は校内に戻ろうとする黄泉先生を慌てて呼び止め、それを手渡した。
「それは…?」
”…今朝、砂狼さんから渡されました、小鳥遊さんの……退部届です。”
小鳥遊さんの直筆には、ためらいや迷いは微塵もない。後悔の影すら感じられない、まっすぐな筆跡だった。
黄泉先生は一瞥したのち、小さく目を細め、短く息を吐いた。
「…アビドス砂漠に出発する前にシロコと話していたのは、これか。」
”……はい。”
私は、静かに頷いた。
それだけのことなのに、胸の奥がぎゅっと痛む。
屋上を『ひゅう』と風が吹き抜けた。
まるで何かを告げるかのように、冷たい空気が肌を撫でていく。
黄泉先生はその紙からゆっくりと視線を外し、私を真正面から見据えた。
「…この件はお前に任せる。どう向き合うか、どう答えを出すか――すべてお前次第だ。」
重くも優しいその言葉に、私はわずかに息を詰めた。
今の私はまだ迷ってばかりで、何が正しいかも自信を持って言えない。
だけど――それでも託された。
私の「先生」としての選択を。
そっと顔を上げる。
空は晴れているのに、どこか遠く――青空の片隅に、黒い雲がひとつだけ浮かんでいた。
「…ハルト、1つ頼みがある。」
黄泉先生の手がドアの取っ手に触れた瞬間、不意に立ち止まり、こちらを見た。
「ホシノと話す時、今から言う“言葉”を伝えてみてくれ。」
”…言葉?”
言い終わるよりも早く、黄泉先生は小さく口を動かした。その“言葉”は風にさらわれたはずなのに、なぜか耳の奥で鳴り続けていた。
”…え?”
”言葉”の意味は分からなかった。だけど、黄泉先生の表情を見て、それが只事ではないことだけは理解できた。
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教室の空気はどこか重く、皆の顔には疲れの色が浮かんでいた。
今後の借金返済と補償金に関して何度も話し合いを重ねてきたけれど、今はこれ以上続けるのはよくないと感じていた。
「今日はこれで解散にしようか。みんなも色々あって疲れているだろうし、また明日じっくり話そう。」
小鳥遊さんがそう言うとみんなは小さく頷き、帰り支度を始めた。みんな相当疲れているのが顔に出ており、よく分かる。
”私はもう少しここに残るよ。みんなは黄泉先生と一緒に先にシャーレに戻ってて。”
「はーい。」
私がそう言うと便利屋のみんなは揃って返事をし、荷物を担いで立ち上がった。それと同時に黄泉先生もゆっくりと立ち上がる。
その時だった。
「…黄泉先生。」
砂狼さんが何かを言いたそうに黄泉先生を呼んだ。
一方の黄泉先生は何かを察したようで――
「…悪い。俺もここに残らねばならない。」
「えー!」
そう伝えると、浅黄さんが突如大きな声を出して駄々をこね始めた。どうしてもみんなと一緒に帰りたいらしい。
しかし、黄泉先生は冷静だった。
「今日の夕飯は俺が作ろう。」
その一言に浅黄さんの態度は一変し、にっこり笑って「またねー!」と手を振る。それを見た鬼方さんが「ちょろ…」と小さく呟いた。
その様子に、普段と比べて暗かった奥空さん、黒見さん、十六夜さんたちにも少しだけ笑顔が戻った。そして彼女たちは仲良く教室を後にした。
「さて、おじさんもそろそろ帰ろうかな。」
教室に残った静けさの中、小鳥遊さんが軽く伸びをしながら呟く。
しかし、私は静かに隣のホシノに声をかけた。
”小鳥遊さん、ちょっと話があるんだ。”
「うへ、話?」
同時に、黄泉先生が教室の片隅にいる砂狼さんに向かって声をかける。
「シロコ、行くぞ。」
「…ん。」
私と黄泉先生の視線が交差し、彼は砂狼さんと共に教室を後にした。
教室には私と小鳥遊さんだけが残り、これからの話が始まろうとしていた。
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「それで…話って?」
小鳥遊さんがそう尋ねる。私は黙って彼女の向かい側に座り、それを机の上に置いた。
「……そういうことかぁ。」
彼女はそれを見るなり頭に手を当て、「あちゃ~」と言うような顔をする。机上にあるのは、小鳥遊ホシノと名前が書かれた退部届の書類だった。
「これ盗ったのシロコちゃんでしょ? ハルト先生、後でちゃんと叱っといてよね? じゃないと、シロコちゃんが将来大悪党になっちゃうかも。」
そう言いながらも、彼女の笑顔はどこかぎこちなかった。冗談を言っているようで、その瞳は少しだけ伏せがちで――
「もちろん、注意はするよ。でも、今はこっちを優先したいな。」
私は人差し指で、退部届を軽くトントンと叩いた。
彼女は一瞬だけ視線をそらしたが、やがて観念したように、静かに私の目を見返してきた。
「……じゃあさ、ちょっと散歩しながら話さない?」
そうして向かったのは、対策委員会の教室から少し離れた廊下。窓際の隙間から吹き込んだ風が、床に砂の筋を作っていた。砂漠から運ばれてきた粒子が、そこかしこに舞っている。
そのせいか、小鳥遊さんは小さく咳き込んだ。
「うへぇ……せっかくの高校生活が砂色に染まるなんてね。先生もやるせないと思わない?」
”その割には、いつも楽しそうにしてたね。”
「ありゃ、先生の目にはそう映ってたの? まぁ…シロコちゃんにノノミちゃん、アヤネちゃんにセリカちゃんに会えたから、そうだったのかもしれないね。」
笑いながら言うその表情はどこか遠く、砂に霞んでいるように感じた。
互いに口を閉じると、廊下のざらついた空気に沈黙が満ちていく。
やがて――
「…先生、全部話すよ。」
ホシノが静かに言葉を継いだ。
「実は…2年前から、カイザーコーポレーションからスカウトされてたんだ。アビドスに入学した頃からずっとね。」
「ついこの前もスカウトされたんだ。『アビドス高校を退学し、自分たちの企業に所属するなら、アビドスの借金の半分近くを負担する』って。」
「すごい話だよね。まぁ、当時は私がいなくなったら学校が崩壊するって思ってたから断ってたんだけど…。」
…確かに彼女が言うように、それはすごい話だ。
しかし同時に、にわかには信じがたい。
企業が出すにしてはリターンの見えない投資だ。彼女個人に、それだけの価値があると見なされている…? あるいは――何か別の目的があるのか?
彼女の言葉に込められた想いや覚悟とは別に、私は大人として、どうしても引っかかる違和感を拭いきれなかった。
これはただのスカウトじゃない。
彼女の未来と、アビドスの未来、その両方に手を伸ばしてくる“誰か”がいる――。
”…その人は、いったい何者なの?”
私の問いに、彼女は少し目を伏せる。
「…ごめん、あいつの正体は詳しく知らないんだ。ただ、私は――」
そこで一拍、言葉を切る。
「”黒服”って呼んでる。」
その言葉を聞いた瞬間――胸の奥に鈍い音が鳴った気がした。
私は、黄泉先生が屋上で話していたことを思い出す。
* * *
「“黒服”。これをホシノに伝えてみてくれ。」
”それは…どういう?”
「お前がその意味を知る必要はない。…万が一、彼女が驚いたり、その言葉を知っているような反応を示した時は……」
「何としても止めろ。いいな。」
* * *
その時の黄泉先生の表情は、これまでに見たことがないほど険しかった。普段どんな時でも冷静沈着な彼が、明らかに焦っていた。
“黒服”。
それが何を意味するのかは分からない。けれど、絶対に関わってはいけない存在なのだと、本能が告げていた。
「…ハルト先生?」
ホシノが不安げに私の顔を覗き込む。
その瞬間、私は思わず彼女の肩を掴んでいた。
”小鳥遊さん…!”
その声は、自分でも驚くほど震えていた。
それでも構わなかった。伝えなきゃいけないと、心が叫んでいた。
”そのスカウトは――絶対に受けちゃいけない!それを受けたが最後、ロクなことにならない!”
「せ…先生は、”黒服”のことを知ってるの?」
”いや…詳しくは知らない。私も黄泉先生から名前を聞かされた程度の知識だから…。”
”でも、それでも確信がある!あの提案には確実に裏があるんだ!”
言葉の一つ一つが、まるで魂を削るようだった。
だが――それでも伝えなきゃいけない。
退部届。
それを書いたということは、あの誘いに――ほんの少しでも心が揺れたということだ。
”頼む…!私と黄泉先生を信じてくれ…!”
彼女はしばらく黙っていた。
そして、ほんの小さく微笑んだ。
「……分かったよ、先生。」
「改めて考えてみたら、できすぎた話だよね。借金の半分以上ってさ。」
彼女は私の胸ポケットに手を入れ、退部届の書類を取り出した。そして――
「これは、捨てちゃおっか。」
ビリッ、ビリビリッ。
そうして彼女は破れた紙切れをパラパラと手放した。
それはまるで、呪いのように彼女の肩に積もっていた何かを、空に返す儀式のようだった。
「…止めてくれてありがとね。なんかスッキリしたよ。」
その言葉に、私はようやく肩の力を抜くことができた。
「でもさ……借金返済、どうしよう?」
ふと、小鳥遊さんが言った。
その声には、冗談めいた響きも、現実の重さも、どちらも滲んでいた。
「9億円の借金に利子が毎月9000万円。それに補償金が3億円…。何か、奇跡でも起きてくれればいいのにね。」
ほんの少し笑って、小鳥遊さんが顔を上げる。
そして、いたずらっぽい声でこう続けた。
「もうさ、私たちでカイザーコーポレーションを潰さない?」
”いや、それは…。”
一瞬、言葉が詰まる。
本来なら即座に否定すべき言葉だった。
だけど、その提案があまりにも魅力的に聞こえてしまったのだ。
腐りきった巨大企業を倒す。全ての元凶を潰せば、少なくとも彼女たちをこれ以上傷つけずに済む――
そんな短絡的な考えが、ほんの一瞬、頭をよぎった。
「……先生?」
小鳥遊さんがこちらを見つめていた。
その目が、私の心の揺らぎを見抜いたのだろう。彼女はくすっと笑って、少し首をかしげるようにして言った。
「もう、冗談だよ先生〜。そんなことしたら本当に犯罪者になっちゃうもんね。」
そう話す彼女の口元は確かに笑っていた。だけど――その目だけは、笑っていなかった。
冗談として流すにはあまりにも真っ直ぐで、痛みを孕んだまなざし。それはきっと、彼女なりに限界を感じていた証拠だったのだろう。
この先どうすればいいのか、自分の存在で何を守れるのか、苦しみながらも踏みとどまっている。
私はただ静かに、彼女の頭に手を置いた。
「……ハルト、先生?」
小鳥遊さんは少し驚き、静かに頬を赤くする。
だけど、私はその手をすぐに離すことはできなかった。
”……私なんかが言っても、きっと説得力はないかもしれない。だけど……1つだけ、言わせてほしい。”
彼女は驚いたように、少し目を見開いてこちらを見た。
”私と黄泉先生が、大人としてなんとかする。だから……”
言葉を止めて、少しだけ彼女の瞳を見つめる。
”だから、自分を犠牲にしようなんて考えないでくれ。”
その言葉は『先生』としての願いであり、同じ重荷を背負う者としての痛切な叫びでもあった。
誰かが傷つくことでしか前に進めないような道を、子供たちに歩かせたくはなかった。
長い沈黙が流れた。
やがてホシノは、ふわりと笑みを浮かべて、静かに呟いた。
「……うん。
その声には微かに笑みが混じっていた。納得してくれたのかと、安心した。
…けれど、なぜだろう。
胸の奥に、冷たい風が吹き抜けたような、そんな感覚がした。
ありがとう――その一言が、どこか遠くへ向けられた別れの言葉のようにも聞こえて……私は言いようのない不安を覚えた。
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「……黄泉先生は、ホシノ先輩の話をどこまで知ってる?」
白い陽射しが差し込む教室にぽつりと落ちた問いかけ。
シロコの声は静かだったが、どこか張りつめた空気を含んでいた。
「……退部届を書いていたことは知っている。」
「そっか。」
その短い返事のあと、シロコは一度、目を伏せた。何かを言い淀むような仕草のあと、ゆっくりと顔を上げる。
「……こちらから聞きたいことは色々あるが……まず、なぜお前がホシノの退部届を持っていたんだ?」
その問いに、シロコはわずかに眉を動かした。そして、躊躇いも照れもなく、真っ直ぐに答える。
「……ゲヘナの風紀委員会からアビドスが攻撃されたあの日、ホシノ先輩は姿を見せなかった。いつもなら、真っ先に駆けつけるはずなのに。」
シロコは、拳をぎゅっと握っていた。言葉の切れ目に、彼女の中にある焦りや動揺が垣間見える。
「ずっと、おかしいと思ってた。だから……学校にある先輩の部屋を探って、カバンの中を調べて……そしたら、あれが出てきたの。」
静かな語り口。だが、胸の内に渦巻く不安がところどころに滲んでいた。
「つまり……勝手にホシノの部屋に入り、カバンの中からそれを見つけ、盗ったということか。」
淡々とした声でそう告げると、シロコはほんの少し肩をすくめた。
「……うん。」
返事は短かったが、その声の奥には、はっきりとした後ろめたさがあった。シロコは俯いたまま、制服の裾をぎゅっと握りしめている。
本来なら、厳しく叱るべきことだ。他人の私物を漁り、無断で持ち出すなど、生徒としてあるまじき行為。
しかし――俺は言葉を続けなかった。
理由は明白だった。
それは退部届という“形”を取ってはいたが、そこに潜む異常さ――“黒服”の存在を思い出させるには、十分すぎる代物だった。
ホシノがただの気まぐれで退部届を書いたとは思えない。ホシノの背後には、確実に何かがいる。
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教室を後にした俺とシロコは、アビドス校内を並んで歩いていた。
静かになった廊下に俺たちの足音だけが微かに響く。
そんな時だった。
「……ホシノ先輩も、アビドスから出ていくの?」
隣からかけられた問いに、俺はふと足を止めた。
風に紛れそうなほど小さなその声には、不安と戸惑いがありありとにじんでいた。
……無理もない。
ホシノはいつも誰よりも前に立っていた。
それを見上げていた者にとって、その背が遠ざかるかもしれないという現実は、何よりの恐怖なのだろう。
「……ホシノがアビドスを裏切るとは、到底考えられない。」
そう返すとシロコは俺の顔を見上げてきた。
その瞳には、迷いと不安が混ざって見える。
「お前たちのことをホシノがどれほど大切に思っていたか……それは俺にもよく分かる。もし自ら距離を取ろうとしているのなら――そこには、きっと理由があるはずだ。」
シロコは黙っていた。
だが、その沈黙の中に確かに揺れ動くものがあった。
やがて、彼女は小さく息を吐く。
その細い肩がわずかに揺れる。
今にも折れてしまいそうな、不安と葛藤に揺れる姿。
だが次に見せた表情は――ほんのわずか、変わっていた。
口元を引き結び、ほんの少しだけ視線に力が宿っていた。
「ホシノ先輩のこと、信じてみる。」
その言葉に俺は眉をわずかに上げる。
震えてはいたが、その奥には確かな意志があった。
「…それでいい。あと、勝手に部屋に入った事と退部届の書類を持ち去った事は、しっかり謝っておけ。」
「…ん。」
そうして俺とシロコは再び歩き出す。
太陽が照らす校舎の中で、二人の歩く足音がまた静かに響き始めたのだった。
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俺とシロコが対策委員会の教室で会話を交わしていると、廊下から足音が近づいてくる。
振り返ると、ハルトとホシノが戻ってきた。
「あれ? 2人ともまだ帰ってなかったんだね。」
ホシノがそう言って小さく笑う。
明るい口調だったが、その声にどこか疲れが混じっているのがわかった。
ふと、シロコがそっとこちらに視線を送ってきた。
その瞳には、迷いと不安、そしてほんの少しの決意が宿っていた。
俺は無言で頷く。
それだけでシロコは覚悟を決めたように椅子から立ち上がり、ホシノの前へと歩み出た。
その足取りはまるで、足元に積もった砂を一粒も踏まないような静けさだった。
「…ホシノ先輩。勝手に先輩の荷物を漁って、ごめんなさい。」
シロコは深く頭を下げるが、その声にはほんの少し震えが混じっていた。
いきなりの謝罪にホシノは一瞬目を丸くしたが、ふっと力を抜いて笑った。
「おじさんの方こそごめんね。不安にさせちゃったよね。」
やわらかな声音。けれどその奥にあるものを、俺は見逃さなかった。
それは、ほんの小さな痛み――それでも、向き合う覚悟のある者の声だった。
その後の教室は空気が少しだけ緩み、自然な流れで解散することになった。
俺たちは2人と別れ、シャーレへの帰路につく。
しばらく歩いたところで、ハルトが口を開いた。
”…小鳥遊さんが言うには、カイザーコーポレーションからスカウトを受けていたそうです。そして……“黒服”からも。”
俺は足を止めず、視線だけを僅かに落とした。
「…そうか。」
脳裏には点と点が繋がっていく感覚。
仮説として抱えていたものが、確信へと形を変える。
――やはり、黒服の狙う神秘はホシノのことだった。
”ですが、その提案は断るよう強く言いました。彼女も黄泉先生の話に納得したようで、退部届を破り捨てました。”
「……その割には、どこか浮かない顔をしているな。」
ハルトが短く息を呑んだのが分かった。
彼の感覚は、往々にして鋭い。まだ経験こそ浅いが、生徒の変化を見逃さない目を持っている。
”なぜかは分かりませんが、胸がざわざわするんです。”
「……話してみろ。」
俺がそう言うと、彼はほんのわずかに息を詰まらせ、目を伏せた。
”……小鳥遊さんが最後に言った“ありがとう”という言葉が……頭から離れないんです。”
”あれは間違いなく感謝の言葉のはずです。だけど……なぜか、そうじゃないような気がして……”
それは、はっきり言って曖昧で根拠のない不安だ。
だが、俺はそれを笑う気にはなれなかった。
なぜなら――
「…覚えておけ、ハルト。こういう時の胸騒ぎや直感は、意外と当たるものだ。」
そう言う俺の声には少しだけ力がこもっていた。
それらは、これまでにも何度も経験したことがあったから。
その時、強い風が街を通り過ぎた。
俺たちの上に広がる空はまだ青い。しかし、その青を遠くから侵食するように、黒い雲の輪郭がじわりと広がっていく。
音もなく、淡々と、しかし確実に。
雨の気配はまだない。ただ、何かが静かに動き出している――そんな予感だけが、空に滲んでいた。
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空がまだ暗い。
いや――正確には、夜が終わって、朝が始まる寸前の、境目の時間。
灰色の雲が空一面を覆い、陽の気配をほんのりと感じさせながらも、辺りはどこか重たい空気に包まれていた。
そんな曇り空の下、私はひとり、対策委員会の教室に立っていた。
誰もいない教室は静まり返り、机と椅子が整然と並んでいる。目の前の光景は何も変わっていないのに、どこか遠くに感じられた。
「……ごめんね。」
私はぽつりと呟くように言葉を落とした。
その声は、誰に向けたものだったんだろう。
机の上に、新しく書き直した退部届と、みんなに宛てた手紙を置いた。昨日の夜、何度も書いては破いて、最後にやっと綴ったものだ。
これが、私なりのけじめ。
逃げじゃない。……たぶん。
呟いてから、私は教室の扉に手をかけた。
音を立てないように、そっと閉める。
そのとき、言葉がこぼれ落ちた。
「……ごめんね、ハルト先生。先生の思いを裏切っちゃった。」
答える人はいない。
けれどその言葉だけは、静かな朝の空気に、痛いほどはっきりと残った。
「さよなら。」
私は最後にそう言って、静かにドアを閉めた。
この教室での思い出が、まるでその音に吸い込まれていくようだった。
私は静かに廊下を歩いた。
朝の学校はまだ眠っていて、外の曇り空の色が窓ガラス越しに淡く差し込んでいる。
靴音がコツ、コツと規則正しく響くたび、胸の奥で何かが揺れていた。
『今すぐ戻りたい。』
『教室でみんなが来るのを待っていたい。』
そんな気持ちが、ふと心の奥から湧いてくる。
みんなと笑い合った日々、みんなと並んで歩いた帰り道、意味のない雑談で夜更かしした日。
どれも手放したくなんてなかった。
けれど、それでも。
「例えこれが間違った選択だとしても、最善だって信じたいんだよ…。」
小さく呟いてみても、返事はない。
ただ、曇り空の下の静寂が私の声を飲み込んだ。
生徒玄関を抜け、グラウンドに出る。
ふと、振り返って校舎を見上げた。
たくさん、たくさんあった。
苦しかったこと、悔しかったこと――でも、それ以上に笑い合えた時間が、私の中に確かに残っている。
セリカちゃんの泣き顔、シロコちゃんの冗談、ノノミちゃんの優しい声、アヤネちゃんのちゃぶ台返し……。
思い出が頭をよぎって、胸がきゅっとなった。
涙がこぼれそうになって、慌ててぶんぶんと頭を振る。
「……行かなきゃ。」
そう言って、私は再び前を向いた。
――その瞬間だった。
「こんな朝早くから、どこへ行くつもりだ?」
びくりと肩が跳ね、目を見開いた。
そこにいたのは、白い外套を羽織り、左腰に長い刀を下げた――黄泉先生だった。
動揺する私を見つめるその目は、どこまでも静かで、どこまでも深くて。
そして、逃げ道なんて最初からなかったことを、まざまざと思い知らせるような眼差しだった。
つづく
最近、海外でウマ娘の人気が爆発しているらしいですね。それもあってか僕も再びインストールしました。
海外の方たちがそれぞれのキャラクターについて話し合っている様子をようつべで見ているんですが、なかなか面白いです(語彙力ナリタトップロード)。