死を識る者、日常に佇む   作:ツカッチ

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開拓者のみなさん、先生のみなさん、こんにちは。

マネーウォーズのSP編成が強すぎる。
飲月に仙舟絆ついたの偉すぎる。


色なき心の在処

補習授業部の教室に、4人の生徒が静かに座っている。

しかし、どこかソワソワした雰囲気。

試験が終わって2時間ほどだが、早くも試験の結果が発表されるのだ。

 

合格点は60点。それを4人同時に取らなければ合格することはできない。

万が一不合格となってしまった場合は勉強合宿が予定されている。

 

やがて扉が開き、ハルトと黄泉が入室。ハルトが手にしていたファイルには、恐らく採点された解答用紙があるだろう。

 

"じゃあ早速だけど……試験を返却するよ。"

 

ハルトはそう言いながら、ファイルから折り畳まれた紙を取り出した。

一方の黄泉は近くにあった椅子に腰掛け、黙って返却の様子を見守る。

 

"まずは……ヒフミさん。"

 

「は、はい!」

 

名前を呼ばれたヒフミは勢いよく席から立ち上がり、背筋をピンと伸ばす。見るからに肩が上がっており、緊張の様子がこれでもかと伝わってくる。

 

そんなガチガチのヒフミに、ハルトはニコッと微笑んだ。

 

"おめでとう! 78点、合格だ!"

 

「あ、ありがとうございます!よかった……!」

 

結果を聞いて、ヒフミは大きく息を吐く。

ハルトから解答用紙を受け取り、軽い足取りで席に戻った。

 

"次、ハナコさん。"

 

「はい♪」

 

"60点!ギリギリだけど、合格おめでとう!"

 

「うふふ、良かったです♪」

 

ハナコは口元に手を当て、上品に笑う。

 

勉強中の様子を観察していたハルトと黄泉からすれば、彼女がこんなギリギリの点数を取るのかと違和感を覚えたが、合格は合格なので特に気にしないことにした。

 

"次、アズサさん。"

 

「はい。」

 

アズサがハルトの前に立った瞬間、彼から笑顔が消え、何とも言えない表情になる。

 

"34点……。"

 

「チッ……紙一重だったか。」

 

「アズサちゃん!? 紙一重なんて差じゃないですからね!?」

 

単に『紙一重』の意味を理解していないのか、わざと言っているのかは分からないが、何れにしろ点数は足りていない。問答無用で不合格である。

 

"最後に、コハルさん。"

 

「は、はい。」

 

"26点……。"

 

「コハルちゃんんんん!!!??」

 

コハルの結果にヒフミは全力でツッコむ。ずっと隣で勉強を見ていたために、合格してくれると信じていたのだろう。

 

「いや、まぁ、けっこう難しかったし。」

 

「いやいやいや!? 試験範囲を考えてもそんなに難しくないはずですよ!?」

 

頭を抱えるヒフミだが、時既に遅し。補習授業部は勉強合宿が決定した。

そんな中、ハナコが何かを思い出したかのように口を開いた。

 

「あら? ということは、黄泉先生と一対一で勉強するのは……。」

 

「ああ、コハルだ。」

 

「忘れてたぁぁぁ!!」

 

黄泉とコハルの視線がバチッと合う。

瞬間、彼女の顔色が一気に青くなり、叫んだ。

 

「ヒフミ、助けてぇぇ!」

 

「む、無理ですよっ! 勉強しないコハルちゃんが悪いんです!」

 

「ちゃんと勉強したよ!」

 

「だったら26点なんて点は取りません! いくらなんでも……!」

 

2人の様子はまるで口論をする母親と娘のようだ。

すると、コハルの視界に突如影が現れる。振り返ると真後ろに黄泉が立っていた。

 

「コハル、ついて来い。」

 

「い、いきなり!? 待ってよ、まだ心の準備が――」

 

「テスト返却の後は復習と決まっている。」

 

そう言って黄泉はコハルの体をひょいと軽々持ち上げる。当然コハルは暴れて脱出を試みるが、黄泉の腕はピクリとも動かない。

 

「せ、先生のエッチ!下ろしなさいよ!あ、あんたたちも黙って観てないで助けて!」

 

今度は仲間に助けを求めるが――

 

「がんばれ。」

 

「えと……ファイトです……!」

 

助けるどころか逆に見送られてしまう。

挙げ句の果てには……

 

「コハルちゃん、あまり足をジタバタすると下着が見えてしまいますよ♪」

 

「〜〜っ!! 次会ったら全員死刑にしてやる!!」

 

ハナコの発言で慌ててスカートを押さえ、抵抗をやめて全てを受け入れた。

そして黄泉に抱えられたまま、部屋を出て行くのだった。

 

パタン……と扉が静かに閉まる。

やけに静まり返った教室で、ヒフミが口を開いた。

 

「大丈夫、ですよね?」

 

「ああ。コハルの犠牲は無駄にはしない。」

 

「それだとダメな意味になるんですが……。」

 

アズサの返答に苦笑いを浮かべるヒフミ。

すると、ハルトがそっと2人に歩み寄り、言った。

 

"万が一コハルさんが急成長したら、今度はアズサさんが呼ばれることになるかもしれないね。"

 

これは黄泉の指導スキルにかかっているが、そうなる可能性は十二分にある。

そして、それは今の彼女たちのやる気に火を灯すには十分な言葉だった。

 

「それはまずい。すぐに私も復習をしないと。」

 

「わ、私も復習をします!」

 

そう言って2人はすぐに席に座り、模範解答と自分の解答を見比べ始める。間違えた問題は今日のうちに覚えてしまいたい所だ。

 

「黄泉先生と教室で2人きり……。なんだかうらやましく思えてきました。」

 

そんなハナコの言葉に反応する者は、この教室には1人もいなかった。

 

 

 

コハルが運ばれたのは隣の教室。そこは先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。

夕方の柔らかな光が差し込み、整然と並んだ机が長い影を落としている。

 

黄泉は無言のまま教壇の前まで歩き、ようやくコハルを床に降ろした。

 

「……乱暴すぎない?」

 

「無駄に動くからだろう。俺はコハルを抱えただけだ。」

 

即答だった。

納得いかなさそうにむくれながらも、コハルは近くの席に腰を下ろす。

黄泉はその隣に椅子を引き、自然な動作で座った。

 

距離は近いが、妙な圧はない。

ただ、逃げ場はない。

 

「しかし……26点か。」

 

黄泉が呟くと、コハルの肩が大きく震えた。

答案と問題用紙が机に並べられる。紙が擦れる音だけが、静かな教室に響いた。

 

「ちゃんと勉強したんだろうな?」

 

「し、したわよ!でも、本当に難しかったんだから! 私は悪くない!」

 

「……他責思考はやめておけ。悔しいのは分かるが、時には己の非を認めることも――」

 

「本当に難しかったんだって!!」

 

コハルの叫びで言葉を失ってしまう黄泉。見れば、彼女は目に涙を浮かべていた。

 

「……そうだな、お前は頑張った。結果がどうであれ、まずはそこを褒めるべきだった。」

 

そう言ってそっと頭を撫でる。点数が低いとは言え、コハルが努力している様子は黄泉も見ていた。今回はそれが振るわなかっただけ。

チャンスはあと2回ある。次の試験まで時間もある。それまでに自分がコハルの学力を伸ばすのだと決意を固めた。

 

だが同時に違和感も覚えた。それは、コハルがあまりにも必死の形相だったことだ。

『自分は悪くない、問題が悪い』と言われたら、誰でも他責思考だと思うだろう。だがコハルの目は、そんな言葉では済まされない何かを訴えてきていた。

 

黄泉はその違和感が拭えず、コハルの解答用紙を見る。

問1と2の問題はすべて正解している。しかし、それ以降の問題がすべて不正解だった。

 

次いで黄泉は問題用紙を開く。

問1、2は簡単な計算問題だった。それこそヒフミが言ったように、小テスト並みの問題。

 

しかし3ページ目――文章問題に目を通した瞬間、黄泉は全てを理解した。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

夜のトリニティ総合学園は、昼とは全く別の顔を持つ。

外壁をなぞる白い照明が建物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせており、闇に沈む庭園とは対照的に、その姿だけがやけに整然としていた。

 

人の気配が無い校舎。そんな中、白亜のベランダで1人、夜風に当たる者がいた。

その姿はまるで、誰かの来訪を待っているようにも見える。

 

「星を眺めながら紅茶を嗜むのも、また風情があっていいですね。……あなたたちもそう思いませんか?」

 

彼女は振り返り、尋ねる。

足音を立てて彼女に近づく2つの黒い影があった。

 

その姿は月光により顕になる。

 

「こんばんは、黄泉せ――」

「ナギサ。」

 

黄泉が現れた瞬間、風はぴたりと止んだ。

まるで環境そのものが、彼の存在を認知したかのように。

 

その後ろから現れたのはハルト。肩に力が入っているようにも見える。

 

「俺がそんな話をしに来たとでも思っているのか?」

 

「まさか。お二人は今回の試験についてお話をしに来たのでしょう?」

 

ゆっくりとティーカップをソーサーに置き、黄泉に向き直る。

落ち着いた雰囲気のナギサに対し、黄泉は強い不快感を顕にしていた。

 

「それが分かっていながら、なぜこのような真似をした。」

 

そう言って黄泉はテーブルに冊子を置く。

それは一昨日に行われた特別学力試験の、コハルに渡された問題用紙だった。

 

「勉強ができるできないの問題ではない。とてもコハルが……いや、一般の一年生が解けるとは思えない内容だ。」

 

問題は確かに試験範囲から出されていた。使われていた公式も、小中学生で習う一般的なものと試験範囲内のものだ。

だが、あまりにも応用が利きすぎており、彼女の頭脳では解こうにも解けなかった。

 

決してコハルが馬鹿だと言いたいわけではない。問題用紙に書かれていたメモを見ると、何度も計算し直したのが分かる。彼女は彼女なりに、最後まで計算するのを止めなかった。

 

……しかし、どの問題も解に辿り着くことができなかった。

 

「……出題問題は全て事前に告知した範囲です。それに、使用した公式もすべて既習範囲内。それのどこに問題があるのてすか?」

 

それでもナギサは冷静そのものだった。

まるで『初めからそのつもりでやった』と言わんばかりに落ち着いていた。

 

その説明は屁理屈のようだが、どこにも問題はない。なぜならその問いたちには解があり、これまでに習った公式を使えば自ずと解に辿り着けるからだ。

 

「答えられなかったのは、コハルさんの努力不足に他なりません。それにチャンスはまだ2回ありますし、それに向けて」

「そうじゃない。」

 

黄泉が、ナギサの話を正面から遮った。

 

「俺が聞きたいのは――あいつらを合格させる気があったのかどうかだ。」

 

刹那、ナギサの呼吸が、一瞬停止した。

 

補習授業部が本当の意味で合格するには、全員が揃って合格点を超えるしかない。つまり、1人でも不合格なら全員が不合格になる。

そして、試験問題を作ったのは他でもないナギサだ。もし意図的に難易度を上げたというのなら、彼女はコハルを合格させるつもりがなかったということになる。

 

4人の中で唯一の一年生。試験範囲もヒフミたちとは異なり、気づかれることなく難易度を上げるなら彼女の試験問題だろう。

 

「……仮にそれが真実だとしても、俺もハルトも怒鳴るつもりはない。俺たちを呼んだ本当の理由を教えてくれ。」

 

黄泉が深く息を吐くと、それに呼応するように緩やかな風が吹き始めた。

まるで『2人が怒っていないのは本当だ』とナギサに伝えるかのように。

 

「……黄泉先生の仰る通りです。コハルさんの試験問題は彼女を不合格にさせるために、わざと難易度を上げて作成しました。」

 

「その理由は?」

 

黄泉の声音は変わらない。だが、その拳は固く握られていた。

 

ナギサはそれを数秒視界に映し、息を整える。

そして、黄泉を真っすぐに見据えて答えた。

 

「あの4名を、退学させるためです。」

 

"た、退学……!?"

 

ハルトは思わず驚きの言葉を漏らした。しかし、それ以上言葉は続かない。

一方の黄泉は自分が言いたいことをぐっと堪える。

今はナギサのターン。下手に質問をして話が逸れるのも面倒だ。

 

「黄泉先生は既にご存知かもしれませんが、ハルト先生もいらっしゃるので、改めてご説明します。」

 

そう言うとナギサはハルトと目を合わせ、話を始めた。

 

「ハルト先生は、『エデン条約』についてご存知ですか?」

 

"た、たしか、トリニティとゲヘナの不可侵条約だよね?"

 

ハルトの回答にナギサは小さく頷く。

 

「エデン条約を最初に提唱したのは連邦生徒会長です。長年啀み合っていたゲヘナとトリニティによる不可侵条約は必ず締結すべきだと、私も羽沼議長も賛同しました。ですが――彼女の失踪により、空中分解してしまう寸前まで陥ってしまったのです。」

 

「それを私が立て直し、念願の条約が締結される目前になった今――ある話を耳にしてしまいました。」

 

瞬間、ナギサの目が細められ鋭さが増した。

そして一呼吸置いて、再度口を開く。

 

「トリニティの生徒の中に、それを妨害しようとする者がいる……と。」

 

その声は普段の柔らかく優しいものではなく、学園のトップを務める者の、威厳のある声だった。

 

「つまり補習授業部に集められたのは、その疑いがある者たち……というわけか。」

 

「仰る通りです。最後まで見つからなければ、そのまま捨てることもできますし。」

 

ナギサが答えたところで、黄泉は『知りたいことは聞いた』と言うように息を吐いた。

自然と彼女も視線はハルトに向けられる。

 

"……本当に、あの4人の誰かなの?"

 

「はい。」

 

"……そう判断した理由を聞いてもいい?"

 

ナギサは数秒目を伏せ、答える。

 

「彼女たちには数多の問題行動、外部との不審な接触、思考的な逸脱傾向が見られました。いずれも“断定”には至らないものですが、条約締結直前という状況で看過はできませんでした。」

 

迷いのない、真っ直ぐな声。リーダーとしての覚悟が滲んでいた。

今のナギサにとっての最優先事項は条約を結ぶこと。たとえその未来で友人と別れることになったとしても、果たさねばならない事なのだ。

 

「……ヒフミ、ハナコ、アズサの3人は認めよう。だが、コハルがそのような行動を取った話は聞いたことがないが。」

 

「彼女は――ある意味人質です。正義実現委員会の中には反ゲヘナの方々が何名かいらっしゃるようですから。」

 

そう言ってナギサはティーポットの紅茶を(から)のカップに注ぐ。3客のティーカップから白い湯気がふわりと宙を舞い、薄れ、空気に溶けていく。

 

ポットをテーブルに置き、再び黄泉とハルトを見据えた。

 

「改めて、黄泉先生、そしてハルト先生。補習授業部に潜んでいるトリニティの裏切り者を探していただけませんか?」

 

2客のティーカップを並べ、ナギサが改めて頭を下げた。

 

これは単なるお願いではない。儀式だ。

一度同じ船に乗れば、生徒に勉強を教えつつ、その教え子の中から裏切り者を探さなければならない。

 

飲めば共犯、飲まなければ――紅茶が冷めてしまう。

……どうやら逃げ道はないらしい。

 

「ここまで話を聞いた以上、断る道理もない。」

 

黄泉はカップに触れ、その温度を確かめるように指先を止めた。やがて取っ手を持ち、一気に飲み干す。

その紅茶は、爽やかすぎるほどに軽やかな香りだった。

 

彼はエデン条約によって、トリニティとゲヘナの生徒たちが無駄に傷つかずに済む未来が待っているのなら、ぜひ締結してほしいものと考えている。

 

それを邪魔する者がいるのなら、放ってはおけない。

 

「ありがとうございます。」

 

次いで、ナギサも紅茶を喉へ流した。

 

それでも湯気はまだ静かに揺れている。

 

もう1客のティーカップ。手を伸ばせば届く距離にあるそれを、ハルトはただ見つめていた。

 

甘やかな香りが鼻先を掠める。

けれど、指先は動かない。

 

("……疑う?")

 

頭では分かっている。

条約は必要だ。未来のためだ。トリニティとゲヘナが刃を向け合わない世界は、きっと正しい。

 

それでも――

 

喉が、ひどく渇いた。

 

飲めば、その瞬間から自分は“疑う側”に立つ。

先生としてではなく、監視者として。

 

カップの持ち手に指先が触れる。

だが、そのまま力が入らない。

 

『お前はこれから様々なことを経験するだろう。目を背けたくなるような現実、守りきれないもの、時には――大切な生徒を疑うことも。』

 

『それでもお前は進むのか?』

 

脳裏に浮かんだのは、初めてキヴォトスに来た日、黄泉に言われた言葉。

その問いに、ハルトは強く頷いた。自分にも守りたいものがあるのだと、どんな役目でも引き受けると誓った。今さら立ち止まるわけにはいかない。

 

守るべき生徒の前で。

憧れる人の前で。

情けない姿など、見せられるはずがない。

 

「……っ!」

 

指に力を込める。

カップを持ち上げようとした、その瞬間。

 

不意に、横から伸びた手がカップを押さえた。

 

"黄泉、先生……?"

 

顔を上げると、黄泉はわずかに目を細めていた。

 

「……とりあえず、力を抜け。」

 

低く、落ち着いた声。

自然と肩から力が抜けていく。

 

ハルトはゆっくりと、カップの取っ手から指が離した。

 

「……何をそんなに焦っている。」

 

"……私は黄泉先生に「生徒を疑うことがあっても、前に進む」と誓いました。だから、私も――"

 

「……ハルト、覚悟と焦りは全く異なるものだ。」

 

静かな声が、言葉を断ち切る。

黄泉はハルトを真っ直ぐに見た。

 

「『先生』とは、万能な存在ではない。」

 

その声音は叱責ではない。

事実を告げるだけの、穏やかな響き。

 

「できないことは、できないと言っていい。」

 

「迷うことも、立ち止まることもある。」

 

「それでも、生徒たちはお前を“先生”と呼ぶだろう。」

 

ハルトの瞳が、かすかに揺れた。

 

「だが――無理に飲み込んだ覚悟は、いずれ歪み、崩れる。」

 

"………。"

 

長い静寂が訪れる。

ナギサは何も言わない。ただ、その様子を静かに見ている。

 

黄泉は一瞬だけ視線を伏せ――

そして、ためらいなくハルトのカップを手に取った。

 

"黄泉先生……?"

 

「今は、まだそのままでいい。」

 

短い言葉だった。

そして黄泉はそのまま、二つ目のカップを唇へ運んだ。

 

紅茶の湯気が頬を撫でる。

マスカットの香りが、わずかに甘く鼻を抜ける。

 

そして、躊躇うことなく一息で飲み干した。

空になったカップを静かにソーサーへ戻す。

カチャン、と小さな音が響いた。

 

「――これで、十分だろう。」

 

ナギサの瞳がわずかに細まる。しかし、先ほどのような鋭さはなく、口元も緩んでいた。

 

黄泉は軽く息を吐き、ハルトに向き合う。

 

「お前の分は俺が背負う。だが、それは"永遠に"ではない。お前が自分の足で立てると判断した時は、お前が自分で選べ。」

 

"……はい。"

 

そう答えるハルトの声はとても細く、風に煽られて流れて行った。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

シャーレ居住区の廊下は、やけに静かだった。

窓の外には夜のキヴォトス。 遠くで灯る明かりが滲んでいる。足音だけがやけに大きく響く。

 

いつもなら4人の楽しそうな声が聞こえるはずだが――時間的にも揃ってシャワーを浴びているのだろう。

 

ハルトは立ち止まらない。 止まったら、そのまま動けなくなる気がした。

 

ポケットの中で、無意識に拳を握る。

 

――情けない。

 

黄泉に止められた瞬間が、何度も脳裏に蘇る。

 

『覚悟と焦りは違う。』

 

分かっている。 分かっているはずなのに。

 

自分は誓ったのだ。

“生徒を疑うことがあっても前に進む”と。

 

あの時は、確かに頷いた。 迷いなんてなかった。

 

なのに――

 

部屋の扉の前で、足が止まる。

頭に浮かんだのは、補習授業部の4人の顔。

 

笑っている顔。 拗ねている顔。 気さくに話しかけてくる顔。

その中に、“裏切り者”という言葉を重ねようとする。

 

だが、できない。

胸の奥が、きしむ。

 

――疑う?

あの子たちを?

 

指先が扉のレバーに触れる。 だが、押せない。

こんなところで止まっている場合じゃない。 黄泉はもう背負った。 自分の分まで。

 

それなのに、自分は。

 

"……私は、何をしているんだ。"

 

小さな呟きは、夜に吸い込まれていく。

 

一歩を踏み出そうとする。

 

けれど、その足は重い。

 

まるで足首に見えない鎖が絡みついているように。

 

進まなければならない。 でも、進みたくない。

 

その矛盾が、ハルトを縛る。

 

やがて、ゆっくりと扉を押す。

 

部屋の灯りはつけない。

 

暗闇の中に身を沈める。

 

今はまだ、答えは出ない。

 

――その時だった。

 

 

「ハルト先生。」

 

 

不意に、名前を呼ばれる。

顔を向けるとそこには、パジャマ姿のカヨコがいた。普段は1つに纏めている髪も、真っすぐに下ろされている。

 

「お帰り。みんなシャワー終わったから使っていいよ。それと、休憩室に夕飯があるから、レンジで温めて食べて。」

 

"ありがとう。後でいただくね。"

 

「うん。今日もお疲れ。」

 

カヨコからの労いの言葉を貰い、ハルトは静かに部屋に入った。

カチャン……と扉が閉まる音が鳴り、廊下からはパタパタとカヨコの足音が遠ざかっていく。

 

やがて足音が消え、静寂が戻る。

ハルトは、そのまま扉にもたれかかった。

 

“裏切り者を探す”。

その言葉だけが、何度も何度も反芻される。

 

一度でも「疑う」という前例を作れば、 きっと次からは簡単になる。

 

あの子は大丈夫か。 この子は怪しくないか。

そんな目で、生徒を見る自分になる。

 

そんなこと――

 

"私には、できない……。"

 

声は壁に、天井に吸い込まれ、返事はない。

 

ベッドに倒れ込むと、スプリングがわずかに軋んだ。

 

暗闇が、視界をゆっくりと満たしていく。

 

目を閉じれば、さっきよりもはっきりと浮かぶ。

 

笑顔。

信頼。

「先生」と呼ぶ声。

そのすべてに、疑いを混ぜる自分……。

 

考えなければならない。

決めなければならない。

それなのに、思考は同じ場所を回り続けるだけで、 前へ進まない。

 

やがて、瞼が重くなる。

 

抵抗する力も、残っていない。

 

思考が途切れ途切れになり、 言葉の輪郭が滲んでいく。

 

疑う……生徒を……

 

……疑う……

 

そのまま、ハルトの意識は静かに沈んでいった。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

目を覚ますとそこは、白い世界だった。

 

天井も、床も、空もない。

境界のない白が、どこまでも広がっている。

 

"……ここは……?"

 

声を出してみる。

反響することなく、音は吸い込まれるように消えた。

 

立っている感覚はある。

けれど、足元を見ても“地面”は見えない。

 

夢――なのだろうか。

 

ふと、胸の奥に残っているあの言葉が蘇った。

 

“裏切り者を探す”。

 

それを思い出した瞬間、白い世界にかすかな揺らぎが走った気がした。

 

その時。

 

「……随分と、思い詰めているね。」

 

背後から、澄んだ声。

ハルトは弾かれたように振り返る。

 

そこに立っていたのは――

 

風もないのにふわりと揺れた、柔らかなベージュの髪。

頭の上には、キツネのような耳。

静かにこちらを見つめる、透き通った瞳。

 

少女は目を細め、胸に手を当てる。

そこで初めて、ハルトは彼女が初対面なことに気づいた。

 

"君は……?"

 

少女はすぐには答えない。

ただ、ハルトの胸元――“そこにあるもの”を見つめるように、わずかに視線を落とした。

 

「……ナギサの言葉はとても強いものだったと、私も思うよ。」

 

刹那、心臓が強く脈打つ。

 

"どうしてそれを……。"

 

「すまない、少しだけ "見させて" もらった。」

 

少女は一歩、近づく。

足音はない。

 

「君の心は何色にも染まっていない。つまり、まだ何も選んでいない証だ。」

 

静寂。

ハルトは言葉を探すが、見つからない。

少女はわずかに視線を和らげ、静かに告げた。

 

「改めて、私の名は百合園セイア。このような形での出会いになってしまたのは……少し物足りないね。」

 

"っ、その名前……!"

 

ハルトは思わず目を見開く。

その名前は、確かに聞き覚えがあった。

 

彼の反応を見て、微笑むセイア。

彼女はさらに一歩歩み寄り――

 

「――会いたかったよ、ハルト先生。」

 

白い世界が、わずかに色を帯びた気がした。

 

 

続く




ファルカが来るぞー!
当然引きます、カッコよすぎる。

火花、アリアちゃんももう少し!羽ちゃんも引くつもりでいます!
バイト代は、課金するためにある!

〈補足〉
ハナコが2点じゃないのは、単純に黄泉先生と勉強することになったらわざと低い点数を取っていることがバレるからです。

アズサとコハルは黄泉先生の発破でブーストがかかった感じです(不合格は不合格ですが)。

コハルの試験をわざと難しくした流れにしたのは、話の展開を考えてです(そのせいでナギサの雰囲気もだいぶ変わってますが)。
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