死を識る者、日常に佇む   作:ツカッチ

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開拓者のみなさん、先生のみなさん、こんにちは。

今回は久しぶりにあの子が登場します。

どうでもいい話ですが、今日3月19日は僕の誕生日なんです。


揺らぐ境界線

「ナギちゃんが探してる『トリニティの裏切り者』。それは――」

 

「白洲アズサ、だよ。」

 

その言葉は、あまりにも滑らかにハルトの耳に届いた。しかしハルトは眉1つ動かさない。

 

「……もしかして、あんまり驚いてない感じ?」

 

ミカがハルトの目を覗き込むかのようにして言う。

そう言われてようやく、ハルトは自我を取り戻したかのように動き出した。

 

"……ごめん。ちょっと頭の整理が追いついてないんだ。"

 

裏切り者がアズサなのは既に知っている。

だが、彼女を守れとはどういう意味だ? 一瞬嫌な予感が脳裏を過ぎるが、全力で無視をした。

 

「ハルト先生は、アリウス分校って知ってる?」

 

"……アリウス?"

 

「知らないかぁ。まぁ、無理もないよ。」

 

知っての通りハルトはアリウスについて理解しているが、やはり知らないふりをした。

 

「まぁ、簡単に説明すると……」

 

ハルトは復習も兼ねてミカの話に耳を傾ける。

その内容は黄泉から聞いたものとほとんど変わらなかった。

 

「……で、ナギちゃんが推進している『エデン条約』。2つの大きな学園が、これからは仲良くしようねって約束。なんだか、昔の分派たちが統合された時の話と似てない?」

 

「確かに、長年啀み合っていたトリニティとゲヘナが仲良くするのはとてもいいお話だと思う。でも……それは本当にいいことなのかな?」

 

「だってその核心は、トリニティとゲヘナの武力を合わせたエデン条約機構(Eden Treaty Organization)と呼ばれる新たな武力集団を作ることなのに。」

 

「……ナギちゃんの目的は分からないけど、これだけは分かる。そんな大きすぎる力はいつか暴走して、気に入らないものを排除するために使われることになる。」

 

「昔、トリニティがアリウスにしたように。あるいは、セイアちゃんみたいに――」

 

“セイア……?”

 

不意に出てきた言葉に、思わず復唱する。

すると、ミカの表情がみるみる複雑なものに変わっていった。

 

「ごめん、今のナシ。……なんて言っても、見逃してくれないよね。」

 

“ああ、大丈夫。話さなくていいよ。”

 

ハルトはミカを落ち着かせるようにそっと寄り添う。不安そうな顔をしていたミカに、少しずつ笑顔が戻る。

 

「……ありがとう。それで、話は戻るんだけど――」

 

コホン、と咳払いをして改めて話し始める。

 

「白洲アズサ……あの子はアリウスの生徒でさ、私がトリニティに転校させたんだ。もちろん、ナギちゃんには内緒で。」

 

「アリウス分校は今も私たちを憎んでる。全て、過去に起きたことのせいでね。」

 

そこでミカは話を止める。

彼女は少し俯き、自身の手の指を静かに絡めた。

 

「……私は、ただアリウスと和解したいだけなんだ。でも、エデン条約が結ばれたらその機会も無くなってしまう。」

 

"だから、アズサさんを?"

 

ミカは小さく頷いた。

 

「私はあの子に、和解の象徴になってもらいたかった。過去のことは水に流して、アリウスとも仲良くやっていけるってことを証明したかった。」

 

「だけど、気づいたらナギちゃんが『裏切り者がいる』と言い出して、補習授業部を作って……。」

 

"……だから、私たちにアズサさんを守ってほしいと。"

 

「そういうこと。」

 

ミカは小さく頷いた。

 

「ナギちゃんは『誰かがスパイなんじゃないか』って疑ってる。そういう意味ではトリニティが敵対しているアリウス出身の白洲アズサが当てはまる。」

 

「そして、見方によれば私も “裏切り者” ってことになる。私はエデン条約に反対の立場だからね。」

 

「さらに言えば、ナギちゃんも “裏切り者” って考えられる。ナギちゃんは平和なトリニティを怪物(リヴァイアサン)に変えようとしてるんだから。」

 

ハルトは腕を組み、"少し考えさせて" と言った。

そして、ミカの話を元に脳をフル回転する。

 

まず、『エデン条約機構』。これは初めて聞いた単語であり、そんなことナギサは教えてくれなかった。

新たな武力集団を作る。その目的が自衛であり、暴動の抑制なら何も問題はない。

だが、ミカが言うように他の目的があるなら無視はできない。

 

……色々考えてみたが、この件の結論はまだ出せない。あまりにも情報が足りず、憶測による結論になってしまうからだ。この話は一旦無視するしかないらしい。

 

そして、トリニティとアリウスの和解。

ミカの言っていることに裏は感じられない。アリウスと和解をしたいという気持ちは本当なのだろう。

 

だが、そこには拭えぬ違和感があった。

それは、彼女は『アリウスと和解したい』と言っているのに、肝心のナギサには何も話していないことだ。

 

現在トリニティの実権を握っているのは他でもないナギサだ。真にアリウスと和解するには、彼女が首を縦に振ってもらう必要がある。

 

にも関わらず、ミカはナギサに話さなかった。独断でアズサを迎え入れ、彼女を和解の象徴と見立てた。

そして、なぜ「もちろん」と言った? なぜ「隠して当然」となどと考えた? それを協議するのがティーパーティーの――

 

……いや、それよりも「和解の象徴」とはなんだ?

アズサがトリニティとの和解のために動いている素振りはどこにもなかった。ただ少し成績が悪く、しかし勉強熱心な生徒でしかなかった。

 

もし本当に和解したいのなら、彼女がアリウスの生徒と明かさなければ意味がないのでは……?

 

(“……確か、アズサさんの任務って――”)

 

刹那、思考がピタリと停止する。

 

一拍遅れて、心臓が握り潰されたかのような悪寒が走った。

 

もしこれが真実なら、ミカは――

 

「……ハルト先生。顔色悪いけど、大丈夫?」

 

ミカがハルトの顔を覗き込むように尋ねる。その仕草は生徒として本当に心配していた。

 

そんなはずはない。

何かの間違いだ。

彼女がそんなことを企てるはずがない。

 

そう考えたいのに、考えれば考えるほど、違和感のある部分が浮き彫りになる。

だが、その思考がハルトをさらに追い詰めた。

 

生徒を疑わないと言ったはずのハルトが、生徒を疑っていた。あの時の誓いを破る行為に、身体が拒絶反応を起こしていた。

罪悪感や情けなさなど、いろんな感情が入り混じり、ハルトの精神を削る。

 

だが、気づいてしまった以上、もうどうしようもない。せめて、堪えろ。

万が一ミカに気づかれたらーー間違いなくナギサが死ぬ。

 

あの時のセイアの言葉が本当なら、ここで止まっている暇はない。

 

"少し、日光を浴びすぎたのかも……。"

 

「えっ、それってまさか熱中症!?」

 

ハルトの嘘にミカは気づかない。それどころか本気で心配をし始めた。

 

"塩分を補給して眠ればすぐに治るよ。申し訳ないけど、今日はここで失礼するね。"

 

「ひ、1人で歩ける?」

 

"大丈夫だよ、ありがとう。"

 

その優しさに打たれ、ハルトは歯を食いしばる。

 

ナギサが言うように、彼はかなり甘い人物だ。今しがた自分を騙したミカを騙すことを、心の底から申し訳ないと思っている。

 

ハルトはドアノブに手をかける。わずかに力が入らない。

それでも、ゆっくりと振り返った。

 

"ミカさん。アズサさんは……私たちが必ず守る(・・・・)から。"

 

「……うんっ!」

 

ハルトの「守る」の意味は、ミカが考えているものとは違っていただろう。しかし、目の前の少女が何を考えていようと、その心を裏切ることなどできなかった。

 

 

ミカと別れ、廊下に出た瞬間、ハルトは足早に歩き出す。いや、歩いているつもりでも、ほとんど駆けていた。

手近な空き教室のドアを開け、滑り込むように中へ入る。背後でドアを閉めた瞬間、外の気配が遮断された。

 

ポケットからスマホを取り出し、画面を点ける。

時刻は14時04分。すでに協議はスタートしている。

 

"頼むっ……頼むッ!"

 

焦りながらも、素早くモモトークを開く。一番上にあった黄泉のアカウントをタップし、音声通話のボタンを押した。

 

1コール 出ない

2コール 出ない

3コール 出ない……

 

コールに比例するかのように、ハルトの焦りも強くなっていく。

 

4コール、そして5コール目が鳴った、その時だった。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「ナギサ様がいらっしゃるまで、もうしばらくお待ちください。」

 

ティーパーティーの侍女(と言っても生徒だが)に通されたのは、もはや見慣れた白亜のベランダ。

そこにナギサの姿は無く、ただ爽やかな風が吹き抜けているだけだった。

 

普段ナギサが座っている椅子の反対側にある椅子に腰掛ける。テーブルに刀を立て掛け、黙って彼女の到着を待った。

無意識に足を組もうとするが、場所を思い出してブレーキをかける。代わりに腕を組み、椅子に体重を乗せて目を瞑った。

 

風に運ばれる紅茶の香りを感じながら、アズサの話を思い出す。果たして、ナギサは納得してくれるだろうか。

黄泉は今回の話においてアズサの名前を出すことはない。あくまでも「裏切り者を見つけ、目的も直接聞いたから試験の妨害はやめてくれ」と頼むだけだ。

 

ナギサが補修授業部を作ったのはエデン条約の邪魔をする者を探すため。裏切り者の目的を伝え、しかし裏切り者は初めからナギサを殺すつもりはなかったと言えば補修授業部の疑いは晴れるはずだ。

 

だが、問題はその後だ。

ミカを騙し、ナギサを殺そうと本気で考えていた奴がこのキヴォトスにいる。すぐにでもアズサに対する事情聴取が始まるだろう。

まぁ、アズサもそれを理解しているようだったから、あまり気にすることでもないか。

 

……そう言えば、ハルトは今頃どうしているだろうか。ミカに振り回されていないといいが。

最も、自分がいないことを知った瞬間のミカの反応は想像に容易い。ハルトが上手い具合に励ますことを祈ろう。

 

ーーそのときだった。

 

「お待たせしました。」

 

カツン、カツンとヒールが大理石の床を鳴らす音と共に、ナギサが姿を表した。

 

「遅れてしまい、申し訳ありません。」

 

「いや、こちらが急に頼んだんだ。その点は弁えている。」

 

「ふふっ……。お茶、お入れしましょうか?」

 

「もらおう。」

 

そう言うとナギサはポットを手に取りコポコポと紅茶を注ぐ。その際に彼女が「今日はダージリンにしてみました」と言っていたが、番茶を好む黄泉にはさっぱりであった。

 

「補修授業部の皆さんの様子はいかがですか?」

 

「……お前の妨害も物ともしない。合格に向けて一段と気合が入っている。」

 

「最初の言葉はいりましたか?」

 

くすくすと笑いながらナギサは言うが、黄泉は何も答えなかった。

実際、ナギサの勝手な判断のせいでコハルが涙を流した。今では仕方なかった事と割り切っているが、生徒の涙は極力見たくない黄泉としては少し引っかかる言い方だった。

 

「では、そろそろ本題に入りましょうか。」

 

ナギサはソーサーにカップを置く。カチャン、と小さな音が静かなベランダに響いた。

 

そして、真っ直ぐに黄泉を見据え、尋ねる。

 

「お話とは、一体どのような内容なのでしょうか?」

 

先ほどまでとは違う、少し冷めた声。

黄泉は紅茶を一口運び、話し始めた。

 

「1つ、お前に頼みたいことが――」

 

ヴーッ ヴーッ

 

「………。」

 

「………。」

 

出鼻を挫かれ、なんとも言えない空気が流れる。

鳴っているのは黄泉のスマホ。画面には『ハルト』と書かれていた。

 

コールが2回、3回と続いたところでナギサが口を開いた。

 

「……出ないのですか?」

 

4回目のコール。そこで黄泉は静かに席を立った。

 

「すまない。」

 

黄泉は素早くベランダの端に向かい、5回目のコールが鳴ったところで応答ボタンを押した。

 

「俺だ、どうした。」

 

『黄泉先生!!』

 

スピーカーを耳に当てるやいなや、ハルトの興奮……いや、本気で焦っている声が届いた。

そして、こちらが尋ねるよりも早く、ハルトは言った。

 

『裏切り者の話をナギサさんにしてはいけない! ミカさんは、彼女は――!』

 

 

『アリウスと繋がっているんだッ!!』

 

 

話の意味が、理解できなかった。

ミカがアリウスと?一体何のために?

 

普通なら、そんな疑問が頭を埋め尽くすだろう。だが、黄泉の思考は不自然なまでにクリアだった。

 

「そのまま通話を切るな。」

 

それだけを伝え、通話を繋げたままスマホをポケットに戻す。そして先ほどの席には座らず、刀を手に取った。

状況を飲み込めていないナギサは何かを言おうとしたが、それが変えとして出ることはなかった。

 

「ゲヘナから要請が来た。せっかく時間を空けてくれたところ悪いが、このまま行かせてもらう。」

 

「わ、分かりました。どうかお気をつけて。」

 

「本当にすまない。」

 

その場から離れる理由を適当に伝え、ナギサに質問の隙も与えぬまま、黄泉はベランダから飛び出した。そして、自分が出せる限界に近い速度でトリニティから離れる。

 

ビルの屋上に着地し、再びスマホを取り出した。

 

「ハルト、どういうことだ。ミカがアリウスと繋がっているだと?」

 

『……すみません、繋がっていることの確証はないんです。ただ、彼女の話を聞いているとそのようにしか思えなくて……。』

 

「……詳しいことはそっちで聞く。一旦切るぞ。」

 

『はい。』

 

そうして黄泉は通話を切る。そして、一度深呼吸をする。黄泉はそのまま、鉄柵に寄りかかるようにその場で座り込んだ。

冷静に状況を判断できる黄泉だが、生徒の想定外の行動を瞬時に適応する能力は持ち得ていない。

 

ミカとアリウスが繋がっている――それが事実なら、ナギサを狙っていたと考えるべきだろう。

 

……だが、確証はない。

 

勘違いであってほしい。

ハルトの判断が間違っていたなら、それで構わない。

 

黄泉はそれ以上考えるのをやめ、合宿所へと急いだ。

 

 

 

 

 

合宿所へと戻った黄泉は、着地の衝撃を殺しながら地面に降り立った。

間髪入れずに顔を上げ、建物へと視線を向ける。

 

――静かだ。

 

あまりにも、いつも通りに。

 

その“変わらなさ”が、逆に神経を逆撫でする。

 

玄関を抜け、足を止めることなく黄泉は廊下を進む。

足音は最小限。しかし歩幅は明らかに早い。

 

やがて、教室の前に辿り着く。

中からは、淡々とした声が聞こえてきた。

 

"――ここはこうやって式を変形すれば……ほら、解けるよ。"

 

ハルトの声だ。

それに対して、小さく返事をする生徒たちの声。

 

いつもと変わらない、日常の光景。

 

黄泉は扉の取っ手に手をかけ――ほんの一瞬だけ動きを止めた。

 

静かにドアを開ける。

教室ではヒフミたちが横に並んで熱心に勉強をしていた。

 

「黄泉先生、お帰りなさい。」

 

ハナコが黄泉に気づき、声をかける。それに続くようにヒフミたちも「お帰りなさい」と声をかけた。

黄泉は「ただいま」と短く答え、すぐにハルトへと視線を向けた。

 

「ハルト、少しいいか。」

 

4人に、特にアズサに気づかれないように、『相談したいことがある』と言うような雰囲気で声をかける。

しかし、その目はいつも通り――に見えて、わずかに鋭い。ハルトもそれを感じ取ったのか、一瞬だけ言葉を止めた。

 

"みんな、少し休憩にしようか。"

 

すると4人は「はーい」と気の抜けた返事をした。

生徒たちが軽く伸びをしたり、体を動かそうと席を立つ。

 

ハルトも同様に席を立ち、黄泉の下へと急いだ。

 

「とりあえず、場所を変えよう。」

 

"はい。"

 

それ以上の言葉は交わさない。

 

2人は並んで教室を出る。

背後では、生徒たちの何気ない会話が続いていた。

 

――それが、妙に遠く感じられた。

 

少し離れた空き教室に入り、扉を閉めた瞬間。

黄泉は振り返り、低く言う。

 

「……全て、話してくれ。」

 

その声には、余計な感情はない。

 

しかし、ただ1つ――

 

『何かの間違いであってほしい』という、微かな思いが感じられた。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

ハルトはミカとの会話を掻い摘んで話した。

裏切り者のこと、白洲アズサのこと、トリニティとアリウスのこと、そしてーー両校の和解のことを。

 

話を聞いた黄泉は腕を組み、深く息を吐いた。

 

「……お前が言った『ミカがアリウスと繋がっている』のは、正しいのかもしれない。」

 

何かの勘違いだと信じたかった黄泉だが、話を聞いてもその瞳が揺らぐことはなかった。ハルトから連絡を受けた時点である程度は覚悟していたのだろう。

 

次いで黄泉はハルトに頭を下げた。

 

「まずは、よく連絡してくれた。感謝する。」

 

ミカはナギサに立場を隠して行動している。しかしティーパーティーの人間として、ナギサに黄泉の話の内容を尋ねるはずだ。

そうなればミカにアズサの裏切りがバレ、違う方法でナギサの命が奪われただろう。

 

まさに、紙一重の出来事であった。

 

しかしーー

 

“………。”

 

生徒の犠牲を回避したことは喜ぶべきだが、ハルトは何も言わなかった。

黄泉からの感謝にも返事を返さず、ただ拳を強く握っている。そして、その拳は小さく震えていた。

 

黄泉は何も言わず、空き教室を去ろうとする。

しかし、扉の前で立ち止まった。

 

「……お前にとって、あの連絡は辛い判断だったと思う。」

 

「それでも俺は、お前を誇りに思う。」

 

「今すぐに前を向けとは言わない。だが、この依頼はまだ終わっていない。今後何が起こるかは、誰にも分からない。」

 

「それでも、覚えておけ。」

 

「お前はナギサを救った。それは事実だ。」

 

そうして黄泉は静かに教室を出た。

ハルトは黄泉にも負けない強い意志を持っている。必ず自分で立ち上がってくれると信じている。

 

だが、黄泉も平気というわけではなかった。

廊下で立ち止まり、深く息を吐く。やがて顔を覆うように右手を当てた。

 

その手は、僅かに震えている。

 

ミカを思えば、嫌でも騒がしい声が脳内に再生される。だが、その記憶たちが徐々に薄れていっていた。

もし今後ミカに会えても、『トリニティを裏切ろうとしている』というノイズが頭に浮かぶだろう。

 

騒がしいと煩わしく思っていたその時間が脳裏に浮かぶ。

しかし、もうそれを同じものとして受け取ることはできなかった。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

その日の夜。ハルトは自分の部屋で椅子に座ったまま、目を瞑りながら俯いていた。

彼の体はピクリとも動かない。ただ重苦しい雰囲気が彼を覆っている。

 

(“……私は、ミカさんを……。”)

 

そこまで考えて、思考が止まる。

 

――否定したい。

だが、事実は消えない。

 

生徒を疑った。ハルトにとってそれは簡単に乗り越えられない壁だった。

 

「ハルト先生。」

 

不意に、聞き慣れた声が響く。

顔を上げるとそこにはーー眩しい青い世界が広がっていた。

 

崩れた壁の先に見える、青い海。

見上げれば視界いっぱいに広がる、青い空。

なぜか水浸しになっている、青い教室。

 

それは、シッテムの箱が織りなす空間。ハルトは気がつけば、1人用のソファではなく木製の学校椅子に座っていた。

 

少し視線を右に動かすと、彼女はそこに立っていた。

 

“……アロナ。”

 

アロナはじっとハルトを見つめていた。

いつもの無邪気さはどこにもない。

 

「どうして、そんな顔をしているんですか?」

 

“……そんな顔って?”

 

「自分が悪いことをしたって思ってる顔です。」

 

ハルトは言葉を失う。

 

彼女の言葉は図星だった。

 

“……やってはいけないことをした気がするんだ。”

 

静かな声だった。

 

アロナは少しだけ考え、そして言う。

 

「でも……ナギサさんが危ないって分かって、止めたんですよね?」

 

ハルトは何も答えない。

 

「じゃあ、それでいいじゃないですか。」

 

“よくないよ。”

 

即答だった。

 

“「結果が良ければいい」なんて、そんなの……”

 

「それは違います。」

 

アロナははっきりと言った。

 

「先生は、“結果が良くなるように選んだ”んです。」

 

ハルトは言葉の意味を理解できなかった。

 

しかし、尋ねる間も与えず、アロナは続ける。

 

「とても怖かったと思います。それでも、先生は選んだんです。」

 

ハルトの手が、わずかに震える。

その震える手を、アロナは小さな手で包んだ。

 

「それは――間違いじゃないです。」

 

沈黙。

 

しばらくして、ハルトは小さく息を吐いた。

その表情はまだ晴れていない。

 

“でも……それでも、やっぱり……”

 

ハルトが口を開いた、その時だった。

 

“アロナ……?”

 

突然、アロナがハルトに抱きついた。

ハルトの首筋に手を回し、彼から離れまいとしている。

 

「アロナからのお願いですっ……!それ以上自分を責めないでください……!」

 

その声は、なぜか震えていた。

次いで聞こえる鼻を啜る音。

 

ハルトは困惑しながら、アロナに尋ねた。

 

“……どうして、アロナが泣いているの?”

 

その問いに、アロナはすぐには答えなかった。

ただ、ハルトの服をぎゅっと掴んだまま、震えている。

 

「……だって……」

 

小さく、か細い声。

 

「先生が、そんなに苦しそうな顔してるから……!」

 

ハルトは言葉を失った。

 

「先生は……間違ってないのに……」

 

「誰かを守るために、ちゃんと選んだのに……」

 

アロナの声は、途切れ途切れだった。

 

「なのに……先生が自分を責めるから……」

 

「アロナは、それが悲しくって……!」

 

最後は、ほとんど泣き声だった。

 

自分の胸の上で泣く少女を見て、ハルトは思う。

どこまでアロナは純粋なのだ、と。

 

アロナの正体は、シッテムの箱に住まうサポートAIだ。しかし、誰かのために涙を流せる存在だとはハルトも知らなかった。

 

そしてハルトは静かにアロナを抱きしめる。

胸に収まる少女はとても温かくて――自然と、張り詰めていたものがほどけていく感覚があった。

 

“……ありがとう。”

 

ぽつりと、零れるような声。

 

“私の代わりに……泣いてくれて。”

 

アロナが、少しだけ顔を上げる。

 

ハルトは目を伏せたまま、言葉を続けた。

 

“まだ……全部は、受け入れられない。正しいかどうかも……正直、分からない。”

 

少しだけ、アロナを抱きしめる力が強くなる。

 

“でも……”

 

“あの時、止めなきゃいけないって思ったのは……本当なんだ。”

 

“だから……”

 

ほんのわずかに、息を吐く。

 

“間違いじゃないって言ってくれて……助かったよ。”

 

アロナの背中を支えていた右手で、そっと彼女の頭を撫でる。その時のハルトの表情は、確かに笑っていた。

 

アロナも頬に残った涙の跡をぐいっと袖で拭う。それでも拭いきれないまま――ニコッと、いつもの笑顔を見せた。

 

「まったくです!ハルト先生は私がいなきゃ、ダメダメなんですから!」

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

黄泉が風のように去った後のベランダ。そこでは相も変わらずナギサが紅茶を嗜んでいた。

 

結局、黄泉の話を聞くことも叶わなかった。重要な話があると言ったのは向こうなのに、何も言えないまま去ってしまった。

だが、こればかりはどうしようもないことだと理解している。

 

黄泉はただの先生ではなく、キヴォトス最強の戦闘能力を持つ。何か騒ぎが起きれば……特にゲヘナからは引っ張りだこで、よく暴動鎮圧に呼ばれるという話を何度も聞いた。

 

命優先は当然のこと。黄泉を止める権利は自分には無い。

 

と、その時――

 

「やっほーナギちゃん、元気してる?」

 

どこからともなくミカが現れた。

 

「ミカさん……どこへ行ってたんですか?」

 

「黄泉先生に会いに合宿所に行ってた!」

 

あまりに元気なミカだが、明らかにおかしい発言があった。

 

「黄泉先生……ですか?しかし彼は――」

 

「うん、いなかった!」

 

「前もって連絡はしなかったのですか?」

 

「したよ!返信はなかったけど!」

 

その返答にナギサはなんとなく察する。

自由奔放なミカのことだ。どうせ一方的にお願いし、勝手に納得し、許可なく向かったのだろう。それはもう連絡していないのと同義だ。

 

しかし――

 

「それにしては、元気そうですね。」

 

普通は凹むはずのミカが、それはもう元気なのだ。

なにか嬉しいことがあったのだろうか?

 

「ふふん、それはヒミツ!」

 

そう言って人差し指を口に当てる。

ナギサも別に興味なかったので、その話はそこで終わった。

 

すると、ミカが尋ねた。

 

「……ところでナギちゃん。黄泉先生の話って何だったの?」

 

「それが……話をされる前にゲヘナ学園の方へ行ってしまわれて……。なんでも応援要請が入ったそうで。」

 

「ふーん……。黄泉先生は大忙しだねぇ。」

 

そう話すミカの目は、どこか冷めていた。

だが、その感情はすぐに奥へと沈む。

 

「あ、そうそうナギちゃん聞いてよ!」

 

次に顔を上げた時には、いつもの無邪気な笑顔に戻っていた。

 

 

続く




あの子とは、アロナちゃんでした。
何気にしっかり描写されるのは初めてですかね。基本的にシッテムの箱から声だけでの登場でしたし。

色々カットしながら書いているので、「ここがわかりにくい」などありましたらぜひ教えてください。
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