妄想エンジェルが強すぎる。
静まり返ったトリニティ総合学園。
昼間の喧騒が嘘のように消え失せ、広大な敷地には、ただ夜の気配だけが満ちていた。
街灯の光が、石畳に長い影を落とす。
風が吹くたびに、木々がざわめき――それ以外の音は、何一つない。
しかし、その静寂を踏み破る影があった。
音もなく塀を越える、ガスマスクを付けた複数の人影。
それこそが――アリウスの兵だった。
着地の衝撃すら殺し、すぐさま周囲を確認する。
合図はない。声もない。だが、次の瞬間には全員が同じ方向を見ていた。
トリニティの中心部。
その最奥に位置する――生徒会長室。
迷いは、一切なかった。
影たちは一斉に駆け出す。
足音はほとんど響かない。
まるで地面を滑るように、一直線に進んでいく。
巡回の気配はない。
灯りも、人気もない。
まるで――最初から、この侵入を許しているかのように。
それでも、彼女らは止まらない。
任務は一つ。
ナギサの排除。
それ以外に、意味はない。
やがて、校舎へと到達する。
扉の前で、一人が手をかける。
――その瞬間。
わずかに、風が流れた。
ほんの一瞬の違和感。
だが、それに気づく者はいなかった。
扉は、音もなく開かれる。
そして――
影たちは、迷いなく内部へと侵入した。
その先に待つものを、何一つ知らぬままに。
「な……!?」
生徒会長室に突撃したアリウス兵たちは、目を疑った。
カーテンが、夜風に揺れている。
開け放たれた窓から差し込む月明かりが、室内を淡く照らしていた。
――だが。
そこにいるはずの人物の姿は、どこにもなかった。
「……いない?」
一人が、低く呟く。
「ターゲットはどこだ!」
別の兵が苛立ちを露わにする。
机、棚、奥の部屋――
手分けして確認するが、結果は同じだった。
「まさか……ここから飛び降りたのか!?」
開いた窓の外を覗き込む。
だが、痕跡は何もない。
「いや……それよりも――」
アリウスの指揮官らしきじ人物が、はっとしたように振り返る。
「ここで合流するはずの“スパイ”はどこだ!?」
その言葉に、空気が一変した。
ざわり、と。
静かだったはずの室内に、動揺が広がる。
誰もが、理解し始めていた。
――何かがおかしい。
その時だった。
ドォンッ!!
突如、遠方で爆発音が響いた。
床がわずかに揺れる。
「っ……!」
全員が一斉に顔を上げる。
次の瞬間、通信が割り込んだ。
『こちらチームIV!奇襲に遭ぐ――うわぁぁぁ!?』
ノイズ混じりの叫び声。
途切れる通信。
「おい!?チームIV、応答しろ!……クソッ!」
再び呼びかけるが、返事はない。
「……奇襲だと!?いったい誰が……」
その問いに答えるように、トランシーバーから静かな、落ち着いた声が届いた。
『……君たちが探している“スパイ”だよ。』
一瞬、全員の動きが止まる。
室内の空気が、凍りついた。
「まさか……!裏切ったと言うのか!?」
怒声。
だが――
『そうだ。目標は私が貰った。』
返ってきたのは、あまりにもあっさりとした肯定だった。
「なぜだ!何のためにそんなことを……!」
『早く終わらせて、試験を受けないといけないから。』
「……は?」
間の抜けた声が、思わず漏れる。
あまりにも場違いな理由。
だが、その声音には、一切の冗談が含まれていなかった。
『ちなみに、正義実現委員会はもう動き始めてる。退避するなら今のうちだよ。』
そこで通信は切れた。
指揮官は再度繋げ直そうとするが、反応は無し。
その時、兵の一人が小声で問うた。
「……撤退しますか?」
逡巡。
だが、すぐに指揮官が首を振った。
「いや、情報が正しければ正義実現委員会は動かない。恐れず進め!」
その号令と共に、兵たちの迷いは断ち切られる。
再び動き出す影。
だが――誰一人として気づいていなかった。
その“判断”こそが、完全に罠の内側へ踏み込む一歩であったことに。
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廊下に足音と銃声が鳴り響く。
アズサは大勢のアリウス兵に追われていた。
足音をあえて殺さず、しかし速度は落とさない。
背後から追ってくる気配は、はっきりと感じ取れていた。
(来ているな……。)
視線は前だけを見据えたまま。
アズサは角を曲がる。
「いたぞ!」
すぐ後ろで声が上がる。
しかし、それはわざとだ。あえて見つかる位置取り。あえて逃げ切らない距離。
全ては――敵の誘導のため。
(このまま、予定通り……。)
息は乱れていない。
心も、不思議なほど静かだった。
(……そうだ。全部、うまく行くに決まってる。)
――遡ること4日前。
合宿所のいつもの教室。
机を横に並べ、静かに着席しているめんめん。
黒板の前に立つハルトが口を開いた。
“アズサさんの情報によれば、トリニティに攻めて来る敵の数は多い。正面からぶつかれば間違いなく不利になる。”
静かな声。
だが、その一言で場の空気が引き締まる。
“だからこそ、私たちは戦う場所を選ぶ必要がある。”
視線が、アズサへと向けられる。
“アズサさん。いきなりだけど君に、敵を誘導する役を任せたい。”
一瞬の沈黙。
だが、迷いはなかった。
「分かった。」
その即答に、ハルトは小さく頷く。
“誘導する場所は体育館だ。”
教室の空気が、わずかに変わる。
「体育館……?」
ヒフミが小さく呟く。
“構造的に、出入口は限られている。一度中に入れば、退路はほぼ断てる。”
“どんなに敵の数が多くても――同じ土俵に引きずり込める。”
その言葉に、全員が想像する。
閉じられた空間。逃げ場のない戦場。
「でも……それって……」
コハルが不安げに口を開いた。
「こっちも逃げられなくなるってことじゃないの?」
それはここにいる全員が早い段階で察していた。
さしずめ、背水の陣。何が起きても自分たちに逃げる選択は与えられない。
「問題ない。」
そう言ったのは、黄泉だった。
腕を組んだまま、静かに続ける。
「これは持久戦だ。お前たちはただ、敵を減らすことを考えればいい。」
その言葉に、迷いが少しだけ薄れる。
だが、それでも――
「……でも、私たちだけで大丈夫なんでしょうか?」
ヒフミの声。
不安は消えきってはいない。
「私の方で助っ人を呼ぶこともできますが……。」
ハナコが手を挙げて言う。
しかし、ハルトは冷静に答えた。
“ありがとうハナコさん。でも大丈夫。私たちには殲滅戦を得意とする仲間がいるんだ。”
ハルトの言葉に、全員の視線が集まる。
「仲間って……信用してもいいの?」
“もちろんさ。”
コハルの不安そうな問いに、短く、強く答える。
“あの子たちは――どんな仕事でも必ずやり遂げる。”
その言葉には不思議な説得力があった。
また、それ以上、誰も異を唱えることはなかった。
アズサはその様子を静かに見ながら、やがて目を伏せた。
(……守るため、か。)
視線を落とす。拳を、軽く握る。
(だったら――)
顔を上げる。
その瞳に、迷いはなかった。
アズサは走る。
月明かりに照らされる廊下を、ただひたすらに。
途中、前もって仕掛けていた爆弾が発動する音も響いた。果たして、何人のアリウス兵を削れたのか……。
突き当たりの角を曲がる。
その視線の先に、体育館の入り口が見えた。
「逃がすな!」
背後から迫る声。
アズサは決して振り返らない。
(全部……キヴォトスを守るためだ!)
『バタン!』と大きな音を立てて扉が開く。
暗い館内。
その中へ――迷いなく踏み込んだ。
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「……なるほど、仲間がいたのか。」
突撃してきたアリウス兵は、体育館内の様子を見て言った。アズサに並ぶように、ヒフミ、ハナコ、コハルが銃を構えている。
戦う準備はできている。
しかし、アリウスの指揮官は鼻で笑い、わずかに肩をすくめた。
「たった4人で我々の攻撃を何分耐えられる?こんな何もない場所で!」
その言葉に、一瞬の間を置いて別の声が割り込んだ。
“ここが何もない場所なのは、そっちも同じだ。”
落ち着いた声。
だが、どこか余裕すら感じさせる響き。
“私たちは、簡単には終わらないよ。”
「だ、誰だ!」
兵の一人が即座に反応し、他の兵たちの視線が一斉に周囲を走った。
しかし、それらしい姿の者はどこにもいない。
――否、たしかにそこに “いる” 。
月明かりが作り出した影の中。
そこに、静かに存在していた。
“私はシャーレで先生をやっている者だ。よろしく。”
軽く名乗るその声音に、空気がわずかに変わる。
「……シャーレ、だと?」
アリウス兵の誰かが言った。
その声はどこか震えていて、何かを思い出したかのようだった。
そして――
「ならば、貴様は奴の――!」
「待て。」
突如上がった怒声。
しかし、低い声が場を断ち切った。
指揮官が一歩前に出て、手を広げる。
「今は余計なことを考えるな。」
鋭い視線で部下たちを制し、再び前を向く。
「話は、奴らを倒してからだ。」
銃口が、ゆっくりと上がる。
「まずは――ナギサの居場所を吐かせる。」
その言葉と同時に、空気が完全に張り詰めた。
アズサは静かに息を吐き、トリガーに指をかける。ヒフミたちも、それに合わせて構えを固める。
“補修授業部、行くよ!”
「「「はい!」」」 「ああ。」
4つの声が重なる。
そして、次の瞬間――
「総員、撃て!」
号令と同時に、無数の銃口が火を噴いた。
飛来する無数の弾丸。
それは、一直線に4人の少女に突き刺さる――はずだった。
「――伏せろ!」
アズサの短い合図。
4人はほぼ同時に、その場で身を落とした。
次の瞬間。
ガガガガガンッ!!
硬質な音が、空気を震わせる。
弾丸は――“何か”によって全て弾かれていた。
「な……!?」
アリウス兵の1人が、呆然と呟く。
目の前。
4人の前方に、淡く光る壁が展開されていた。
月光を受けて青白く輝くそれは横一線に広がり――まるで塹壕のように、4人を守っている。
放たれた弾丸はその表面で弾かれ、すぐ手前に転がっていた。
「バ、バリアだと……!?」
「いったいいつの間に――!」
「なんて卑怯な!」
アリウス兵たちに動揺が走る。
その混乱の中で、静かな声が再び響いた。
「好きなだけ何とでも言うがいいさ。」
落ち着いた声音。
だが、その奥に確かな余裕がある。
「ただし――牢屋の中でね。」
その言葉と同時に4人は顔を出し、素早く照準を合わせた。
刹那――4人の手にする銃が、一斉に火を噴いた。
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バリア越しの反撃が始まった直後。
銃声と怒号が入り混じる中――ヒフミがカバンをゴソゴソと漁り始めた。
そして何かを掴み、取り出した。
「お願いします!」
手にしていたそれを、大きく振りかぶる。
ぽいっ、と。
放物線を描いて飛んでいく、小さな影。
夜の体育館。
月明かりだけが頼りのその空間では、それは鈍く黒く見えた。
「――上だ!」
アリウス兵の一人が叫ぶ。
「来るぞ!」
視線が一斉に空へと向けられる。
回転しながら落ちてくる“それ”は――
丸みを帯びた、小型の物体。
「手榴弾だ!伏せろ!!」
反射的に散開する兵士たち。
だが――
ぽすん。
軽い音。
床に転がったそれは、爆発しない。
「……?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「ペロロ様たちです!」
ヒフミの声が、やけに明るく響いた。
床に転がっていたのは手榴弾ではなく、何とも不思議な顔をしたぬいぐるみ。
「いったい何のつもり――ぐあっ!?」
意識がペロロ人形に向き、自然と隙ができる。
それを逃すほど、4人は甘くはなかった。
一瞬のうちに数人が撃ち抜かれ、アリウス兵の陣形がさらに乱れる。
そして――
その“混乱”の中で、後方にいたコハルが静かに息を整える。
(今なら……通るはず。)
手にしたのは、もう一つの小さな影。
素早くピンを抜く。
その動きに躊躇はない。
そして、ヒフミ同様にそれを放り投げる。夜の闇に紛れて、それは再び弧を描いた。
「また来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
視線が向く。
同じような軌道。
同じような大きさ。
「どうせさっきのデコイだ!」
「無視しろ!前進!」
刹那、それは床に落ちる。
ゴトンッ
とてもぬいぐるみとは思えない、鈍い音がした。
それもそのはず。なぜならそれは――
本物の手榴弾なのだから。
ドカァァン!!
「ぐああああっ!?」
衝撃波が兵士たちを吹き飛ばし、後衛が一気に崩れる。
「本物……だと……!?」
遅すぎる理解。
煙と混乱が、一気に広がった。
コハルは小さく息を吐く。
「……視界が悪くて助かった。」
そして、その爆発が全ての合図だった。
アズサの目が鋭く細められる。
次の瞬間、彼女はバリアを飛び越え――一直線に敵陣へと突撃した。
「このまま押し切る!」
「ヒフミちゃん、コハルちゃん!アズサちゃんの突撃を援護します!」
「はい!」「任せて!」
再び、銃声が響く。
次いで聞こえたのは、悲鳴に近い断末魔だった。
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静寂。
トリニティから少し離れた場所。
夜の闇の中に、一台の車が停まっていた。
エンジンは切られ、周囲に人の気配はない。
その車内で――
「……っ。」
微かな息遣いと共に、ナギサは目を覚ました。
ぼんやりとした視界。
重たい意識を無理やり引き上げるように、ゆっくりと上体を起こす。
「ここは……?」
見慣れない内装。
座席、ダッシュボード、窓の外に広がる暗闇。
状況を理解できず、わずかに眉をひそめる。
記憶を辿ろうとした、その時――
「……。」
視界の端に、人影が映った。
反射的にそちらを見る。
そして――
ナギサの動きが、止まった。
「……黄泉、先生……?」
隣の座席に、黄泉がいた。
生徒会長室でのやり取り。
月明かりの中にいた彼の姿。
そこから先の記憶が、ない。
何が起きたのか全く分からない。
なぜ自分がここにいるのかも――
「あの……」
そう、ナギサが口を開こうとしたその瞬間。
すっ、と。
黄泉の人差し指が、彼女の唇に触れた。
「……っ。」
言葉が、喉で止まる。
有無を言わせぬ動きで、黄泉は人差し指を当てたままナギサを見下ろしていた。
その瞳は、いつもよりわずかに冷たい。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……訳が分からないとは思うが、こうするしかなかった。」
短く、断言する。
黄泉は人差し指を離し、小さく息をついた。
「先に結論から述べると……現在トリニティ総合学園は襲撃を受けている。」
「ッ!?」
ナギサの瞳が、大きく揺れる。
「だが安心しろ。ハルトと補修授業部が奴らの相手をしている。作戦通りなら……まもなく援軍も到着する頃だ。」
「……敵は、何者なのですか。」
「アリウスだ。」
わずかに震えを帯びた声。
それでも、理性を保とうとしている。
「……しかし、よろしいのですか?」
ナギサは静かに呼吸を整えた後、ゆっくりと顔を上げる。
「補修授業部が相手をするとなると……“裏切り者”と銃口を向け合うことになりますが。」
「少なからず、仲良くなっていたのでしょう?」
わずかに、探るような視線。
その問いに対して――黄泉は、即答しなかった。
ほんの一拍。
それから、静かに口を開く。
「……いや。」
視線を逸らさずに、短く否定した。
そして――
「“あの4人の中に”、裏切り者はいなかった。」
その瞬間。
ナギサの顔は、体は、完全に固まった。まるで時間が止まったかのように、微動だにしない。
だがその内側では、凄まじい速度で思考が巡っているのが見て取れた。
やがて――
ぎこちなく息を吸い、我を取り戻したかのように、口を開く。
「そ、そんなはずはありません! あの4人は――!」
声がわずかに裏返る。
しかし、黄泉は冷静だった。
「お前は知らないと思うが、あの4人の中にアリウスの生徒がいた。彼女が今日の作戦のことを打ち明けてくれたんだ。」
「それがなければ、今頃お前は――」
「ま……待ってください!」
ナギサが、黄泉の言葉を遮った。
しかしその声は、先ほどよりも明らかに弱い。
「アリウスの生徒が、トリニティにいた……!?」
「そんなこと……ありえません! 補修授業部の4人の調査は私が自ら――」
言いかけて、ナギサの言葉が不意に止まった。
自分の調査を掻い潜り、トリニティの生徒として活動していた可能性が最も高い人物。
補修授業部で唯一の、転入生……。
「……白洲アズサさんですか?」
ゆっくりと確かめるように紡がれたその名前は、わずかに震えていた。
「そうだ。」
黄泉は、迷いなく頷く。
「彼女はお前を守るためにアリウスから来たと俺たちに話した。」
「そして……自分の居場所だったアリウスを裏切り、トリニティの生徒として襲撃犯と戦っている。」
ナギサの指先がわずかに震える。
その事実を拒絶しきれない自分がいる。
だからこそ――余計に苦しい。
そして、ナギサは懸命に記憶を辿った。
遡ること2ヶ月前。
転入生の話を持ちかけられた日のこと。
あの時の自分は、小さな違和感を覚えていた。それは、あまりにも唐突すぎる話だったから。
だが、友人の強い後押しに折れる形で、それを受け入れた。
……もし。
もし、本当に。
黄泉の言う通り、アズサがアリウスを裏切り、今この瞬間も補修授業部として戦っているのだとしたら。
この襲撃を、招き入れた“原因”は――。
ゆっくりと、しかしはっきりと。
ナギサの脳内で1つの結論が形を成していく。
「……そんな、はず。」
視線が揺れる。
確信していたはずの“前提”が、音を立てて崩れていく。
「……黄泉先生。」
ナギサは、縋るように顔を上げた。
「言ってください……その考えは違うと――」
ゆっくりと、黄泉に近づく。
その様子は、普段の彼女からは考えられないほど不安定だった。
「言ってください……!」
次の瞬間。
ナギサは、黄泉の胸ぐらを掴んだ。
「お願いします……!」
布を強く握りしめる指が、わずかに震えている。
礼儀を重んじ、常に冷静であろうとしてきた彼女が、その体裁すら忘れてしまうほどに。
だが――
「………。」
黄泉は、何も言わない。
ただ静かにその視線を受け止めている。
ナギサにとってその沈黙が、何よりも残酷な“答え”だった。
「……っ。」
力が抜ける。
ナギサの手が、ゆっくりと離れていく。
そして、崩れるように座席へと戻った。
「本当の『裏切り者』は……」
「あんなにも近くにいたのですね……。」
ナギサは、ゆっくりと顔を上げる。
そのまま、何かを探すように――窓の外へと視線を向けた。
月明かりに照らされた夜の景色。
だが、その瞳に映っているのは、もはや外の光景ではなかった。
「………。」
黄泉は何も言わず、彼女を見守っていた。
ふと、視線をわずかにずらす。
そこに映っていたのは――
窓ガラスに反射した、ナギサの顔。
そして。
その頬を伝い、静かに流れる一筋の雫。
月光を受けて、それはかすかに光を宿していた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「状況終了。」
アズサが銃を下ろし、短く言う。
彼女の足元には、完全に気絶してしまったアリウス兵が転がっていた。
ハルトの指示、バリアの活用補修授業部は無傷で戦闘を制することができた。
だが――誰一人として気を緩める者はいない。
次に来るであろう“本命”を、全員が理解していたからだ。
「正義実現委員会が来るまでの辛抱です。」
「ハスミ先輩にも連絡したよ!」
ハナコとコハルからの報告。
正義実現委員会が来てくれたなら、流れは一気にこちらに傾く。
「ハルト先生、前に話していた仲間は?」
“もうすぐ到着するみたいだ。”
モモトークに来た連絡。やはりシャーレからトリニティまでは距離がある。
ましてや時間的にも公共交通機関は止まっている。
彼女たちを走らせることになったのは申し訳ないことだと、ハルトは目を細めた。
その中で――
「……ペロロ様、スカルマンさん、ニコライさん。このような扱い方をしてしまい、申し訳ありません。」
ヒフミは、焼け焦げ、裂けてしまったペロロ人形を抱きしめていた。
「ですが、あなたのおかげで助かりました。」
その声音は、どこか優しい。
ただ手榴弾を投げるだけでは、敵を減らすことはできなかった。
ヒフミの機転があったからこそ、あの一手は成立したのだ。
「……後で、お墓を作ってあげないと。」
アズサがぽつりと呟く。
――その瞬間。
ドガァァァン!!!
凄まじい爆発音が、空気を引き裂いた。
“っ――!”
ハルトが即座にバリアを展開する。
ヒフミたちは反射的にその背後へと飛び込んだ。
崩れ落ちる壁。
舞い上がる粉塵。
体育館の外壁が吹き飛び、巨大な“入口”が作り出される。
そして――
その向こうに現れたのは、アリウス兵の増援。
それも、一個中隊どころではない。
「数が多い……大隊単位だ。」
アズサが低く呟く。
数で押し潰す気だと、一目で分かった。
「まだ、正義実現委員会が動く気配がない……?」
ハナコの言葉に、わずかな不安が混じる。
――刹那。
「それは仕方ないよ。」
静かな声。
だが、その場の空気を一瞬で塗り替える響き。
アリウス兵たちの中央。
ゆっくりと、人影が前へと歩み出る。
月光に照らされ、その姿が明らかになる。
桜色の髪。
優雅な佇まい。
そして――どこか歪んだ微笑。
「この人たちはこれから、トリニティの公的な武力集団になるんだから。」
現れたのは――
ティーパーティーの一人。
美園ミカだった。
“ミカ……。”
「やっ、ハルト先生。久しぶりだね。」
そう言って、ミカはひらひらと手を振る。
旧友にでも再会したかのような、無邪気な仕草。
――だが。
その笑顔は、あまりにも“場違い”だった。
「それと、残念だけど正義実現委員会は動かないよ。私が改めて待機命令を出したから。」
「あと、学園も静かだったでしょ?ティーパーティーの命令が届く範囲で、いろんな理由をつけて足止めしておいたから。」
まるで、ちょっとした悪戯の種明かしをするかのような口調だった。
「まぁ、一応言っておくと……私が本当の『トリニティの裏切り者』。もっとも、ハルト先生は気づいてたみたいだけど。」
ミカの視線が細くなる。
試すような目。ハルトの反応をじっと見ている。
「この様子だと、黄泉先生はナギちゃんの護衛かな? それはそれでラッキーかも。」
「死なない程度に痛めつけて人質にすれば、黄泉先生も折れてナギちゃんを渡してくれるでしょ。」
その言葉に、ほんの一瞬だけ空気が凍る。
コハルが半歩、後退りした。
“……ミカ、1つだけ聞かせてくれ。”
ハルトの声が割り込む。
わずかに低く、しかし確かな重みを持って。
“どうして、こんなことをするんだ?”
「んー、知りたい? それはね……」
ミカは顎に指を当て、少しだけ考える仕草をする。
だが、その目は全く笑っていない。
やがてミカは小さく頷いて、言った。
「ゲヘナが嫌いだからだよ。」
あまりにも単純で、あまりにも歪んだ理由。
言葉を失うハルトたちを他所に、ミカは肩をすくめながら続けた。
「あんな角の生えた奴らと仲良くできるわけない。すぐに裏切られるに決まってるじゃんね?」
“それが……どうしてアリウスなんだ。アリウスはトリニティを恨んでいるって言ってたじゃないか。”
「そうだね。確かにアリウスはトリニティを恨んでる。」
「でも、アリウスも元はトリニティの一員。ゲヘナに対する憎しみは、私たちに勝るとも劣らない。」
「共通の敵のために、一時的に手を取り合う。よくある話だよ。」
そう言って、ゆっくりと手を広げる。
まるで、舞台の中心に立つかのように。
やがてミカは視線をアズサに向けた。
「ありがとう、白洲アズサ。あなたのことはあまり知らないけれど、私にとって大事な存在だよ。」
その言葉は、一瞬だけ“本心”のようにも聞こえた。
だが。
「だって、今からあなたにはナギちゃんを襲った犯人になってもらわないといけないからね。」
空気が、一気に冷え込む。
それは、あまりにも一方的な宣告だった。
“……黄泉先生が、それを許すと思っているの?”
「許す許さないじゃないよ、ハルト先生。私はもう、やるしかないんだ。」
即答。
その声音に迷いはない。
しかし、ハルトは尋ねる。
“黄泉先生が君の裏切りを知った時……何を思うのか、考えたことはなかったの?”
その問いに、ほんの一瞬だけ。
ミカの表情が、止まった。
「……もちろん、考えたよ。」
小さく、呟く。
だが次の瞬間には――
「でも、もう戻らない。」
笑う。
「私の邪魔をするなら――相手が黄泉先生でも、殺すって決めたんだ。」
その言葉は、あまりにも軽く。
そして、あまりにも重かった。
「あなたたちは大きな力を前に立ち止まるかもしれないけど、黄泉先生は違う。」
「あの人は、死ぬまで止まらないだろうからね。」
“……君が黄泉先生に向けていたこれまでの気持ちを、そんな風に投げ捨てるの?”
「………。」
さらなるハルトの質問に、ミカは何も言わない。
その沈黙は、わずかに長かった。
やがてミカは拳を固く握り、ハルトを睨みつける。
まるで“それ以上触れるな”と言うかのように。
「……捨てたわけじゃないよ。」
「ただ、優先順位を決めただけ。」
声が低くなったが、軽く言い放つ。
しかし、その声にはわずかな硬さが混じっていた。
ハルトは少し目を細め、口を開いた。
“……じゃあ、これで最後。”
“ミカは――黄泉先生に、自分のやっていることが正しいと胸を張って言えるの?”
「……っ。」
今度は明確に反応が出た。
眉が、わずかに歪む。
“ミカの言う通り、黄泉先生は止まらない。君が何をしようと最期まで向き合ってくる。”
“それでも――君は彼を殺せるの?”
沈黙。
ほんの数秒。
だが、その場の誰もが“長い”と感じた。
そして――
「……ああ、もう。」
ミカが、小さく息を吐く。
その笑顔が、ゆっくりと崩れていく。
「うるさいなぁ……!」
声が、さらに低くなる。
「わかってるよ、そんなこと……!」
その目に、明確な苛立ちが宿る。
「だから言ってるでしょ!?私はもう――戻らないんだって!!」
叫び。
それはもはや、誰かに向けたものではなかった。
「そんなに私の邪魔をしたいのなら……!」
銃を、ゆっくりと持ち上げる。
それに呼応するかのように、後ろのアリウス兵も銃を向けた。
「今ここで、殺してあげるから!!」
その瞬間だった。
――ふわり、と。
薄青い光が、ハルトと補修授業部の四人を包み込む。
“バリアが勝手に……!?”
ハルトが息を呑む。
実際、彼は先の戦闘以降、一度もシッテムの箱に触れていない。
刹那――
ドガァァァン!!
轟音。
体育館の天井が吹き飛び、無数の鉄骨、鉄板、照明が――雨のように降り注ぐ。
「っ――!」
ヒフミたちが思わず身をすくめる。
だが、落下物はすべて、淡い光の壁に弾かれた。
もしこのバリアがなければ、間違いなく全員が巻き込まれていた。
「急に……何……!?」
ミカが目を細める。
アリウス兵たちにも動揺が走っていた。
どうやらこの一撃は、彼女たちの仕業ではないらしい。
やがて、爆煙がゆっくりと晴れていく。
崩れた天井。
差し込む月光。
その逆光の中に――
4つの影が、静かに立っていた。
「……誰?」
ミカが、低く問う。
その問いに答えるように、1人が前へと踏み出した。
「ティーパーティーの美園ミカさん。あなた……ずいぶんと物騒なことを言っていたわね?」
落ち着いていて、芯のある声。
「“ハルト先生と黄泉先生を殺す”……。そんなこと、私たちが許すと思って?」
瓦礫の上。
月光を背にして立つ4人の少女。
その姿は、まるで舞台の上に現れた主役のようだった。
「まあ、自己紹介くらいはしてあげる。」
少女はニヤリと笑い、一歩前に出て名乗った。
「私たちは――“エージェント68”。」
「私たちに喧嘩を売ったこと……後悔させてあげる。」
便利屋68改め、エージェント68。
そのリーダー、陸八魔アルを先頭に、4人の視線が真っ直ぐにミカへと突き刺さっていた。
続く
シスターフッドを出しても良かったのですが、原作そのままは創作性に欠けると思い、アルちゃんのたちに来てもらいました。
便利屋68の名前を変わったのは、彼女たちが過去を乗り越え、しかし忘れずに未来を歩むと決めたからです。
名付けたのはもちろんアルちゃんです。
ネーミングセンスは……あまり触れないであげてください。