ここがゲームではないと気づいたとき、オレは壊れる 作:お嬢様執筆中
……ここは……どこだ……?
意識が、ゆっくりと浮上する。
全身を苛む激痛は、嘘のように消えていた。
代わりに、微かに薬品の匂いが鼻をつく。
ああ……そうだ。この匂いは、知っている。
何度も、何度も嗅いだことのある……病院の匂いだ。
オレは、ゆっくりと目を開けた。
最初に視界に映ったのは、真っ白な天井と、点滴スタンド。そして、窓の外に広がる、見慣れた灰色の街並み。
……違う。これは……過去の記憶だ。オレは、過去を思い出している。
視線を、ベッドの方へ向ける。
そこには、一人の少女が、静かに眠っていた。
細い腕には、何本もの管が繋がれ、そのか細い体は、シーツの海に沈んでしまいそうなくらい小さい。
オレの……たった一人の、大切な妹。
スイ。
そもそも、オレがこのVRMMO「アークスフィア・オンライン」を始めたのだって、スイのためだった。
生まれつき体が弱く、ほとんどの時間をベッドの上で過ごさなければならなかった妹。
そんな彼女でも、仮想世界の中なら、自由に走り回ったり、空を飛んだりできるんじゃないか……。
そう思ったからだ。
それなのに、オレは……。
この世界に来て、もうすぐ一年が経とうとしている。
VRMMOの世界は、現実世界よりも時間の流れが極端に遅いと聞いたことがある。それでも、現実では、もう数ヶ月は経ってしまっているはずだ。
早く……! 早く、ログアウトしないと……!
焦りが、胸を締め付ける。
だって、スイの……妹の命は、そう長くない。
ここにいると、あの日の大切な約束を……この世界の温かい日々に塗りつぶされて、忘れてしまいそうな感覚に襲われる。
約束……そうだ。オレは、スイと約束したんだ。
『ずっと、お前の傍にいる』って。
だから……一刻も早く、このゲームからログアウトしなきゃいけないんだ……!
「……お兄ちゃん」
ふと、背後から声をかけられた。
ハッとして振り返ると、そこには……スイが立っていた。
自分の足で、しっかりと。
その傍らには、ベッドで眠る、もう一人のスイの姿もある。
……ああ、これは、夢の中の、スイか……。
「……スイ……許してくれ……。オレは……ゲームの世界に、迷い込んじまったんだ……」
夢だとわかりつつもオレは謝罪をとめられなかった。
そんなオレの言葉に、スイは表情を変えずに、ただ静かにオレを見つめている。
「ログアウトできなくて……帰れなくなっちまった。……でも、聞いたことがあるんだ。VRMMOでは、死ねば強制的にログアウトできるって。だから、ずっと死のうとしてるんだけど……なかなか、死ぬことができなくて……」
オレの必死の弁解に、スイは、氷のように冷たい声で言った。
「『死ねない』んじゃなくて、『死にたくない』だけでしょ?」
「……ッ!?」
心臓を、鷲掴みにされたような衝撃。
「違う……! そんなわけ……!」
「違わないよ。だって、お兄ちゃん、楽しそうだもん。綺麗な女の人たちに囲まれて、チヤホヤされて、英雄様だって言われて……。気持ちよかったでしょ? スイのことなんて、もう忘れちゃったんじゃないの?」
スイの言葉が、鋭い刃のように、オレが目を背け続けてきた心の奥底を抉り出す。
そうだ……オレは、心のどこかで、この世界を楽しんでいたのかもしれない。
ユウたちとの日々に、居心地の良さを感じていたのかもしれない。
妹が死にかけているという現実から、逃げ出したいと……思っていたのかもしれない……。
「だって、お兄ちゃんが死ねないのは、あの女たちがいるからでしょ? 特にお兄ちゃんの傷を治す、ユウって女。あいつがいるから、お兄ちゃんは安心して無茶ができて、死にきれない。……違う?」
「それは……」
「スイと、あの女たち……。お兄ちゃんは、どっちが大事なの? 約束したよね? 『ずっと傍にいる』って。……お兄ちゃんは、嘘つきだったんだ……」
スイの瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。
その涙が、オレの罪悪感を焼き尽くす。
ダメだ……ダメだ……! それだけは……!
「違うッ!! 嘘じゃないッ! オレにとって一番大切なのは、スイだけだッ!」
オレは、魂から絞り出すように叫んだ。
そうだ。そうだろ。そうじゃなきゃ、オレは……。
「……じゃあ、証明して」
スイは、涙を拭いもせず、オレをじっと見つめて言った。
「お兄ちゃんが、スイのことだけを想ってるって、証明して。……お兄ちゃんが死ねない根源は、あの女たちとの『絆』なんでしょ? だったら、それを断ち切って、スイのところに帰ってきて」
「……どうすれば、いいんだ……?」
オレの問いに、スイは、悪魔のように甘く、そして残酷に微笑んだ。
「簡単だよ。もう二度と、あの治癒師の女に……ユウに、治してもらわなければいい。……次に死ぬ機会があったら、今度こそ、誰にも頼らず、誰にも助けを求めず、たった一人で死んで。それが、お兄ちゃんがスイを一番愛してるっていう、最高の証明だから」
たった一人で、死ぬ……。
その言葉が、オレの心に深く、深く突き刺さった。
ああ……そうか。
そうだ。
ユウの治癒魔術に甘えていたから、オレは今まで死にきれなかったんだ。
彼女の優しさが、オレをこの世界に縛り付けていたんだ。
その甘えを、その絆を、断ち切らなければ。
「……わかったよ、スイ」
オレは、こくりと頷いた。
そうだ……。もう、迷ってはいられない。
オレは、決意した。
次に死ぬ機会が来たら……。
オレは、ユウの治癒を拒絶する。
どんなに苦しくても、どんなにみっともなくても、一人で死ぬ。
今度こそ、誰にも邪魔させない。
スイとの約束を、果たすために。
それが、オレの、唯一の贖罪なのだから。