ここがゲームではないと気づいたとき、オレは壊れる 作:お嬢様執筆中
深い、深い闇の底から、ゆっくりと意識が引き上げられるような感覚。
全身を苛んでいた、骨が砕け、肉が裂けるような激痛は、嘘のように消え去っていた。
ああ……また、か。
また、オレは……『生かされて』しまったのか。
うっすらと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、昨日から見慣れてしまった豪華な天蓋付きベッドの天井だった。
アクアリーフの、あの別荘の一室だ。
ゆっくりと上半身を起こし、自分の体を見下ろす。
腹を貫通していたはずの風穴も、自らの手で滅多刺しにした左腕と右足の傷も……すべて、綺麗さっぱり塞がっていた。
残っているのは、薄っすらとした傷跡と、着せ替えられた清潔な寝間着だけ。
そして……どうしようもない、絶望感だけだ。
「アスマっちぃっ!!!!」
オレが目を覚ましたことに気づいたのだろう。鼓膜を劈くような絶叫と共に、ユウがベッドに飛びついてきた。
その琥珀色の瞳は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、ボロボロと大粒の雫をこぼしながら、オレの体にぎゅっとしがみついてくる。
「よ、よかった……! 本当に、よかったよぉ……! うぅ……アスマっち、また、あたしたちを置いていっちゃうのかと思った……! こわかった……ほんとに、こわかったんだからぁ……っ!」
しゃくりあげながら、ユウはオレの胸に顔をうずめて泣きじゃくる。
その温もりと、震える体……。
オレは、ただ無表情に、そんなユウの姿を見下ろしていた。
スイ……ごめん。オレは……また、お前との約束を、守れなかった……。
ユウの治癒を、拒絶することが……できなかった……。
いや、違う。意識を失っていたオレに、拒絶する術なんてなかったので、不可抗力ともいえなくない。
……違う。そんな言い訳は、もう通用しない。
オレは、心のどこかで、この温もりに、ユウの優しさに、甘えていたんだ。
だから、死にきれなかった。
夢の中で見た、スイの涙。
『お兄ちゃんは、嘘つきだったんだ……』
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
そうだ。オレは、嘘つきだ。
この世界での居心地の良さに、現実から目を逸らそうとしていた、ただの卑怯者だ。
ガチャリ、とドアが開き、リティカとキバが心配そうな顔で部屋に入ってきた。
「アスマ……! 目が覚めたのね……!」
リティカが駆け寄ってくる。だが、その表情はいつもの自信に満ち溢れたものではなく、暗く、深く沈んでいた。
彼女は、オレのベッドのそばで立ち止まると、深々と頭を下げた。
「……ごめんなさい、アスマ。私の……私のせいで……。私が、もっとしっかりしていれば……あなたに、あんな無茶をさせることはなかった……。全部、私の責任よ……」
その声は震え、普段の彼女からは想像もつかないほど、弱々しかった。
隣では、キバも俯いたまま、小さな声で呟く。
「……キバも、何もできなかった。アスマが、あんなにがんばっているのに……ただ、見てることしかできなかった。ごめん……アスマ……。キバが、もっと強ければ……」
二人とも、ひどく落ち込んでいる。
自分たちの力不足が、オレをあんな無謀な戦いに向かわせてしまったと、そう思い込んでいるようだ。
「……気にするな。オレが勝手にやったことだ」
正直、どうでもいい。
彼女たちがこれからどうしようが、オレの未来は変わらない。
その時、静かにメイドのセレスさんが部屋に入ってきた。
彼女は、オレたちの間の重苦しい空気を察したのか、少しだけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの涼やかな顔に戻り、報告を始めた。
「旦那様、お目覚めになられて何よりでございます。皆様の奮闘により、大型のセイレーンジェリーフィッシュの討伐は確認いたしました。……ですが、旦那様。大変申し上げにくいのですが……事態は、最悪の方向へと向かっています」
セレスさんはそう言うと、窓の外を指し示した。
昨日まで、あれほど美しかったコバルトブルーの海は、どこにもなかった。
代わりに広がっていたのは、インクをぶちまけたように、どす黒く濁った不気味な海。
空は鉛色の雲に覆われ、太陽の光は完全に遮断されている。
そして……ゴゴゴ……という、不気味な地鳴りのような音が、絶え間なく響いてきていた。
「な……なによ、あれ……。海が……! でも、どうして……。あの魔物は、ただの害獣だったはずじゃ……」
リティカが、信じられないものを見る目で呟く。
その当然の疑問に、セレスさんは、静かに、そして重々しく口を開いた。
「ええ。本来は、ただ静かに封印を守るだけの存在でした。ですが……おそらく、侯爵様が封印を解くための調査か何かで、手出しをしてしまったのでしょう。そのせいで、セイレーンジェリーフィッシュは活発化し、自らの縄張り……すなわち封印に近づく者を、敵と見なして無差別に襲うようになってしまったのです」
「じゃあ、あたしたちが倒してしまったから……」
「はい。その封印が、今、完全に解かれてしまったのです。……侯爵様は、全てご存知の上で、皆様にこの依頼を託したのでしょう。邪魔な封印を、英雄譚にすり替えて破壊させるために」
リティカが血の気の引いた顔で「ふそ、そんな……!」と呻く。
セレスさんは顔を伏せ、静かに首を横に振った。
「それって、私たちを騙したってこと……?」
リティカの問いにセレスさんは静かに肯定した。
「えぇ、そう捉えていただいて問題ないかと。……ちなみに、侯爵様は、とうにこの地を離れております。あなたがたを……この、絶望的な状況に、捨て駒として残した上で」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ…………!!!!
セレスさんの言葉を裏付けるかのように、別荘全体が、地鳴りのような轟音と共に激しく揺れた。
窓の外、どす黒い海面が大きく盛り上がる。
そして、その中心から……ゆっくりと、巨大な『何か』が、その姿を現し始めた。
それは、もはや魔物という言葉では言い表せない、冒涜的なまでの異形の存在だった。
無数の触手と、おびただしい数の眼球が、不定形な肉塊から蠢き出ている。
その姿を見ただけで、正気を失いそうなほどの、圧倒的な絶望の化身。
「『
セレスさんが明瞭な声色でオレたちにそう伝えた。
「街が……街が危ないわ! 早く追いかけるわよ!」
リティカが叫ぶ。
そうだ。街へ行こう。
この、絶望のど真ん中へ。
それこそが、オレが求めていた、最高の死に場所だ。
別荘から街までは、丘を下ればすぐだ。
オレたちは、急いで戦闘の準備を整えると、絶望の化身の後を追って駆け出した。
ユウも、キバも、リティカも、街の人々を救うため、そして、自分たちが招いてしまったこの事態に、責任を取るために戦うのだろう。
だが、オレは違う。
オレは、ただ、死ぬために戦う。
街の入り口にたどり着いた時、そこに広がっていたのは、昨日までの美しいリゾート地の面影など、どこにもない、地獄のような光景だった。
建物は無残に倒壊し、あちこちで黒煙が上がっている。石畳は巨大な何かに抉られたようにひび割れ、地面にはおびただしい血痕が広がっていた。
そして、街の中心部で、天を突くほど巨大な『何か』が、暴れ狂っていた。
逃げ惑う人々が、天にまで届かんとする巨大な触手に次々と捕まり、まるで玩具のように握り潰されていく。
悲鳴が、絶叫が、この世の終わりのような不協和音となって、オレたちの耳に届く。
「あ……あぁ……」
ユウが、その場にへたり込み、腰を抜かしてしまう。
キバも、リティカも、ただ呆然と、目の前の絶望的な光景を立ち尽くして見つめることしかできない。
だが……。
オレの心は、奇妙なほどに、静まり返っていた。
そうだ。これだ。
これこそが、オレが求めていたものだ。
この、誰もが絶望するしかない、圧倒的な死。
これなら、今度こそ……。
今度こそ、確実に死ねる。
そして、もう誰にも、邪魔はさせない。
ユウの治癒魔術も、リティカの知恵も、キバの力も、この絶望の前では、何の意味もなさない。
たった一人で……。
そうだ。スイとの約束を、今度こそ、果たせる。
「……アスマっち……? どこ、行くの……?」
か細いユウの声が、背後から聞こえる。
オレは、腰に差していた自分の
そして、振り返りもせず、絶望の化身が待つ、死地へと向かって、ゆっくりと歩き出す。
「今度こそ、終わりにしてやる」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
この、忌々しいゲームも。
そして、嘘つきで、卑怯者だった、オレ自身のことも。
スイ……待ってろよ。
今度こそ……必ず、お前の元へ、帰るからな。