ここがゲームではないと気づいたとき、オレは壊れる 作:お嬢様執筆中
ああ……なんだ、これは。
すごいな。本当に、見事なグラフィックだ。
目の前で、昨日まで陽気な喧騒に満ちていたリゾートの街が、まるで子供が積み木を崩すかのように、いともたやすく蹂躙されていく。
空を覆うほどの巨体を持つ、不定形の肉塊――『
その、おぞましいとしか形容のしようがない化け物が振り下ろす巨大な触手の一撃が、堅牢なはずの石造りの建物を、まるで砂糖菓子のように粉々に砕く。
逃げ惑う人々……NPCたちが、次々とその蠢く触手に捕まり、玩具のように握り潰されていく。母親の名を叫ぶ子供の声、助けを求める男の悲鳴、全てを諦めた老婆の嗚咽……それら全てが、化け物の地鳴りのような咆哮にかき消されて、まるで意味をなさない。
噴き上がる血飛沫が、鉛色の空の下で、まるで赤い雨のように降り注ぐ。
出来の悪いB級ホラー映画のワンシーンみたいだ。あまりに非現実的で、陳腐で、だからこそ、オレの心は少しも痛まなかった。
ああ、死んでいくな、と。
死んでいくNPCの群れを、ただ、それだけを思った。
これはゲームの、ただの過剰な演出だ。
「……アスマっち……! ダメだよ、そっちに行っちゃ……! 死んじゃう……!」
ユウの悲鳴が、風に乗ってオレの耳を打つ。だが、それはまるで遠い世界の音のように、オレの意識を素通りしていく。
気づけば、オレは無意識のうちに、化け物へと向かって駆け出していた。
死ぬためだ。今度こそ、確実に、誰にも邪魔されずに死ぬために。
そうだ、もう戦うフリはやめだ。ただ、無抵抗に、その一撃を受け入れればいい。
オレは、短剣を握る手を緩め、天を仰ぐようにして、迫り来る巨大な触手を待ち構えた。
ドゴォォォォンッ!!
視界が、一瞬で赤く染まる。
鉄塊で全身を叩き潰されたような衝撃。骨が砕け、肉が裂ける生々しい感触。
ああ……ようやく……。これで……。
オレの意識は、あっけなく闇に飲まれそうになる。
<固有スキル
……なんだ……?
<スキル効果により、対象の限界を強制的に突破。リミットブレイクシークエンスを開始します>
<スキル効果により、対象の身体能力を一時的に大幅強化します>
違う。
違う……違う違う違う違う違うッ!!!!
強化なんかするなッ! オレは、ただ……ただ、死にたいだけなんだ!
ログアウトしたいだけなんだッ!
心の絶叫も虚しく、死の淵にあったはずの体に、無理やり力がねじ込まれる感覚。
腹に空いた風穴も、自ら刺した無数の傷も、治る気配は一切ない。
血は、相変わらず流れ続けている。
だが、痛みだけが、まるで嘘のように消え去っていた。
代わりに、全身に、今までとは比べ物にならないほどの力が、まるで奔流のように駆け巡る。
なんで、よりよってこのタイミングで肉体が強化されるんだよ!!
この忌々しい体は、どうしようもなく、生存するための最適化された動きをしようとする。
強化された身体能力が、オレの意思を無視して、次なる攻撃を回避させる。
化け物の触手の薙ぎ払いを、まるでスローモーションのように感じながら、紙一重で屈んでかわし、その勢いを利用してまるで坂道を駆け上がるように触手の上を走る。
無数に蠢く粘液質の小さな触手を、手に持った
馬鹿みたいだ。本当に、馬鹿みたいだろ。
オレは死にたいんだ。ログアウトしたいんだ。
スイとの約束を、今度こそ果たさなきゃいけないんだ……!
「アスマっ、キバも加勢する!」
キバが、自らの負傷も顧みず、鋭い爪を構えて飛び出そうとする。
リティカも、震える手で魔術の杖を構え、詠唱を始めようとしていた。
彼女たちなりに、この絶望的な状況を打開しようと、必死なのだろう。
だが、その行動が、今のオレには、邪魔でしかなかった。
化け物は、オレ以外の標的に気づき、その触手の一本を、キバとリティカ目掛けて薙ぎ払う。
「しまっ……!」
リティカの悲鳴。キバの驚愕の表情。
スキルで強化されたオレの体は、思考よりも速く動いていた。
地面を蹴り、弾丸のような速度で二人の前へと割り込む。
そして、二人を突き飛ばすと同時に、迫りくる巨大な触手を、自らの体で受け止めた。
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい衝撃。内臓が破裂し、背骨が砕ける感触。
だが、スキルのせいで、まだこの体が戦えることがわかってしまう。
突き飛ばされた二人は、壁に叩きつけられ、おびただしい血を流しながらも、かろうじて息はあった。だが、その衝撃で意識を失っている。
「キバ! リティカ!」
ユウが悲鳴を上げ、二人の元へ駆け寄る。
オレは、ゆっくりと振り返り、ユウに冷たい声で告げた。
「ユウ。二人を連れて、ここから離れろ」
「で、でも……アスマっちは……!」
「いいから、行けッ!!」
オレの、普段からは想像もつかない怒声に、ユウの肩がびくりと震える。
彼女は、涙を浮かべながらも、オレの覚悟を悟ったのか、こくりと頷くと、意識のない二人を必死に引きずり、瓦礫の陰へと姿を消した。
これでいい。
邪魔者はいなくなった。
オレは、ただ一人、化け物と対峙し続けた。
血を流し、骨が砕けたままの体で、狂ったように笑いながら、化け物の巨体を切り刻んでいく。
やがて、その猛攻に耐えきれなくなったのか、
動きが、完全に止まる。
どうやら、瀕死の状態に陥ったらしい。
あと一撃。
あと一撃、あの巨大な眼球に叩き込めば、この化け物は完全に沈黙するだろう。
街は、救われる。
オレは、この街を救った英雄になる。
「アスマっち……すごい……! 本当に、すごいよ……!」
瓦礫の陰から、ユウが、涙ながらに、賞賛の声を上げる。その声には、安堵と、尊敬と、そしてほんの少しの恐怖が入り混じっていた。
……英雄?
オレが?
馬鹿を言うな。
そんなものになるために、オレはここにいるんじゃない。
そんなものになったら、この居心地のいい偽物の世界から、永遠に出られなくなってしまう。
スイとの約束を、永遠に果たせなくなってしまう。
それだけは……それだけは、絶対にあってはならない。
オレは、ゆっくりと、瀕死の化け物に背を向けた。
そして、希望と困惑に満ちた瞳でオレを見つめる、ユウへと向き直る。
その手には、まだ、おびただしい血と粘液に濡れた短剣が、鈍く光っていた。
「アスマっち……? どうしたの……? 早く、とどめを……。そうすれば、全部、終わるんだよ……?」
ユウの言葉を遮り、オレは、その短剣の切っ先を、自らの腹に向けた。
ゆらり、と。
その、あまりにも異様な光景に、ユウの顔から表情が消える。
彼女の脳が、目の前で起きていることを理解することを、拒絶しているかのようだった。
希望が、驚愕へ。
驚愕が、困惑へ。
そして、困惑が、じわじわと染み出してくる、理解不能な恐怖へと変わっていく。
「なんで……? アスマっち、なにを……してるの……? 冗談……だよね……?」
ユウのか細い声が、震える。瓦礫の陰にいるキバとリティカの、息を呑む気配が伝わってくる。
オレは、その問いには答えず、ただ、ユウを真っ直ぐに見つめた。
その、怯え、揺らぐ琥珀色の瞳の奥底を、射抜くように。
そして、口の端に、歪んだ、残酷な笑みを浮かべる。
「悪いけど……」
オレは、一言一句、噛みしめるように、ゆっくりと告げた。
この言葉が、彼女の心を完全に破壊する、呪いになることを知っていたから。
「お前のその治癒魔法、今までずっと、迷惑だったんだよ」
ユウの琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように、大きく、大きく見開かれる。
まるで、時間が止まったかのようだった。
彼女の世界から、音が消えた。色が消えた。ただ、オレの残酷な言葉だけが、無限に反響しているかのようだった。
やがて、その瞳から、ぽろり、ぽろり、と大粒の雫がこぼれ落ちた。
それは、ただの涙ではなかった。彼女の信じていた全てが、希望が、愛情が、粉々に砕け散って、瞳から溢れ出した、魂の破片だった。
「う……そ……」
唇が、か細く動く。
「うそ……だ……。だって、アスマっち……あたしがいないと、とっくに死んでたから、あたしがなんとかしなきゃって……」
「ああ、そうだな。お前がいなきゃ、オレはとっくに死んでた。とっくに、このクソみたいなゲームから、ログアウトできてたんだよ」
オレは、追い打ちをかけるように、冷たく言い放つ。
「いや……いやだ……! アスマっち、やめて! なんで!? もう、終わったのに! みんな助かったのに! なんでそんなこと言うの!? なんでそんなことするの!?」
ユウは、瓦礫の陰から飛び出し、狂ったようにオレの元へ駆け寄ろうとする。
だが、その足は、瓦礫に阻まれ、もつれて無様に転んでしまう。
彼女は、泥と血にまみれながら、それでも必死に、四つん這いになってこちらへ這い寄ろうとする。その姿は、もはや冒険者ではなく、ただの迷子の子供だった。
「待って……! 待ってよ、アスマっち! お願いだから、話を聞いて! あたし、なにか悪いことした……? したなら、謝るから! なんでもするから! だから……だから、そんな悲しいこと言わないで……!」
その悲痛な叫び、懇願、嗚咽。
それらすべてを、まるで心地の良いBGMのように聞きながら……。
オレは、躊躇なく、短剣を自らの体に突き立てた。
グサリ。
肉を裂き、内臓を抉る鈍い感触。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
ユウの絶叫が、天に突き刺さる。
オレは、そんな彼女の絶望を真正面から受け止めながら、さらに短剣を深く、深くねじ込んだ。
一度、二度、三度……。
噴き出す血で、視界が滲む。
力が、抜けていく。
「やめて……やめて……! アスマっち! あたしを置いていかないで! ひとりにしないで! アスマっちがいないと、あたしは……あたしは、もう、どうやって生きていけばいいのか、わからないんだよ……っ!」
ユウの、魂からの叫びが、虚しく響き渡る。
ごめんな、ユウ。
お前は、この世界の、最高のヒロインだったよ。
でも、オレは、このゲームの主人公じゃないんだ。
ただの、現実へ帰りたいだけの、臆病なプレイヤーなんだ。
オレの意識は、ゆっくりと、深い闇の中へと落ちていった。
スイ……待ってろよ。
今度こそ……必ず……。
お兄ちゃんは……帰るからな……。