ここがゲームではないと気づいたとき、オレは壊れる 作:お嬢様執筆中
あれから、数ヶ月が過ぎていた。
窓の外では、季節が一つ巡ろうとしている。オレは、退屈なようでいて平和な、元の日常へと戻っていた。
奇跡は、起きた。
一時は昏睡状態にまで陥っていた妹のスイは、医者も目を丸くするほどの驚異的な回復を見せ、今では車椅子に乗って家の中を自由に動き回れるまでになった。
その姿を見るたびに、オレは……本当に帰ってきてよかったと、心の底から思う。
……思う、はずなのに。
オレの心は、ずっと分厚い灰色の雲に覆われたままだった。
ふとした瞬間に、思い出してしまう。
琥珀色の瞳の少女。獣人の少女。皮肉屋の魔術師。
彼女たちの顔が、声が、脳裏に焼き付いて離れない。
そして、胸の奥で、ユウの最後の絶叫が、いつまでも木霊していた。
◆
あの日、オレが目を覚ましたのは、自室のベッドの上だった。
あの世界で過ごした、地獄のようで、そして少しだけ夢のようでもあった激動の一年間は……現実では、ほんの数時間のできごとでしかなかった。
ログアウトは、問題なく成功した。
オレは、帰ってきた。スイとの約束を守るために。
その事実に、心の底から安堵する自分がいる。
だが、同時に……どうしようもない罪悪感が、鉛のように心に沈殿していた。
学校に復帰し、元の生活に戻ってから、オレはまず、あの世界の正体を探るために、問題のVRゲーム「アークスフィア・オンライン」について徹底的に調べ始めた。
公式サイト、攻略wiki、有名配信者のプレイ動画……。
そして……愕然とした。
違う。
まったく、違う。
オレが体験した、あの世界とは、何もかもが、根本的に異なっていた。
まず、ユウ、キバ、リティカという名前の主要NPCは、ゲーム内に影も形も存在しなかった。プレイヤーを導くNPCはいるが、それはもっと事務的で、いかにも「プログラムです」といった感じのキャラクターだ。
次に、ゲームシステム。本来のゲームには、オレが体験したようなリアルすぎる痛覚フィードバックや、ログアウトが自在にできないなんて仕様は存在しない。ごくごく一般的な、デスペナルティがあるだけの、普通のVRMMOだった。
そして何より、地名やモンスター。オレが冒険した街、訪れたダンジョン、戦った魔物たち……そのほとんどが、本来のゲームには登場しない。海辺のリゾート地「アクアリーフ」も、世界を終わらせるほどの化け物「
共通していることといえば……せいぜい、ありがちな中世ヨーロッパ風の、剣と魔法の王道ファンタジーだということくらい。
それだけだった。
じゃあ……じゃあ、オレが迷い込んだあの世界は……一体、なんだったんだ……?
ただの、リアルすぎる夢……?
それにしては、あまりにも……あまりにも、鮮明すぎる。
彼女たちの温もりも、涙も、笑顔も、すべてが、本物だったように感じられる。
オレは、パソコンのモニターに映し出された、本来の「アークスフィア・オンライン」のプレイ動画を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
◆
「お兄ちゃん、また難しい顔してる」
いつの間にか、スイが車椅子でそばに来て、心配そうにオレの顔を覗き込んでいた。
「……いや、なんでもない。ちょっと、考え事してただけだ」
「ふーん……。無理しちゃだめだよ。お兄ちゃん、あの後から、ずっと上の空だから。……なにか、あったの?」
スイの、まっすぐな瞳が、オレの心の奥を見透かそうとしてくる。
その優しさが、ユウの優しさと重なって、また胸がズキリと痛んだ。
……会いたい。
会いたい。
もう一度、ユウたちに会いたい。
会って、謝りたい。
最後に言った言葉は、全部嘘だったんだと。本当は、お前たちのことが、大切だったんだと。そう、伝えたい。
でも、どうすれば……?
あの世界へ行く方法は、もう、どこにも……。
いや、ある。
たった一つだけ、手がかりが。
オレは、スイが入院している病室から自宅へと帰宅すると、すぐさま押し入れの奥へと向かった。
段ボール箱の中から、あの日以来、一度も触れていなかった、あのVRヘッドセットを取り出す。
近未来的なデザインの、銀色の流線形。
表面に積もった薄い埃を、そっと指で拭った。
これを被れば、またあの地獄に……いや、あの世界に行けるのか……?
いや、無理だろう。
今度こそ、ただの、普通の「アークスフィア・オンライン」が始まるだけだ。
期待なんて、していない。
わかっている。わかっているんだ。
でも……。
万が一……。
億が一の、ほんのわずかな、蜘蛛の糸のような可能性に……。
オレは、ヘッドセットをゆっくりと頭に装着した。
ひんやりとした感触が、こめかみを包む。
覚悟を決め、オレは、ゲームを起動させる。
途端、視界が、真っ白な光に包まれる。
さあ、どうなる……?
光が収まり、ゆっくりと視界が開けていく。
そこに広がっていたのは……。
壮麗なファンファーレ。目の前に浮かび上がる、煌びやかなタイトルロゴ。
【ようこそ、アークスフィア・オンラインへ!】
軽快な音声と共に、キャラクタークリエイト画面が目の前に表示された。
画面の向こうでは、親切そうなチュートリアルNPCの少女が、にこやかに微笑みながら、オレに話しかけてくる。
「さあ、冒険者様! まずは、あなたの分身となるキャラクターを作成しましょう!」
豪華なグラフィック。洗練されたユーザーインターフェース。
事前に調べた通りの、ごく普通の、そして大人気のVRMMO「アークスフィア・オンライン」が、そこにあった。
そこに、オレが焦がれたあの世界の面影は……どこにも、なかった。
ユウも、キバも、リティカも、いない。
……そうだよな。
そんな簡単に、会えるわけないよな……。
わかっていたことだ。わかっていたはずなのに……。
言いようのない喪失感が、胸を締め付ける。
オレは、力なくその場に座り込むと、自嘲気味に呟いた。
「……馬鹿、みたいだな」
静かに、ゲーム内の今度こそちゃんと実装されていたログアウトボタンを押す。
世界が、再び白い光に包まれて、現実へと引き戻されていく。
残ったのは、どうしようもない絶望と……そして、あの残酷な嘘だけだった。