ここがゲームではないと気づいたとき、オレは壊れる   作:お嬢様執筆中

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23 ただの夢だったってことにしよう

 カチャリ、とマグカップを置く音が、やけに静かなリビングに響いた。

 窓の外では、柔らかな陽射しが降り注ぎ、時折聞こえてくる車の走行音が、ここが紛れもない現実世界であることを教えてくれる。

 

「お兄ちゃん、コーヒーのおかわり、いる?」

 

 キッチンから、明るい声が飛んできた。

 オレのたった一人の妹、スイだ。

 

「ああ、頼む」

 

 短く答えると、スイは「はーい」と元気な返事をして、軽快な足取りでこちらへやってきた。

 その姿を見て、オレは思わず口元が緩む。

 あの日……オレが「アークスフィア・オンライン」からログアウトし、現実世界に戻ってきてから、数ヶ月が経った。

 奇跡としか言いようがないことだが、一時は昏睡状態にまで陥っていたスイは、驚異的な回復を見せた。

 長いリハビリ期間を経て、今ではこうして、自分の足でしっかりと立ち、歩き、笑っている。

 医者も首を傾げるほどの回復ぶりだった。

 ベッドの上で管に繋がれ、か細い息をしていたあの頃が、まるで遠い昔の悪夢のようだ。

 

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

 

 スイが、湯気の立つマグカップをテーブルの上に置いてくれる。

 コーヒーの香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐった。

 

「サンキュ」

 

「……どういたしまして」

 

 スイは、オレの向かいの席に座ると、じっとこちらの顔を覗き込んできた。

 その、少しだけ心配そうな瞳。

 

「……なんだよ。オレの顔に、何か付いてるか?」

 

「ううん。そうじゃないんだけど……」

 

 スイは、少しだけ言い淀むように視線を逸らし、そして、意を決したように言った。

 

「お兄ちゃん……最近、なんか、悲しそうだよ」

 

 その言葉に、心臓がドクリと跳ねた。

 まさか、見抜かれているのか……?

 

「……は? 何言ってんだよ。そんなわけないだろ」

 

 オレは、努めて平静を装い、笑って誤魔化そうとする。

 

「だって、スイはこんなに元気になったんだぜ? 父さんも母さんも喜んでるし、オレだって、学校生活は順調だし……。これ以上、何を望むってんだよ。オレは今が、一番幸せだよ」

 

 そうだ。

 オレは、幸せだ。

 大切な妹が元気になり、家族が笑顔を取り戻した。

 オレが望んでいた、平和で、穏やかな日常が、ここにある。

 これで、いいはずなんだ。

 それなのに……。

 

 『アスマっちぃぃぃぃっ!!』

 

 ふとした瞬間に、あの絶叫が、耳の奥で蘇る。

 琥珀色の瞳から溢れ落ちた、絶望の涙。

 あの時、オレが彼女たちにしたことは……。

 いや、考えるな。あれはゲームだ。NPCだ。

 オレは、ただゲームをクリアしただけだ。

 そう、自分に言い聞かせる。

 だが、胸の奥に巣食う、鉛のような重苦しさは、決して消えてはくれない。

 

「……そっか。お兄ちゃんが幸せなら、スイも嬉しいよ」

 

 スイは、少しだけ寂しそうに微笑むと、そっとオレの手に自分の手を重ねてきた。

 

「でもね、お兄ちゃん。もし……もし、何かやりたいこととか、行きたい場所とかがあるなら……スイのことは、気にしなくていいからね。スイはもう大丈夫だから」

 

 その、あまりにも優しい言葉に、オレはぐっと息を詰まらせる。

 こいつは……本当に、どこまでもお人好しなんだから……。

 

「……ああ。ありがとうな、スイ」

 

 オレは、スイの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。

 そうだ。オレには、守るべき現実が、ここにある。

 あの世界のことは、もう忘れよう。

 あれは、ただの長い夢だったんだ。

 

「さて……。そろそろ部屋に戻るかな。課題が残ってるんだ」

 

 オレは、飲み干したマグカップを持って立ち上がった。

 この、どうしようもない感傷を断ち切るように。

 

 その、時だった。

 

 ガタガタガタガタガタッッ!!!!

 

 突如、家全体が揺れるような、とんでもない轟音が響き渡った。

 地震……!? いや、違う。

 この音は……オレの部屋からだ!

 

「この音、なに!?」

 

 スイが驚いて目を見張る。

 まさか、不審者か……!?

 オレは、咄嗟に近くにあった適当な棒……たしか、掃除機のパイプだったか……を掴むと、音のした自分の部屋へと駆け出した。

 

「おいっ! 誰かいるのか!?」

 

 勢いよくドアを開け放つ。

 そして……オレは、言葉を失った。

 

 部屋の中央。

 そこには、見覚えのある……いや、見覚えしかない、複雑な幾何学模様を描く、蒼白い光の輪が浮かび上がっていた。

 魔法陣。

 そう、としか言いようのない、非現実的な光景。

 そして、その中心に立っていたのは……。

 

 艶やかな髪。

 知的な光を宿す、紫色の瞳。

 見慣れた、少し古風なデザインのローブ。

 オレが、あの世界で別れたはずの……いや、捨ててきたはずの、仲間だった。

 

「……り、リティカ……!?」

 

 呆然と、その名を呟く。

 嘘だろ……。なんで、お前が、ここに……!?

 ここは、現実世界だぞ……!?

 

 だが、目の前のリティカは、いつもの自信に満ち溢れた皮肉屋の魔術師ではなかった。

 ぜぇ、ぜぇ、と肩で大きく息をし、その額には玉のような汗が浮かんでいる。

 いつも完璧に整えられていたはずの髪は乱れ、ローブの裾は泥か何かで汚れていた。

 そして何より、その紫色の瞳は、いつもの自信や理知的な輝きを失い、ただひたすらに焦燥と疲労、そして……オレの姿を認めたことによる、微かな安堵に濡れていた。

 

「……アスマ……! ようやく……見つけた……!」

 

 リティカは、か細い声でそう呟くと、ふらつく足取りでオレに駆け寄り、その服の裾を、震える手で強く掴んだ。

 まるで、溺れる者が掴む藁のように。

 

「お願い……助けて……! アスマ!」

 

 オレが、目の前の信じられない光景に、ただ呆然としていると、リティカは顔を歪め、まるで魂からの叫びのように、必死に言葉を絞り出した。

 

「ユウが……! ユウが、大変なことになってるの……! もう、私やキバじゃ、どうしようもなくて……! だから……お願い……! 帰ってきて……!」

 

 オレは、手に持っていた掃除機のパイプを、力なく床に取り落とした。

 これは……夢、じゃない。

 あの世界は……ゲームなんかじゃ、なかったんだ……。

 そして、オレが最後に吐き捨てた、あの残酷な嘘が……。

 ユウを、取り返しのつかない場所へと、突き落としてしまったのかもしれない。

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