ここがゲームではないと気づいたとき、オレは壊れる 作:お嬢様執筆中
カチャリ、とマグカップを置く音が、やけに静かなリビングに響いた。
窓の外では、柔らかな陽射しが降り注ぎ、時折聞こえてくる車の走行音が、ここが紛れもない現実世界であることを教えてくれる。
「お兄ちゃん、コーヒーのおかわり、いる?」
キッチンから、明るい声が飛んできた。
オレのたった一人の妹、スイだ。
「ああ、頼む」
短く答えると、スイは「はーい」と元気な返事をして、軽快な足取りでこちらへやってきた。
その姿を見て、オレは思わず口元が緩む。
あの日……オレが「アークスフィア・オンライン」からログアウトし、現実世界に戻ってきてから、数ヶ月が経った。
奇跡としか言いようがないことだが、一時は昏睡状態にまで陥っていたスイは、驚異的な回復を見せた。
長いリハビリ期間を経て、今ではこうして、自分の足でしっかりと立ち、歩き、笑っている。
医者も首を傾げるほどの回復ぶりだった。
ベッドの上で管に繋がれ、か細い息をしていたあの頃が、まるで遠い昔の悪夢のようだ。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
スイが、湯気の立つマグカップをテーブルの上に置いてくれる。
コーヒーの香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐった。
「サンキュ」
「……どういたしまして」
スイは、オレの向かいの席に座ると、じっとこちらの顔を覗き込んできた。
その、少しだけ心配そうな瞳。
「……なんだよ。オレの顔に、何か付いてるか?」
「ううん。そうじゃないんだけど……」
スイは、少しだけ言い淀むように視線を逸らし、そして、意を決したように言った。
「お兄ちゃん……最近、なんか、悲しそうだよ」
その言葉に、心臓がドクリと跳ねた。
まさか、見抜かれているのか……?
「……は? 何言ってんだよ。そんなわけないだろ」
オレは、努めて平静を装い、笑って誤魔化そうとする。
「だって、スイはこんなに元気になったんだぜ? 父さんも母さんも喜んでるし、オレだって、学校生活は順調だし……。これ以上、何を望むってんだよ。オレは今が、一番幸せだよ」
そうだ。
オレは、幸せだ。
大切な妹が元気になり、家族が笑顔を取り戻した。
オレが望んでいた、平和で、穏やかな日常が、ここにある。
これで、いいはずなんだ。
それなのに……。
『アスマっちぃぃぃぃっ!!』
ふとした瞬間に、あの絶叫が、耳の奥で蘇る。
琥珀色の瞳から溢れ落ちた、絶望の涙。
あの時、オレが彼女たちにしたことは……。
いや、考えるな。あれはゲームだ。NPCだ。
オレは、ただゲームをクリアしただけだ。
そう、自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥に巣食う、鉛のような重苦しさは、決して消えてはくれない。
「……そっか。お兄ちゃんが幸せなら、スイも嬉しいよ」
スイは、少しだけ寂しそうに微笑むと、そっとオレの手に自分の手を重ねてきた。
「でもね、お兄ちゃん。もし……もし、何かやりたいこととか、行きたい場所とかがあるなら……スイのことは、気にしなくていいからね。スイはもう大丈夫だから」
その、あまりにも優しい言葉に、オレはぐっと息を詰まらせる。
こいつは……本当に、どこまでもお人好しなんだから……。
「……ああ。ありがとうな、スイ」
オレは、スイの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
そうだ。オレには、守るべき現実が、ここにある。
あの世界のことは、もう忘れよう。
あれは、ただの長い夢だったんだ。
「さて……。そろそろ部屋に戻るかな。課題が残ってるんだ」
オレは、飲み干したマグカップを持って立ち上がった。
この、どうしようもない感傷を断ち切るように。
その、時だった。
ガタガタガタガタガタッッ!!!!
突如、家全体が揺れるような、とんでもない轟音が響き渡った。
地震……!? いや、違う。
この音は……オレの部屋からだ!
「この音、なに!?」
スイが驚いて目を見張る。
まさか、不審者か……!?
オレは、咄嗟に近くにあった適当な棒……たしか、掃除機のパイプだったか……を掴むと、音のした自分の部屋へと駆け出した。
「おいっ! 誰かいるのか!?」
勢いよくドアを開け放つ。
そして……オレは、言葉を失った。
部屋の中央。
そこには、見覚えのある……いや、見覚えしかない、複雑な幾何学模様を描く、蒼白い光の輪が浮かび上がっていた。
魔法陣。
そう、としか言いようのない、非現実的な光景。
そして、その中心に立っていたのは……。
艶やかな髪。
知的な光を宿す、紫色の瞳。
見慣れた、少し古風なデザインのローブ。
オレが、あの世界で別れたはずの……いや、捨ててきたはずの、仲間だった。
「……り、リティカ……!?」
呆然と、その名を呟く。
嘘だろ……。なんで、お前が、ここに……!?
ここは、現実世界だぞ……!?
だが、目の前のリティカは、いつもの自信に満ち溢れた皮肉屋の魔術師ではなかった。
ぜぇ、ぜぇ、と肩で大きく息をし、その額には玉のような汗が浮かんでいる。
いつも完璧に整えられていたはずの髪は乱れ、ローブの裾は泥か何かで汚れていた。
そして何より、その紫色の瞳は、いつもの自信や理知的な輝きを失い、ただひたすらに焦燥と疲労、そして……オレの姿を認めたことによる、微かな安堵に濡れていた。
「……アスマ……! ようやく……見つけた……!」
リティカは、か細い声でそう呟くと、ふらつく足取りでオレに駆け寄り、その服の裾を、震える手で強く掴んだ。
まるで、溺れる者が掴む藁のように。
「お願い……助けて……! アスマ!」
オレが、目の前の信じられない光景に、ただ呆然としていると、リティカは顔を歪め、まるで魂からの叫びのように、必死に言葉を絞り出した。
「ユウが……! ユウが、大変なことになってるの……! もう、私やキバじゃ、どうしようもなくて……! だから……お願い……! 帰ってきて……!」
オレは、手に持っていた掃除機のパイプを、力なく床に取り落とした。
これは……夢、じゃない。
あの世界は……ゲームなんかじゃ、なかったんだ……。
そして、オレが最後に吐き捨てた、あの残酷な嘘が……。
ユウを、取り返しのつかない場所へと、突き落としてしまったのかもしれない。