ここがゲームではないと気づいたとき、オレは壊れる 作:お嬢様執筆中
「早く、こっちに来て……!」
リティカが、必死の形相で足元の魔法陣を指さした。
その光は、さっきよりも不安定に明滅を繰り返している。
「この転移魔術は、維持するのがすごく大変なの……! 膨大な魔力を消費するし、そもそも座標を合わせるのだって奇跡みたいなものだったんだから……! もう二度と、ここに来ることなんてできない! 悩んでいる時間はないのよ! 早く!」
有無を言わせぬ、切迫した声。
普段の彼女からは想像もつかない、剥き出しの焦り。
オレは、戸惑う。
確かに、行きたい。行って、自分の目で確かめたい。
そして、もしできることなら……ユウを、救いたい。
けれど……。
せっかく、帰ってこられたんだ。この、平和な日常に。
またあの世界へ行けば、今度こそ、二度と現実には戻れないかもしれない。
オレには……オレには、守らなきゃいけない存在がいるんだ。
この現実で、ようやく笑顔を取り戻した、たった一人の……。
「え……?」
ふと、背後の気配に気づき、振り返る。
そこには、部屋のドアの隙間から、何が起きているのかわからず、ただ呆然とこちらを見つめる、スイの姿があった。
その顔には、驚きと、困惑と、そしてオレに対する心配の色が浮かんでいる。
「お兄ちゃん……いったい、なにが……?」
スイの、か細い声。
その声に、リティカが鋭く反応した。
「アスマ、早くこっちに! もう、限界が近い……!」
魔法陣の光が、さらに激しく揺らめく。
まるで、今にも消え入りそうな蝋燭の炎のように。
前には、オレを異世界へと誘うリティカ。
後ろには、オレが守るべき現実の象徴である、スイ。
心臓が、引き裂かれそうだった。
どちらかを、選べと……?
そんなこと、できるわけがない……!
その、どうしようもない葛藤に苛まれるオレの心を、見透かしたかのように。
スイが、静かに、だがはっきりとした声で言った。
「お兄ちゃん」
オレは、息を呑んでスイを見る。
彼女は、少しだけ寂しそうに、それでも、優しく微笑んでいた。
「もし……もし、スイのせいでお兄ちゃんが悩んでるなら……。わたしは、もう大丈夫だから……」
「……スイ……」
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんが行きたい場所に行っていいんだよ。……スイは、ここで待ってるから。ずっと、お兄ちゃんが帰ってくるのを、待ってるから」
その言葉が、鈍器のようにオレの頭を殴りつけた。
ああ……そうか。
この子は、いつだってそうだ。
オレのことばかり、考えて……。
「早く……っ! アスマッ!」
リティカの、悲鳴に近い叫び声。
もう、時間がない。
決断しなければ。
オレは……オレは……。
◆
……気がつけば、オレは、またこの世界に戻ってきていた。
決断するには、悩む時間があまりにも足りなかった。
スイに、ちゃんとした別れの言葉を告げる暇さえ、なかった。
ただ、リティカに腕を引かれ、蒼白い光に飲み込まれた……そこからの記憶は、曖昧だ。
ひんやりとした石畳の感触。
微かに漂う、鉄を打つ匂いと下水の匂いが混じった、独特の空気。
そして、見上げれば広がる、どこまでも高く、どこまでも青い空と……現実のそれとは明らかに異なる月。
見慣れたはずの雑踏。だが、行き交うのは屈強な鎧に身を包んだ冒険者や、慌ただしく荷を運ぶ商人ばかりだ。誰もが険しい顔で、足早にどこかへ向かっている。
どう見ても、ここは……オレが一年間を過ごした、商業都市リードブルムの、路地裏のはずだった。
「はぁ……はぁ……。な、なんとか……間に合った、みたいね……」
隣で、リティカが地面に手をつき、荒い息を繰り返している。
その顔は真っ青で、魔力を使い果たした消耗が、ありありと見て取れた。
オレは、そんな彼女を横目に、ただ、呆然と立ち尽くす。
帰ってきてしまった。
また、この世界に。
スイを、あの優しい妹を、現実に残して。
オレは……とんでもない過ちを、犯してしまったのかもしれない。
そんな後悔と絶望が、鉛のように心を支配する。
本当にこれが正解だったのか……?
「ユウは……ユウは、どういう状況なんだ? 説明してくれないか」
混乱する頭で、なんとかそれだけを絞り出す。
今、オレが知るべきはそれだ。それ以外は、後回しでいい。
だが、リティカはオレの問いに答えることなく、ぜぇ、ぜぇ、と苦しげに息を繰り返すだけだった。その白い頬からは血の気が完全に失せ、唇はかすかに震えている。今にもその場に倒れ込んでしまいそうだ。
「……すこし……まって……」
かろうじて、それだけを呟くと、リティカは近くの建物の壁にずるずると寄りかかり、座り込んでしまった。
……確かに、この疲労困憊な状態で、まともな説明ができるはずもなかった。
転移魔術とやらで、オレのいた現実世界まで跳んできたんだ。その代償は、オレの想像を絶するほど大きいのだろう。
待っている間、様々な思考が、まるで濁流のように頭の中を駆け巡る。
ユウが、大変なことに。
リティカの、あの必死な声が、耳から離れない。
……原因は、わかっている。
十中八九、いや、百パーセント、オレのせいだ。
あの、最後の言葉。
『お前のその治癒魔法、今までずっと、迷惑だったんだよ』
彼女の心を、希望を、愛情を、根底から破壊するために、オレが意図して吐き捨てた、残酷な嘘。
あの時の、ユウの顔……。
信じていた全てを奪われ、魂が砕け散ってしまったかのような、あの絶望に染まった瞳。
オレは、あの子に、取り返しのつかないことをしてしまった。
「……はぁ……はぁ……。もう……大丈夫……」
どれくらいの時間が経っただろうか。
リティカが、ようやく顔を上げた。
まだ顔色は悪いが、呼吸はいくらか落ち着きを取り戻している。
彼女は、ゆっくりと立ち上がると、オレの顔をじっと見つめてきた。
その紫色の瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。
安堵、疲労、そして……どうしようもない、深い、深い怒り。
やがて、リティカは震える唇で、ゆっくりと口を開いた。
「あんたって……本当に、どこまでいっても、最低で、自分勝手で……どうしようもない男ね……っ」
それは、恨み言だった。
絞り出すような、呪詛にも似た響き。
「いなくなって……せいせいしたって、思ったわよ。正直ね。あんたみたいな、いつ死ぬかわからない爆弾を抱えてるより、ずっといいって。でも……でも、あんたがいなくなってから、ユウは……! 全部、全部、全部っ! あんたのせいで……!」
その言葉を、オレはただ、黙って受け止める。
反論の余地なんて、微塵もない。
そうだ。全部、オレのせいだ。
リティカは、しばらくオレを睨みつけていたが、やがて、ふぅっと長い息を吐き、まるで憑き物が落ちたかのように、表情から力を抜いた。
「……でも、今は、そんなことを言ってる場合じゃないわね」
彼女は、一度目を閉じ、そして、再びオレを見据える。
その瞳には、先程までの怒りとは違う、覚悟を決めたような、冷たい光が宿っていた。
「まずは、ユウの状況を説明しないと。……そのために、あんたを連れ戻してきたんだから」
ゴクリと、唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
心臓が、警鐘を乱打するようにうるさく鳴り響く。
頼む……。
頼むから、最悪の事態だけは……。
オレは、ただ、リティカの次の言葉を、固唾を飲んで待っていた。