彼は静かにティーカップのふちをなぞる。
「俺が彼女と出会ったのは深い森の中だった。俺はいつものように、あてもなくただ、茫然と歩いていた。目的も無く、意義も無く、ただひたすらに歩いていた。歩かなければ、立ち止まってしまえば、『死ぬ』と半ば強迫観念のようなものに駆られて、ただ歩いた。別に、『死ぬ事』は怖くなかった。そうすればかつての夢にもう一度浸れるのだから。だが『俺』の『理性』はそれを許さなかったし、俺も死にたくはなかった。
人というのは生きている内に『自身では回避できない、どうしようもない死』を渇望してしまう時がある。俺もまたその内の一人だった。
たぶん、あの放浪旅はそんな『どうしようもない死』を求めた旅だったと、今ならわかるよ。」
彼はティーカップを持ち上げて口をつけた。
コクッコクッ。
「そうして歩いて行く中、俺はいつものように森の中で迷った。
俺にとって森に迷う事は日常茶飯事だった。その度に俺は直進で進んだ。そうすれば、いつかは出られると経験で覚えたから。そうして道無き道を進む最中、俺は見てしまった。一人の少女が今まさに野盗に己の純情を穢されようとしている地獄を。
俺は反射的に野盗に飛び掛かり、首をへし折った。
それから真っ先に少女の安否を確かめた、……もし手遅れだったらと、そう思うだけで、己の胃がさらに小さくなってしまうと。」
彼はそう言い締めると棚を漁り始めた。
「話は長くなるからね、少しでも聞き飽きないように。
ほらお茶菓子だよ。」
そう言って彼はお皿にお菓子を少量乗せて戻ってきた。
「……気遣い、感謝します。ですが貴方の分は?」
彼はカップに紅茶を注ぎながら答える。
「俺は昔から少食なんだ。お菓子なんて食べたら、ディナーが入らないさ。」
彼はクルクルとカップをスプーンで混ぜる。
「さて、じゃあ、続きを話そうか。」
助け出した彼女は酷く怯えていた……まるで周囲の人間全てが己の敵だと言うように。けれど俺はそんな彼女の姿に酷く、安堵を覚えた……なにせ怯えれると言う事は生きる意思がある証左なのだから。
それから彼女は俺が己を襲った野盗ではないと気付いたのか
「ありがとうございます!貴方のおかげで、僕、僕、ほ、本当に、本当にありがとうございます!!」
そう言いながら彼女は深く何度も何度も頭を下げていた。
俺はそんな彼女の姿に少し気恥ずかしい気持ちになった。
なにせ人にここまで感謝されたのは初めてだったのだから。
それから漸く落ち着いた彼女に事情を聞いた。彼女は
「僕、実は父が居ないの、母さんは父がいるって言うけど、少なくとも僕の物心がつく頃には居なかった。そんな中、母さんが倒れちゃって、僕、僕、何かしてあげなきゃって、いつもいつも母さんに頼ってばっかだから、だから、母さんが少しでも元気になるように、僕、薬草を取ってこようと、それで、それで…」
「それで、君は こんな奥深くまで来てしまったと。」
彼女はへこたれたように「う〜」とうめいた。
けれど、そんな姿もすぐに消え、彼女は爛々とした瞳で俺を見つめてきた。
「けど、君に会えた事は今日一番、いや僕の人生で一番の幸福だ!
不思議と君とならどこでも生きていけそうだ。」
彼女は何処か確信に満ちた声で語る。
……俺はそんな彼女の姿が気持ち悪くて仕方がなかった。
彼女は先程まで野盗に襲われていたんだ。そんな状況下で助けてもらえたからと言って、すぐに人に、それも俺なんかに全幅の信頼を寄せる彼女が俺は不愉快で仕方なかった。
だから俺は彼女を押し倒した。
「へ?」
彼女の呑気な声が響く。
彼女は知るべきだ。世の中全てが善人で構成されてはいないのだと。
……気持ち悪い。………気持ち悪くて仕方がない。簡単に信頼する彼女も、殺した野盗共と同じ行動をする俺も、死を重ねる国も、眠りこけている世界も、何もしない神も、全てが……スベテがキモチワルイ。
無知な俺はかつての野盗の真似事のように服を乱雑に脱がそうとした。
「ヒッ。」
服に手を掛ける寸前で彼女は恐怖の囀りを鳴らした。
彼女の震えや恐怖は俺を酷く冷静にした。
ああ……気持ち悪い。
「これでわかっただろう、簡単に人を信用するな。その信用が返ってお前の首を絞めることになるのだからな。」
そう言って俺は自身の上着を彼女に投げ捨てその場を去ろうとした。
グイ。
誰かに服を引っ張られ大きくのけぞる。
(なんだ?)
何かに引っ掛けたかと思い、力が働いている方を向く。
……彼女が俺の上着を強く抱えながら強く服の裾を掴んでいた。
こいつはまだ学習していないのかと思い、今度は強めに刻み込んでやろうとした、ができなかった。
彼女は俺の上着を強く抱えながらも静かに大粒の涙を流していたのだ。
「ううっ、い、行かないで、置いていかないで。」
彼女は幼児のように同じ言葉を繰り返し発していた。
それは大人へ主張するように、親へ縋り付くように、彼女は只々泣いて、訴えていた。
俺は何故かそんな彼女の姿に、心が締め付けられた。
この一連の流れの原因は俺にある、だがそれでも俺は、もう彼女の泣き顔は見たくないと思ってしまった。
俺は泣いている彼女を連れて森の中でも比較的安全な場所を探した。
そんな中、やっとのことで見つけれた河の近くに俺たちは腰を下ろした。
泣き止んだ彼女は俺の上着に絡まりながら無言で隣に腰を下ろした。
「……なぜ、俺に縋った。俺はお前に無体を強いた男だ。お前を襲った野盗と変わらぬ男だ。なのに、なぜ?」
俺は心底理解できなかった。なぜこいつは俺に縋る。殴られたのなら理解できる、罵倒を浴びる事も承知の上だった。なのにこいつは只々俺の服の裾を掴み幼児のように泣くばかり……わからない。
「……確かに、怖かった。だけど、それ以上に貴方の顔が苦痛に歪んでいた事が、僕は堪らなく、かわいそうだと思えて仕方がなかった。
貴方はきっと、良い人なんだと思う。ただ不器用なだけで。」
俺は彼女の腕を掴んだ。
「お前のこの華奢な腕なんぞ瞬きの間にへし折れるんだ。」
俺は彼女の首を掴んだ。
「お前のこのか細い首なんぞ一息で潰せるんだ。」
なのに、なぜ。
「なぜ、お前は抵抗しない。なぜ、お前は殴らない。なぜ、お前は罵らない。なぜ、お前は抵抗しない。……俺はこんなにもお前を、傷つけているにも関わらずだ。」
彼女は俺の頬を優しく、諭すように撫でた。
「だっ…て、あ…な…た、しにそう……な…かおをしているもの」
俺は咄嗟に手を離す。
彼女は蹲って勢いよく咳き込む。
おれのてはふるえていた。
「はは」
かわいた笑いがこぼれた。わからなかった。何が正解で何が不正解なのか。かのじょは俺を不器用と言った。だが…だが、こんなもの野盗とも、母を犯した兵士と変わらない……俺は、おれはどうすればよかったのだろうか。
気づけば彼女は俺の眼前に迫っていた。
彼女は優しく俺を抱きしめた。彼女の肋骨が当たった。
「あなたは、たくさんの人に奪われて、裏切られて、貶められて、
そうして、人が怖くなってしまったのね。」
彼女は只々優しく撫でるばかりだ。
俺は彼女を突き飛ばす。
「や…め、ろ!そうやって知った気になるな!俺の過去も、苦悩も、喪失も、痛みも、全て!俺のものだ!お前が理解できるわけがない!共感できるわけがない!受け止めれるわけがない!お前は所詮、上部でしか取り繕えないただの少女でしかない。
……だから……だから、こんな俺を信用するな、信頼するな、知ろうとするな。俺はお前を傷つける事しかできないのだから。」
俺は力を入れすぎたあまり、脳がぐらついてしまい、その場で倒れ込む。
だが、それでも彼女の執念が突き動かしたのか、彼女はまたもや俺の眼前に立ち…深く、厚く、温かく、懐かしい何かを注いでくれた。
「なんだ、これは」
わからない、だけど、昔、誰かからたくさん貰えた懐かしく、泣きたくなるような……ああ、そうか……久しく忘れていた……これが
「これが、『愛』か。」
酷く……泣きたくなった。
「よく頑張りました。僕は貴方の過去を、苦悩を、喪失を、痛みを、まだ知らない。けど知る事はできる。僕達は人間なんだ、例え、悪人だろうと、善人だろうと……人間なんだ、理解できなくても、共感できなくても知る事はできるし、頑張りを認める事ができるんだ。してもいいんだ。
だから、よく頑張りました。僕が貴方のこれまでの頑張りを認めます。
保証します。証明します。貴方の頑張りは無駄なんかじゃない、貴方は自分にできる全力を常に行ってきたのだから。……だから、今は休む時間です、そして明日も頑張りましょう。」
そう言って彼女は優しく頭を撫でてくれた。
久しぶりだった、頭を撫でてもらえたのは、頑張りを褒めてもらえたのは
己から大粒の雨が流れる。
「がんばったんだ。とうさんは、かえってこないし、かあさんは、ひとりでがんばるし、おれ、おれ!がんばったんだ!とうさんのはなしをりかいするためにほんをたくさんよんだ!かあさんをまもるためにけんもいっぱいふった!なのに、なのに、みんな、みんな!おれのてからみずのようにとおりぬけていくんだ。……とうさん、かあさん、あいたいよ。また、あたまをなでてよ、もっと聞かせてよ、もっと、ずっと!いっしょにいたかった!なのに!なのに!なんでおれだけおいていったんだよ!……ううっ、うう。」
さみしかった……ひとりぼっちの家ですごすのは、
こわかった…かぞくのいないせかいをいきるのは、
いやだった…おやがくれたいのちをそまつにするのは、
おぞましかった…りかいできないにんげんとはなすのは、
おれはただ、かぞくとすごすだけで、しあわせだったのに。
「さみしかったわよね、こわかったわよね、人間はおぞましいよね。
大丈夫。ここにあなたを襲う者は誰もいない。
だから好きなだけ泣いて良いの、泣いて泣いて、そして明日も生き続けるの、それが人間だけが持つ唯一の特権なんだから。」
彼女は強く、俺を抱擁する。
泣いた。ただひたすらに泣いた。身体中の水分全てがなくなるほどに泣いた。彼女は服が汚れる事も厭わずに只々俺を離さまいと強く、抱きしめてくれた。
その温もりが何処か、母を思わせる温かみにおれは、また泣いた。
一体どれほど泣いただろうか。
気づけば朝日は昇り、俺は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたようだ、彼女も俺を抱き締めながら寝ていたのか、俺の目覚めに合わせて目を覚ました。
「おはよう、眠り姫。」
俺のあいさつに彼女はふふっと微笑む。
「おはよう、王子様。だけど、お姫様って僕より貴方の方が適任じゃないかしら」
俺は少し照れてしまう、なんせ俺より年下の少女に泣きついてしまったのだから。
「……すまない。年下の少女相手に泣きついてしまうなんて。」
「すまない?違うでしょ?こういう時は何ていうのかしら?」
俺はハッとなりすぐに訂正する。
「…そうだな、ありがとう。君のおかげでなんだか心が軽くなったよ。」
彼女は優しく微笑む。
「ええ、それならよかったわ。けれど、私が貴方より年下だと思われているのは心外だわ。たぶん私、貴方より年上よ。」
俺はありえないと思いながらも、昨日の包容力のせいで妙に説得力があり、これ以上は不毛だなと判断した。
「そう言えば、まだ君の名前を聞いていなかった。名前を聞いても良いかい?」
彼女は今頃気付いたのか、納得したような顔をした。
「僕の名前は『ラグネル』よ。よろしくね。それで貴方の名前は?」
「俺は…俺の名は『ルシウス』だ。よろしく頼む。」
俺は本当の意味で、今日、過去を『俺』を『抱擁』できたら気がした。
「……貴方の真名は『ルシウス』というのですね。」
私は心底驚嘆した。ルシウス……生ける光の意味を冠するその名を、彼につけた彼の父母は実に慧眼だったと言わざるおえない。
だが。
「だが、なぜ貴方は今、かの少女の名を冠しているのでしょう?」
彼は過去を夢想するように話す。
「彼女は俺と同じ、どうしようもない寂しがり屋だったからさ。」