路地裏に、不思議な喫茶店を見つけた。
なにげなく街を歩いていると思わぬ発見をすることがある。
比嘉つつじは、その日大学の周辺を歩いていて、小さな路地裏に目をとめた。
何度も前を歩いていたはずだったが、そんな道があったかどうか記憶にない。
「意識しなければ脳は認識しないということでしょうか」
そんなことを考えながらその場を通り過ぎようとすると、ぽろんぽろんと、つま弾くようなウクレレの音が聞こえてきた。
へぇ、こんなところから、なぜ?
興味を惹かれる。
つつじは、ウクレレを嗜んでいた。
どちらかといえばマイナーな楽器だ。
いったい誰が弾いているのだろうか。
気になった。
「別に、違法侵入というわけでもないでしょうし。路地裏といえども、公共の道路には違いないでしょう」
その細い路地に足を踏み入れてみることにした。
まだ、陽が高いというのに、路地裏は薄暗かった。
しかし、面した大通りから差し込む日差しが、絵画のような不思議な空気感を醸し出している。
「ここから、聞こえてきますね」
ウクレレの音が聞こえてくる先は、お店のようだった。
といっても、客を招き入れる意図があるのかどうかもわからないような風貌の店だ。
路地の壁に唐突に開けられた穴のような空洞に、木の板を張り付けただけのような扉。
年季が入りさび付いて黒ずんだ青銅製のプレートにCaféと書いてあることは何とか判別できる。
一瞬躊躇する。
だが、物は試しという。
ドアを開けてみて、休業中ならそれだけのこと。
勇気を出して、開けてみた。
「いらっしゃい」
か細い声が聞こえた。
店の奥にいたのは、やせ細ったお爺さんだった。
髪は白く、服もよれていて、70歳を超しているように見える。
いらっしゃいと言ってくれたということは、やはりここは喫茶店で、営業中なのだろうか。
「えと、お邪魔してもよろしいのでしょうか?」
恐る恐る問いかけるつつじに、老人は目を細めた。
「やぁ、これは珍しい。こんなに可愛らしいお嬢さんがやってくるとは」
心底嬉しそうな声を出し、手に持っていたウクレレを置く。
やはりこの人が弾いていたのか。
「何になさいますかな。珈琲、紅茶、ブランデーもあるが……お嬢さんは未成年だね」
「はい、えっと、それでは紅茶をいただきます」
「うちの紅茶は良い葉を使っているんだよ。特別に取り寄せたものなんだ」
そう言いながら、老人がポットに湯を注ぐ。
香ばしいような、しかしどこか腐ったような匂いがした。
つつじは紅茶に詳しくはない。
貴腐ワインというものがあるように、良い紅茶というものもまた、腐っていたり独特の匂いがするものなのだろうか?
「さぁ、どうぞ」
老人が、カップを差し出す。
そのしぐさはひどく優雅だったが、指は痩せこけてささくれ立ち、浮いた血管が内出血を起こして黒いシミを作っていた。
「ありがとうございます」
口にすると、その紅茶はおかしな味がした。
不味いというわけではないのだが、どこか不安定というか、美しく作られた工芸細工が歪められ狂ってしまったような、損なわれた味がした。
店内を見渡す。
どう見ても、お客はほとんど来ないだろう。
この紅茶も、長らく放置された葉だったのかもしれない。
一口口をつけただけで、つつじは残りを飲むことをあきらめた。
「どうしてまた、こんな店へ?」
老人が尋ねてきた。
口調は穏やかだが、人との会話に飢えているような感触を与える口調だった。
「あ、いえ、たまたま前の道を通りがかったらウクレレの音が聞こえてきたもので」
「ほぉ」
老人が感嘆の声を上げる。
「ギターとウクレレの違いが判りなさるのか」
「えぇ、まぁ」
「今どきの娘さんなのに珍しい」
「自分も、好きで弾くことがありまして」
「そぅか、そぅか、それはそれは」
老人がまた、目を細めた。
「それじゃ何か一曲、弾いてみようか」
「あ、はい」
断る理由もなく、うなづくと、老人がウクレレを手に持った。
そして、ゆっくりと、たどたどしい指使いでハワイの民謡を弾いた。
つつじは、年季の入った店や老人の雰囲気、そしてウクレレの傷み方から、老人が熟練の腕を見せてくれると思い込んでいたので、予想を裏切られた気分になった。
「ははは、お恥ずかしい」
弾き終えると、老人は照れたように笑った。
はにかんで笑うと、少年のように見えなくもなかった。
「実は、自分のウクレレではないのですよ」
老人が語りだす。
「そうなのですか?」
「えぇ、このウクレレは、妻のものです。この店は、妻と二人でやっていたものなのです。ところが、妻は少し前に、永遠の旅に旅立ってしまいました」
「それは……」
つつじは言葉に詰まった。
まだ、近しい身内の死を体験したことがなかった。
なので、老人の言葉に、どう対応すればよいのかわからなかった。
ただ、老人の表情からは、深い悲しみの念は感じ取ることができた。
「妻は、ポルトガル人でした」
「ポルトガル?」
「えぇ、ポルトガルです。遠い海の向こう、ヨーロッパの果ての国、海に面した国です」
なんとなく世界地図を頭に思い浮かべる。
「知っていますか? ウクレレは、もともとはポルトガルから伝わったものなのですよ。ブラギーニャという楽器を、ポルトガルからの移民がハワイに持ち込み、それが独自に変化したものがウクレレなのです」
「へぇ」
「たまたま、妻と二人で街の楽器店の前を通った時のことです。もう40年も昔のことですが。街の小さな楽器店には、ブラギーニャはありませんでしたが、このウクレレがありました。妻はそれを購入したのです。以来この楽器は、妻の愛用品であり、遠いこの日本の地で彼女と故郷を間接的につなぐ心の拠り所でした」
そう言って、愛おしむように、ウクレレの表面に触れた。
「妻は、ポルトガルのファドという音楽が好きでした。とても物悲しい音楽です」
つつじの脳裏に、見たこともないポルトガルの海がかすかに浮かぶ。
その海は激しく荒れ、薄暗かった。
「弾かないのですか? そのファドという音楽は」
「私は、弾きません」
老人は断定的に言った。
「私はそれを弾く資格も腕前もありませんよ」
「資格?」
「えぇ。妻をポルトガルから引き離したのは私なのです。若い頃、商事に勤めていた私は、ヨーロッパのある国で妻と出会いました。そして、恋に落ちたのです。やがて結婚をしたいと思うようになりましたが、妻の両親は激しく反対しました。今よりもずっと昔のことです。当時は、今以上に強い強いアジア人差別があったのです。日本人と結婚することなど、とんでもないと。しかし、私と妻の間には、すでに子供がいました。まだ生まれてはいませんでしたが、妻はおなかの中に新しい生命を宿していたのです。私は、妻も、これから生まれてくる赤ん坊も失いたくありませんでした。そして、奪うように彼女を連れてこの国に帰ってきたのです。ですので妻にとって、ポルトガルは、私のために引き離された故郷なのですよ。そんな私が、ファドを、彼女の愛した故郷の音楽を奏でる資格はありません」
「そう……ですか」
「この楽器が、ウクレレでよかったと思っています。もしも、本物のブラギーニャでしたら、私は指で触れる勇気がなかったでしょう」
つつじは、目を閉じた。
老人の若い頃は、どんな青年だったのだろうか。
今のように、やせ細っていたのだろうか。
「さぁ、今度はあなたの番ですよ」
老人が、ウクレレを差し出してきた。
「せっかくですから。何か一曲弾いてくれませんか?」
「わかりました」
つつじは、ウクレレを受け取り、少し考えてから、マオリ族の別れの歌を弾いた。
ハワイの曲ではないが、それはウクレレで弾くのにとても良く合う旋律だった。
「素晴らしいです」
老人が、つぶやいた。
「ありがとう。お嬢さんに会えてよかった」
「こちらこそ」
つぶやいて、つつじは、紅茶のカップを見た。
よく見るとその紅茶のカップの底には、黒ずんだ茶葉の滓のようなものが沈んでいた。
「飲まないのですか?」
老人に問いかけられ、つつじは、静かに首を振った。
「冷めてしまった紅茶は、あまり好きではなくって」
本当の理由は違った。
その紅茶を飲み干すと、自分の体の中の何かが変わってしまうような恐怖に囚われたからだ。
「では、そろそろ、おいとましますね」
「あぁ、ありがとう、本当に楽しかったよ。こんな店でよければ、またおいで」
老人は、お代を請求しなかった。
店を出ると、小雨が降り始めていた。
つつじは、小走りで路地を抜けた。
路地を抜けると、まるで別世界のようだった。
いや、違う。
もともといた世界だ。
※
それから一週間ほどが過ぎた。
大学の構内の食堂でエナジードリンクを飲んでいたつつじは、ふと新聞に目をとめた。
昔からの習慣なのか、大学の学食には、新聞が置いてあるのだ。
なぜだろうか、いつもなら新聞を読んだりはしないのだが。
その日に限ってつつじは、新聞を手に取った。
地方欄を開くと、小さな記事があった。
八王子の喫茶店で身寄りのない老人が孤独死。
記事を読み進める。
それは、どう考えてもあの路地裏の喫茶店の出来事であり、死んだのはあの老人だった。
そんな。
つい先日会ったばかりだというのに。
思わず、エナジードリンクを落としそうになる。
しかし記事には、不可解な記述があった。
老人は、喫茶店の持ち主ではないと書いてあるのだ。
つつじは混乱した。
記事によると、老人は不法侵入をしてそこで暮らしていた行旅人であり、身元は不明とある。
喫茶店は、5年も前にすでに閉店していたのだ。
「あぁ、なんてことでしょう」
つつじはため息をついた。
老人の言葉は、全て嘘だったのでしょうか。
突然の侵入者の私をごまかすための。
「紅茶の味がおかしかったのは、きっとあそこに置いたままの茶葉だったのでしょうね。よくおなかを壊さなかったものです」
一人、つぶやく。
そして柔らかな自分の腹をさすった。
※
喫茶店のことを検索してみると、日本に帰化したポルトガル人の婦人が経営していたことは事実だった。
ただし彼女は未婚で、誰とも結婚せず、子供も産まずに、5年前に69歳で亡くなっていた。
老人の話は、どこからどこまでが嘘だったのだろう?
そこにわずかでも、彼なりの真実は含まれていたのだろうか?
もはや、確かめるすべはない。
もしかしたら。
老人とポルトガル人の婦人は、遠いむかし本当に恋人同士だったのかもしれない。
ただ、結婚はしていなくて、何らかの理由で子供も生まれなかったのかもしれない。
二人の間には、老人が語らなかった別の事実があったのかもしれない。
そんなことを、ふと想像した。
彼の語ったすべてが嘘であるとは、なぜか思えなかったのだ。
「我ながら、詐欺師に騙されそうなお人好しですね」
つつじは苦笑し、飲みかけのエナジードリンクを飲み干した。
※
翌日、つつじは、駅前の花屋で小さな花を一輪買った。
青い、海のような色の花。
それをもって大学に行くと、友人たちからはからかわれた。
講義が終わり、帰路に就くときに、つつじはもう一度路地に立ち寄った。
人が一人死んだ後でも、路地裏の空気感は何一つ変わらなかった。
相変わらず、午後の日差しをわずかにうけながら、薄暗く奇妙に木製の扉がたたずんでいる。
つつじは、扉の前にそっと一輪の花を置いた。
老人への手向けのつもりだった。
※
駅へと帰る途中、ふと思った。
今度ファドを一曲覚えるのも、良いかもしれない。
(終)