時々、家に猫がやってくる。
その日。
午前にかいた汗を近くの川辺で洗い流し、日の高い時間は家の屋根の下。
フィルは夕方涼しくなったら帰るらしい。
カランと揺れるコップの中の氷の音。
普段羽織るローブとソックスは家の隅に放り投げ、フィルは薄手のワンピース姿のままダラリと床に転がっている。
そんな折、ふと家の引き戸がカリカリと擦られる音が外から聞こえ、やがて僅かに開いていた隙間から小さな肉球。
そこから、よっこいせとほんの少し扉を開き、一匹の猫が入ってくる。
「な、なんじゃこいつはー」
「にゃー」
フィルの言葉に返事をするように猫は一つにゃーと鳴く。
そいつは一昨年くらいから時々家にやってくる茶トラ猫だった。オレンジ色のベースに茶色の縞模様が入っている。
少し前は子猫といえるほど小さかったが、今はそれなりにボリューミーだ。
「ご近所のアイドル猫だな。トラさんだ」
「にゃんと」
フィルは寝ころんだままころりと一周近づくが、懐っこいトラは避けることもしない。
珍しい匂いだったのか逆にクンクンとフィルの顔に鼻を近づけていた。
俺はそんな様子を見ながら窓の近く。
吊るしていた干し肉を少し
「にゃん!」
トラはお礼を一つ言って干し肉を
俺が餌をやるのは本当にたまにだが、いつ見てもそれなりに肥えている。
普段は集落を回っているらしく、トラにとってはたまには俺の様子も見てやるか、くらいの認識なのかもしれない。
「かわゆいのー」
フィルも猫は好きなようだった。
一心不乱にお肉を食べる姿を至近距離でじーっと見つめている。
ごはんが終わり舌をぺろり。
けれどトラは帰らない。コロンと体を倒してぺろぺろと毛繕いを始めてしまった。
「な、なかなか
俺はふとフィルの方に視線を向けた。
散らかした衣服。
汗の跡を床に残して、べったり寝ころぶ姿。
最近は暑すぎるのかスカート丈が短くて危うい。
なるほど、俺は猫は好きだった。
フィルはしばらくじっと眺めていたが、やがてうずりと不可思議な衝動が走ったのかズボリと横たわる猫のお腹に顔をうずめる。
「ぉぉー……さいこー、なのじゃー」
フィルは顔をうずめたままそんなことをいう。
やられたトラは嫌がってはいないが、ふよふよ揺らめくフィルの金髪に少し手を振ってじゃれていた。
「何してるんだ?」
尋ねてみるとフィルは猫のお腹から半分顔を覗かせる。
「知らぬのか? 猫のお腹には最高の癒し効果が含まれてるのじゃ」
たぶんだが。
フィルはテキトーに言っている。
「含まれてるかな」
「うむ。お主もやってみるがよい」
そういって隣に来いとポンポン床を叩かれるのでフィルの隣に横たわる。
「のじゃ」
そして、どうぞとお腹を空け渡される。
トラのお腹の権利は誰にあるんだ。と内心思いつつも別に嫌がるそぶりはない。
むしろころんころんと背中を床に擦りつけ、居心地はよさそうだった。
「じゃあ」
せっかくなので俺もお腹に軽く顔をうずめてみる。
柔らかくてふわふわの感触。これだけ外は暑いのに毛はさらさらしており、干したばかりの布団のような太陽の香りと若干のケモノ臭さが絶妙に調和していた。
確かに悪くない感覚だが、一人の時にやるかといわれたら多分俺はしないだろう。
猫は餌をやったり、たまに喉を擽ってやるのを眺めているくらいのが好きだった。
顔を離してお礼にと少し顔を掻いてあげると「にゃー」と嬉しそうに鳴いてくれた。
「なかなかだな」
「もうよいのか? なら」
とフィルはまたお腹を埋めようとするが、優しい時間は終わりらしい。
たたたっと俺の隣。フィルのいない空間にやってきてすりすりと顔をこすりつけてくる。
そうしてころんとお腹を向けてくる。まさか。
「やっていいのか?」
「にゃん!」
なんと。
猫からGOサインが出た。
そうまでされたらやらないわけにはいかない。
人(猫)からされる親切は受け取る主義だった。
俺はポスリと顔を埋める。
目を瞑って夢想するとまるで太陽の下、ふかふかの毛皮の上でお昼寝をしているような心地だった。
少しだけフィルの気持ちもわかる。
しかし。
「む、むー……」
背後の猫は少しご機嫌斜めだった。
しかし俺は考えた。
前方にいるのはご機嫌な猫(猫)。
後方にいるのはご機嫌斜めな猫(竜)。
この世可愛さにおいて猫の右に出る者はいない。
俺は続行を選択した。
「の、のぅ。メディ。その猫、
「メス」
「にゃにゃー!」
剣呑な雰囲気を背後から感じる。そして。
「メディ!」
少し大きい声で名前を呼ばれたのでお腹から顔を離し後ろを向くと。
そこにはフィルの
「わらわの方がいい匂いなのじゃ!」
えぇ……。
全然意味が分からなかったが、どうやら嗅げといっているらしい。
正直に言う。
嫌だ。
「そんな変態みたいなことをしたくないんだが……」
「これがラストチャンスなのじゃ!」
確かにこんな状況ラストであってほしい。
しかし、どうやらフィルは我がプライドを掛けたといわんばかりの気迫。
こんなことに掛けないでほしいが、ここまで言われてノーというやつは多分いない。
「じゃあ……」
俺は仕方なくフィルの頭頂部。
つむじ左回りだな……とそんなことを思いつつ尋常でなく毛量が多い髪に顔を埋めてみる。
そしてゆっくり匂いを嗅ぐ。
「…………」
……うん。まぁ、うん……。
午前、いっぱい汗かいてたしな……まぁ、うん。
まぁ……うん、くさ……いや、うん……。
いや、決して嫌な臭いがするというわけではない。
たぶん汗自体の匂いはほとんど無臭だろう。
ただ、猫とは別種のケモノ臭さがあるというか。お日様と女の子の汗、謎のケモノと雨の日の匂いをカクテルにしてみましたといった感じだ。
一言でいうと……その一言しかないのだが、それを伝えることは絶対にできない。
「ど、どうじゃ?」
「そ、そうだな……俺は嫌いじゃない。フィルの勝ちだ」
そういうとフィルはころんとこちらに体を転がし「ふふー」と笑った。
「当然なのじゃ!」
この笑顔のためなら俺はどんな嘘だって
ごめんよトラ……。
背後でにゃーとトラが悲しく鳴いていた。
**
フィルが帰ったその日の晩。
いつも通り川辺で汗を流し、着替えをし、布団に横になってなお頭の中ではずっとモヤモヤした気持ちで満たされていた。
布団の中で目を瞑る。
……フィルの頭……絶妙な匂いだったな……。
なんてな。
俺は勝手に浮かんできた妄想を振り払うと目を閉じてやがて眠りに落ちていった。
**
翌週。
その日も朝からフィルと遊んだ帰り際。
夕焼けに染まる金色の髪に滴る汗。そんな姿を見て俺はフィルに尋ねてみた。
「フィル。悪いが少し確認させてもらっていいか?」
「? 何がなのじゃ?」
首を傾げるフィルの背後に回り込み。
「にゃ!」
俺はがしっとフィルの頭を軽く掴んだ。
そして。
「…………!」
「にゃ……にゃ!? お主何を?」
俺はすぐに頭から手を離すとフィルはくるりと振り返る。
その目はびっくりして丸くなっていた。
「なるほど。俺も
「な、何がなのじゃー!」
フィルは頬を染めて怒ってしまった。
その怒りは甘んじて受け入れるしかない。
ただ、
俺は清々しい気分で空を見上げる。
そこには見違えるほど美しい夕空が広がっていた。