言の葉綴り   作:ねるぼう

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これはセイルくんが別の選択をしたルートを2つお送りいたします。


綴リ紡グ恋ハ、忘却ノ中ニ。√α、√β

第九章√α ── この世界に、君だけ

 

(セイル視点)

 

記憶の繭に手を伸ばすことは――しなかった。

正直、怖かった。

思い出したら、何かが変わってしまいそうで。

 

だけど、ひとつだけ確かにわかっていることがある。

 

俺は、今のリゼリアが――好きだ。

 

彼女の微笑みが好きだ。

静かで、優しくて、どこか寂しげなところが。

そして何より、俺を見つめるその目が――誰よりも俺を欲しがっている。

 

「……思い出せないんだ、ごめん」

 

そう告げたとき、リゼリアは一瞬だけ目を伏せた。

けれど、すぐにいつものように微笑んだ。

 

「いいのよ。覚えてなくても。今の君が私を見ていてくれるなら、それだけで……」

 

(ううん、本当は悔しい。思い出してほしかった。けど……“好き”って言ってくれたなら、それでいい)

(記憶じゃなくて、感情で私を選んでくれた……それだけで、もう十分)

 

それから、ふたりの時間は穏やかに過ぎた。

記憶の話は、もう出さなくなった。

あの夢も見なくなった。

気づけば、街も、友人も、家族も――あまり思い出せなくなっていた。

 

「最近、世界が静かすぎる気がする」

「そう? それって、きっといいことよ。余計なものが消えていくって」

 

「……そう、かもな」

 

リゼリアが紅茶を差し出す。

ほんの少しだけ、香りが変わっていた。

 

でも、気にならなかった。

それが“彼女の香り”なら、それでいいと思えた。

 

ある日、ふと気づいた。

 

俺の部屋にあったはずの写真が、一枚も残っていなかった。

スケジュール帳には、予定がなにも書かれていない。

連絡帳には、名前がひとつだけ。

 

――「Lizeria」。

 

「ねえセイル、私たち、もうずっと前からこうしてたよね?」

 

「……ああ。たぶん、そうだったんだろうな」

 

(全部、忘れてる。でも……どうでもいいや。だって、君がいれば)

(ねえリゼリア、この世界に、もう君しかいないのなら――それで、いい)

 

リゼリアが俺の頬に触れる。

 

「大丈夫。君の記憶は、私が全部覚えてるから」

「君は、君のままでいて。私がちゃんと、繋いでおくからね」

 

(もう誰も君に触れられないように。君はもう、“私だけ”のものだから)

 

――そして、世界は静かに閉じていく。

セイルはもう疑問を持たない。誰も思い出さない。

けれどその微笑みは、いつまでも隣にある。

 

 

 

(リゼリア視点)

 

セイルは今、私の隣で笑ってる。

記憶はもう戻らない。

でもそれでいい。

彼の世界に、私だけがいる。

誰も、彼を奪えない。

 

時々、彼は夢を見て泣く。

名前も顔もわからない誰かを、探すように。

 

でも、目が覚めれば、私だけを見る。

私の名前だけを呼ぶ。

 

それが、彼の“本物”になっていく。

やがて、夢すら見なくなる日が来るだろう。

 

(ねえ、愛してる。ずっと、ずっと一緒にいようね)

 

――ふたりの世界に、ほかの誰もいない。

それは永遠に続く、やさしい檻の中。

 

 

 

 

 

第九章√β ── 忘れてしまった優しさ

 

(セイル視点)

 

「思い出してもいい。でも……その先にあるのは、きっと、君の痛みだ」

 

リゼリアの言葉は、優しくて、残酷だった。

 

繭の中に手を入れかけたその瞬間、俺の中に蘇ってきたものは、幸福だけじゃなかった。

怒り、悲しみ、罪悪感、喪失……

そして、彼女の狂気。

 

(こんなに深く想ってくれたのに、俺は……)

 

「リゼリア」

 

「……なに?」

 

彼女が笑おうとしているのがわかった。

けれど、その目が震えていることも――俺は、気づいていた。

 

「……ごめん。俺、君と向き合う資格、ないよ」

 

「そんなの、関係ない。私は君に、そばにいてほしいだけ――」

 

「違うんだ。違うんだよ、リゼリア。君がどれだけ俺を愛してくれたか、痛いほどわかってる。

 でも……俺は、それを受け止めることが、もう怖いんだ」

 

リゼリアの顔から、すっと笑みが消えた。

 

「じゃあ……私を忘れたいの?」

 

「――ああ」

 

その瞬間、風が止まった気がした。

 

「わかったわ」

 

リゼリアはそれだけ言うと、ゆっくりと後ろを向いた。

小さく、小さく震える肩が見えた。

 

「私が君の記憶から消えるだけでいい。それで、君が前を向いて生きていけるなら、それでいい」

 

「……リゼリア」

 

「でも一つだけ、お願い」

 

「……なに?」

 

「君が次に誰かを好きになるとき、その人のことはちゃんと最後まで、忘れないであげて」

 

それは、優しさではなかった。

哀しみでも、怒りでもなかった。

ただただ、絶望の中で絞り出した、最後の願いだった。

 

俺は何も言えずに、ただ彼女の背中を見送った。

 

――そして、リゼリアは姿を消した。

 

俺の記憶から、完全に。

 

 

 

(セイル視点)

 

数年後。

赤い花が咲く季節、俺はその場所に立っていた。

 

どうしてここに来たのかは、思い出せない。

けれど、胸がやけに苦しくなる。

 

花が風に揺れている。

誰かが泣いているような気がする。

でも、それが誰なのか――わからない。

 

「……誰かを、大切にしていた気がする」

 

「でも……思い出せないんだ」

 

俺は今日も、花の咲くこの場所に立つ。

ただ静かに、失った何かを感じながら。

 

(誰だったんだろう。俺の“やさしさ”を、教えてくれた人は)

 

――それでも、どこかで赤い花を見るたびに、胸が締めつけられる。

 

名前を呼べなくなっても、心はまだ、叫んでいた。

 

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