記憶の檻を越えて
第1章:名もなき街で《/xbig》
乾いた風が、石畳をなぞってゆく。
灰色の空の下、クロエはマントのフードを深くかぶったまま、静かに歩を進めていた。
(この街の噂、もし本当なら……)
小さな港町《レメル》。
商業路から外れたこの街に、“名もなき男”が住んでいるという噂を聞いたのは、つい一週間前だった。
「――名前も、過去も持たない。でも不思議と、人を惹きつける目をしてるって」
そんな曖昧な情報だけで動くのは、馬鹿げているかもしれない。
けれど、クロエには確信があった。
胸の奥で疼くものが、彼の気配に応えていた。
五年前、すべてを失った日。
クロエは影と契約し、“影の巫女”となった。代償として、唯一の大切な人を――セイルを、失った。
(でも……生きてる。どこかで。絶対に)
町の人々の視線が、フードの奥を探るように集まる。
クロエはそれを意に介さず、目抜き通りから外れた静かな裏通りへと足を向けた。
そして――角を曲がったその先で、彼女の時間が止まった。
そこにいた。
陽だまりの中で、猫に餌をやっていた青年。淡い栗色の髪。まっすぐな横顔。
「……セイル……?」
声にはならなかった。
けれどその名は、風に紛れて届いてしまいそうで、クロエは慌てて口元を押さえた。
(違う……記憶がない。あの人は、“今の彼”じゃない)
それでも、目が離せなかった。
猫が小さく鳴いた。
手のひらに残ったパンくずを舐め取るその姿に、セイルは微笑みを浮かべた。
「ほら、もうちょっとだけ。我慢して食べなって」
この街に来て、どれくらい経ったのだろう。
名もなければ、帰る場所もない。誰も“セイル”と呼ばない日々。
でも、それでもよかった。
何も思い出さなくて済むのなら。
ただ――時折、夢に出てくる。
白い手。誰かの声。胸が締めつけられる感覚。
(……誰だ、あれは)
立ち上がりかけたそのとき、不意に視線を感じた。
ふと顔を上げると、路地の影に誰かがいた。
黒いフード、銀色の瞳――いや、なぜだろう。もっと深い色に見えた気がした。
(……知ってる? この人……)
でも次の瞬間、彼女は踵を返し、路地の奥へと消えていった。
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
第2章:君の瞳は知らない
――やっぱり、彼だった。
クロエは宿の硬いベッドに腰を下ろし、胸に手を当てて深く息を吐いた。
「どうして、気づかないのよ……」
(あの目で、あの声で……私を見ておいて、思い出さないなんて)
思わず、握った拳に力が入る。けれど、それ以上の感情が込み上げてきて、クロエは そっと目を閉じた。
(でも……生きてた。確かに、そこにいた)
その事実だけで、心が溶けていきそうだった。
五年。たったひとりで、影と共に歩き続けてきた。
その終点に彼がいた。それだけで、今は――
けれど、クロエはまだ自分を名乗ることができない。
あの人は記憶を失っている。過去のすべてを忘れて、別の人生を歩んでいる。
(私が声をかけたら、何かが壊れてしまう気がする)
逢いたかった。でも、まだ逢えない。
「……変な人だったな」
セイルは港沿いの坂道を歩きながら、昼間の記憶を反芻していた。
路地の奥で視線を交わした、あの黒いフードの女。
顔はよく見えなかった。
でも、視線の奥に刺さるような熱があった気がする。
(……まるで、知ってる人を見つけたような目だった)
セイルは何度も夢を見ていた。
白い霧の中、誰かが名前を呼んでいる夢。
その声に、ずっと応えたくて。ずっと――
「……クロエ、って……誰だ?」
自分でも驚くほど自然に、口からその名前がこぼれた。
立ち止まった足元に、黒猫が鳴いた。
その目の色は、あのとき路地の奥から彼を見ていた銀の目に似ていた。
クロエは港の灯台跡で立ち尽くしていた。
今日こそ声をかけると決めていた。
「名前だけでも……伝えて……」
そう呟いたとき、背後から軽い足音が近づく。
「ねえ、君……昨日、僕のこと見てた?」
振り返ると、そこにはセイルがいた。
眩しいほど無垢な瞳で、まっすぐこちらを見つめている。
(その瞳が、私を知らないことが……いちばん、苦しい)
「……別に。気のせいじゃない?」
そう答える声が、震えなかったことが奇跡だった。
第3章:光も影も知らずに
空が赤く染まっていた。
異様な熱気と濁った魔素が街を包み込み、人々が逃げ惑う中――クロエは気配を読み取り、港へと駆け出した。
「……来たわね、“影災”」
黒い霧が地面から立ちのぼり、禍々しい歪みの中から異形の影が姿を現す。
長い腕、爛れた顔――怨嗟を引き裂くような呻き声。
周囲を走る護衛兵たちも、恐怖に声を失っていた。
クロエはひとり、フードを取り払った。
銀の瞳が闇を射抜く。
「……こっちは、五年分の怒りがあるのよ」
影が襲いかかる。
次の瞬間、彼女の足元から影が槍のように突き上がり、異形を貫いた。
「“影縫い”――っ!」
だが、一体倒しただけでは終わらない。周囲に影災が群れをなして現れる。
そのとき、港の倉庫の奥から走り出てきた姿があった。
「クロエ!!」
その声に、クロエの動きが止まった。
セイル――なぜここに?
「危ない、下がって――!」
「違う、俺も……手伝う!」
セイルの瞳が、熱を宿していた。
その瞬間、影災の爪が彼に迫る――
「っ、バカ! 動かないで――!」
クロエが叫ぶより早く、セイルの手が勝手に動いた。
風のような速さ。無意識の防御。
彼の腕が影災の爪をはじき、足が反射で敵の脇に踏み込む。
――影災の胴体を、素手で叩き落とした。
「……あれ?」
自分の動きに、セイル自身が目を見張った。
(まさか……そんなはず……!)
クロエの喉元が凍る。
それは、かつて彼が戦っていたときの“癖”そのもの。
彼の体は、覚えていたのだ。記憶を失っても、想いと共に――。
夜が終わる頃に
街の混乱がようやく収まり、灯台跡の丘に座っていた。
クロエとふたり、並んで。
「……俺、なんであんな動きができたんだろう」
「……知らないわよ」
そっけない返事に、セイルは小さく笑った。
「君って、不思議な人だね。どこか懐かしくて、近づくと胸が痛くて……それでも、離れたくないと思う」
クロエは何も言わなかった。
ただ、そっと目を閉じた。
(ねぇ……それが“愛”って、昔のあなたは言ってたのよ)
第4章:誓いのない約束
「……クロエ」
その名を口にすると、不思議と胸が温かくなる。
ほんの少し前までは、彼女の姿を見ても何も思い出せなかった。けれど今は、言葉にならない何かが、心の奥で波打っている。
「君は……“影の巫女”なんだって、本当?」
そう尋ねたのは、翌日の朝だった。
港の風は冷たく、けれど潮の香りと陽射しの中に、やさしい静けさがあった。
クロエは、しばらく黙っていた。
やがて、風に髪を揺らしながら、小さく答える。
「ええ。そうよ。私は“影”と契約して、この世界にある災いの一部を、封じる役目を背負った」
「……それって、危ないことじゃないの?」
クロエは笑った。皮肉めいた、でも少しだけ寂しい笑顔だった。
「危ないもなにも……もう、引き返せる場所なんて残ってないわ」
その言葉に、セイルは胸を締めつけられた。
「俺……昔、君と会ってた?」
問いの先に、答えはなかった。
クロエはただ、ゆっくりと首を横に振る。
「記憶が戻るまでは、答えないわ。だって……」
言葉が途切れた。
彼女の瞳が、わずかに潤んでいた。
(だって、あの頃のあなたにしか……“あの言葉”は、意味がない)
その夜。
クロエは、町外れの丘にひとり立っていた。見下ろせば、街の明かりがゆらゆらと揺れている。
この丘には、ひとつの祠がある。
昔、ふたりが出会った場所。そう――
――ここで、あなたは言ったの。
「“世界が壊れても、君のことは忘れない”って」
けれど、壊れたのは世界ではなく、あなたの記憶だった。
それでも、私はまだここにいる。
(あの約束を、信じたまま……)
風が吹き抜ける。
その中に、小さな足音が混じっていた。
振り返ると、そこにはセイルがいた。
灯りも持たずに、まっすぐにクロエを探して。
「……やっぱり、ここだったんだ」
「なによ、夜に女の子を追いかける趣味でもあるわけ?」
「……君に、聞きたいことがあるんだ」
セイルは、真剣な眼差しでクロエを見つめた。
「……俺たち、前にここで……何かを約束したこと、ある?」
クロエの心臓が、強く鳴った。
「どうして、そう思うの」
「わからない。でも、この場所に立った瞬間……何かが、胸の奥で響いたんだ。君の名前と、この景色が……なぜか、重なって」
言葉の最後は震えていた。
(もう、隠せない……これ以上、“知らないふり”なんて)
クロエは、ゆっくりとセイルの手を取った。
その手は、あの日と変わらず温かかった。
「あなたが忘れていても、私は全部、覚えてる」
彼女の声は、震えていなかった。
最終章:記憶の檻を越えて
空が裂けていた。
黒い霧が天を覆い、街は再び影災に包まれた。
人々の悲鳴。剣を抜く兵士たち。絶望に染まる空の下、セイルはただ立ち尽くしていた。
その奥に――あの存在がいた。
影災の核、《災主(さいしゅ)》と呼ばれるもの。クロエがずっと追い続けていた、影の源。
「セイル……下がって」
クロエが前に立つ。
影を纏い、指先から闇の糸を操るその姿は、美しくも、どこか儚かった。
「ここから先は、私ひとりで行く」
「……違う、行かせない」
セイルは、ふと口に出した。自分でも気づかないうちに。
「俺は……思い出したんだ。全部じゃない。けど、十分だよ」
胸の奥から溢れ出すように、声が続く。
「君と一緒に笑って、戦って、泣いて……俺は、君を――クロエを、愛してた」
クロエの瞳が大きく揺れる。
(ああ……やっと、あなたの声で、聞けた)
セイルは拳を握りしめた。
何もないただの男だった自分に、今、確かに“力”が戻ってくる。
それは、かつてクロエと交わした契約――魂を重ねる誓いの力。
「一緒に終わらせよう、あの影を。君をひとりにはしない」
「……ほんと、バカね。そんなところだけは、昔から変わらないんだから」
ふたりは並んで立った。
影に、手を重ねて立ち向かう。
その刹那――ふたつの魂が共鳴し、世界が一度だけ、静かに光を放った。
――夜が明けた。
影災は収束し、港町にはようやく穏やかな風が戻った。
クロエは小高い丘の祠に立ち、朝陽に照らされる街を見下ろしていた。
隣には、変わらずセイルがいた。
「ねぇ、覚えてる? あのとき、あなたが言ったこと」
「ん、どのとき?」
「“世界が壊れても、君のことは忘れない”って」
セイルは笑った。ほんの少し照れくさそうに。
「……忘れてたけど、もう二度と忘れないよ」
クロエはそっと目を伏せて、小さく息をついた。
「じゃあ、今度は……世界が終わっても、最後まで一緒にいてくれる?」
「約束する。今度は、誓いじゃなくて……選んで、君の隣にいる」
ふたりの指先がそっと触れ合い、やがて結ばれる。
かつて交わされた契約は、記憶という檻を越え、
“今”という瞬間に――愛として、還ってきた。
どうでしたか!
評価、お気に入り、ここ好き待ってます!!(強欲)