楽しんでいってください~
― 運命の邂逅 ―
初めて彼を見たのは、雨の午後だった。
街の人々が傘の下に駆け込むなか、ひとりだけ、空を見上げていた青年。
「……濡れてるわよ」
声をかけたのは、気まぐれだった。
けれど彼――セイルは、驚いたようにこちらを見て、やがて微笑んだ。
「うん。でも……こうしてると、落ち着くんだ。雨の匂いって、どこか懐かしいから」
その言葉に、クロエは思わず口をつぐんだ。
それは、自分が昔、誰かに言ったことと――まったく同じだった。
(偶然……? でも、この人……どこかで……)
「君は?」
「私は……」
名乗ることが、少しだけ怖かった。
“巫女見習い”なんて、きっと重たくて、関わりたくないって顔をされる――
「……クロエ。クロエって呼んで」
「……うん。クロエ。綺麗な名前だね」
彼は、ただそれだけを言った。何の躊躇いも、偏見もなく。
その瞬間、心が溶ける音がした。
―祈りの火―
それからというもの、ふたりはよく一緒にいた。
市場での買い物。魔法書の貸し借り。丘の祠で交わす、他愛もない会話。
クロエは不器用で、いつもそっけなかったけど、風が吹くたび、寂しそうな横顔を見せた。
「……ねぇ、セイル」
ある日、祠の石段に腰掛けながら、クロエがぽつりと言った。
「もし、私がすべてを失っても……それでも、私のこと……」
言いかけて、言葉を止める。
「……なんでもない」
セイルは黙って、そっと彼女の肩に手を置いた。
「世界が壊れても、君のことは忘れないよ」
そのとき、クロエは初めて――ほんとうに、初めて笑った。
― 誓いの夜 ―
その笑顔を守りたかった。
けれど、それから世界は崩れはじめた。
影災が街を襲い、教会はセイルを“鍵”と呼び、彼をどこかへ連れ去ろうとした。
その夜、クロエは決意した。
「……私が、代わりになる。あの人を巻き込まないために、“影”と契約する」
それが、ふたりの分かれ道だった。
誰にも知られず、ひとりで戦うことを選んだ少女と、
記憶を失い、光の中から追い出された少年。
それでも――ふたりは、ふたたび巡り合った。
愛は、記憶を越えて。
祈りは、影を抜けて。
そして今――未来を結ぶ契約へと変わってゆく。
― クロエとセイルの、ある穏やかな朝 ―
「……ん……もう朝?」
セイルが目を開けると、陽の光がカーテン越しに差し込んでいた。
隣のベッドでは、クロエがうつ伏せに寝返りを打ち、顔の半分を毛布で隠している。
「……起きてるの、バレバレだよ?」
「……寝てるわよ。今すごく寝てるから話しかけないで」
くぐもった声に、セイルはくすっと笑った。
あの壮絶な日々の名残はもうなく、ここにはただ、心地よい空気と微睡みのぬくもりだけがあった。
「ねぇ、今日どこか行く?」
「……めんどくさい。お昼になってから考える」
「クロエがめずらしくぐうたらしてるの、なんか新鮮」
「……たまにはこういうのも、いいでしょ」
クロエはようやく布団から顔を出して、セイルのほうに向き直った。
「一度くらい、なにも起きない日があっても……いいわよね」
「うん。毎日が“なにも起きない日”だったらいい」
ふたりはしばらく黙ったまま、ただ視線を交わしていた。
言葉よりも、今はこの静けさのほうが心地よかった。
かつて世界の影に飲まれかけたふたりが、
いま、ようやく手に入れた――たったひとつの朝。
お昼には、街の市に出かけて、果物を買って、クロエがやけに真剣にジャムを煮て。
セイルは後ろから抱きついて、あっさり叱られるのが日課みたいになる。
そしてたまに、誰にも言わずにあの丘へ出かけて、祠の前で並んで座る。
「今、幸せ?」
「……うん。あなたが隣にいてくれるなら」
それだけでいい。
これにて―記憶の檻を越えて―の物語を締めさせていただきます。
もし「こんな視点も見てみたい」などあればお気軽にお伝えください。
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