人形姫のゼーレ 作:Macht und Glück
プロローグ 木漏れ日
木々の隙間から、まばゆい陽光が降り注ぐ。
鳥の声が響き、風が葉を揺らす音、遠くでかすかに聞こえる水音。あらゆる音が、まるで洗われたように瑞々しく耳に届く。目を開けるよりも先に、そのすべてが私という存在の輪郭を、ゆっくりと形作っていくようだった。
──なぜ、私は外にいるんだろう?
つい先ほどまで、私は確かにあの部屋にいたはずだ。外はうだるような真夏日で、閉じた窓のカーテンが揺れていた。机の上には譜面が広がり、スピーカーからはバッハが流れていた。そう、それは……昨日? 今朝? 感覚としてはほんの数秒前のことなのに、記憶は曖昧で、一体どれほどの時間が流れたのか、皆目見当もつかない。
ゆっくりと目を開ける。
眩しい光に視界が白く染まり、しばらくのあいだ何も見えなかった。けれど、瞳が慣れるにつれて、ぼんやりと世界の輪郭が浮かび上がってくる。木々の葉が重なりあい、その間から差し込む陽光が、霧のように漂う微粒子を照らしていた。緑の匂いが鼻腔をくすぐり、微かに湿った土の感触が背中に伝わってくる。ふと、留学先で観光したシュバルツヴァルトの木漏れ日と森の匂いを思い出した。
──森の中?
ゆっくりと身体を起こす。立ち上がろうと手をついたそのとき、ふと、自分の指先に、強い違和感を覚えた。
それは、あまりにも白かった。病的な白さではない。どこか陶器のような、光を弾く滑らかな肌。指は細く、爪は透けるように薄い。まるで生き物というより、丁寧に作られた人形のようだった。ああ、これはまるで、ビスクドールの質感だ。
この手は、私のものではない。
胸の奥がざわりと揺れる。恐怖とは違う、しかし確かに異常を告げる感覚が、ぞわりと背骨を這い上がってきた。一つおかしいことに気づくと、まるで芋づる式に、自分の状態すべてが異変をきたしていることに気がつく。なぜ、私は裸なのだろう?
起き上がると、地面が不自然なほど近くに感じられた。身体が軽い。重力が変わったかのように、重心がどこにも定まらない。足元の苔は柔らかく、裸足の指先に冷たい露が絡みついている。間違いない。私は今、子供になっている。
息を吸い込む。胸の中に、何かが満ちてくる。
それは空気ではなかった。水でもない。もっと密度のある、熱を帯びた、しかし透明な何か。体内に染み渡っていくそれは、奇妙に心地よく、同時にぞっとするほど馴染んでいた。
──魔力。
そう名づけた瞬間、なぜかすとんと腑に落ちた。根拠は一つもない。ただ、それしか考えられなかった。
空を仰ぐ。
青空の下、白い鳥が群れをなして飛んでいた。その軌跡の背後に、淡く光る尾のようなものが揺れる。最初は陽の加減かと思ったが、しばらく目で追ううちに、それが鳥自身から漏れ出ている光だと気づいた。白く、小さな輝き。
──魂。
心の奥で、誰かがささやいた。
それが「魂」だと理解した瞬間、それ以外の解釈はあり得なくなった。
鳥が飛ぶたびに尾を引き、魂の光は空に溶けていくように揺れていた。美しかった。けれど、その美しさが、恐ろしいほど現実感を欠いていた。
これは夢だろうか。
けれど、夢にしてはあまりにも感覚が鮮明すぎる。
気がつけば、足が勝手に動いていた。何かに導かれるように、森の奥へと進んでいく。高く伸びた木々のあいだを縫うように、小道のような空間が続いていた。
やがて、森が切れた先に、それはあった。
石造りの建物。崩れかけたアーチ、蔦に覆われた扉。古びた小さな館だった。壁は風雨に晒され、所々にひびが走っている。かつて人が暮らしていたのだろう。錆びた斧が薪小屋の側に突き刺さっていた。
恐る恐る扉を開ける。重い音とともに、冷たい空気が流れ出てくる。
中は静かだった。灰色の光が窓から差し込み、埃が舞っている。机、棚、崩れた椅子、そして床に描かれた魔法陣。
魔法陣、という言葉が自然に浮かんだことに、自分でも驚いた。
引き寄せられるように、奥の机へと近づく。引き出しの中に、革の装丁がされた一冊の本が入っていた。日記のようだった。開いてみると、黄ばんだページに、見たことのない文字がびっしりと書かれている。
読めなかった。けれど、どこかで見たことのある形だった。
声に出して、ゆっくりと音をなぞる。
「……In… den… Zeiten…」
口が、喉が、覚えていた。意味はまだ追いつかない。それでも、舌の動きやリズムが懐かしい。
これはドイツ語に似ている。だが、同じではない。所々に見慣れない単語や言い回しがあった。
私は今、どの世界にいるんだろう。過去のヨーロッパ? それとも、魔法が存在する平行世界? これはVRか何かの実験で、人工的な世界にいる?
──ここは、どこなのだろう。
──私は、誰?
私は本当に私なのか? 記憶は断片的だ。7歳の時の七五三の記憶。初めてヴァイオリンを買ってもらった感動。中学の勉強が嫌でゲームと音楽に逃げ込んだこと。家族と温泉に行ったこと。エピソードの多くは覚えているが、なぜか名前も、家族の顔も思い出せなかった。不思議とそのことにゾッとしない私がいる。
ページを閉じる。革の表紙はひどく冷たく、けれど妙に安心感があった。
日記を放置されていたカバンに入れ、館を後にする。
世界はまだ、何も語ってくれない。
けれど、森の外にはきっと、何かがある。
自分が生きる理由も、存在する意味も、この場所で待っているのだろう。
少女──転生者は、ただ一歩を踏み出した。
歩き始めてすぐ、ふと足が止まった。
風が頬を撫でる。その感触に、自分の肌があまりにもむき出しであることに気づく。草の葉先が素肌をかすめ、足元の土が湿っているのも、すべて直に伝わってくる。
服が……ない。
それまで気にも留めていなかった事実に、ようやく思い至った。
それでも羞恥は不思議と感じなかった。森に人の気配はないし、目の前の世界があまりに異質で、そうした感情すら遠いものに思えた。
けれど、寒さや異物感は確かにあった。何より、裸のままで歩き続けることが
服を作らなければ。
そう思った瞬間、心の奥から色と形が湧き上がってきた。
記憶の中の衣装たち――煌びやかな舞台で着た黒のドレス、袖に金刺繍の施されたジャケット、肌触りの良いコットンのワンピース、そしてくつろぎの部屋着。音楽と共に過ごした日々の断片が、まるで絵の具のように混ざり合い、鮮明な感覚として意識に上る。
ゼーレは静かに目を閉じた。
魔力を指先へと流す。それはまるで、楽器を奏でる前のチューニングのようだった。ゆっくりと、けれど確かなリズムを刻む。
体内の熱が、指先へと集中していく。同時に、意識が内側から外へと拡張していくような、奇妙な感覚に襲われた。世界との境界線が曖昧になり、自分がどこまでで、どこからが外なのか、分からなくなる。
けれど、その感覚は不快ではなかった。むしろ、どこか懐かしく、心地よい。まるで、長い旅から帰ってきた魂が、故郷の土を踏みしめるような安堵感。
空気が微かに震え、ざわめいた。
風が舞い、魔力が細い糸のように伸びて、宙を舞う。それは光の粒子であり、同時に意志を持った生き物のようでもあった。無数の細い糸は複雑な軌道を描きながら絡み合い、編まれ、瞬く間に形を成していく。それはまるで、精巧な織機が、目にもとまらぬ速さで織物を紡ぎ出していく過程を見るようだった。
そして、次の瞬間──
彼女の身体は、しっとりとした灰青色の柔らかな布に、優しく包まれていた。
肩から伸びたローブは軽やかに揺れ、腰には細い帯が巻かれている。裾は膝下まで流れるように伸び、足元の動きを邪魔しない。布地は柔らかく、それでいて風をしっかりと遮るように、完璧に設計されている。
それは防寒のためでも、飾りのためでもなかった。
この身体が誰のものかは、まだ分からない。
けれどこの服は、自分の手で作ったものだ。
この世界に来て、最初に形づくった、自分の輪郭だった。
服を纏ったことで、ようやく「私」という存在が、この世界に輪郭を持って現れた気がした。
「………ヴァイオリンも欲しいな」