人形姫のゼーレ 作:Macht und Glück
一羽の鳥が、枝の上から音もなく舞い降りた。
だがそれは鳥ではない。
灰青色の羽、異様に長い脚、鈎爪のような嘴──明らかに魔物の姿だった。大きさは人間の腰ほどもあり、両目には獰猛な光が宿っていた。
獲物を探すように、じりじりと地面を見下ろしながら滑空するその姿は、森の静けさを一瞬にして引き裂くほどの存在感を放っていた。
ゼーレは、木の根元に腰を下ろしていた。朝からほとんど動かず、じっと風の流れと魂の気配を読んでいた。
薄く笑みさえ浮かべながら、指先をわずかに動かす。
「《
囁いた瞬間、空気がひんやりと変質する。肌に感じる温度ではない。もっと根源的な、空間そのものの密度が変わるような感覚。
森の空気が凪いだように静まり、草の音さえ遠くなった気がする。
鳥型の魔物の動きが鈍ったかと思えば、次の瞬間、全身が糸で吊られた人形のようにピタリと止まった。
風に乗って舞い降りるその翼が、途中で空中に固定されたかのように静止する。
ゼーレには、その魂が見えていた。
魔物の身体の内奥、魔力の核に近い場所に、ぽつりと浮かぶ不定形の光──それが魂だった。
濁った白とも銀灰ともつかない色彩で、境界は曖昧、質量はなく、それでも確かに
形は個体によってわずかに異なり、記憶や本能、微細な感情の残滓によって、内部が渦のように揺れていた。
以前は、ただの光としてしか見えなかった。
まるで水の中に差し込んだ月明かりのように、ぼんやりとしたもの。
それが今では、手を伸ばせば届く場所にある
ゼーレは手をかざし、指先をわずかに捻る。
魂の光が、糸のように細い線を何本も引いて、自分の指先に繋がっていく。
それは、まるで人形の操り糸のようだった。
だが、糸は一方的ではない。
魂の感情や記憶が、わずかに逆流してくるのを感じる。
セレフィドゥラーナ──魂に直接干渉し、命令を下す魔法。
一か月前、目覚めたときに直感的に使っていたままではない。幾度も検証とイメージの修正を行ってきた。
恐怖で波立っていれば、それを抑え、怒りが燃えていれば、冷ますように撫でる。
その上で、魔力の結びを利用して、魂を形ごと意志に絡めとる。
使い始めの頃は、このような大きな魔物の魂を捕まえることすらできなかった。ときには強引に魔力を流し込んで、魂の芯を損傷させかけたこともある。魔物の魂は獣に近いぶん、単純で強靭で、時に破裂するように逃れようとする。力加減の探り方は、ひとつひとつの失敗から学んだ。
けれど今は違う。
魂の中心を避け、表層の反応領域だけを撫でるように制御する。
ゼーレはその「加減」を体で覚えていた。
視覚的にも、魂の動きは分かるようになってきた。
動揺すれば波立ち、怒りを持てば赤く滲む。
それを見極めて、操作の強度や方向を微調整する。
今や、魔物程度の魂なら、ほとんど反射で縛れる。
感情の揺れすら予測して先回りできるようになってきた。
ゼーレは歩み寄ると、糸を引き寄せるようにして魔物を倒した。
無言で、慣れた手つきで魔物を制圧し、魂を奪う。
驚きも、躊躇いも、もうない。
セレフィドゥラーナを使う手つきは、すっかり板についていた。
それは、慣れだった。
怖いとは思わない。ただ、自分の中で確実に「当たり前」になっていく感覚が、どこか奇妙だった。
魔物の身体を指先でなぞると、内部の魔力の残滓が視える。
ゼーレはそれを吸い上げるように、自らの中へと取り込んだ。
肌の内側で、かすかに熱が走る。
ようやく、もう走っても咳き込まなくなった。
「……一か月、か」
木の根元に腰を下ろし、魔物の羽根を裂いて血の匂いを嗅ぐ。
獣のような食事。それでも、生きるには必要なことだった。
あの日、村を出てから、ゼーレはずっと森を彷徨っていた。
最初の一週間は、ほとんど動けなかった。
魔力が尽きていた。魔力で構成された身体は、再生すらままならなかった。
火も起こせず、雨を凌ぐだけで精一杯。
腹を満たす術もなく、ただ倒れたまま夜を明かした。
それでも、魔物が一匹、二匹と獲れはじめると、少しずつ指が動き、足が動き、ようやく魔法が十分に使えるようになった。
今日、ようやく走っても痛まないくらいに、体は戻っていた。
服も、帽子も作り直した。シンプルな旅人風の装い。
この世界に溶け込むための、偽りの仮面。
街道の方向、木々の向こうから微かに音が聞こえてきた。
ゼーレは音に気づいて立ち上がる。
数人の旅人が、道を歩いている。
商人風の男と荷車。護衛の傭兵らしき者もいる。
ゼーレは木陰に姿を隠した。見つかって戦いになっても負けるとは考えなかった。ただ、見られるのが、少し億劫だった。
旅人たちはゼーレのほうに目をやることはなかった。
荷車の軋む音と、護衛の靴音だけが近づいてきて、そして通り過ぎていく。
ゼーレは木陰に立ち尽くしたまま、息を潜めてそれを見送る。
気配を抑え、魔力の流れも調整していた。
それでも──胸の奥が、ざらりと軋んだ。
人の集まり。
けれど、そこに自分の居場所はなかった。
かつてなら、笑って声をかけようとしたかもしれない。
けれど、今はもう──声の出し方さえ、少し忘れてしまっていた。
ゼーレは森の奥へと歩いた。
喋らなくなって、三週間は経つ。
──あの日のことを、まだ忘れていない。
森を抜けた先、小さな宿場町の外れ。
街道脇に腰かけていた老婆が、ゼーレを見て微笑んだ。
まだ服も整えていなかったあの頃。ボロボロの姿で、魔力の流れも乱れていたに違いない。
「……すいません…助けてくれませんか?」
ゼーレは、その一言だけを声に出した。
誰かと話すのは、あれが最初で最後だった。
老婆は一瞬、微笑んだまま固まり、それからわずかに眉をしかめた。
その目が、ゼーレの額へと向けられる。
「……化け物」
それは、小さな声だった。
けれど、近くにいた男たちはすぐに動いた。
斧を手にした農夫が、ゼーレへと踏み込んできた。
ゼーレは即座に飛び退き、咄嗟に風のような魔力で土埃を舞い上げ、視線を攪乱した。
斧は地面を割り、叫び声が木霊した。
──なぜ、私は殺されそうになった?
問いは浮かび、けれどすぐに消えた。
魔族。
この世界の人々にとって、それは討つべき存在。
葬送のフリーレンで見た通りの──否、それ以上に確固たる“敵”だった。
ここが葬送のフリーレン世界かはわからない。しかし、いわゆる人類としての魔族ではない。そう確信した。あの村の人たちの反応が普通なのだと。
その日を境に、ゼーレは誰とも話していない。
夜。
月は満ちており、雲ひとつない夜空の下、森の中は青白く照らされていた。
焚き火の炎が木の根元に影を踊らせる。
ゼーレは一人、木の切り株に腰掛けていた。
周囲は静かだった。虫の声すら遠ざかり、夜鳥の影も見えない。
火の粉が静かに舞い上がり、空へと消えていく。
ゼーレはそっと、帽子に指をかけ、ゆっくりと外した。
癖のある髪が夜風に揺れ、額に触れる。
指先で、自分の角をなぞる。冷たく、硬く、しかし自分の一部であることに、今は何の違和感もない。
月光がそれを白く照らし出した。
角の先端に、焚き火の赤がちらついて映る。
二本の角は、月明かりの中にそっと晒された。美しい月明かりの下では、角を隠すという発想は今のゼーレには生まれてこなかった。
誰も見ていない。
誰もいない。
けれど──それでも彼女は、静かに目を閉じた。
焚き火のぱちぱちという音が、世界にひとつだけ残っていた。
Die Seele wird wiedergeboren. Als Dämonin.