人形姫のゼーレ 作:Macht und Glück
プロローグ 雪解け
森に春が近づいていた。
まだ雪は深く積もっている。だが、朝の冷気を縫って、どこか水の匂いがした。それは季節の微かな兆し。風に混じる湿り気、木の根元で眠りから目覚めた雫たち。誰も気づかぬような変化が、今日この森を満たしている。
待ちわびた春が来る。遠くで微かに鳥の鳴く声が聞こえる。それもまた、冬を越えた命の証だった。
北側諸国の外れ、エルンスト地方の森を越えてさらに奥深く──その辺境の地に、ゼーレの小屋はあった。周囲を取り囲むのは、針葉樹と落葉広葉樹がまばらに混ざる静かな森。主にトウヒやシラカバ、所々に朽ちかけたカシの老木も混じっている。雪の下ではイノシシや兎の足跡が交差し、低木の影には小鳥の巣もある。
だが、それらより一歩奥──人の目に届かぬ場所には、魔物の気配が残っている。夜ごと咆哮が木霊することもあったが、この二十年は徐々に減っていた。ゼーレの存在が森に沈み込み、気配を鎮め、ある種の聖域のような静寂を保っていたのだ。
そして、そんな静寂はいつも決まった時間に破られる。
ヴァイオリンの音が、雪解けの静寂に溶けていく。彼女の編み上げた魔法《ヴァイオリンを作る魔法》によって数年前に完成してより、毎朝続けられていた。それは儀式のように、名残を告げる旋律。高くも低くもなく、森の音に寄り添うような調べだった。
音を奏でているのは、一人の女。白磁のような肌に、金糸の髪を結い上げた細身の姿。魔族であることを隠すための変化ではない。今はただ、あるがままの自分として弾いていた。演奏の途中で風が吹いた。木々が揺れ、枝から霧のように粉雪が舞う。光が差し込む。粒子となった光が、彼女の頬を淡く照らした。
「……こんな音だったかしら」
ゼーレは誰に聞かせるでもなく、呟くように言った。一人暮らしというのは、奇妙なものだ。二十年もすれば、心の中だけで完結していた言葉が、少しずつ声になる。独り言は年々増えてしまっていた。
「春の匂い。……何回目の春だったかな」
彼女はそう言って、弓を下ろした。
彼女はこの小屋で、二十年を過ごした。人里から遠く離れた北部高原の深い森。誰も来ない、誰も尋ねてこない。魔族である自分には、都合のよすぎる孤独の地だった。
小屋は、かつての旅の途中で見つけた古い狩猟小屋の跡地をもとに、自らの手で再建したものだった。湿気と寒さに強い黒松と赤杉の材を使い、壁は厚く、屋根には乾いた草と土を敷いて断熱した。外観は苔むし、枝を張った木々に半ば隠れている。遠目には朽ちた岩に見えるほど周囲に溶け込み、注意深く探さなければ見つからない。
そんな小屋を拠点に狩猟採集生活を続けていた。
魔法のある暮らしは思っていたよりも簡単だった。Harry Potterで学んだからだろうか、簡単に物を浮かせる魔法や火を起こす魔法、水を生み出す魔法も想像することができた。毎日森を探索したり、試行錯誤しながら瞑想し、魔法の力を向上させようと努力したりするのは悪くはなかった。人との交流も、あんなことがあっては進んで関わろうとは思えなかった。
けれど、そんな日々を続けて二十年も経てば思ってしまう。つまらない、と。前世、友人間で話題になっていたとあって見始めた葬送のフリーレン。彼女のように、旅がしたくなった。彼女はエルフ、私は魔族。違いはあれど、同じ長命種のはずだ。
彼女のようなエルフに姿を変える魔法を作るのはどうだろうか。きっと魔族の姿のまま旅に出るよりはずっといい。
一人で過ごす時間が長すぎると、過去が顔を出す。閉じ込めていたはずの記憶が、雪の下の草のように、音もなく芽を出す。
「……気配も、音も、全部、静かすぎる。だからかしら」
やっぱり、旅に出よう。そう思った。
姿を変える魔法は思ったよりも簡単に完成した。三日間集中し、川辺に映る自分の顔を見ながらイメージを調整した。Galadriel様を幼くしたような顔だ。実際に体の形を変えているわけではなく、CGのような幻覚を体表で発生させているだけなので、角に触られないように気を付ける必要がある。
魔法も完成したため、旅に出よう置き去りにするものをもう一度だけ見たい。そう思い小屋の扉を開ける。
小屋の中には、様々なものが静かに並んでいた。乾いた香草、欠けたカップ、磨り減った魔導書。そして、あの館に置いてあった誰かの日記。それだけが、人としての自分を思い出させる。
ゼーレはそれらを見つめながら、深く息を吐いた。呼気が白く、小屋の隙間から漏れ出てゆく。まるで、それが未練の形のようだった。
「これも……いつか、誰かの目に留まるかしら」「それとも、森に飲まれて終わるだけ?」
彼女はローブを羽織り、フードをかぶる。装いは簡素だが、裾と袖には細かな刺繍がある。魂を模した線、記憶の色。以前一度だけ馬車が魔物に襲われた跡を見つけ、そこから様々なものを拝借した。布や糸もそれらのうちの一つだ。縫い針もあったのは幸運としか言えなかった。
扉を開くと、光が流れ込んできた。それは雪と空のあいだに生まれた、まばゆい朝だった。足を踏み出すと、雪がきしりと鳴った。それが音楽の終わりを告げるようで、ゼーレは少しだけ目を閉じた。
「……行こう」
誰に言うでもなく、けれど確かにそれは再出発の言葉だった。小屋に鍵はかけなかった。戻る気がないのではなく、帰る理由があるかどうか、まだわからなかったから。
雪解けの音とヴァイオリンの残響が、森の奥で重なり合い、ゼーレの背を押すようにして遠ざかっていった。
Kreisler, Fritz. Liebesleid
登場させてほしい原作キャラを教えてください。参考にさせて頂きます。
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