人形姫のゼーレ 作:Macht und Glück
「あなた、名前は? 私はミリアルデ。エルフのミリアルデだよ」
眠たげな半眼で見つめられると、こちらまで眠気に誘われるような心地がする。
ミリアルデという名前は聞いたことがあるような気がしたが、それがどこで、いつだったのか、ゼーレの記憶には引っかからなかった。いや、数字だったか。Millionみたいな……。
「わ、私はゼーレ。あなたと同じ……エルフよ」
「……そうだね。わかってるよ。じゃ、挨拶もしたし行こっか」
ミリアルデと名乗った銀髪のエルフが、ふわりと歩き出す。
なんてことのない会話だった。けれど、そのたった数言のやりとりだけでも、ゼーレの胸には微かな喜びが湧き上がってくるのを感じていた。二十年ぶりの、他者との温かい言葉の応酬だった。
ヴァイセンの町を歩くのは、思っていたよりも神経を使うことだった。
人の声、笑い声、怒鳴り声。荷車の軋む音や、商人の値段を叫ぶ声。パン屋から漂う焼きたての匂いに、洗濯物が翻る風の気配。すべてが音と匂いと光で、感覚の弱いゼーレに洪水のように押し寄せてくる。ゼーレはその波の中を、ミリアルデに導かれるように歩いていた。
「……あなた、ちょっと猫背」
唐突に言われて振り向くと、ミリアルデが眠たげな顔のまま肩を指でつついてきた。
「緊張しすぎ。もっと肩の力、抜いたら?」
「……気をつける」
ゼーレは微かに口元を引きつらせた。
人間の町で、堂々と肩を並べて歩くエルフ。しかもこの町ではほとんど知られていないらしく、誰も特別な視線を向けてこない。もちろん、エルフが二人並んでいるだけで珍しいので、視線自体は感じていた。しかし、それは魔族に対する警戒の視線とは異なり、純粋な好奇心に満ちたものだった。
市場を通り抜けると、焼き菓子の香りや木の樽を転がす音が混じり合う。露店で売られている薬草や布地、果物の彩りに、ゼーレは視線を奪われた。だが何よりも気になるのは、やはり人々の魂だった。
視界に映るすべての人間が、異なる輝きとリズムで存在している。魂のひとつひとつが音を奏で、色を放ち、独自のテンポで震えている。老人の魂はゆっくりと鈍い銀色に明滅し、若者は煌めくように早い鼓動で輝いていた。
(魂って……まるで楽団の演奏みたい)
広場に入ると、噴水のそばで遊ぶ子どもたちの魂が目に入った。
──白く、輝くような、まだ音階を持たない旋律。
隣を歩いていたミリアルデが、ふと足を止めた。
「……君には、何が見えているのかな?」
ゼーレは息を飲んだ。ミリアルデの声には探るような響きがなかった。ただ純粋な好奇心、あるいは退屈しのぎ。二十年間、誰にも語ることのなかった秘密を、あっさりと見抜かれたような気がした。
ゼーレはしばらく黙ってから答えた。
「……色と、響き。人それぞれの、旋律みたいなものが……ただ、視えて、響いてくるの。言葉じゃなくて、楽譜でもなくて……その人の心の楽器が奏でてるような」
「ふーん。面白い表現ね」
ミリアルデは、楽しそうに笑った。まるで友人が趣味の話を聞いたかのような、気負いのない反応だった。
「ねえ、あのパン屋の娘は? あの子の旋律、どんな感じ?」
ゼーレは視線をそっと向けた。
「……軽やかで、でも芯がある。アルトの中に響くヴィオラのような……そんな感じ」
「へぇ。言ってることはあんまりわからないけど、なんとなく伝わるのが不思議」
そのままミリアルデは、「お腹すいた」と呟いて、近くの酒場へ向かい始めた。
「入ろうよ。案内したんだから、ごはんくらい付き合って?」
ゼーレは断る間もなく腕を引っ張られ、木製の看板が軋む小さな酒場に入る。
中は思ったより静かで、常連らしき客が数人。厨房からは肉の焼ける匂いと、甘い麦酒の香りが漂っていた。木製のテーブルと椅子が並び、壁には古びた楽器や動物の角が飾られている。窓際には干し草の詰まった籠が積まれ、空気に少し埃っぽい暖かさが漂っていた。
二人は隅の席に座る。ミリアルデはあまり迷わず、料理と飲み物を注文した。ゼーレは、何を頼んでいいのか迷ったまま、うなずくだけで済ませる。
料理が運ばれてくるまでの間、ミリアルデはじっとゼーレの背中を見ていた。
「それ、ヴァイオリンでしょ。ずっと背負ってるよね。見せて?」
「……別に珍しいものじゃないわ」
「いいから、見せて。……弾いてよ。ここで」
「ここで……?」
「ダメ?」
ゼーレは少し迷ってから、静かにヴァイオリンケースを開けた。丁寧に収められた楽器の、使い込まれた木の艶が、酒場の薄明かりに鈍く光る。それは、数年前に彼女自身が《ヴァイオリンを作る魔法》によって作り上げたものだ。わずかな手作り感は、完璧な既製品にはない温かみを宿している。酒場に漂う古木の香りに、微かに松脂の甘い匂いが混じった。
指先でそっと弦を撫で、弓を取り出す。長年の使用で馴染んだ感触を確かめるように、しなやかに弓を張り、軽く弦を弾いて音程を確かめた。小さく響く「ラ」の音が、場の空気に溶け込んでいく。顎を優しくあて、楽器と一体になるように身体を寄せる。
ざわざわとした喧騒の中、澄み渡るような最初のG線が、酒場の空気を切り裂くように響き渡った。その一音は、まるで柔らかな水の波紋が広がるように、騒がしかった人々のざわめきを、潮が引くように遠ざけていく。揺れていた魂が、深い湖の底へ沈むように落ち着いていく。
ある者はグラスを持つ手を止め、そっと目を閉じた。彼らの心から、波紋のような穏やかな色がじんわりと広がっていくのが見て取れるようだった。厨房のジューッという音が止まり、振り返った店主が、思わずといった風に目を細める。酒場の空気は一瞬で清められ、まるで別世界に迷い込んだかのような、非日常の静寂に包まれた。
ゼーレの指は、迷いなく繊細に、しかし確実に弦の上を滑る。それはまるで、彼女自身の身体の一部であるかのようにしっくりと手に馴染み、木と魂が一体となって響き合う。たおやかな旋律が、ゆったりと宙を舞い、高音部では天を仰ぐような清らかな響きを、低音部では魂の奥底に語りかけるような深みを湛えていた。この楽器は、彼女の孤独な二十年間を共に歩み、その澱のような感情を吸い込んできた。だからこそ、その音には、彼女にしか紡ぎ出せない真実の響きが宿っている。酒場にいた人々の張り詰めた表情から、知らず知らずのうちに緊張や疲れをそっと溶かしていくようだった。
ミリアルデは、まぶたを少し下げてその様子を眺めながらぽつりと言った。
「……やっぱり、ちょっと変な子」
ゼーレは答えず、次の一音を弾いた。演奏は言葉よりも雄弁で、彼女自身の澱のようなものが、音に乗せて少しずつ昇華されていく感覚があった。この自作のヴァイオリンは、彼女の魂の共鳴器だった。その旋律はこの曲の普遍的な美しさの中に、ゼーレ自身の繊細な感性と、拭い去れない郷愁の影を宿している。
曲が終わると、場に沈黙が流れた。けれど間もなく、ぽつりぽつりと拍手が起き、それはやがて明確な歓声とともに広がっていった。
「もう一曲!」
「綺麗な音だ……」
数人の客が銅貨や銀貨をテーブルに置き、口々にゼーレを称えた。温かい言葉のシャワーが、二十年の空白を埋めるように降り注ぐ。その反応に彼女は戸惑い、思わず視線を伏せた。
「ね、おひねりってやつ。受け取っときなよ」
ミリアルデが冗談めかして囁く。
「……ありがとう」
ゼーレは小さく頭を下げた。人々の魂が、まるで解凍されていくかのように少しずつ和らいでいく。音楽を通して触れたその確かな変化に、彼女は静かな満足を覚えていた。
食事がひと段落すると、ミリアルデは立ち上がって言った。
「せっかくだし、町を見てまわろうか。夜になる前にね」
外に出ると、ヴァイセンの町は夕暮れの光に染まり始めていた。石畳に影が長く落ち、空にはうっすらと星が浮かび始めている。通りの軒先ではランタンに火がともりはじめ、通行人の姿がまばらになっていく。
ミリアルデに導かれるように、ゼーレは町のいくつかの場所を訪れた。
古い教会では、扉の隙間から祈りの声が漏れていた。祭壇の前で膝をついて祈る女性の魂は、静かで、揺るがない深い青の光を放っていた。ゼーレはその色合いを前に、言いようのない安堵を感じていた。
古書店では埃の匂いが鼻をくすぐり、外に積まれた古書の背表紙をミリアルデが無言で撫でていた。
「こういうの、昔は集めてたの。意味があると思ってたのよ。今は集める必要もなくなった」
彼女の言葉にはどこか投げやりな響きがあったが、それでも指先は丁寧だった。
石畳の広場では、若者たちが木刀を使って模擬戦をしており、その魂は熱く、まっすぐに燃えていた。ゼーレはその力強さに目を細める。音楽と同じ、魂の震えがそこにあった。
町の外れの井戸では、子どもが鼻歌を歌っていた。それに応えるように、母親の魂がゆったりとした音で揺れていた。ゼーレはその魂のやりとりを眺めながら、少しだけ足を止めた。
「ここ、いい町ね」
ゼーレが口にすると、ミリアルデは気のないように肩をすくめて返す。
「地味だけど、そう悪くないわよ。飽きるのがちょっと早いけど」
ふたりはそのまま、町の外れにある石橋を渡り、風が吹き抜ける小高い丘へと向かった。頂には、素朴な石造りの祠がひっそりと建ち、その周囲には風化した木札や小さな布片が結びつけられていた。遠くの山々が見渡せるその場所は、清々しい静けさに満ちていた。
「ここも好き。風が気持ちいいから」
ミリアルデは祠の前に立ち、小さな花を一輪、供え物の台に置いた。
やがて日が沈み、夜の帳が町を包み込んでいった。二人は宿へ向かった。石造りの宿屋の窓からは暖かな光が漏れていた。扉を開けると、中ではいくつかの家族が団欒を囲んでいた。
「今夜はここ。疲れたでしょ」
受付で部屋を二つとると、ミリアルデは鍵の一つをゼーレに手渡した。
「寝る前にまた、少しだけ弾いてくれたら嬉しいな」
「……気が向いたら」
ゼーレは微笑んだ。部屋に入って背負ったヴァイオリンを外すと、ほんの少し肩の力が抜けた。
約束通りに部屋に上がると、音量控えめに簡単な曲を弾いた。
思いのほかミリアルデは喜んでくれて、ゼーレも顔をほころばせた。
そうして、寝る時間となり部屋に戻る。
小さな窓の外には星がいくつか浮かび、風の音が屋根を撫でていた。町の魂の音が、今も胸の奥に残っている。
どこかでまた、誰かの魂の音に触れる日を思いながら、ゼーレはゆっくりと灯りを消した。
Massenet, Jules Emile Frédéric. Méditation (Thaïs)
登場させてほしい原作キャラを教えてください。参考にさせて頂きます。
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