人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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第四話 蜃気楼を出す魔法

 朝の陽光が宿の窓を淡く照らす頃、ゼーレはすでに目を覚ましていた。前夜の静けさがまだ部屋の隅に残っているような空気のなか、彼女はそっと体を起こす。

 

 魔族としての本能が目覚めてからというもの、眠りは浅く、意識のどこかが常に外界の気配を探っている。それは、眠りについた後も続く微細な警戒であり、深い安眠とは程遠いものだった。しかし、それを苦にすることはなかった。ゼーレは顔を洗い、身支度を整えると、いつものようにヴァイオリンの状態を軽く確かめる。毛布に包まれた静かな時間のなかに、音楽家としての過去が染み込んでいるようだった。

 

 変装の確認。髪の整え。外套の下に魔力の揺らぎを隠す工夫。これらは日常の儀式になって久しい。もはや呼吸をするのと同じくらい、無意識に行われる動作だった。

 

「……今日も、エルフとして生きる日」

 

 ゼーレは小さく呟き、深呼吸した。肺いっぱいに吸い込んだヴァイセンの朝の空気は、森のそれとは違い、かすかな人々の気配を含んでいた。

 

 階下へ降りると、まだ客はまばらで、静かな朝の時間が流れていた。パンの焼ける香りと、スープの湯気が食堂に漂うなか、すでに席についていたミリアルデが、気だるげに手を振る。

 

「今日は暇だし、魔法でも教えてあげようか」

 

 パンを片手に、ミリアルデが唐突に切り出す。その半分眠っているような声に、ゼーレは一瞬動きを止めた。まるで、昨日の出会いが夢だったかのような、現実感のない申し出だった。

 

「……わたしに?」

 

「他に誰がいるのよ。昨日の君の様子、見ててちょっと気になったから」

 

 冗談めいた口調だが、その瞳の奥の視線は意外に真剣だった。ゼーレは驚きながらも頷いた。彼女は、この不可解なエルフが自分に何を教えようとしているのか、皆目見当がつかなかった。

 

 郊外の草地──ヴァイセンの外れ、かつて畑だったらしい場所に二人は立っていた。春の風が草を揺らし、空の端が柔らかな光で染まりつつある。鳥のさえずりが遠くで聞こえ、新しい一日が始まったことを告げているようだった。

 

「まず、魔力の扱いから。瞑想はやったことあるかしら?」

 

「……一応は。でも、ちゃんと習ったことはなくて」

 

「その()()()()()が厄介なのよ」ミリアルデの声に、僅かな苛立ちのようなものが混じった。

 

 ミリアルデは地面に膝をつき、背筋を伸ばして座るように指示する。ゼーレもそれに従い、姿勢を正した。柔らかな草の感触が、素足の裏から伝わってくる。

 

「魔力っていうのは心拍と同じ。不安定だとすぐ外に影響が出る。君は十分にできているように見えるけど、改めて魔力の操作を意識しよう」

 

 ミリアルデは目を閉じ、体外に纏っていた魔力を体内に収めていく。魔力は少しも漏れていないように見えた。

 

「あ、逆に分かりづらいかな。ちょっと待って……」

 

 ミリアルデの魔力が僅かに漏れ出てきた。するとそれはミリアルデの血の流れのように全身を流動し、よどみなく動く様子が見て取れた。

 

「はい、こんな感じね。じゃ、真似してみて」

「やってみる。けど……その、何か、コツとか……」

「んー、まあ、慣れ? 魔法見習いの時とか、私がほんの子供の時だし、もう何千年前って感じだからわからないなあ」

「……そっか」

 

 短くそう呟き、ゼーレは再び姿勢を正し、魔力に集中し直した。

 

 息を吐き、少しずつ感覚を取り戻すと、改めて集中を始めた。

 

「呼吸が浅い。深く深く息を吸って、自分の魔力の源を意識する。そうして、体の中の魔力を動かしていく。流れを作ってあげなさい」

 

 数度の試行錯誤の末、ようやく魔力の流れが穏やかに整い始める。額から汗が落ち、背中にかいた熱が風に撫でられて冷えていく。

 

「……ふう。これだけで、もう疲れたわ」

 

「基礎が一番きついの。でも、一番大事」

 ミリアルデの言葉には、長い時を生きてきた者だけが持つ、重みと説得力があった。

 

 しかしそうすると、一つの疑問が浮かぶ。

 

「ねえ、ミリアルデってこういう魔力の鍛錬って、それこそ何千年もやってたんだよね。魔力ってどれくらい大きいの?」

「……あ、見たいの? いいよ、見せてあげる」

 

 そうしてミリアルデが自身の魔力を展開すると、周囲の空気が静かに、しかし確かに押し返された。

 

 その瞬間、視界が魔力に覆いつくされる。ゼーレの内にひそむ魔族としての本能が悲鳴を上げて反応する。肌の下を走る感覚が膨大な魔力を前にして、無言の、根源的な恐怖を発していた。喉の奥が凍りつき、立っていられなくなるほどの圧力が全身を襲う。膝がわずかに震え、無意識のうちに拳を握り締めていた。全身の筋肉が、逃げ出す準備をしているかのように硬直する。

 

(……これは、抗えない。危険だ)

 

 理屈ではなく、体がそう告げていた。目の前にいるのは、ただの老成したエルフではない。積み重ねられた歳月と研鑽が、ゼーレ自身の魔族としての本能さえも揺さぶる、圧倒的な何かを宿していた。

 

 ゼーレはその圧に耐えるようにして背筋を正し、集中を乱さないよう必死に呼吸を整えた。必死に逃げようとする足を押さえつける。

 

 それを見ていたミリアルデは、肩をすくめるようにして小さく呟いた。

 

「……あらら、怯えちゃった。まあ、仕方ないか。慣れてないんだもんね」

 

 その口調に怒気や蔑みはなく、むしろ子どもが犬に吠えられて逃げたのを見たときのような、半ば微笑ましいような響きがあった。しかし、ゼーレにはその余裕が、自身との圧倒的な実力差を際立たせるように感じられた。

 

 ミリアルデの魔力によって草が一方向へなだれ、風が一瞬止まる。

 

 ゼーレは心の中で”落ち着きなさい! ”と叫ぶが、思うように魔力が定まらない。恐怖の余韻がまだ体内に根強く残っており、魔力の流れが内側で反響してはね返ってくるようだった。ゼーレの息は浅く、吸い込んだ空気が肺の奥まで届かず、喉の奥がつまるような感覚に襲われる。手のひらからはじんわりと汗がにじみ、頭の芯が熱を持つようにぼんやりしていく。

 

(わたし……何をしてるの? こんな状態で、どうして旅に出ようと思ったの?)

 

 集中しようとすればするほど、恐怖が意識を塗りつぶす。ミリアルデの魔力を感じたときの、あの底なしの圧力と、自分では抗えない存在に触れたという感覚が、再び体内を冷たく支配していた。

 

「……駄目。力が……逃げていく」

 

 声に出した瞬間、自分の無力さが言葉となって突き刺さった気がして、ゼーレは思わず目を伏せた。目頭が熱くなるのを感じる。

 

 見かねたミリアルデが、ふう、と軽く息をついた。次の瞬間、それまで張り詰めていた魔力の圧がまるで波が引くようにふっと消える。空気が緩み、草の葉が揺れる音が戻ってきた。重く垂れ込めていた白い魔力が解け、代わりに春の陽射しのような穏やかさが辺りを包む。

 

 その直後、ミリアルデは無言でゼーレの背後にまわり、軽く肩と背中に手を添える。細く長い指が、ゼーレの肩甲骨の間をゆっくり撫でるようにして、呼吸を誘導するような力加減で動いた。

 

「大丈夫、もう抑えた。ゆっくりでいいから、深呼吸して」

 

 その声は、驚くほど優しかった。年長者が怯えた子どもを落ち着かせるような、静かで温度のある声音だった。あるいは、愛玩対象への慈悲。長年失っていた、他者からの温かい感情が、乾いた心に染み渡るようだった。

 

 ゼーレは目を閉じ、ゆっくりと何度か息を吐いた。次第に胸の内のざわめきが落ち着き、魔力の気配もわずかに安定してくる。

 

「落ち着いたかな。ごめんね、そんなにびっくりされるとは思わなかった。ゼーレって見た感じ若いし、つい張り切っちゃった」

 

 そういうミリアルデは、声色とは裏腹に無表情だった。

 

 ゼーレは、その言葉と、背中に残るミリアルデの手の温もりに、言いようのない安堵を覚えた。恐怖で凝り固まっていた体が、ようやく解き放たれる。目を開けると、先ほどまでミリアルデの魔力に歪められていた周囲の景色が、まるで水彩画のように、再び柔らかな春の光に満ちていた。風が草をそよがせ、鳥のさえずりが耳に心地よく響く。世界は、先ほどまでの圧倒的な圧力から解放され、元の穏やかな姿を取り戻していた。

 

 ミリアルデの瞳は、相変わらず感情を読み取らせない無表情だが、その言葉に嘘偽りはないように感じられた。魔族の本能が、彼女の言葉の裏に隠された害意を探す。しかし、そこに害意はなかった。ただ、経験豊富な魔法使いが、未熟な弟子を気遣うような、純粋な配慮だけがあった。その事実が、ゼーレの心をさらに揺さぶった。長らく失っていた()()()()()のような感情に触れ、彼女の乾いた心が、じわりと潤んでいくのを感じた。

 

 

 

「さて」

 

 ミリアルデは地面に小さな円を描くと、指先で空気を軽く押した。

 

「次。簡単な実戦訓練をしよう。『蜃気楼を出す魔法』」

 

 彼女が魔法名を唱えると、二人の間の空間が揺れた。空気が水のようにたわみ、背後の木々がゆらいで見える。

 

「これ、視覚を歪ませる魔法。空気に干渉して、その先の景色を歪ませて、自分の存在をあいまいにする。結界魔法に近い魔法だけど、邪道だね」

「たとえば、後ろから魔物が追ってきた時、相手の目の前に上下反転した景色を見せる。ここまで魔法をいじると、もはや蜃気楼とは言えないけどね。あるいは、単純に自分があたかも遠くにいるように見せかけて、相手の足止めをする。時間を稼ぐための、悪あがきみたいなもの」

 

「できるかどうか、わからないけど……やってみる」

 

「うん。理論とイメージ、それが魔法の骨格。たとえばこの魔法なら、光がどう屈折するかを理解して、空気の密度差を思い描く。そして自分の魔力をその構造に流し込む。魔法名はそれに焦点を合わせるだけ」

 

 ゼーレは深呼吸し、視界に漂う空気の重さと感触を確かめながら、言葉を紡ぐ。

 

「……蜃気楼を出す魔法」

 

 わずかに空気が反応した。だがまだ足りない。ゼーレは再び集中する。

 

「魔力が逃げてる。輪郭をつかんで、ゆっくり放して。しっかりイメージするの。私が出した蜃気楼を」

 

 もう一度。

 

「蜃気楼を出す魔法」

 

 今度は、確かに空間にわずかな揺らぎが生まれた。熱のような、波紋のような、視界の端が一瞬きらめいた。

 

「……今の、見えた?」

 

「見えた。ちょっとだけ。でも、初日にしては上出来」

 

 ミリアルデは肩をすくめた。

 

 少し休憩しようと、草の上に腰を下ろしたゼーレに、ミリアルデが続けた。

 

「そういえば、こういうのもあるわよ」

 

 彼女が軽く指を鳴らすと、周囲の風景がぐにゃりと歪んだ。地面が空になり、世界が反転したような錯覚。すぐ元に戻る。

 

「……今のは?」

 

「蜃気楼を出す魔法の応用。意味はない。ただ驚かせたかっただけ」

 

 ゼーレは苦笑しつつも、そこに含まれた高度な魔力操作を感じ取っていた。

 

「もう少し魔法を楽しんだ方がいい。エルフには探求するものが必要なんだから。君にはもうヴァイオリンがあるのかもしれないけどね」

 

「……そういうもの?」

 

「そういうものよ。ちなみに私は君の演奏聞いて、あ、練習嫌いそうって思った」

 

「えっ……」

 

「図星?」

 

 ゼーレは思わず笑った。「否定は……しない。でもちゃんと毎日弾いてるよ」

 

 

 

 夕暮れ、町へ戻る道すがら、ゼーレはふと問いかけた。

 

「あなたはどうして、そんなに魔法が上手なの?」

 

 ミリアルデは空を見上げ、どこか遠くを見つめる。

 

「長く生きてると、身につくのよ。でも、それが楽しいかどうかは別問題」

 

 ゼーレはその言葉の余韻に、小さく頷いた。夕陽が二人の影を長く引いていた。

 

 

登場させてほしい原作キャラを教えてください。参考にさせて頂きます。

  • ヒンメル
  • アイゼン
  • ハイター
  • フリーレン
  • クラフト
  • ゼーリエ
  • レルネン
  • デンケン
  • 南の勇者
  • シュラハト
  • アウラ
  • マハト
  • グラオザーム
  • リヴァーレ
  • クヴァール
  • ソリテール
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