人形姫のゼーレ 作:Macht und Glück
森の中を、私は歩いていた。
森はどこまでも深く、緑の匂いに満ちていた。空には雲ひとつなく、木漏れ日がまだ幼い肌に温もりを落とす。草を踏むたびに、小さな虫が舞い上がり、花の蜜を吸う音すら聞こえそうだった。
私の手には、まだ革のカバンが握られていた。日記は重くない。何かの「鍵」のような気がして、持ち歩かずにはいられなかった。
深い緑の茂みは、微動だにせず息を潜めているようだった。ある時、風の音さえも止み、森全体が張り詰めた静寂に包まれた。その沈黙を破るように、葉の擦れる、本当に小さな音が聞こえた気がした。
足元をよぎったのは、小さなリスだった。カサっと葉が擦れる音がして、茂みと茂みの間をせわしなく駆け抜けた。
とっさに目で追った瞬間、また見えた。
──光。
動物の体の内側、あるいは外側から、淡く灯る光。それは鳥と同じ、「魂」だと直感する。試しに、心の中で呼びかけてみた。
止まった。
リスが動きを止め、こちらをじっと見上げている。黒い瞳が、私をまっすぐ捉えていた。
私はゆっくりと、両手を胸の前で組む。心臓の奥にある何か──魔力と魂が触れ合うあたりに意識を集中させる。
光が、伸びた。
魂の一部が糸のようになり、私の方へと引かれてくる。まるで、心に触れようとしているかのように。
「……来て」
声は小さく、けれど確かに届いた。
リスが、私の足元までやってきて、座った。穏やかな顔をして、動かない。
よく見ると、ネズミのような目と耳をしている。ハムスターのように、小さな種を両手で大事そうに抱えていた。
「……私、いま……魂を……」
つぶやいたとき、ふと、我に返る。
これは普通のことなのか? 誰にでもできることなのか? それとも──
そう考えた瞬間、胸の奥に冷たい何かが広がった。
リスの魂の糸は、私の指先に絡みついたまま、静かに揺れている。
意識を向けるだけで、その光は伸びも縮みもし、命の在り方すら変えてしまえそうだった。
ただの小動物。それでも、今の自分には、その命を操ることができる。
命令すれば、走らせることも、止めることも、眠らせることもできる。
まるで、自分がこの生き物の「神」になってしまったような感覚だった。
ぞっとした。同時に、背筋が粟立つような、微かな高揚感も覚えた。
この世界で、私は、何にでもなれるのかもしれない。
そんな考えが、脳裏をよぎった。
私は魂の糸をそっと手放す。
意識を逸らせば、糸は簡単にほどけ、リスはふっと正気を取り戻したように首を振り、森の奥へと駆けていった。
完璧だった。
魔法としては、何ひとつ間違っていなかった。むしろ、あまりにも自然にできすぎた。
──こんな力、持っていていいのだろうか。
魂を操るということは、心を支配するということだ。
音楽で誰かの感情に触れたときの、あの震え。
それが、魔法ではもっと直接的に、もっと深く、触れてしまえる。
だからこそ、それが間違っている気がするのだった。同時に、抗いがたい魅力も感じている。
この力があれば、私は、一体何ができるのだろうか。
そんな考えが、頭をもたげる。
私は、小さく首を振った。
いけない。
思考が、危険な方向へ向かっている。
頭を冷やすために、ひとまずは歩こう。
そんなことよりも、今は人を見つけて助けてもらわなければならない。
水場さえ見つけられれば、人もきっと近くにいる。
水音が近づいてきた。
森が途切れ、小さな小川が姿を現した。石がごろごろと転がる浅瀬の流れ。澄んだ水が太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。
私は、思わずその水面に顔を覗き込んだ。
そこに映ったのは、
──金色の髪。白い肌。蒼い瞳。
──そして、額に生えた、小さな角。
「……え?」
心が、一瞬、時間を止めた。
私は、その異形の姿を、まるで他人を見るような目で見つめていた。