人形姫のゼーレ 作:Macht und Glück
プロローグ 魔女
花冷えの風が、森の木々をすり抜けるように吹き抜けていた。薄緑の草が、波のように一斉になびく。その中に、ぽつり一つ、影があった。
ゼーレはヴァイオリンを胸に抱き、風を背に受けながら立っていた。
小さな音。弓が弦に触れ、軋むような音を鳴らす。だが、それは旋律にはならなかった。
風の音にかき消されたのではない。彼女の中で何かが途切れていた。次の音が浮かばない。ただの音でしかない。それは、もう音楽ではなかった。心を通して紡ぐべき旋律が、どこにも見当たらない。
ゼーレは目を伏せた。その瞳の奥には、深い虚無が宿っている。
《姿を変える魔法》を使用したエルフへの変装は解除した。今のゼーレはその特徴的な、ビスクドールのように滑らかな肌をさらし、角は帽子の中にしまわれている。どうにも、変装をするのは億劫だった。
静かな森だった。人々の魂の流れは、北へと向かっている。
──あのとき、私は全てを失ったのだろうか。
記憶は、残酷なほど鮮明だった。
あれは音楽都市を出立してから2週間ほどのことだった。今から5カ月ほど前、秋。
峠の薄曇りの空の下、南方の岩肌がむき出しになった山道。灰色の雲が空を覆い、雨が降る寸前のような重苦しい空気が張り詰めていた。
ミリアルデが足を止める。彼女は目を見開き、ある一点を凝視していた。
視線の先には、女が一人立っていた。ブロンドの髪に、紫色の丸い瞳。そして、白目のない、黒一色の眼。その異様な存在感は、見る者の心を凍らせるほどだった。光を吸い込むような黒い目に、ゼーレは一瞬で本能的な危機を感じた。血の奥底から湧き上がるような、根源的な恐怖。
ゼーレは無意識に一歩下がった。背筋が凍るような気配……魂だった。
紫がかった光の筋。炎にも似た、けれど燃え広がることのない、閉じ込められた静かな光。それはまるで、何かを拒絶し、何も求めない魂だった。強く、静かで、透き通った光の中に、底知れぬ空白が広がっている。 ゼーレはその魂を見た瞬間、ぞくりと背筋を冷やした。あれは人の魂ではない。だが、魔族とも違う。まるで“永劫”という言葉が具現化したような……理解を拒む存在だった。ミリアルデの魂とも、似ているようで決定的に違っていた。
その女は、ゼーレを一目見るなり、微かに目を細めて言った。
「……ふうん。上手に取り繕ったつもりかしら? でも、偽りの香りはすぐに分かるのよ」
言葉と同時に、何の合図もなく、紫色の魔力が空間を裂いた。鋭い光が閃き、大気がねじれる。地面が一瞬持ち上がり、周囲の岩が崩れ、風景そのものが歪む。
応じるように、ミリアルデが右手を振る。彼女の周囲に無数の防御魔法が空中に展開され、紫の光を相殺するように陣が張られた。複雑な魔力の線が、網のようにゼーレを包み込む。
「走れ」
その一言と同時に、ミリアルデは指先をひねり、五重の防壁を張り巡らせた。幾何学的に精緻な立体魔法陣が瞬時に構築され、その結界は花びらのように開いて、衝突する魔力を分散させていく。
紫瞳黒目のエルフが無言で放った追撃の魔法が、それを次々に打ち砕いていく。重力を圧縮したかのような一撃、空気を焼き尽くす高熱の波動、視界を閉ざす黒紫の雷、さらには空間そのものを歪めるような干渉魔法まで。その全てが、ミリアルデの結界を容赦なく襲った。
ミリアルデは一歩も動かず、まるで不動の砦のように、次々と展開する猛攻を受け止め続けた。彼女の結界魔法は、魔力の消耗を最小限に抑えるよう構築されており、その緻密さにゼーレは息を呑んだ。魔法がぶつかるたび、空間が激しく振動し、周囲の音が消え、時間が引き伸ばされるような奇妙な感覚に包まれた。
ゼーレは振り返り、ただその姿を見ていた。吹き荒れる魔力の嵐の中で、彼女の髪が風に揺れ、瞳は微動だにせず、ただ前を見据えていた。その姿はあまりにも静かで、現実感を失うほどだった。
「ミリアルデ。なぜ、そこまでしてあの子を守るの?」
女の声が届く。それはどこか機械的で、非難でも怒りでもない。ただ、淡々とした問いだった。
「理由など必要ない。お前に理解される気もない」
そう答えると、ミリアルデの足元から魔力の震動が走る。地面に巨大な円環状の魔法陣が出現する。その中から、防壁と攻撃を兼ねた光の柱が天へと伸びていった。
女の眉がわずかに動いた。その表情には、驚きというよりは、むしろ得心がいったような色が浮かぶ。
「なるほど……ああ、あなた、そういうこと。だとすれば……」
紫の魔力が一点に収束し、細い槍となって放たれる。それはミリアルデの展開した全ての防御を突き破り、彼女の胸元を正確に貫いた。
ゼーレは叫んだが、その声は虚しく風に消えた。ミリアルデは、口元にわずかな笑みを残しながら、最後の力を振り絞るように魔力の奔流を起こした。それがゼーレを吹き飛ばす。風とともに、空気が切り裂かれ、結界の残響が耳を突いた。背中に背負ったヴァイオリンはケースごと無残にばらばらになっていく。
世界が回転し、意識が遠ざかっていく中で、ゼーレはただ、ミリアルデの姿が崩れ去るのを見ていた。
あの女──200年後の未来に“大逆の魔女ミーヌス”と呼ばれることになる大魔法使い。
ゼーレはただ、逃げるしかなかった。背後から、ミリアルデの最後の魔力の奔流が、彼女を守るように吹き抜けた。
「……まだ、分かっていない気がする」
独り言のように呟く声が、木々をすり抜ける風に流されていった。
今、ゼーレは中央諸国との境界近く、森の側にある小さな村に身を寄せていた。村では教師兼魔法使いとして迎えられていた。読み書きもできない子どもたちに、ゼーレは優しく文字を教え、簡単な風の魔法や、火種を灯す術も見せてやった。簡単な民間魔法は子供たちにも大人たちにも人気だった。ときおり笛やリュートの素朴な旋律に合わせてヴァイオリンを弾くこともあった。……ヴァイオリンは新たに村の近くの木から作成した。
「先生、これは“たね”って読むの?」
「ええ、よくできたわね」
子どもたちと触れ合う中、彼女は微笑みを忘れないようにしていた。だが、その心の奥にあるのは、冷たい空虚な沈黙だった。彼女の笑顔には、決して触れることのできない、深い影が付きまとっていた。
彼女は、人々に心を開いていなかった。自らが魔族としての本性を隠し、毎晩、誰にも見られぬよう気配を消し、密やかに部屋を抜け出していた。
その夜も、ゼーレは静かに扉を開いた。
「……来たんだな」
青年は寝台から体を起こしていた。細身で、真面目な印象の青年だった。彼の名はルイン。彼の澄んだ瞳には、ゼーレへの淡い恋心が宿っていた。無理もない。美しい旅人が、村の子どもたちに教えを施し、病の老婆に水を運び、獣に傷ついた犬を手当てする。そんな優しい姿に、彼は心を動かされたのだ。
「痛くはしないでくれよ」
毎晩のことで、このやり取りも、もうルーティンとなってしまっていた。ルインの声には、諦めと、わずかながらもゼーレを気遣うような響きがあった。
「ええ。でも、怖いなら、いつでもやめてもいいのよ」
ゼーレの声は、いつものように感情を押し殺した平坦なものだった。
「いや……いいんだ。君が必要なら」
ルインは静かに首を差し出した。
ゼーレは彼の首筋に口を寄せ、静かに、しかし躊躇なく牙を刺した。
「ぐっ……う……」
温かな血が、喉を流れていく。鉄の匂いの奥に、どこか抗いがたい甘さすら感じるその液体は、身体の奥に魔力の芯を強固に戻していくようだった。血と共にこの青年の魔力も吸い取っているのだ。飲むたびに心の奥がざわつく。安堵と、罪悪感と、忌避とが、ないまぜになって胸を焦がす。この行為が、彼女が最も忌み嫌う“魔族”としての自分を肯定する行為であることに、耐えられなかった。
彼女は目を閉じた。これはただの栄養補給。ただの……生きるための行為。そう、自分に言い聞かせる。血だけ。肉まで食べてはいけない。それが最後の境界線だと思うから。
「ありがとう。……あなたのことは、あなたが老いて死んでも忘れないから」
心の中でだけ、その言葉を呟いた。声に出せば、きっと嘘になってしまう。
そして、青年はベッドに倒れ込んだ。
「どうして旅をやめたの?」
ある日、子どもが無邪気に尋ねた。その純粋な問いが、ゼーレの心を深く抉った。
ゼーレは答えられなかった。口元がかすかに動いただけだった。言葉にできる答えが、まだ見つからなかったのだ。
夜の静寂。誰もいない部屋。
彼女は机の上に置かれた小さな魔道具──手のひらに収まるほどの、透き通るような多面体の結晶──に指を伸ばす。その表面には、微細な魔力の光が常に瞬いている。それは、かつてミリアルデが遺していったもの。触れるとひんやりと冷たいが、同時に、師の魔力の残滓からくるかすかな温かみが掌に伝わった。この結晶には、ミリアルデが教えた古エルフ語の発音や、旅の中で交わした言葉、メークリヒの音色、そして二人のヴァイオリンの旋律が、音の記憶として記録されている。
「……ミリアルデ。あなたはなぜ私のためにそこまでしたの? ミーヌスはなぜミリアルデを──数少ないはずのエルフの同胞を殺したの?」
その問いに答える者はいない。ただ、結晶が、微かに光を放ったような気がした。
遠く、風がまた草原を揺らす。風が窓を打ち、夜の静寂に音を添える。
ゼーレはそっと魔法収納からメークリヒを取り出す。そして構え、魔力と息を吹き込む。
今回は、旋律になった。その音は、かすかだが、確かに命を帯びていた。深い悲しみと、諦め。しかし、その奥底には、ごくわずかな、しかし確かな希望の光が宿っているようだった。
Seele. Improvisation in G Minor
このプロローグ含め章の最後まで、16日間お付き合いいただけたらと思います。