人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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回想:フォーリヒ砦にて 前編

 ヴィレ地方へと続く街道を歩くゼーレとミリアルデ。肩にはすっかり馴染んだ藍色の小鳥がくつろいでいる。中央諸国の空はどこまでも高く澄み渡り、北側諸国の厳しい寒さと比べ、幾分か楽な旅路が続いていた。柔らかな陽光が若葉を茂らせた木々の間から差し込み、小鳥の鮮やかな羽毛をきらめかせた。

 

 そんな中、街道ですれ違った騎士の姿を見てふと思い出すものがあった。ゼーレの脳裏に、北側諸国での記憶が鮮やかに蘇る。それは、あの“断頭台のアウラ”との遭遇で神経をすり減らした今改めて振り返らずにはいられない、ある場所での出来事だった。

 

「そういえば、オルデン卿は大丈夫かな?」  

 

 ゼーレは、ふと過去を思い出すように呟いた。

 

「……何が?」  

 

 ミリアルデは半眼のまま、微かに首を傾げる。

 

「ほら、あの七崩賢、アウラのことだよ。もし、オルデン卿たちのところにも現れていたらって……」  

 

 ゼーレの声には不安が滲んでいた。アウラの支配の天秤の恐怖が、まだ心の奥底に焼き付いているからだ。  

 ミリアルデはため息とも欠伸ともつかない息を小さく漏らした。

 

「ああ、あいつのことか。一応、周辺国家には魔族の動向を知らせる文書は飛ばしておいたし、大丈夫じゃないかと思うけど」

 

 彼女の言葉はどこまでも冷静で、その根拠を淡々と述べる。

 

「そもそも、アウラとまともに戦うのは、よほどの魔法使いでなければ避けるべきだ。通常の戦士では、問答無用で《服従させる魔法》に魂を懸けられて、それで終わり。あの魔法は、自分と相手の魔力の差を正確に測り、弱い者を絶対に逃がさない。結界の内側に引きこもるのが最適解という、まさに七崩賢の人智を超えた恐るべき魔法だ」

 

 ミリアルデの説明に、ゼーレの脳裏に再びアウラと対峙した時の凍えるような感覚が蘇る。あの時の魂を掴まれるような衝撃は、二度と味わいたくないものだった。

 

「でも、彼らほどの鍛え上げられた戦士たちであれば、きっとアウラに抵抗できる強い意志を持っているはず。あのオルデン卿の部下なんだから」

 

 ゼーレは、自分に言い聞かせるように呟いた。希望にも似たその言葉に、ミリアルデは何も言わず、ただ静かに前を向いて歩き続けた。

 

 


 

 

 そう、オルデン卿と出会ったのは北側諸国の冬、町から町をどうにか移動してたどり着いたフォーリヒ砦でのことだった。

 

 冬の山道は、全てを凍てつかせる白銀の世界だった。 空にはどんよりとした雪雲が垂れ込め、吹きすさぶ風は針のように肌を刺すように冷たかった。ときおり舞う雪は視界を白く霞ませ、木々の枝には硝子細工のような霧氷が咲いていた。足元の道は硬く凍りつき、深く積もった雪は、歩くたびにザクザクと、時にはキュッ、キュッと乾いた音を鳴らした。

 

 ゼーレはマントを首元まで引き上げ、寒さをしのぎながら歩いていた。吐く息は白く、瞬く間に凍てつく空気に溶けて消える。その隣を歩くミリアルデは、いつもと変わらぬ無表情で、寒さに頓着していないように見える。まるで、この極寒が彼女には存在しないかのように。

 

「……これでも、ずいぶんマシな方なんだけどね。雪が深くなったら、そもそも砦までたどり着けなかったかもしれない」

 

 ミリアルデは冗談めかして言ったが、唇の端はかじかんでいた。ゼーレの全身の感覚が麻痺しそうになるほどの寒さの中、遠くの丘の上に砦の姿が見えた時には、まるで奇跡を見たかのようにほっと胸を撫で下ろしたほどだ。

 

 フォーリヒ砦の門前には、警戒の眼差しを浮かべた二人の門番が立っていた。彼らの鎧は冷気を帯びていたが、その下には幾重もの分厚い防寒着が詰め込まれており、見た目以上に体格が増して見えた。白い息が彼らの口元から漏れ、空に消える。ゼーレが紹介状を取り出そうとする前に、一人の門番が手を挙げて制止する。

 

「待った。ここは軍の要塞だ。通行の目的を答えよ」

 

 ゼーレは丁寧に一礼し、以前アシェルから預かっていた封書を両手で差し出す。凍えそうな指先が震えた。

 

「アシェル殿からの紹介状を預かっております。こちらにいるオルデン卿宛です」

 

 門番は訝しげな表情でそれを受け取り、しばし封書を睨むように眺めたのち、もう一人の門番に目配せした。

 

「中へ通す。詰所で確認を取る。……失礼ながら、同行の方は?」

 

 ゼーレの隣で、ミリアルデがぼんやりと目を半分閉じたまま欠伸を噛み殺していた。まるでこの状況に興味がないかのように、どこか遠くを見ている。その態度に、門番たちの警戒心がさらに高まるのを感じたが、ゼーレは努めて冷静に答えた。

 

「我が旅の師であり、案内役でもあります」

 

 ゼーレがそう紹介すると、門番たちは戸惑いながらもそれ以上は無理に詮索せず、二人を砦内へと通した。

 

 

 

 砦の内部は整然としており、兵士たちの動きには無駄がなかった。通された大広間には年代物のタペストリーや、長きにわたる戦で使われたであろう無数の武具が飾られており、この場所が歴戦の砦であることを雄弁に物語っていた。ゼーレは背筋を伸ばし、ミリアルデはいつものように眠たげな表情でふらふらと歩きつつ、砦の主・オルデン卿の前に立った。

 

 ゼーレはオルデン卿の魂を極力静かに、無感情に覗いた。彼の魂は古い銀糸のような鈍い輝きを纏い、ところどころに煤けたような焦げ跡が残っている。それはかつて炎の中を駆け抜けた戦士の証であり、今は鎧を脱いではいるが、静かに燃えさしとなった焚き火のような安らぎを湛えていた。

 中心には、黒曜石にも似た核があり、これは絶えざる警戒心と民を守ろうとする執念が形をなしたものか。魂の外縁を薄く覆う金色は、砦の兵たちからの信頼や敬愛によって日々少しずつ染まった色なのだろう。

 

 視覚を戻す。オルデン卿は壮年の騎士で、アシェルを思い起こさせる燃えるような赤髪に、きれいに整えられた口髭を蓄えていた。深い皺の間から覗く目には、戦場を知る者特有の鋭さと、しかし同時に温かみが宿っていた。

 

「よく来てくれた。アシェルの手紙は読んだよ。君が、あの()()()()()()()()()()使()()か」

 

 ゼーレは一瞬だけ面食らったが、黙ってヴァイオリンを取り出して小さく頷く。オルデン卿は嬉しそうに目尻の皺を深め、即席の演奏会を提案した。

 

「砦の者たちも冬の天気にはうんざりでね。少し慰めてやってくれないか」

 

 やがて大広間に椅子が並べられ、鎧を身に纏った兵士たちがぞろぞろと集まってきた。彼らの顔には、冬の厳しさに疲弊した色が浮かんでいた。騒がしかった空気が次第に静まっていくなか、ゼーレは弓をとり、そっと弦に触れる。

 

 奏でられた旋律は、初春の凍えるような風を優しく撫でるように、静かに、そしてゆっくりと広間を満たしていった。それは、まるで厳かな教会のステンドグラスから差し込む光のように、澄み切って清らかだった。

 

 ヴァイオリンから紡ぎ出される一音一音は、冷たい石壁に反響し、広間全体を優しく包み込んでいく。兵士たちは、その優雅で流れるような調べに、強張っていた表情をわずかに緩めた。日々の訓練と警戒で張り詰めていた彼らの心に、微かな安らぎが訪れる。

 

 ゼーレの弓は、まるで祈りを捧げるかのようにゆっくりと、しかし確実に弦の上を滑る。彼女の演奏は、単なる技術的な正確さを超え、音の一つ一つに慈愛と慰めの感情が込められていた。過ぎ去った戦い、失った仲間への追悼、遠い故郷への郷愁。兵士たちの胸に、言葉にできない様々な感情が去来する。それは、忘れかけていた人間らしい温かさや、静かな希望の灯火を思い出させるようだった。

 

 演奏が終わると、広間には深い静寂が訪れた。そして、兵士たちは、その静寂を破るように、ゆっくりと、しかし確かな拍手を送り始めた。それは戦場ではなかなか見られぬ、心からの敬意と感謝に満ちていた。オルデン卿は深く頷きながら口を開いた。

 

「魔族の将を討ち果たしてから、もう四年が経つ。だが、何も起きぬ日々が続くと、人の心は次第に鈍っていくものだ。君の音は、忘れかけたものを思い出させてくれる。しばらく、ここで音を響かせてくれないか」

 

 ゼーレは考え込んだ末、演奏と引き換えに滞在場所と食事を提供されることに同意した。

 

 

 

 その夜、砦の食堂では兵士たちと同じ長卓に着いて夕食を共にした。配膳されたのは塩漬けの肉、干し野菜、硬い乾燥パン、そして温かいスープ。ゼーレが一口食べて微妙な顔をすると、近くの兵士が冗談めかして笑った。

 

「口に合わなかったか? まあ、戦地の味ってやつさ。慣れれば旨いもんだ」

 

 そう言われても、ゼーレの表情はすぐに晴れなかった。彼女の舌には、野営地での旅人たちと分かち合った、もっと温かく豊かな料理の味がまだ残っている。

 その後、食後の片付けを手伝おうとしたゼーレは、台所で料理番の中年男性にたしなめられた。

 

「ヴァイオリンの指が台無しになるよ、嬢ちゃん。そんなこと、しなくていいのに」

 

 ゼーレはそれでも構わずに笑い、慣れた手つきで食材を切っていく。その器用な手つきと、飾らない真摯な姿勢に、見ていた者たちは驚きつつも、次第に心を和ませていった。彼女の周囲に、確かに信頼の輪が広がり始めていた。

 

 翌朝、演奏を終えたゼーレに、興味津々の兵士たちが寄ってきた。彼らは昨夜の演奏に心を打たれたのだろう。ある者がヴァイオリンを指差しながら尋ねた。

 

「それって、まさか響鳴樹でできてるのか?」

 

 その問いに、場が笑いに包まれる中、ゼーレは「違うよ」と首を振り、ヴァイオリンの木材の選定や製作過程を簡潔に説明した。そして、自分の家から近くの森で採取した木材で、《ヴァイオリンを作る魔法》を用いて自作したことを語ると、兵士たちは目を輝かせ、その魔法に感嘆の声を上げた。今度はぜひその魔法を見せてほしいと、次々に頼んできた。彼らの表情は、きっと故郷の子供のように純粋な好奇心に満ちていた。

 

 こうして始まったゼーレとミリアルデのフォーリヒ砦での日々は、戦火に晒されない穏やかな時間だった。

 

 音楽は兵士たちの心を癒し、魔法は新たな知識と技術の交流を生んだ。ゼーレは連日、大広間でヴァイオリンを奏でた。兵士たちは、その音色に耳を傾け、厳しい任務で凝り固まった心を解き放つかのように、しばし静かに目を閉じた。特に、遠い故郷の歌や、かつての祭りの調べを演奏すると、彼らの顔には懐かしさと、微かな悲しみが入り混じった表情が浮かんだ。

 

 日中、ゼーレは兵士たちの訓練を見学することもあった。剣を振り、盾を構える彼らの真剣な眼差しは、人間的な力強さと温かさを感じさせた。

 休憩時間になると、ゼーレは彼らの輪に加わり、北の地の民話や、戦場で耳にした英雄譚に耳を傾けた。彼女が魔法で出した温かい飲み物を差し出すと、最初は戸惑っていた兵士たちも、やがて笑顔でそれを受け取るようになった。

 ある兵士は、故郷の村で暮らす家族の話を熱心に語り、また別の兵士は、遠い昔に交わした初恋の思い出を恥ずかしそうに打ち明けた。ゼーレは、その一つ一つの話に真剣に耳を傾け、彼らの人間らしい感情の揺らぎに、静かに触れていた。

 

 オルデン卿もまた、ゼーレとの交流を深めた。彼は連日の演奏を楽しみにしており、食事の席ではしばしばゼーレの向かいに座った。

 

「君の魔法は、我々の知るそれとは少し異なるな。そのヴァイオリンを自作したと聞いたが、その技術はどこで身につけたのだ?」

 

 オルデン卿は、警戒心よりも純粋な探究心に満ちた眼差しで尋ねた。ゼーレは、旅の中でミリアルデから教わったことや、前世で得た知識を曖昧にぼかしつつ、「師から学びました」と答えるに留めた。オルデン卿はそれ以上は深入りせず、ただ「そうか」と頷いた。彼は、言葉よりもゼーレの醸し出す雰囲気に、何かを感じ取っているようだった。

 

「君は、どこを目指しているのだ?」

 

 ある夜、星空の下でオルデン卿が静かに問いかけた。ゼーレは、一瞬言葉に詰まった。魔王や七崩賢といった強大な魔族から逃げることや、世界を見て回るという漠然とした目標はあったが、具体的な場所は思い描けていなかったからだ。

 

「南側諸国に……」

「そうか。南側諸国は、北と比べて平和な地域だ。そこまでの旅路は厳しいだろうが、良い選択だと私は思う」

 

 オルデン卿は頷いた。

 

 

 

 ミリアルデはといえば、食事の時以外はほとんど喋らず、夜は焚き火の前で眠っているのか眠っていないのか分からないような表情で空を見ていた。彼女が兵士たちと直接言葉を交わすことはほとんどなかったが、ゼーレが彼らと交流する様子を、時に遠巻きに眺めていることがあった。その眼差しはどこか満足げに見えた。

 

 束の間の安息の中、ゼーレは人と交わる喜びを胸に刻んでいた。ヴァイゼでも感じていたことだが、人との関わりは自分を人だと感じさせてくれる一番の薬だった。

 

 

 

 

 滞在三日目の深夜。兵舎の裏手で「幽霊が出る」という噂を耳にしたゼーレは、その真相を確かめに足を運んだ。兵士たちの間では、夜な夜な誰もいないはずの廊下で「うめき声が聞こえる」「不気味な光が漂っているのを見た」といった話が囁かれ、夜警の兵士が怯えて持ち場を離れることすらあったという。その不穏な気配に、ゼーレの好奇心は強く刺激されていた。

 

 廊下は冷たい風が吹き抜け、床板の軋む音がやけに響く。古い砦特有の、湿気と土埃の匂いが鼻をついた。ゼーレは目を閉じ、魂の波動を探った。すると、ゆらめくような不安定な気配が、奥の扉の向こうから、まるで微弱な炎が風に揺れているかのように感じられる。それは、幽霊が発するような冷たく陰鬱なものではなく、どこか規則的で、しかし抑えきれない、生きた魔力の残滓のようだった。

 

 静かに扉を開けると、そこには目を閉じたまま、まるで眠っているかのようにふらふらと歩く若い魔法使いの姿があった。彼の周囲には、淡い、不規則な魔力の光が霞のように揺らめき、それが噂の「不気味な光」の正体だろう。彼の顔には深い疲労が刻まれ、苦悶に満ちた表情で何かを呟いている。無意識に微かな魔力を放出している。ゼーレは彼が夢遊病であることを瞬時に理解した。このままでは、魔法を無意識に使用してしまい、周囲を破壊してしまうか、あるいは自らを傷つけかねない。

 

 ゼーレがそっと肩に触れると、彼は驚いたように目を見開き、焦点の定まらない瞳がゆっくりとゼーレを捉えた。まるで深い水底から浮上してきたかのように、ようやく意識を取り戻した。彼は自分の置かれた状況が理解できず、しばらく茫然と立ち尽くしていたが、ゼーレが事の次第を簡潔に説明すると、顔を赤らめて深々と頭を下げた。

 

 翌朝、彼が夢遊状態で無意識に魔力を放出していたことが明らかになると、砦中でちょっとした騒動となった。しかし、ゼーレがそれを発見してくれたことで、砦の魔法使いたちから思いがけず感謝の言葉を受けることになるのだった。




Bach, Johann Sebastian. Air on the G String
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