人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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第三話 幻影鬼(アインザーム)

 

ヴィレ地方の山道は、春の終わりを思わせる柔らかな風と、遠くの木々から聞こえる鳥のさえずりに包まれていた。その中には、冬の間に姿を消していた小鳥たちの、嬉しげな合唱も混じっていた。どこの世界でも小鳥の声は心を癒してくれる。自然に存在する音楽たちの一つ。

 

 ゼーレの肩には、すっかり旅に慣れた藍色の小鳥が、ふわふわと羽を休ませている。時折、好奇心旺盛に頭を傾げ、周囲の景色を目で追っていた。

 

 陽は傾きかけ、空の色は淡いオレンジと薄紫のグラデーションに染まりつつある。山肌には生命力にあふれる新緑が芽吹き、冬の名残であった雪もほとんど解けて、僅かに湿った大地が靴の裏に柔らかな感触を伝えてくる。ゼーレは深く息を吸い込むと、少し目を細めた。甘く湿った草と、遠くの土の匂いが混じり合い、確かに春の気配を運んでくる。

 

「もうすぐ夕暮れだね。今日はこのあたりで野営かな」

 

 ゼーレが立ち止まり、前方の、木々が密集する林を見やった。このヴィレ地方は、中央諸国の中でも特に森が深く、夜ともなれば迷い込む旅人も少なくないと聞く。日中の暖かさとは裏腹に、日が落ちればたちまち冷え込むだろう。

 

 ミリアルデは頷く代わりに、空をちらと見上げてまぶたを半分閉じた。まるで眠たそうにしているようでもあり、あるいは、この土地に流れる微かな魔力の気配や、風の流れといった、この世界に満ちるあらゆる情報を感じ取ろうとしているようでもある。

 

 そんな時だった。街道の脇、少し開けた草地の奥に、微かな焚き火の明かりがちらついているのをゼーレは見つけた。それは、夕闇に溶け込みそうなほど小さな、しかし確かに人の気配を感じさせる光。

 

 警戒されないように、ゆっくりと近づく。

 彼らは旅人のようだった。

 

「こんばんは。少しばかりお尋ねしてもよろしいでしょうか。もし差し支えなければ、そちらの火を少々お借りしても構いませんか?」

 

 ゼーレが控えめに、しかし丁寧な声で呼びかけると、中年の一人がゆっくりと顔を上げてうなずいた。その目は、長旅で培われた警戒と、深い疲労が入り混じったような色をしていた。

 

「ああ、構わないさ。どうぞ、温まっていくといい」

 

 彼の隣にいたもう一人の男が、ぶっきらぼうに付け加えた。

 

「だがな、嬢ちゃんたち。気をつけな。この辺りは、近頃、ちっとばかり厄介な噂が流れていてね」

 

 ゼーレは焚き火の傍らにそっと腰を下ろしながら、首を傾げた。

 

「厄介な噂、ですか?」

 

 もう一人の男が、焚き火の炎に顔を寄せながら、声をひそめて語り出した。その声には、単なる恐怖だけでなく、奇妙な興味が混じっているようにも聞こえた。

 

「死人が出るって話さ。正確には“見える”ってやつだけどね。森の中で、死んだはずの家族や友人と出会ったって……何人もが口を揃えてそう言ってるんだ。触れようとすると消えるんだが、その表情や声は、まるで生きている時のままだったと……」

 

 先ほど頷いた中年も同調し、乾いたパンをちぎりながら付け加えた。

 

「この先の廃村で、夜になると誰かの呻き声が聞こえることもあるそうだ。だが、その村は十年前に魔物の襲撃で全滅したはずだよ。生き残りは一人もいなかったと聞く……」

 

 ミリアルデは黙って聞いていたが、突然、すっと立ち上がった。その動作には、僅かな迷いも見られない。

 

「ほう、これは面白い。早速、行ってみようか」

 

「えっ、今から!?」

 

 ゼーレが思わず声を上げ、驚きのあまり身を乗り出す。ミリアルデはにやりとも眠たそうともつかない表情で、淡々と言い放った。

 

「だって、夜じゃないと、幽霊は出てこないでしょ?」

 

 

 

 

 廃村は、街道から外れた山の斜面にひっそりと佇んでいた。ようやく雲間に月光が漏れ、美しい弧のその姿を現した頃、二人は朽ちかけた木造の家屋や苔むした井戸の残骸を目にした。春の訪れとともに芽吹く草木も、この場所ではどこか色褪せて見える。静寂に満ちた空間。虫の声すらないその場所は、まるで時間そのものが、悲劇の瞬間に止まってしまったようだった。

 

 その廃村にゼーレが足を踏み入れた瞬間、胸の奥が微かにざわめいた。それは、魂の気配のような、しかしどこか現実離れした奇妙な揺らぎだった。魂の浅瀬、精神を探られているような感覚。

 

「魂の気配……いや、違う。これは幻影……?」

 

 ふと目を凝らすと、そこには一人の少女が、まるで霧の中から浮かび上がるように、あの日のままの姿で、無垢な微笑みを浮かべて佇んでいた。

 あの日。転生してからゼーレが最初に出会った人間。そして、初めて人の死を目にすることになった──家の中に隠れていたが、ゼーレを心配して外に飛び出し影纏いの狼に無慈悲に殺された、あの少女だった。

 

「……うそ、なんで……ここに……?」

「……ゼーレ?」

 

 彼女のはずがないのはわかっていた。そこに魂はないからだ。本来あるべき所は伽藍堂で、魂は見えない。しかし、分かってはいても、「異世界なのだから、私が転生したのだから、幽霊だっていてもおかしくはない」。この考えを捨てきれなかった。

 

 ゼーレの呼吸が浅くなる。体は硬直し、前に出そうになる足を必死に抑えた。脳裏には、少女が倒れ伏した時の、地面に広がる鮮烈な血の赤が鮮やかに蘇る。それでも幻影の少女がゼーレを見て、あの日のように、しかし今はただ静かに微笑んでしまったその瞬間。抗うことのできない、まるで磁石に引き寄せられるような衝動に駆られ、ゼーレは意識せず、しかし確かに一歩踏み出してしまった。

 

 ──「ねえ、覚えてる? あの歌。教えてもらったやつ」

 

 幻影の少女が、まるで本当にそこにいるかのように、静かに口を開いた。その声は、春の風のように優しく、しかしゼーレの心の奥底を揺さぶる。あの日、退屈を紛らわせるように、ゼーレがぽつりと口ずさんだ、前世のヒットチャートの有名な旋律。それを気に入った少女は、何度も真似して歌っていた。その記憶が、温かさと共に、鋭い痛みを伴いながらゼーレの胸に蘇る。

 

 ──「お母さんが怒って、声を小さくしなさいって言われたけど、歌い方を教えてくれて私、嬉しかったんだよ。だから夜でも歌っちゃって、それでお母さんが怒ったの」

 

 ゼーレは声を失ったまま、ただ立ち尽くしていた。胸の奥から込み上げるのは、あの時何もできなかった己への後悔と、どうしようもない無力感だった。

 

 ──「見てたんだ。あの時、狼が来たとき、あなたが戦ってたの。怖かったけど、ゼーレの魔法、すごく綺麗で力強かった」

 ──「私、すごく安心したの。ああ、私たちを守ってくれてるんだって」

 

 幻影は一歩、また一歩と、ゼーレに近づいてくる。その足音は聞こえない。幻影は朽ちた草を踏みしめる。ゼーレは草が踏まれ、地面の土がすれる音を聞いた心地がした。そんな音は、何一つ響いていないのに。

 

 ──「でも、私、前に出すぎちゃったね……。すぐ家に戻ればよかった。お父さんだって……。お母さんより先に死んじゃって、ごめんなさい」

 ──「ママ、泣いたかな。ちゃんと埋めてくれたかな。あなたのこと、きっと恨んでないよ」

 

 ゼーレの瞳に、堰を切ったように熱い涙がにじんだ。視界が歪み、少女の姿がぼやける。だが、その声は、記憶の中のままだ。

 

 ──「私ね、もっといろんなこと、話したかったんだ。本当は、あなたと一緒に収穫の秋を迎えたかった」

 ──「あの歌、また一緒に歌えたらって、ずっと思ってたの」

 

 ゼーレの膝がふらつき、その場に崩れ落ちるように地面に手をついた。その瞬間、幻影はそっと彼女の肩に手を伸ばしかけ──その指先が、確かに自身の肌に触れるかのように感じられた、その時。

 

「ゼーレ、下がって」

 ミリアルデの低い、しかしはっきりとした声が、凍りついた空間を切り裂くように響いた。

 

 その直後、ゼーレの背後の木立が、まるで巨大な獣に引き裂かれたかのように、音もなく裂けた。黒い霧を纏った異形の魔物が、そこからヌッと姿を現した。

 

 その姿は、三メートルを超える長身に、全身から溢れ出すような白銀の髪をまとった異様な魔物──幻影鬼(アインザーム)。鎖に繋がれた両手は無気力に垂れ下がり、痩せ細った上半身は骨ばっている。仮面のような白い顔は表情に乏しく、見る者に静かな恐怖を与える。そして、黒い霧のように揺らめく下半身には、次々と幻覚が映し出されていた。地面に影を落とすそれは、まるで異界へと繋がる裂け目のように、ゼーレの記憶を呼び起こす残像を投げかけていた。

 

 ミリアルデは素早く手をかざし、透明な魔力の壁を形成して結界を展開する。

 

「幻影魔法。でも、魔力の流れが奇妙だな……素晴らしい精神魔法だけど……ゼーレの魔法と反応して、かなり深く入り込まれているのかな」

 

 ミリアルデは冷静に状況を分析する。

 

 その間にもアインザームの魔法が作用し、ゼーレの周囲の空間に現実の延長のように幻覚が投影された。先ほどまでの穏やかな少女は消え去り、新しくいくつかの幻影が現れる。空間そのものが歪んだかのように、木立の間に“彼女の記憶”が立体的に浮かび上がった。

 

 最初に少女の父親が現れ、血まみれで泣き叫ぶ。

 

「なぜあの時……! なぜ、お前が生きて、娘が死んだ!?」

 

 その後ろには、影纏いの狼に無残にも宙に飛ばされる少女の姿、絶叫する父親、そして──自分が放った制御の甘い未熟な魔法によって、意図せず崩れ落ちていく父の体。その光景は、ゼーレの脳裏に焼き付いた悪夢そのものだった。

 

 ゼーレは両手で頭を押さえ、必死に正気を保とうとする。

 

「違う、私のせいじゃ……でも、どうして……っ」

 

 涙が頬を伝い、指先が冷たい地面を掴んだ。その幻覚の生々しさに、ゼーレの精神は極限まで追い詰められていく。

 

 一方、ミリアルデの周囲にも、同じように幻影が漂い始めた。しかし、彼女の碧色の目には、それらがまったく映っていないかのようだった。彼女はただ、アインザームの奇妙な魔力の流れを、冷静に分析し続けている。

 

「記憶を基に幻覚を構成する魔法。想像以上に高度な魔法だ。しかしこれなら──本体を殺すか」

 

 ミリアルデは無感情に右手を振り下ろすと、圧縮された雷が稲妻のように走り、アインザームの骨ばった胴体を寸分違わず貫いた。魔物の異様な白銀の髪が逆立ち、呻き声ともつかない音が広間に響き渡った。

 

 その瞬間、ゼーレの視界にあった少女の幻影が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ悲しそうに微笑んだ。

 

 ──「ありがとう、ゼーレ」

 

 ……幻だったのか、本当にそう言ったのかもわからないまま、少女の幻影は淡い光の粒となって、静かに霧散した。

 

 残されたのは、森に吹き抜ける風と、朽ちた木々が軋む音だけだった。そして、倒れ伏したアインザームの異形な残骸が、その惨劇の記憶を刻むように横たわっていた。それもすぐに魔力へと還っていく。

 ゼーレは両膝をつき、しばらくその場から動けなかった。ミリアルデはただ静かに彼女の背に手を添え、何も言わずに共にその時間を見送っていた。

 

 やがて、ミリアルデはそっとゼーレの体を抱え起こした。熾した温かい焚き火のそばへと移動し、ゼーレを自身の膝の上に優しく寝かせる。凍え切った体に、ミリアルデの確かな体温がじんわりと、まるで陽だまりのように伝わってくる。 頭上には、いつものように感情の読めないミリアルデの顔がある。しかし、その碧色の瞳は、いつもよりずっと優しく、そして深い慈愛に満ちているように見えた。

 

 ゼーレの肩から降りた藍色の小鳥は、ミリアルデの膝の上で小さく丸まったゼーレの傍らに、そっと身を寄せた。ゼーレの頬に、その柔らかい羽根が触れる。小鳥は、不安げに頭を傾げ、ゼーレの様子を窺っていた。その小さな命の温もりが、冷たくなったゼーレの頬に微かな安堵を広げる。

 

 ミリアルデは、懐から使い込まれた分厚い書物──女神の聖典──を取り出した。彼女は聖典を静かに開くと、まるで子守唄を歌うかのように、穏やかな声で語り始めた。

 

「これはね、『栄光の門の章』という物語。人が死んだ後、その魂がどこへ向かうのか、古くから信じられてきた教えが記されているんだ」

 

 ゼーレはミリアルデの膝に頭を乗せたまま、微かに目を開けた。その視線の先で、ミリアルデの指が聖典の文字をゆっくりと辿っていく。

 

「ある戦士がいた。老い、名声も持たず、戦で傷付き、家族も持たずに静かに世を去った」

 

 ミリアルデの声が、静かに夜の廃村に響く。風のざわめきさえ、その声に耳を傾けているかのようだった。

 

「その最期を看取る者はなかったが、彼の手は最後まで武器ではなく他者の命を守るための道具を握っていた」

 

 ゼーレの閉じていた瞼が、ピクリと震えた。少女の幻影の言葉が脳裏をよぎる。

 

「魂となった戦士は、霧深き野をさまよい、やがて光に満ちた丘の門へと辿り着く。門は閉ざされていたが、そこに女神が現れ、彼に言葉をかけた」

 

 ミリアルデの指が、ゼーレの髪をそっと撫でた。その手の温かさが、まるで氷に閉ざされた湖の表面をなぞるように、ゼーレの凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。

 

「『そなたの名は知らぬ。だが、私は知っている。小さき者を守り、語らぬ善を積んだ者よ。栄えなくとも、誉れなくとも、その歩みは美しかった』」

 

「栄えなくとも、誉れなくとも、その歩みは美しかった」

 その言葉が、まるで凍てついた魂に温かい光が差し込むように、ゼーレの心に深く、深く染み渡った。

 

 ゼーレの目から、再び涙が溢れ出した。今度の涙は、悲しみや後悔の涙ではなかった。それは、張り詰めていた心の枷が解け、魂の奥底から込み上げる、温かく、そして限りなく優しい雫だった。 自らが死なせてしまった者たちへの罪悪感、魔族としての存在への疑問、そして守りたかったものを守れなかった無力感。それら全てを、この女神の言葉が、巨大な手のひらでそっと包み込んでくれたようだった。 自分は、名声も栄誉も求めていない。ただ、誰かを守りたいと願い、そう行動してきた。それが、たとえ不完全な結果に終わったとしても、その「歩み」そのものに価値があったと、女神は言ってくれている。

 

「女神は、彼の生涯を映し出す一輪の花を彼の胸に咲かせ、門を静かに開いた。そして言った」

 

 ミリアルデの声は、どこまでも穏やかで、ゼーレの耳に心地よく響く。

 

「『よくぞ歩みし。さあ、来たれ。ここは魂の眠る地(オレオール)。休むがよい、讃えられるべき魂よ』」

 

 物語が終わると、再び静寂が訪れた。しかし、先ほどまでの不穏な静寂とは異なり、そこには確かに温かい安らぎが満ちていた。

 ゼーレはミリアルデの膝に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らした。それは、抑えきれない感情の解放だった。肩が震え、小さな体がびくつくたび、ミリアルデは何も言わずにゼーレを抱きしめ続けた。その大きな手が、ゼーレの震える背を、ゆっくりと、優しく撫でる。

 ゼーレの傍らにいた小鳥も、そっと体を寄せ、心配そうに頭を摺り寄せた。その小さな命の温かさが、ゼーレの心に確かな現実と微かな喜びを伝えてきた。

 

「ありがとう、ミリアルデ……」

 

 ゼーレの震える声が、闇に溶けていく。ミリアルデは、ただ静かに頷くばかりだった。彼女の碧色の瞳には、夜空の星々が遠い光のように映っていた。ゼーレの心は、深い傷を負いながらも確かに一筋の光を見出したようだった。絶望の淵から引き上げられ、彼女の魂は、長い冬の眠りから覚めたかのように、ゆっくりと息を吹き返し始めていた。






Porta Aureolae

Vir senex iacebat in umbra mortis,
sine nomine, sine gloria, sed manibus adhuc puris.

Non clamavit, nec petivit, sed gressus eius semitam iustitiae vestigia reliquit.
Et cum anima eius pervagaretur per nebulas, lumen de caelo super collis apparuit.
Et ecce, ostium erat ibi, clausum, sed pulchrum ut aurorae corona.

Et ante eum stetit ipsa Dea, induta veste candida, vultu leni et pleno misericordiae.
Dixitque ei:

 “Nomen tuum ignoratur ab hominibus, sed mihi manifestum est.
 Parvulos defendisti, silentia pietatis coluisti,
 et sine laude ambulasti in luce meae voluntatis.”

Et in pectore eius flos aurum ex luce floruit.
Tunc Dea aperuit portam et dixit:

 “Intra, fidelis. Haec est Aureola, requies animarum laudatarum.”


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