人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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今回はGeminiによる生成画像があります。




第九話 試行錯誤、カノンにて

 領主主催の演奏会に向け、ゼーレは衣装について考え始めた。旅の服では、さすがに格式ある場にはふさわしくない。魔法で作ることもできるが、職人によって細部までこだわって作られたドレスには到底及ばないはずだ。

 

「ねえ、ミリアルデ。演奏会に着ていく服、どうしよう……一ヶ月しかないし、今から仕立てるのは無理よね」

 

 ゼーレが困ったように言うと、ミリアルデは意外なことに、すぐに反応した。

 

「ああ、それは私も考えてたよ。既製品の中から、お直しで間に合うものを見繕うしかないね。せっかくだから、見に行くか」

 

 彼女の言葉に、ゼーレは少し驚いた。ミリアルデがそういったことに興味を示すのは珍しい。

 

 

 二人は、街で一番と評判の仕立て屋を訪れた。店の扉を開けると、ほのかな花の香りと、新しい布の匂いが混じり合った独特の香りが鼻腔をくすぐった。店内は路上から眺めることのできるショーウィンドウから柔らかな陽光が差し込み、色とりどりのシルクやベルベット、リネンなどの生地が山と積まれている。壁には、流行のドレスのスケッチが丁寧に飾られ、奥からは職人たちの軽快な音が聞こえてくる。

 

 上品な老婦人の店主が二人を笑顔で迎える。店主の白髪は丁寧に結われ、その指先は、長年布を扱ってきた職人の矜持を宿していた。節くれだった指は細く、爪は短く整えられている。指先の皮膚はところどころ薄く光沢を帯び、硬くしなやかだ。

 

「いらっしゃいませ。本日はどのようなお召し物をお探しで?」

「こんにちは。あの、今度の領主主催の演奏会に招かれまして……」

 

 ゼーレは演奏会の趣旨と、時間が限られていることを説明した。店主は心得たように頷き、奥から数着のドレスを取り出した。その中で一際目を引かれたドレスがあった。月光を思わせるような、控えめながらも気品ある輝きを放つ銀色のドレス。その生地は薄い絹でできており、光の角度によって様々な表情を見せる。胸元には、銀糸で繊細な花模様の刺繍が施され、裾は床に流れるように広がる優雅なデザインだった。

 

「ゼーレには、これが似合うと思うな」

 

 ミリアルデが、その銀色のドレスを指差した。ゼーレはそっとドレスを持ち上げる。繊細な刺繍が施され、流れるようなシルエットが美しい。冬の朝に凍った窓硝子の結晶のように銀色の糸が光を掠め、冷たくも美しい模様を描き出していた。

 

「でも、これは少し大人っぽいというか、私には……それに、サイズが合うかしら?」

 

「大丈夫。ゼーレの髪の色にも合うし、きっと舞台に映えるよ。それに、ゼーレは思ったより、こういうのも似合う。サイズは、少し手直しすれば問題ないでしょ」

 

 ミリアルデの珍しい褒め言葉に、ゼーレは少しばかり頬を染めた。

 

 店主も口を出す。

 

「お嬢様には、こちらのドレスもいかがでしょう。淡い空色の、軽やかなシフォン生地を重ねたようなデザインでございます。胸元から裾にかけて、水面に広がる波紋のように、同系色の糸で繊細な刺繍が施されており、光を受けるとごく小さなパールのようなビーズが、まるで水しぶきのようにきらめきます。若々しくも、ヴァイオリンの清らかで煌びやかな音色にふさわしいかと。どちらも、丈や幅を調整するくらいで済みそうですから、一週間もあればお直しできますよ」

 

 ゼーレはその空色のドレスにも目を奪われた。流れるようなシルエットと、光を受けて繊細にきらめく装飾。指先でなぞれば、消えてしまいそうなほど軽やかで、でも確かにそこに在る。そんな不思議な存在感があった。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「ゼーレ、気に入った?」

 

 ミリアルデの声を聴き、見とれている自分に気づいて、ふとまばたきをした。

 

 結局、ゼーレは銀色のドレスと、空色のドレスの二着を選ぶことにした。場面によって使い分けができるだろう。

 

「では、失礼いたします」

 

 店主は、机の引き出しから細く染められた絹紐を取り出した。節目ごとに小さな結び目が等間隔に結ばれており、それが寸法の目印になっているのだろうか。くるくると器用に巻かれた紐を解きながら、その端をゼーレの肩先にそっと当てると、肩幅を測るように背中を渡して反対の肩へと滑らせた。

 続いて、胸元の少し下に紐を通し、肋骨の上をなぞるように一周させる。絹紐は羽のように軽く、布越しにもほとんど重さを感じなかったが、それでもわずかに冷たさが伝わった。

 最後に、店主はゼーレの脇に軽く手を添え、腰のくびれに沿って紐を回す。指先が結び目を軽くつまんで、頭の中で計算しているようだった。

 測られているはずなのに、不思議と緊張はなかった。角に触られないか少しドキッとしたが、頭は採寸されない。熟練の職人特有の手際の静けさと淡々とした動きが、淡い水音のようにゼーレの心を落ち着かせていった。

 

 次に、ミリアルデが演奏会で着るための服を探し始めた。彼女は普段の旅の装いとは違う、少しだけ丈の長い、深い森のような緑色のシンプルなドレスを選んだ。装飾はほとんどなく、落ち着いた色合いだが、上質な生地が彼女のすらりとした体躯によく馴染んでいた。

 

「ミリアルデも、そういう服を着るんだね」

 

 ゼーレが思わず尋ねると、ミリアルデは表情を変えずに答えた。

 

「せっかくの機会だからね。変な服を着てあまり目立ちたくないし。シンプルでいいドレスだと思う」

 

 その言葉には、どこか彼女らしい照れが感じられた。ゼーレは小さく笑った。

 

 

 


 

 

 

 練習の合間の気晴らしに二人は午後のティータイムを楽しむため、街のカフェに立ち寄った。その店は、街の音楽家たちの間で「憩いの場」として知られており、常設されたピアノからは、絶えず誰かの奏でる音が流れていた。カフェの窓からは、通りを行き交う人々の姿が見え、時折、馬車の蹄の音が聞こえてくる。店内は、淹れたての珈琲と、焼き菓子の甘い香りが漂い、壁にはまだ新しい音楽家の肖像画が飾られていた。

 

 今日、漆黒の艶やかな箱の前に座っていたのは、指の動きがしなやかで、かつ力強い音を紡ぐピアニストだった。ゼーレは、その演奏を聴いて、はっと息をのむ。

 

「……この音色」

 

 ゼーレは思わずつぶやいた。ミリアルデも、カップを置く手を止め、静かに耳を傾けている。ピアニストの指先が、黒と白の鍵を軽やかに渡ってゆく。

 その音はただ美しいだけではない。しなやかで、鋭く、それでいてどこか語りかけてくるような響きだった。高音の連なりは風に舞う木の葉のように、低音は森の奥深くを這うように、静かに脈打っていた。

 

 演奏が終わると、ピアニストは席を立ち、近くのテーブルにいた友人らしき人物と軽く言葉を交わす。二人の話が、ゼーレとミリアルデの耳にも届いた。

 

「いやぁ、今日の演奏も素晴らしかったよ、フランツ。領主主催の演奏会、君の演奏が一番の目玉だからな」

「はは、どうも。だが、今年は都市外からの注目株もいると聞いている。油断はできないさ」

「ああ、あの自由演奏会でヴァイオリンを弾いていた娘だろう? 確かに珍しい音色だったが、フランツの足元にも及ばないさ」

 

 ゼーレは、その言葉に、わずかに眉をひそめた。しかし、フランツと呼ばれたピアニストは、友人の言葉に苦笑いを浮かべるだけだった。彼の視線がふとゼーレのほうを向いた。

 

「君、ひょっとして先日、広場でヴァイオリンを演奏していた方かな?」

 

 フランツは、にこやかながらも、どこか探るような視線でゼーレを見つめた。ゼーレは少し戸惑いながらも頷く。

 

「はい、そうです。あなたの演奏、とても素晴らしかったです」

 

 ゼーレが素直に感想を伝えると、フランツは少し驚いたような表情を見せた。

 

「ありがとう。君の演奏も、なかなか見事だった。特にあの、これまで聴いたことのないような速弾きは、新鮮な驚きだったよ。もし、よかったら……演奏会の打ち合わせの前にでも、少し話さないか? 君の音楽について、もう少し聞かせてもらいたい」

 

 フランツの言葉には、敵意や嘲りといったものは一切なく、純粋な音楽家としての好奇心と、相手への敬意が感じられた。

 

 ゼーレはミリアルデに目を向けた。ミリアルデは小さく頷いた。

 

「ええ、喜んで」

 

 ゼーレは頬を上げた。

 

 

 

 

 だが──

 カフェを出たあと、ゼーレの胸には静かなざわめきが残っていた。フランツの演奏、そのしなやかで力強く、音楽そのものが生きているような響き。彼の音に、ゼーレは自身の()()の音楽と()()の自分の音楽との間に、どこか深い溝があるような感覚を覚えた。

 

(もしかしたら私は……ただ、前世で学んだことをなぞっているだけかもしれない)

 

 心がぎしりと軋む音を立てた。

 彼の音には、確かな師匠から学んだであろう教えや形式がありながらも、彼自身の思いと在り方が、まっすぐに音になっていた。

 けれど自分は、人間だった頃の技術や知識を、魔族となった身体で模倣しているにすぎない。

 魂の底から湧き上がる音楽など、自分に本当にあるのだろうか。今の自分が奏でている音は、本当に「私」の音なのだろうか。

 

(私には、音楽すらも人間ではない“紛い物”なのかもしれない……)

 

 目を閉じれば、かつての舞台の光景がよみがえる。喝采。緊張。仲間の声。

 でもそれは今の自分とは、重ならない別の時間だった。

 

(……人の記憶を抱えたまま、魔族として生きている私は、一体どこに立っているんだろう)

 

 

その日はあまり眠れなかった。

 

 

 


 

 

 公式な演奏会まで、もうあまり時間は残されていない。

 ゼーレは宿の一室で、静かにヴァイオリンを構えていた。

 窓から差し込む朝の陽射しはまだ低く、東の空から斜めに射した光が、木の床に長く淡い影を落としている。楽器の表面に流れるような金の光。だがその暖かさは、どこか遠くのもののように感じられた。

 

 選んだ曲は、軽やかで洒脱な印象を与えるが、実のところ高度な技術と繊細な感情表現が問われる旋律だった。音のひとつひとつに、情熱と静けさ、喜びと哀しみが織り交ぜられている。

 

 ──けれど、今の自分に、それを本当に表現できるのか。

 

 フランツの演奏を思い出す。

 しなやかで力強く、技巧の陰に隠れた感情が、確かな息づかいとなって響いていた。

 あの音は、彼自身が彼として生きている証そのものだった。

 

 それに比べて、自分の音はどうだろう。

 

(私は……ただ前世の残響をなぞっているだけ)

 

 演奏するたびに思い出すのは、音楽学校での練習風景や、熱気に満ちた舞台裏の記憶。

 厳しい指導、仲間との切磋琢磨、観客の熱気──それらは、自分を確かに育てた日々だったはずなのに。

 今の自分には、どこか色褪せた幻影のようにしか思えなかった。

 まるでガラス越しに見ているような感覚。懐かしいはずの情熱が、手を伸ばしても掴めない。

 

 変わってしまったのは、世界ではない。自分自身だった。

 

(私は、結局のところもう人間ではない……)

 

 人を喰い、血を啜り、魔力で生きる。そんな魔族という存在。

 食事に喜びを覚えなくなって久しい。かつては食べるたびに笑顔を浮かべた甘味の味も、今ではただの栄養補給──しかも、大した栄養にはならない──として喉を通り過ぎるだけだった。

 音楽ですら、心を揺さぶるものではなくなりつつあった。

 舞台に立つ昂揚感、練習を積み重ねる悦び、仲間の音と呼応するあの確かな手応え──それらも、今の自分にはすり抜けていくように感じられた。

 

(私には、もう何も残っていないのかもしれない……)

 

 ヴァイオリンの音は、かつて救いだった。けれど今では、過去の亡霊を呼び起こす冷たい鏡にも思えてしまった。

 自分が奏でる音が、本当に「私」のものなのか。

 それは魂から生まれた音ではなく、ただ記憶の残り火をなぞっているだけの、模倣品ではないのか。

 

 人間だった自分。

 音楽に泣き、音楽に生かされていた自分は、もうどこにもいないのではないのか。

 

 そんな問いが、また喉元までせり上がってくる。

 構えた弓が、指先でほんのわずかに揺れた。

 

 それでもどうにか弓を引くと、不思議なことに、魔力とは異なるある種の力が指先から楽器へと流れ込むのを感じた。ゼーレの目は不可思議な光、魂にも似たエネルギーに見えた。

 

 ヴァイオリンが奏でる音色は、彼女の魂そのものだった。一音一音が、自身の過去と現在をつなぎとめ、どこか遠い場所へと橋を架けるように響く。

 

 ふいに、胸の奥が微かに震えた。

 

 音の響きがどこかに、忘れていた何かが触れた気がした。意識の底で、水面に小石が落ちるような感覚。反射的にまぶたを閉じると、視界の奥に光と風が走り抜ける。

 

 ──知っている、この感覚。これは、もっと前の記憶。魔族としての生よりもさらに奥にある、幼い頃の音の記憶。

 

 記憶が、音に引き出されるように溢れ出す。

 それは、まだ自分が魔族ではなかった頃の、幼い頃の記憶だった。五歳になったばかりか、あるいはもう少し幼かったか。陽が傾き始めた、ある日のことだったように思う。自宅からほど近くにある森だったのか、それとも、どこかへ遊びに行った先の森だったのか──その場所は定かではない。

 ただ、見慣れない深い木々に囲まれ、薄暗く、ひんやりとした空気に包まれていたことだけは、鮮明に覚えている。

 

 好奇心に駆られて森へと入り込み、やがて道が分からなくなった。

 声を出せば何かが応える気がして、声も出せなかった。

 夕暮れの森は、まるで世界から切り離されたように静かで、影ばかりが濃く、木の幹はまるで怪物のように歪んで見えた。

 泣き声にならない嗚咽が、喉の奥でくぐもっていた。

 

 そのときだった。風が、森を大きくうねるように駆け抜けた。

 

 ざわめきと、囁きが、同時に押し寄せてくる。

 頭上の葉が一斉に擦れ合い、「シャア……」という波のような音が響く。

 太い枝が「ギィ……ギィ……」と軋む低い音をくぐもらせる。

 足元の草むらからは、虫の羽音や小さな生き物の鳴き声が、細やかに、だが無数に音を立てていた。

 遠くでは、見たこともない鳥たちが風に乗って、警戒するように、あるいは楽しむように、不思議な節回しで鳴いている。

 

 それは、まるで見えないオーケストラの演奏だった。

 巨大で、制御不能で、どこまでも複雑で、どこにも安らぎのない音の奔流。

 一つひとつの音は確かに美しいはずなのに、それらが重なり合って生まれる「調和」すら、ゼーレには怖かった。

 

 世界が、自分の理解を超えた何かに支配されているように感じた。

 

 この森は生きている。音を発して、何かを語っている。

 けれどその言葉はわからない。わからないまま、全身を覆われる。

 あまりに大きすぎる音楽は、時に暴力にも似ていた。

 

 ゼーレは立ち尽くしたまま、ただ目を閉じた。

 耳を塞いでも、すり抜けてくる。

 泣くことも、叫ぶこともできなかった。ただ、聴いていた。

 圧倒され、捕らえられたまま。

 

 ──それが、彼女にとっての最初の音楽だった。

 美しかった。だからこそ、恐ろしかった。

 

 ──そして、次の瞬間。

 

 ふいに音が止んだ気がして、ゼーレは静かに目を開いた。

 その光に照らされた瞬間、全身を覆っていた音の余韻が、ゆっくりと剥がれ落ちていくようだった。

 耳が静かさに戻っていくにつれ、胸の奥に何か重たいものが沈んでいった。

 

 音楽に飲み込まれるように入り込んでいた記憶の森は、もう遠ざかっていた。

 風も、鳥も、虫たちの囁きも、もう聞こえない。

 ただ、あの音に捕らえられていた自分の幼さと、そこにあったどうしようもない怖さだけが、奇妙な温度で身体に残っていた。

 

 その残響は、まだ胸の奥にくすぶっていた。

 それが救いだったのか、呪縛だったのかは、まだ分からない。

 それでも確かに、自分の音楽は、あの森のざわめきと共に始まっていた。

 そのことだけは、なぜかはっきりと分かった。

 

 

 

 

「……そうだ、気晴らしにこっちも弾いてみようかな」

 

 しばらくして我に返ったゼーレは、楽器工房で手に入れた魔法楽器《メークリヒ》の習得にも挑んでいた。しかし、その道のりは決して平坦ではない。

 

「魔力が重い……。全然、音にならない」

 

 ゼーレは何度も息を吹き込み、細心の注意を払って魔力を注ぎ込んだが、メークリヒは沈黙を保ったままだった。

 陶器のような冷たい質感が、彼女の焦りを増幅させ、指先をかすかに震わせる。

 手のひらでメークリヒを転がすと、その表面はつるりとしていて、時折、小さな突起が指に触れる。それは、まるで不完全な卵のようだった。

 

 ──音が出る瞬間が、少し怖い。

 自分の魔力が、またあのときのように、何かを呼び起こしてしまうのではないか。

 さっき演奏中に蘇った音に呑まれる感覚が、まだ胸の奥にこびりついている。

 本当に音を出してもいいのか、心のどこかでためらっている自分がいた。

 

 つい先ほどから部屋に戻り、ゼーレの様子を見ていたミリアルデは、ふいにソファから立ち上がり、ゼーレの傍に寄る。

 

「んー、メークリヒの音が出ないときはね、まず諦めてみるの。無理に出そうとしないで、いったんリズムを刻んで、魔力を整えてごらん」

「リズム……?」

「うん、前に弾いてくれたあのピアノの曲、覚えてるでしょ? あれに合わせて、一定の量を、一定の間隔で魔力を出す感じ。そうすればきっと、うまくいくよ。メークリヒはさ、魔力の量よりも、その()()()をすごく気にするんだ。無理に押し込むんじゃなくて、そっと寄り添うように。ほんの少ししか音は出ないだろうけど、まずはちょっとでも音を出せるようになろう」

 

 ミリアルデの声は、柔らかな少女のような調子で、どこか気楽さを含んでいた。

 

「ほら、これ。音を記録する魔法が込められた結晶。これを使ってさ……」

 

 ミリアルデが懐から取り出したのは、旅の途中に立ち寄った魔道具店で手に入れた、音を記録する魔法が込められた結晶だった。手のひらに収まるほどの、透き通るような多面体の結晶。そこから、旅先の教会で弾いたピアノの音色が溢れてくる。

 

透明な結晶の表面が淡く発光し、その奥から優雅でいて力強い旋律が空間に満ちていく。あの時の、およそ三十年ぶりに弾いたピアノの感触──高揚が、蘇る。

 

 音に向かうのが怖いと感じていた気持ちが、ほんの少しだけ、ほぐれる。

 

「わたしに……できるかな」

 

 ゼーレはそう言ったあと、ほんの少し黙った。そして、思わず口をついて出た言葉に、ゼーレは自分でも少し驚いた。

 

「……さっき、ヴァイオリンを弾いてる時に、変な記憶を思い出したの。昔、森で迷子になって……ものすごく怖かった。ひとりぼっちで、声も出せなくて、ただ……音だけが周りに満ちてて」

 

 そこまで言って、言葉を探すように息をつく。

 

「その音が、まるで……巨大な何かに包まれてるみたいで。音楽、なのかもしれないけど……その時の私は、すごく、怖かった。美しいのに、逃げられない感じで……」

 

 視線はメークリヒの表面を見つめていたが、心は遠い場所にあった。

 

 ミリアルデはしばらく黙っていた。だが、珍しく、軽口ではなく落ち着いた声で言った。

 

「逃げられないほどの音……か。あるよね、そういうの。綺麗すぎて、むしろ暴力みたいに感じるとき。私も魔法を学んでいる時に経験がある」

 

 ゼーレは小さく目を伏せた。

 

「……あれが、音楽の始まりだったのかもしれない。でも、それを思い出した今、自分が音を出すのが、ちょっと怖くなって……。わたし、またあの音に呑まれたらどうしようって思ってる。今の私は……たぶん、あの頃の私と同じくらい、弱いのかも」

 

 それは、ゼーレにとってほとんど無意識の()()だった。

 前世のことを語らずとも、ミリアルデには何かが伝わったのかもしれない。

 

 彼女はにっこりと笑い、けれど声は冗談めかさなかった。

 

「そっか。それなら、呑まれる前に誰かをつかまえておけばいい。ね、音が怖いときは、隣でリズムを刻んでる人のこと、忘れないようにするんだよ」

 

 ゼーレは、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにそっと微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

 まだ完全には拭えない不安が、心の奥に沈んでいる。

 

 けれど、それでも音に向かってみようと思えるのは、いまこの空間に静かに寄り添う誰かの存在があるからだった。

 

 彼女は目を閉じ、自身の鼓動に意識を集中させる。

 心臓の鼓動に合わせて、魔力をわずかに絞り出すようにメークリヒに送り込むと、ついに、最初の音が、一瞬だけ震えるように響いた。

 それは、水面に落ちる一滴の雫のように、静かに、しかし確実に空気を震わせた。

 

 

 

 練習の合間、ふたりはときおり街を散策する。ゼーレが楽譜店の前で立ち止まると、ミリアルデがすっと隣に立つ。楽譜店のショーウィンドウには、古びた黄ばんだ楽譜から、真新しい刷られたばかりのものまで、様々な楽譜が並べられている。中には、手書きで、丁寧に描かれた装飾画が施された美しい譜面もあった。

 

「懐かしいの?」

「ううん。知らない曲ばかり。でも、私が楽器を始めて、お母さんに楽譜を買ってもらったあの頃のことを……思い出すよ。この街の楽譜は、まるで絵画のようね。一つ一つの音符に、演奏家の情熱が込められているみたい」

「そっか。顔が、ちょっと優しくなってる。悪くない、って思う」

「……ありがとう」

 

 ときにゼーレが子供向けの楽譜を見ていると、ミリアルデがくすっと笑って小声で囁く。

 

「次は、その譜面をゼーレが誰かに教える番かもね」

 

 ゼーレは少し照れながらも、「そうなれたら……いいな」と笑った。店主が、二人の様子を温かい眼差しで見守っているのが見えた。店主は白髪の老女で、眼鏡越しに優しげな目を向けている。彼女の手元には、修理中の古びたオルゴールが置かれていた。

 

 

 ある夕暮れ、ふたりは酒亭に立ち寄る。酒亭の扉を開けると、暖炉の薪がはぜる音と、人々のざわめき、そして芳醇な麦酒の香りが押し寄せた。木製のテーブルと椅子は使い込まれて光沢を帯び、壁には狩りの獲物の頭部や、古い武器が飾られている。窓からは、夕焼けが残る空の、深い藍色が垣間見えた。ミリアルデは中央諸国の名酒を一口含み、満足そうに目を細めた。

 

「ふふ……やっぱり美味しい。熟成が違うな。二十年ものでこの滑らかさなんて」

「音楽の話はしないの?」

「私は専門外だからね。でも、ゼーレの演奏を聴いてるの、けっこう好きだよ。なんていうか、ゼーレの音は、心が揺さぶられるんだ」

「……ありがと」

 

 ふたりのやりとりは、酒場の灯の中に穏やかに溶けていった。隣のテーブルでは、老いた吟遊詩人が、若かりし頃の冒険譚を静かに語り聞かせている。その声も、この街の音楽の一部であるかのようだった。吟遊詩人の横には、古びたリュートが置かれ、時折、彼が指で弦を弾くたびに、乾いた音が空間に響いた。

 

 

 

 

 

 

 そして数日後。ゼーレは広場の壇上に立った。

 胸は、ほんの少しだけ高鳴っていた──不安と期待のあいだを行き来する、落ち着かない鼓動。

 舞台の木肌は磨き上げられ、観客席を照らすために並べられたランタンの光が、その上にいくつもの影を落としている。

 広場は、夕暮れの柔らかな光に包まれていた。昼間の喧騒は影を潜め、人々の期待が静かに波紋のように広がっていく。

 

 ゼーレは、そっとヴァイオリンの弓を構えながら、ミリアルデの言葉を思い出していた。

 ──自分の音は、誰かの心に届くだろうか? たとえそれが、完全ではなくても。

 頭ではわかっている。けれど、自分の中の“恐れ”は、まだ消えてはいなかった。

 

 できるかどうか、まだ分からない。

 でも、今はそれでも──

 ただ、目の前にいる誰かのために、音を届けてみたい。

 

 最初の一音が響いたとき、広場の空気がわずかに張り詰めた。

 喧騒が静まり、音に耳を傾けるように人々の気配が変わっていくのがわかる。

 演奏が進むにつれて、群衆の魂が静かに輝きを増していく。

 日常の忙しさ、疲れ、苛立ち……それらが音楽に吸い寄せられ、やがて溶けていく。

 

 演奏を終えた瞬間、静寂がひと呼吸だけ場を支配し、すぐに温かな拍手が広がった。

 拍手は最初、まばらだったが、すぐに増幅し、やがて大きなうねりとなってゼーレを包み込んだ。

 その音は、まるで雨上がりの森で一斉に鳴き出す鳥たちのさえずりのようでもあり、拍手の中に混じる感嘆の声や嗚咽は、彼女の演奏が人々の心を深く揺さぶったことを示していた。

 

 それでも、ゼーレはまだ胸の奥にわずかなざらつきを残していた。

 あの音が、自分の()()()()だったのか、それともまだ模索の途中なのか、答えは出なかった。

 けれど──

 

 それでも、この音が誰かの心に届いたのなら、それでいい。

 そんな風に思えた自分に、少しだけ救われる気がした。

 

 完璧ではないかもしれないが、ゼーレの魂から紡ぎ出されるその音色には、聴く者の心を揺さぶる、抗い難い何かがあった。

 それは、街の喧騒を忘れさせるほどの力を持っていた。

 

 

 その夜、ふたりの宿には音楽協会の使者が訪れた。ゼーレに、領主主催の演奏会に向けた、打ち合わせの招待状を手渡した。使者の顔は、以前招待状を渡された昼間の老紳士とは異なる、若く真面目な顔立ちで、その手には、厳重に封がされた羊皮紙の筒が握られていた。

 

「正式な演奏会……なんだよね」

「ゼーレなら、きっと大丈夫だよ」

「魔族、でも?」

 

 ミリアルデは一瞬だけ黙り、酒の入ったグラスを掲げるように持ち上げた。グラスの中の琥珀色の液体が、宿の燭台の光を反射してきらめいた。

 

「魔族でも、人でも、舞台に立つ人に大切なのは、心のこもった音だと思うな。ゼーレの音は、誰の心にも届くはずだから。これまでもそうだったでしょ?」

 

 ゼーレは、その言葉を胸に刻むように、ゆっくりと頷いた。

 

 

 

 

 

 本番まであと二週間のその日、ゼーレとミリアルデは領主邸へと向かった。領主邸の石壁は、蔦に覆われ、古くからの歴史を物語っていた。重厚な木製の門には、領主家の紋章が彫り込まれており、その前には武装した衛兵が微動だにせず立っていた。邸宅の門をくぐると、広々とした庭園が広がり、手入れの行き届いた花々が色鮮やかに咲き誇っていた。噴水の水音が心地よく響き、まるで別世界に足を踏み入れたようだった。庭園の小道は、白い小石が敷き詰められ、その両脇には、色とりどりのバラが咲き乱れ、甘い香りをあたりに漂わせている。遠くには、小鳥たちがさえずる声も聞こえた。

 

 案内されたのは、重厚な装飾が施された応接間だった。部屋の中央には大きな楕円形のテーブルが置かれ、その上には燭台がいくつも並び、揺らめく炎が部屋を照らしている。壁には、歴代領主の肖像画が飾られ、その視線は部屋にいる者たちを見下ろしているかのようだった。窓からは、庭園の緑が覗き、光が室内に差し込んでいた。既に数名の音楽家が席に着いており、中には先日カフェで出会ったピアニスト、フランツの姿もあった。彼はゼーレに気づくと、軽く会釈をした。

 

 音楽協会の白髪の老紳士が、打ち合わせの進行役を務めた。紳士は、皺の深い指で眼鏡を押し上げ、落ち着いた声で話し始めた。彼の前に置かれた譜面台には、何枚もの羊皮紙が重ねられていた。

 

「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。領主様主催の演奏会について、最終的な打ち合わせを行いたいと存じます。今回の演奏会では、皆様それぞれの得意な楽曲を披露していただくことになっておりますが、いくつか注意事項がございます」

 

 紳士は淡々と説明を始めた。演奏順、持ち時間、舞台の配置、そして演奏中に特別な演出を希望する場合の申請方法など。ゼーレは、その全てを真剣な面持ちで聞き入っていた。彼女の隣に座るミリアルデは、いつものように無表情だが、その視線は紳士の一挙手一投足に集中しているようだった。

 

「……最後に、曲目についてですが、もし今回、新たな楽曲を披露される方がいらっしゃいましたら、譜面を事前に提出していただく必要がございます。これは、領主様が事前に確認されるためでございます」

 

 その言葉に、ゼーレの胸に微かな緊張が走った。彼女が今回演奏しようと考えている曲は、ドヴォルザークの「ユーモレスク第7番 変ト長調」だった。この世界には存在しない曲だが、その譜面は、彼女の頭の中に確かに存在していた。譜面は、まだ完璧な形にはなっていない。

 

 打ち合わせが終わり、他の音楽家たちが次々と部屋を出ていく中、ゼーレはしばらくその場に留まっていた。フランツが彼女に近づいてくる。彼の足音は静かで、ゼーレの隣に立つまで、ほとんど気づかれなかった。

 

「君は、やはり新しい曲を演奏するのか?」

 

 フランツの問いに、ゼーレは少し躊躇いながらも頷いた。

 

「はい……まだ、完全に譜面にはなっていないのですが」

 

「なるほど。それは楽しみだ。だが、間に合うのか? 領主様の演奏会は、この街で最も格式高い舞台だ。中途半端なものを披露すれば、この街の音楽家たちの顔に泥を塗ることになるぞ」

 

 その言葉に、ゼーレの胸の奥に冷たい針のような緊張が走った。

 わかっている。彼の言うことは正しい。

 でも──譜面にするには、まだ手が足りない。音は頭の中にある。前世でも、好きだった名曲。それが音楽として成立するのか、自分の音として受け入れられるのかは、まだ分からない。

 

(私の音が、前世の名曲が、誰かにとってただの()()な調べで終わったら──)

 

 そう思うと、喉が少しだけ詰まった。

 それでも、ゼーレは真っ直ぐにフランツの目を見て答えた。

 

「……分かっています。必ず、間に合わせます」

 

 言葉にした瞬間、自分の声がわずかに震えていることに気づいた。だが、もう引き返すつもりはなかった。

 

 フランツは、彼女の表情をじっと見つめたあと、うなずいた。

 

「そうか。期待しているよ、ヴァイオリンの君」

 

 フランツはそう言って、再び軽く会釈をして部屋を出ていった。彼の背中は、広間の重厚な扉の向こうへと消えていった。

 

 残されたゼーレは、静かな応接間にひとり立ち尽くしたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 

(本当に、できるの……?)

 

 小さく、心のどこかで声が囁く。幼い頃のあの森の中で感じた“理解を超えた音の恐怖”を思い起こす。だけど、今回は逃げない。今度こそ、自分の手であの音に向き合う。

 

 ただ過去の曲を再現するだけではいけない。

 これは、魔族となった自分が、この都市に、今の音で挑む舞台だ。

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