人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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第十二話 ルイン

 ルインの家は、素朴だが温かい薪の香りが漂う木造の家で、彼の祖母が静かに切り盛りしていた。家の中に足を踏み入れた瞬間、ゼーレはひどい疲労と安堵でその場に崩れ落ちそうになった。祖母は何も言わず、すぐに暖炉のそばに敷かれた布団を指し示した。

 

 数日間、ゼーレは高熱にうなされ、うわごとを繰り返した。その意識は深い闇の中を漂い、過去の情景と現在の苦痛が混ざり合う。

 

(ミリアルデ……! どこ……?)

 

 暗闇の中で、彼女は大切な人の名を叫んだ。しかし、返ってくるのは冷たい沈黙と、自らの声の空虚な響きだけだ。あの時、ミリアルデが身を挺して彼女を守った瞬間の衝撃が、何度も脳裏を駆け巡る。血の匂い、燃え盛る炎、彼女を包み込んだミリアルデの最後の魔力の奔流。

 

 

そして、あの女の冷酷な瞳。

 

 「駆除しないと」

 

 あの凍てつく声が、闇の中で響く。光すら飲み込む漆黒の瞳が、ゼーレの意識を貫く。紫色の魔力が空間を裂き、世界が歪む。ミリアルデの結界は無情にも砕け散り、ゼーレが放った《魂を操る魔法》は、まるで触れることすら許されないかのように弾き返された。魂の奥底から突き上げられるような激痛。あの時、何もできなかった自分。脳裏に焼き付くのは、花びらのように散りゆくミリアルデの姿。そして、自分を嘲笑うかのような、あの女の表情のない顔。動けない。声が出ない。抗えない。あの底知れぬ虚無を湛えた魂が、容赦なく迫りくる。

 

(私が、弱かったから……! 守れなかった、何もできなかった……!)

 

 胸を締め付けるのは、ミリアルデを失った悲しみだけではなかった。自分を庇って死んでいった彼女に対し、自分は何一つとして返せなかったという、拭い去れない無力感だった。魂すら操れる魔族として、誰よりも強くなければならなかったはずなのに、あの時、自分はただ、守られることしかできなかった。その事実が、焼けつくような熱と共に、ゼーレの全身を苛む。

 

「嫌……ミリアルデ……!」

 

 震える声が、夜中に響き渡った。

 

「また、魘されているねぇ」

 

 祖母が、熱を帯びたゼーレの額に冷たい布をそっと乗せながら、静かにルインに言った。ひんやりとした感触が、一瞬だけ、ゼーレの意識の闇に微かな光をもたらす。傍らに座るルインは、粥の入った椀を手に、心配そうにゼーレの寝顔を見つめていた。その表情には、どこか戸惑いと、少しの驚きの色も混じっている。まだ彼女のことは何も知らない。それでも、なぜか目を離せなかった。

 あまりにも人間離れした美しさ。けれど、夜中に名を呼び、震えていた姿は、どこまでも弱く、傷つきやすく見えた。自分が守らなければいけない、そう思ってしまったことに、ルイン自身が少し驚いていた。

 

「ひどい熱だ。傷も深いし……本当に、何があったんだろうな」

 

 ルインの声は沈痛に響いた。枕元に置かれた無残なヴァイオリンケースの残骸が、その過酷さを物語っていた。

 

「さあねぇ。でも、あんなにひどい傷なのに、不思議と化膿していない。この子は、並の人間じゃないよ」

 

 祖母は、皺の刻まれた指でゼーレの手をそっと握った。その手は、冷え切ったゼーレの掌に、じんわりとした温かさを伝えている。熱にうなされる中でも、その温かさはゼーレの心の奥底に、微かな安堵の灯をともす。

 

「魔族というやつ、なんだろうか……」

 

 ルインが、不安そうに尋ねた。ゼーレのビスクドールのような白い肌や、時折帽子の下からわずかに見える角が、彼には気になっていた。

 

「どうだか。でも、悪しき気は感じないね。ただ、ひどく傷ついて、怯えているだけだよ」

 

 祖母は、静かに首を振った。その瞳は、すべてを見通すかのように澄んでいて、ゼーレの心の奥底にある純粋さを見抜いているかのようだった。

 

「この子が目を覚ましたら、なんて声をかけたらいいか……」

 

 ルインは、困惑したように呟いた。助けたものの、どう接すればいいのか、まだ手探りだった。

 

「何も言わなくていいよ。ただ、温かい食事を用意して、静かに休ませてあげな。今は、それが一番の薬さ」

 

 祖母の言葉に、ルインはそっと頷いた。二人の献身的な介護は、傷ついたゼーレの心身に、ゆっくりと、しかし確実に染み渡っていった。ルインの祖母は、枕元に置かれたヴァイオリンケースの残骸を見ても、何も尋ねなかった。ただ、「大変な旅をしてきたんだね」と、すべてを包み込むような眼差しを向けるだけだった。

 

 やがて、熱が引き、ゼーレの意識はゆっくりと浮上した。まぶたを開けると、木造の天井が見える。薪の香りと、温かい布団の感触。ここはどこだろう。体が鉛のように重く、頭はまだぼんやりとしていた。

 

「……ん」

 

 微かなうめき声が、喉から漏れた。

 

「あら、目を覚ましたかい?」

 

 隣から、優しい老女の声が聞こえた。声の主はルインの祖母だった。彼女はゼーレの額にそっと手を置き、熱がないことを確かめるように頷いた。

 

「よかったね、坊や。熱が引いたよ」

 

 その声に、すぐそばで寝息を立てていたルインが目を覚ました。彼はがばっと起き上がると、不安そうにゼーレの顔を覗き込んだ。

 

「……大丈夫か?」

 

 この青年の声は、ひどく掠れて聞こえた。

 

「……あなたは?」

 

 ゼーレは、掠れた声で尋ねた。喉が渇き、声がうまく出ない。

 

「あ、ああ、俺はルインだ。お前、森で倒れてたんだ。覚えてないか?」

 

 ルインが、戸惑いながらも優しく尋ねた。彼の視線は、ゼーレの顔の端から覗く角に、一瞬だけ留まったが、すぐに逸らされた。

 

「……森……」

 

 ゼーレの意識は、まだ混沌としていた。ミリアルデとの別れ、そしてミーヌスに追われた過酷な記憶が、断片的に蘇る。

 

「そうだ。お前、何か食べるか? 祖母さんが粥を作ってくれたんだ」

 

 ルインが、温かい湯気を立てる椀を差し出した。ゼーレはゆっくりと身を起こそうとしたが、全身の力が抜けていることに気づいた。腕に力が入らない。

 

「無理するんじゃないよ。体が回復していないんだから」

 

 祖母がそっとゼーレの背に手を添え、ゆっくりと体を起こしてくれた。その温かい掌の感触に、ゼーレの目に涙が滲む。その優しさが、却って悲しかった。

 

 ゼーレは差し出された粥を、ゆっくりと口に運んだ。温かく、優しい味が、深く傷ついた心と体にじんわりと染み渡った。

 

 その温かさは胸を締め付けた。ミリアルデはもういない。あの温かい掌の感触は、もう二度と私の頬を撫でることはない。厳しい言葉の奥にあった、彼女の優しい眼差しを見ることもできない。私の音を褒めてくれることも、もう叶わない。意識がはっきりするほどに、その喪失が、現実として重くのしかかった。喉の奥が熱くなり、堪えきれずに、一筋の涙が静かに頬を伝った。

 

 

 

 熱が引き、体力が少しずつ回復してくると、ゼーレは自分の体の異変に気づき始めた。魔力が、ほとんど枯渇していたのだ。ミリアルデの最後の奔流で、その身を守られた代償か、あるいは極度の疲弊のせいか、以前のように魔力を操ることができない。ほんのわずかな光を灯すことすら、全身の力を振り絞らなければならなかった。

 

 同時に、ミーヌスに追われた際に負った生々しい傷跡も、体のあちこちに残っていた。しかし、ルインも祖母も、そのことに言及することはなかった。彼らはただ、ゼーレがゆっくり休めるように、温かい食事を用意し、静かな時間を与え続けた。

 

 ルインは寡黙な青年だったが、森での狩りや木工仕事はとても器用だった。ゼーレは彼について森へ行き、薬草や木の実の採り方、獲物の罠のかけ方などを教わった。彼女は、持ち前の学習能力の高さで、すぐにそれらの知識を吸収していった。

 そしてある程度の余裕ができたある日、ゼーレは《ヴァイオリンを作る魔法》で新たにヴァイオリンを作成した。しかし、心と体がバラバラになっているような、夢の中で落ち続けているような感覚に陥り、ヴァイオリンを弾くことはできなかった。まるで魂にぽっかりと大きな穴が開いたようだった。

 

 

 

 この村での日々は、ゼーレにとって、これまでの旅とは全く異なるものだった。常に隣にいたミリアルデはもういない。それでも、ルインと村人たちの素朴な温かさ、そして森の静けさの中で、ゼーレは少しずつ調子を取り戻していった。誰かに頼られ、誰かのために何かをすることの喜び。そして、何よりも、誰かが自分を案じてくれる温かさ。それは、ミリアルデが与えてくれた、言葉を超えた愛情とはまた異なる、新たな感情の形だった。

 

 傷つき疲弊した心と体は、ルインたちの手によって少しずつ癒されていく。しかし、枯渇した魔力と、ミーヌスに追われた際に刻まれた心の傷は、そう簡単には消えない。夜中に魘されることもあった。そして、魔族としての本能が、弱った身体にある種の()()を囁き始めるのを感じていた。彼女の理性では抗いがたい、根源的な飢え。

 

 森の村で得られる食料は温かく体を満たすものであった。シチュー、焼いた根菜、狩りで獲れた鳥や小動物の肉。だが、それらをいくら口にしても、ゼーレの魔力は満たされない。腹は膨れても、内側から空虚な、乾きのような感覚が消えなかった。それは、純粋な生命活動に必要な栄養とは異なる、()()という根源的な渇望だった。

 

 日に日に、魔力の枯渇はゼーレを蝕んでいった。手足の先端から冷えが広がり、思考は鈍り、かつて鮮やかに見えていた人々の魂の光も、今は膜がかかったようにぼやけて見える。そして、最も恐れていたことが、現実になりつつあった。理性では抑えきれない、本能的な衝動が、身体の奥底から込み上げてくるのだ。

 

 


 

 

 ある日、ルインと共に森へ狩りに出た時のことだった。新しく仕掛けた罠にかかっていたのは、まだ若い猪だった。暴れる猪を取り押さえようとしたルインの腕に、鋭い牙が食い込んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 ルインの口から、短い呻きが漏れる。ゼーレは反射的に彼の方を見た。ルインの腕からは、どくどくと血が流れ出ている。その鮮やかな赤色が、ゼーレの視界を染め上げた。

 

 刹那、ゼーレの脳裏に警鐘が鳴り響いた。いや、それは警鐘ではない。飢餓の本能が、歓喜の声を上げているのだ。

 

 温かく濃厚な鉄の匂いが、鼻腔をくすぐる。魔族としての生の中で、決して触れてはならないと理性で縛り付けてきた、禁断の甘い香りだった。血の匂いは、ゼーレの枯渇した魔力の中枢を直接揺さぶり、意識を酩酊させる。喉の奥が勝手に渇き、口の中には耐え難い唾液が湧き出てきた。

 

 ルインは、腕を押さえながらも、苦痛に顔を歪めてゼーレに言った。

 

「くそっ……油断した。早く村に戻って手当てを……」

 

 その声は、ゼーレの耳にはほとんど届いていなかった。彼女の意識は、ルインの腕から滴り落ちる血の一滴一滴に囚われていた。紫がかった光を放つルインの魂の輝きが、まるで一流パティシエのスイーツのように、甘美な香りを放っているように見えた。

 

 気がつけば、ゼーレの体は、ルインの腕へと吸い寄せられるように動いていた。意志とは関係なく、抗いようもなく、本能が彼女を突き動かす。潤んだ瞳がルインの傷口に固定され、僅かに開いた唇から二本の鋭い牙が顔を覗かせる。

 

 ルインは、ゼーレの異様な様子に気づき、わずかに目を見開いた。彼が何かを言うよりも早く、ゼーレの唇が、温かい傷口に触れた。

 

 ちゅ、と、舌が皮膚に触れ、甘い鉄の味が口腔いっぱいに広がった。それは、村で食べたどんな料理よりも遥かに芳醇で、生命力に満ちた味だった。舌の上で踊る血は、まるで生きているかのようにゼーレの喉を滑り落ち、その一滴一滴が、枯れ果てた魔力の源泉に直接注ぎ込まれるようだった。身体の奥底から、ゾクゾクとした快感が駆け巡る。視界がクリアになり、鈍っていた思考が急速に活性化する。世界が、再び鮮やかな色を取り戻していく。

 

 甘い血の味に、もう一歩、深く。ゼーレの牙が、無意識にルインの皮膚を強く食い破ろうと突き立てられた。もっと、深く。この快感を、もっと奥まで。血肉を貪りたいという、抗い難い衝動が、全身を駆け巡る。彼女の顎が、獲物の喉を食い破るかのように、震えた。

 

 ああ、なんてことだ。この甘美さこそ、私が求めていたものだったのか。

 

 しかし、その快感の絶頂で、ふと、脳裏にミリアルデの顔がよぎった。あのミリアルデが必死になってゼーレを逃がそうとしたときの、優しい眼差し。それがゼーレの理性の壁を叩いた。そして、ルインの困惑と、わずかな恐怖が混じった魂の輝きが、彼女の視界に飛び込んできた。

 

 ゼーレの体が、大きく震えた。

 

 違う。これは、違う。

 

 彼女は、既のところで頭を振り、ルインの腕から顔を離した。口元には、鮮血が滲んでいる。

 

 血を吸うことを諦めたかのように、ゼーレは傷口を舐め始めた。まるで獣が傷を舐めるように、懸命に、そして何度も。舌の感覚が、血の温もりと、ルインの皮膚の感触を鮮明に伝える。そうすることでこれ以上、深淵に足を踏み入れまいとする、彼女自身の微かな抵抗だった。

 

 そして、その行為は彼女の心の奥底に、拭いがたい甘美な記憶を刻み込んだ。魔力に満たされた身体は、久しく感じなかった充足感に浸っている。それは、快感と、罪悪感と、そして、抗いようのない本能的な引力に複雑に絡み合った感情の渦だった。

 

 ルインは、困惑した顔で、ただゼーレを見つめていた。恐ろしさがなかったわけではない。だが、ゼーレの震える肩と伏せられた目を見た瞬間、ふいに胸が締めつけられた。彼女を拒絶したくない。この痛みが、彼女を遠ざける理由にはならない──そんな思いが、確かに胸の内にあった。

 

 ゼーレは、彼の視線から逃れるように、顔を伏せたまま、震える指先で自分の口元を拭った。

 

 この瞬間ゼーレは、自らの内に潜む()()という存在を、最も強く、そして明確に自覚したのだった。それは血を吸い、魔力を回復させるという行為がもたらす、逃れられない現実だった。

 

「……ごめんなさい」

 

 ゼーレは顔を伏せたまま、震える声で呟いた。ルインの腕からはまだ血が滲んでいる。彼の困惑した視線が、痛いほどゼーレの頬を焼いた。

 

「ゼーレ……?」

 

 ルインの声は、訝しむというより、不安と少しの怯えを含んでいた。ゼーレはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、いつものように感情を押し殺したままだったが、その奥には、深い苦悩と切迫した願いが宿っていた。

 

「私は……あなたたちが知るような人間ではない。この体は、あなたたちとは異なる仕組みで動いているの。そして、この怪我を治すためには、普段以上に魔力が必要なの」

 

 ルインの目が見開かれた。彼の顔色から、血の気が引いていくのが見て取れる。だが、ゼーレは言葉を止めなかった。

 

「普通の食事では、足りない。私の魔力は、今、ほとんど枯渇している。このままでは、身体が完全に回復しないどころか、生命維持にも影響が出てしまうかもしれない。だから……あなたの、血が必要だった。あなたの魔力が、私の傷を癒やすのに必要なのよ」

 

 彼女は、まるで言い訳をするように、しかしどこか諦めたように言葉を紡いだ。その声には、自身の本性を晒すことへの羞恥と、ルインを恐れさせてしまうことへの罪悪感がにじんでいた。

 

「……私の言葉を信じられないなら、それでいい。あなたが私を恐れ、この村から追い出すと言うのなら、それも構わない。でも、ルイン……私がこの傷を癒やし、再び旅立てるようになるまで、どうか……あなたの『魔力』を、少しだけ分けてくれないかしら?」

 

 ゼーレの言葉は、そこで途切れた。彼女の視線がルインの瞳に、まっすぐ固定された。その切実な眼差しには、助けを求める純粋な、しかし有無を言わせぬ強い力が込められていた。言葉の端々に、ルインの好意への無言の訴えが含まれている。彼女の口元には未だ、ルインの血の痕が生々しく残っていた。

 

 ルインは、彼女の言葉を受け止めるかのように、黙ってゼーレの瞳を見つめ返していた。その瞳に宿る切実な願いは、どこか儚げで、けれど抗えないほどの力を持っていた。()()()()と思ってしまった時点で、自分の気持ちはもう決まっていたのかもしれなかった。

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