人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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エピローグ 甘美な待望

 石畳が整然と敷かれた帝都の広大な一角に、煌びやかな女神の教会、帝国最大のカセドラルの威容がそびえ立つ。世界で最も魔法が発展した帝国において、その女神の魔法の頂点に立つ大聖堂。信仰と魔法の最終権威にして、知の総本山であった。そしてその大聖堂の中に、秘かに聖杖法院の本拠地もまた存在した。聖杖法院の最も奥まった、陽光すら遠慮がちに差し込む特別な一室で、ミリアルデの本体は深々とクッションを敷き詰めた豪華な長椅子に身を沈めていた。

 

 彼女は、この帝国の法院長。本来であれば、その権威を象徴するような厳かな雰囲気を纏っているはずの存在。だが、今日の彼女は、どう見ても()()を謳歌する凡庸な貴族婦人にしか見えなかった。

 

 傍らには、見たこともないほど豪華なクリームがたっぷり乗った、三段重ねのベリータルト。一切れを優雅に口に運びながら、彼女は、手のひらでたゆたう一筋の光をぼんやりと見つめていた。

 それはこの数年間、彼女自身が操作した分身──本体の八割に迫る魔力を扱わせることができるが、魔力消費が激しい──が旅して得た()()()()が光の奔流となって戻りきたものだった。それは本体へと還元された分身自身の魔力と経験、そして過去の記憶の一部そのものだった。ミリアルデは分身を操ることができたが、それもただの遠隔操作ではない。分身は文字通り彼女の完全な複製体であり、その思考、知覚、そして感情の機微までもが、本体の意識と直結していた。

 

「ふむ……」

 

 ミリアルデの長い指が、光の筋をなぞる。まるで古文書を読み解くように、しかしその表情には、どこか満足げな、あるいは楽しげな微笑みが浮かんでいた。彼女の周りには、宙に浮かぶ無数の古めかしい魔法書が、まるで生き物のように蠢いていた。時折、一冊が優雅に彼女の手元へと舞い降り、そのページが自動的に開かれる。

 

 彼女は、その魔法書をちらりと一瞥すると、興味なさげに別の魔法書へと視線を移し、また次のケーキの一口を味わった。膨大な知識の奔流は、彼女にとって、もはや日常の一部であり、時にはケーキの合間に嗜む、ささやかな暇つぶしに過ぎない。

 

 ふと、彼女は手元の光の記録から顔を上げ、琥珀色のワイングラスを傾けた。芳醇な香りが空間に満ち、その液体が喉を滑り落ちるたび、彼女の魂の輝きが、ほんのわずかに深まった──ゼーレがいればそう言っただろう。このワインもまた、数百年前に人間界で醸造され、遥か昔に収集されたものだ。保存魔法により、いつでも最適な状態で飲むことができるのだ。

 

 その時だった。

 

 ミリアルデの口に運ばれようとしていたベリータルトが、コン、と小気味よい音を立てて皿へと戻された。彼女の瞳に、わずかな動揺がよぎる。それは、分身がミーヌスと対峙し、そして打ち砕かれた直後、激しい衝撃と共に意識が本体へと叩きつけられた瞬間だった。

 

 視線を向けた先には、膨大な黄金色の光の粒子が、ゆっくりと、しかし確実に彼女の本体へと吸い込まれていく光景があった。それは、ミーヌスとの壮絶な戦いの末、砕け散ったミリアルデの分身が、長い時間をかけて本体へと戻ってきた証だった。分身が経験した痛み、そしてゼーレを守り抜こうとした最後の意志が、静かに、しかし確かに彼女の意識に流れ込む。彼女は、それをただ淡々と受け入れた。分身が経験したすべては、本体ミリアルデの知識と経験として蓄積される。本来であれば個人的な感情の揺れ動きはほとんどない。千年を優に超す年月を生きた存在にとって、個別の感情は、大河の一滴に過ぎないのだ。しかし、それでも、分身が最後に感じたあの熱い『意志』は、ミリアルデの深淵に、微かな波紋を立てたかのようだった。

 

 それにしても、その日のミリアルデは、いつになく飲んで、そして食べていた。ティーカップには、三杯目の紅茶が注がれ、その隣にはすでに空になったブランデーの瓶が転がっている。通常であれば、日々の業務をこなし、帝国の行く末を案じ、魔法の発展に尽力するはずの法院長が、ここ数日、ひたすら甘いものと酒を嗜み、ぼんやりと光の記録を眺め続けているのだ。

 

 給仕係の人間は、盆を持ったまま、戸惑いを隠せない。彼女の主は、普段から感情を表に出すことは少ないが、ここまで虚無的で、ただひたすらに()()()()()()()()()かのような様子は、見たことがなかった。

 

「法院長様……何か、お召し上がりになりますか? それとも、聖杖法院の会議が……」

 

 給仕係が恐る恐る声をかけると、ミリアルデは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、依然として遠い場所を見つめているようだった。

 

「……構わない。今は、何も」

 

 彼女の声は、普段の冷徹な指揮官としての響きとは異なり、どこか力がなく、宙を漂うようだった。それは、分身として人間世界を旅し、特定の存在と深く関わることで、一時的に抑制されていた彼女本来の虚無主義的な本性が、分身の破壊によって再び顔を出し始めているかのようだった。千年を超える生の中で、ほとんどの事象は取るに足らない()()でしかなく、感情もまた、移ろいゆく一時的なものに過ぎなかった。

 

「……ああ、自鳴琴を持って来てくれ。金の装飾が施されたやつ……36番だったかな」

 

 部屋の隅で待機していた従者が1人、ぺこりと頭を下げ、保管庫へと向かった。

 しばし、静寂が部屋を包む。

 

 

 

 はあ。

 ミリアルデはうっとりと顔を綻ばせる。

 

「……全く。あの子は、随分と面白いものを見せてくれたわね」

 

 ミリアルデは、空になったワイングラスを卓に置くと、給仕係が用意した、まるで宝石のように輝く真っ赤な林檎飴を一つ手に取った。透き通るような飴の中に閉じ込められた真っ赤な林檎。

 

 ──私にも魂が見れたら、あの子は……

 

 パキ、と薄い飴の層が割れる小気味良い音と共に、冷たく、甘い果汁が口いっぱいに広がった。それは、一見すると無垢で甘美な誘惑。だが、その林檎の芯には、微かな酸味が、そして確かな生命の息吹が宿っていた。

 

 ノックの音。

 

「失礼いたします。ご所望の三十六番の自鳴琴でございます」

 

 従者が恭しく告げ、白手袋をはめた指先でそっと金細工が施された蓋を開く。蓋が静かに持ち上がり、内部の細工がちらりと覗いた。

 

「ああ。動かしてくれ」

 

 ゼンマイが巻かれ、機械仕掛けの音がかすかに鳴る。

 

 次の瞬間、豪奢な部屋に柔らかな旋律が流れ出す。自鳴琴の音は、まるで時を忘れさせるような静謐さで空間を満たし、宗教画が施された高い天井に反響していった。

 絹張りの壁が音を優しく包み込み、ひとつひとつの音符が、まるで宙を舞う羽のように漂っていく。

 

 ミリアルデは何も言わず、ソファの背に深く身を預けた。眼差しは半ば虚空を彷徨い、わずかに動いた指先が、旋律に合わせて空中をなぞる。

 

「……ゼーレはいつ、この帝国にやってくるのかなあ。300年くらいまでは待ってあげるけど……、何時までも来なかったら捕まえに行っちゃおうかな」

 

 感情の起伏のない、しかしどこか人間的な響きを含んだその言葉は、豪華絢爛な聖杖法院の一室に、静かに響き渡った。ミリアルデの瞳は、再び光の記録へと向けられる。その瞳の奥には、変わらぬ悠久の時が流れている。そして口元には、赤い飴の欠片が小さく光っていた。








第一部完結です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。次回更新は8月上旬の予定です。
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