人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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第六話 賛美歌

 朝、ゼーレは村の畑に立っていた。

 

 春の空気はまだ冷たく、吐く息がうっすらと白んで見える。朝露が陽にきらめき、地面をうっすらと濡らしていた。足元の土は霜の名残で固く、鍬の刃先が跳ね返るような感触がある。硬い地をほぐすたび、鉄と土の匂いが鼻をくすぐった。

 

 村の男たちは手慣れた様子で鍬を振るい、黙々と畝を立てていた。道具の動きは無駄がなく、リズムに乗っている。ゼーレも一本の鍬を借りて土を掘るが、違和感が抜けなかった。

 

 腕も足も痛くない。呼吸も乱れない。むしろ身体が機械のように正確に動く。それが、人間だったころの感覚から大きく逸れていた。

 

 自分の手が動いているのに、それが自分の意思から生まれたものではないような不思議な距離感。まるで演奏していた楽器の音が、ある日突然、音楽とは別の何かに聴こえ始めたときのようだった。

 

 数度の作業のあと、ゼーレは鍬を置いた。不慣れなことの真似をして無理をするより、自分にできることをやろうと決めた。

 

 ゼーレは両手を広げ、そっと魔力を流す。地中の水脈に触れる。指先の感覚で、土の層の変化が伝わってきた。魔力は地面をほどくように滑り込み、凍った地層をなだらかに緩めていく。

 

 やがて土が浮き上がり、空気を含んでふわりと崩れた。

 

「魔法……か」

 

 隣で鍬を振っていた初老の男が、小さく息を漏らすようにつぶやいた。驚きというより、明らかに様子をうかがうような声音だ。

 

「ええ。少しだけ」

 

 ゼーレは抑えた声で返す。

 

 土の動きに子どもたちは目を輝かせたが、大人たちは一様に慎重な視線を向ける。中には、無言で目を伏せる者もいた。表立った拒絶ではない。ただ、その距離の取り方に、ゼーレは微かに胸の奥を締めつけられる思いがした。

 

「土は繊細なもんだ。あまり急に動かしすぎると、作物がびっくりする」

 

 そう言った男の言葉には、見慣れない力に対する戸惑いと、自分たちのやり方への確固たる信念が滲んでいた。

 

「気をつけます」

 

 ゼーレは深く頷いた。

 

 午後は、井戸の水汲みを魔法で手伝った。水面から半球状の水を持ち上げ、桶にそっと注ぎ込む。だが、力を抜きすぎた拍子に水の一部がはじけ、村人の裾を濡らしてしまった。

 

「あっ、ごめんなさい」

 

「はは、風でも吹いたのかと思ったよ」

 

 濡れた男は笑って受け流してくれたが、ゼーレは自分の集中がまだ不安定だと痛感した。

 

 魔法で刈り草を集めたときも、勢いが強すぎて土埃を巻き上げ、年配の女性に目を細められた。

 

「便利だけど、慣れが要るね」

 

「……ええ、練習中ですから」

 

 笑って受け答えながらも、ゼーレは自分が()()であることを改めて実感していた。

 

 

村社会というやつかな、と心の中でつぶやく。

 

 

 陽が傾き始めた頃、ゼーレは村の広場の縁に腰を下ろした。

 

 空は淡く染まり、炊き出しの煙が風に溶けていく。夕餉の支度が始まり、子どもたちの笑い声が遠くに転がっていた。鍋の匂い、火のぱちぱちとした音、誰かが薪を割る鈍い音が重なり合い、夕刻の風景を満たしていた。

 

「思ったよりうまくいかないな」

 

 魔法を使うことはできても、まだまだ制御は甘い。さすがにぶっつけ本番過ぎたのだろう。

 

 そのとき、昨日の少女がまたやってきた。

 

「お姉ちゃん、昨日の話のつづき、してくれる?」

 

 ゼーレは少女の隣にある石を軽く叩いて、そこに座るように促した。

 

「昔の話……いいよ」

 

 少女の目がきらきらと期待に輝く。ゼーレはゆっくりと語り始めた。

 

「……私がいた場所はね、海の向こうの、風が冷たいところだった。空気が澄んでいて、建物は石でできてて、冬になると街が白く埋もれてしまうくらい雪が降ったの」

 

「雪、見たことある! 村にも降るよ」

 

「そう……でも、あっちはもっと静かだった。音も、人の声も、全部が凍りつくみたいに」

 

 ゼーレは遠くを見るように目を細めた。

 

「そこで、私は音楽を学んでいたの。声を使って歌ったり、弓で弦を鳴らしたり。楽譜っていう、不思議な記号でできた地図みたいなのを読んで、音を紡いでいた」

 

「地図みたいな音……?」

 

「そう。楽譜っていうの。ひとつひとつの音が、誰かの気持ちみたいに並んでて……それを演奏すると、誰かの心に届く」

 

 

 

 思い出すのは、灰色の石畳を踏みしめて通った音楽院の廊下。冬の朝、凍りつくような空気の中を、マフラーに顔を埋めて走った。

 

 建物の中は石造りでどこか冷え冷えとしていたが、練習室に入ると空気が変わる。ピアノの音、誰かの発声練習、弓を弦に擦る音が絶え間なく響いていた。

 

「なぜそんな音を? それでは作曲者の意図とは真逆だ」

 

 あのドイツ人の教授は、譜面を覗き込んでは、無慈悲にそう言った。私の解釈を、音楽的でないと断じたときのあの視線──淡々としていながら、心を突き刺すようだった。

 

 けれど、くじけたくなかった。夜、寮の廊下の先にある狭い練習室で、私は友人たちと交代でピアノを弾き、弓の角度を確かめあった。

 

「このフレーズ、もっと語りかけるようにしてみたら?」

 

「うるさいな、わかってるよ」

 

「は?」

 

「は?」

 

 …………。

 

「わかったよ。じゃあ、あなたの呼吸に合わせてみる」 

 

 その時間だけは、音が言葉になっていた。国も文化も違ったけれど、音を通して確かに心が通っていた。

 

 コンクールの前夜、緊張で眠れなかった私の背を、ルームメイトが黙ってさすってくれたこと。本番で出番を終えて袖に戻ったとき、客席の一番後ろで立ち上がって拍手してくれた恩師。準優勝。けれど、それ以上に意味のある瞬間だった。

 

 音楽は、ただの技術や表現じゃなかった。生き方であり、祈りであり、自分という存在そのものだった。

 

 だからこそ──今、声を出すたびに、その空白が苦しかった。

 

 

 

 

 少女は口をぽかんと開けて聞き入っていた。

 

 ゼーレは立ち上がり、広場の一角に置かれた木の箱に腰をかけた。

 静かに目を閉じ、深く呼吸を整える。身体の内側に、微かな魔力の脈動を感じた。

 

 唇が開き、柔らかい旋律が流れ出す。それは、かつて礼拝堂の厳かな空間に響き渡ったような、清らかな賛美の歌だった。

 

 歌声は澄んだ空に溶け入り、広場にいた人々の動きを、まるで時間が止まったかのように一瞬止めた。

 子どもたちが息をのむ。大人たちも足を止め、静かに耳を傾けている。

 

 けれど──ゼーレは、自分の声に拭いきれない違和感を感じていた。

 

 声は出る。音程も正確に保てる。

 けれど、心が音に乗らない。音色は確かにそこにあるのに、魂が響き合わない。温もりが足りない。情熱も、悲しみも、喜びも、かつてのように歌声に込められない。

 

 ──この声は、もう昔とは違う。

 

 歌い終えると、堰を切ったように拍手と歓声が上がった。少女が目を輝かせて駆け寄ってくる。

 

「お姉ちゃん、すごい……本当にお歌上手だったんだね!」

 

 ゼーレは静かに頷く。

 

「音楽はね……ずっと、私の道しるべだった。でも、今の声は、前とは少し違うの」

 

「なんで?」

 

「わからない。でも……きっと、変わってしまったから。体も、声も、そして心も」

 

 そう言いながら、ゼーレは空を仰いだ。

 

 それでも、誰かに届けようと歌った声に、あたたかな反応が返ってきた。

 それだけで、今日は少し報われたような気がした。心は完璧に満たされずとも、その小さな喜びが胸に灯った。




Bach, Johann Sebastian. Jesu, Joy of Man's Desiring
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