人形姫のゼーレ   作:Macht und Glück

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第八話 決着、決別

 影纏いの狼とゼーレは、わずか数歩の距離で対峙していた。

 

 狼は、湿ったような黒い毛並みを揺らし、唸りもなく静かにゼーレを見据えている。その目は、ただの獣のものではなかった。獲物としてではなく、敵として捉えている──そんな、鋭く深い意志のようなものを感じさせた。

 

まずは小手調べだ。ゼーレは意識を相手の魂へと集中させ、掌握しようとする。しかし、魂に触れられた影纏いの狼は瞬時にゼーレに接近、飛び掛かる。《魂を操る魔法(セレフィドゥラーナ)》は不発。

 

ゼーレは大きく飛びずさった。

 

(魂を操る魔法はまだ使えないな。やはり狼、勘が鋭い。ならば……)

 

 ゼーレは魔力を指先に収束させ、静かに構えを取った。肌をかすめた傷が、じわじわと痛む。けれど、それよりも緊張の方が大きい。初めての実戦。命を懸けた攻防。失敗は即ち死を意味する。

 

 空気が、揺れた。

 

 狼が、飛んだ。

 

 ゼーレは地を蹴って右へ跳び、すれ違いざまに攻撃魔法を放つ。

 

彼女の脳裏に投影されていたのは、前世で一度だけ見たアニメの光景だった。

 ──あれは確か、某テレビ局の二時間スペシャルでのことだった。

 あの崖の上の大岩を打ち抜き、義父を安心させるために少女が放った強力な魔法──ゾルトラーク。

 

 ゼーレは当時、それを絵空事として受け止めていた。けれど今、魔力を集めるこの動作に、違和感はなかった。

 

 なぜか分からないが、それは当然のことのように思えた。

 魔法はイメージで発動する。そう知っていて、そう信じる自分がいた。

 

 光が手のひらから奔り、夜を裂いた。光を帯びた直線的な魔力が閃光のように迸り、狼の側をかすめて地面をえぐった。だが、狼は空中で軌道を変え、回避と同時に着地してすぐさま方向を変えた。

 

「くそ、速い……!」

 

 魔力の気配は常に感じている。なのに、動きの一瞬一瞬が身体で捉えきれない。魔力の読みと実際の速度に、ほんのわずかな誤差がある。それが命取りになる。

 

 ゼーレは回避を続けながら、狼の動きを追い、次々に直線的な魔力光を放つ。だが速さについていけず、連射の制御が甘く、軌道がずれる。

 

 攻撃の威力と範囲が大きすぎた。狼を吹き飛ばすたびに、家屋の壁が崩れ、木々が折れる音がした。民家が、森が、ゼーレの魔力で損なわれていく。

 

 このままでは、村全体が巻き添えになりかねない──。

 

 そのときだった。闇の中から、さらなる黒い影が飛び込んできた。

 

 影纏いの狼たちが音もなく柵を越え、一斉に侵入してきた。黒い毛並みは月光を弾かず、まるで夜そのものが動いているかのようだった。

 

 ゼーレは即座に反応。白く細い魔力の湯気が視界に広がり、複数の気配を即座に探知する。接近する数、五体──そのうちの一つは、他とは異なる濁りと重さを帯びていた。

 

「来るわ……!」

 

叫ぶと同時に、最も近い一体に向けてゾルトラークの真似事──魔力光の魔法を放つ。直進する白い魔力は狼を弾き飛ばし、同時に柵ごと周囲の木材を吹き飛ばす。小屋の壁が大きくえぐれ、土煙が夜空に舞った。

 

制御が甘い。ゼーレは痛感していた。

 

だが、余裕はなかった。戦うことは前世で見たアニメや漫画でしか知らない。これは初めての命を()()()()()()()()の状況だ。

 

ヘルトが弓を構え、正確に一矢を放つ。一体が矢に貫かれて倒れるが、それでも残りは村の中央部へと突進していく。

 

「家の中へ! 子どもを連れて! 早く!」

 村長の叫びが飛ぶ。

 

ゼーレは魔力を集中し、足元の地面から土を跳ね上げて遮蔽を作る。しかし狼たちはそれすら跳び越え、ある一体が子どもを狙って走る。

 

その子は──あの子だった。あの、歌をせがんだ少女。

 

ゼーレの視線が鋭くなる。魔力が指先に収束していく。

 

だが、動きが止まる。

 

──なぜ、私が人間を助ける必要がある?

 

心の中の非人間的な本能が、心の内で冷酷に囁く。この余裕のない戦況で、己の力を使ってまで、助ける価値が本当にあるのかと。

 

けれど、すぐに別の思考が脳裏をよぎる。

 

──そんなの、当たり前じゃない。

──助けるのが、正しいことだから。

 

ゼーレは魔法を放つ。

 

だが、その僅かな思考の遅れは、戦場では致命的なまでに遅かった。

 

少女の体が、影に跳ね飛ばされる。

 鈍く、嫌な骨の砕ける音がした。

 

ゼーレの放った魔法は狼を吹き飛ばしたが、同時にその周囲にいた大人──少女の父親らしき男を巻き込んだ。魔力の余波に巻かれた男は、壁に叩きつけられて即死した。

 

静寂が、凍りつくように村を包んだ。

 

 ゼーレは唖然としてその場に立ち尽くす。次の瞬間、別の狼が飛びかかってくる。

 

 彼女は右腕を切り裂かれるも回避し、掌から閃光を放つ。まっすぐ放たれた魔力の光線が狼の頭部を貫いた。

 

 もう二体。ゼーレは連続して魔力の光線を撃ち込む。奔流のような閃光が狼たちを弾き飛ばす。残る最後の一体──最も濁った魔力の狼が、ゆっくりと姿を現した。

 

 目が合う。

 

 理性を持ったかのような目だった。

 

 ゼーレは両腕を前に突き出し、魔力を展開する。空気が震え、残り少なくなった魔力が両腕に集中する。

 

 最後の狼が駆け出す。

 

 その速度は、先ほどよりも速かった。

 ゼーレは瞬時に身体強化の魔法を併用し、回避と反撃に移る。爪と爪、魔力と牙が夜空の中で火花を散らした。

 

 ゼーレの服が裂け、左腕に深い傷が走る。痛みが鈍く響くが、動きは止めない。

 

 次の瞬間、狼の爪がもう一閃。ゼーレの頭を掠め、かぶっていた帽子が空中に舞い上がった。

 回転しながら落ちた帽子は、地面に落ちて泥にまみれた。

 

 二本の角が、月明かりの下に露わになった。

 

 けれど、戦いはまだ終わっていなかった。

 

 狼はなおも執拗に襲いかかり、ゼーレは反撃の魔法を打ち込み続けた。魔力と肉体の反応が研ぎ澄まされていく中で、ゼーレの全身はすでにボロボロだった。

 

 それでも逃げず、睨み返し、魔法の光線を繰り出す。

 

 魔力を指先に集約。

 

 彼女の掌が白く光る。

 

 ──《魂を操る魔法(セレフィドゥラーナ)》。

 

 強く、明確な魂を操るイメージのもとに発動したその魔法は、狼の魂の芯に干渉する。動きが止まり、ゆっくりと影纏いの狼が頭を垂れる。

 

「ゾルトラーク」

 

    魔法は狼の頭を貫いた。

 

    影纏いの狼は全滅した。

 

 もはや魔法は打てない。魔力の欠乏で全身が悲鳴を上げていた。

 

   それでも、私の勝ちだ。

 

 影纏いの狼は、もういない。

 

しかし、その場に歓声を上げる者はいなかった。

 

狼の残骸が影のように地に溶け、夜が静けさを取り戻す。広場の地面はところどころ深く抉れ、倒壊しかけた家屋の壁が風に軋む。ゼーレはゆっくりと振り返った。

 

村の広場に倒れる少女の亡骸。その傍らで泣き崩れる母。そして、呆然と立ち尽くす村人たちの視線が、ゼーレを凍てつかせるように貫いていた。

 

守れなかった命。

 そして、意図せず傷つけてしまった命。

 その重みが、ずしりと心にのしかかる。それだけでも、ゼーレには充分すぎるほどだったというのに──

 

「……あれ……角、が……?」

 

誰かの震える声が、夜の静寂を破った。

 その視線は、ゼーレの額に向けられている。

 

彼女の髪は血と埃で乱れ、これまで完璧に隠し通してきた角が、夜闇に浮かび上がるように、はっきりと見えていた。

 

村の空気が、まるで氷のように凍りついた。

 誰もが呼吸を止める。

 風すら止まったかのような静けさの中、遠くで誰かの震える吐息だけが響く。

 

「……魔族……魔族だ……っ!」

 

囁きが波紋のように広がり、瞬く間に叫びに変わる。

 

怯え、困惑、そして明確な怒りが、人々の顔に滲んでいく。

 誰かが一歩、また一歩と後ずさり、別の者が恐怖に駆られて家の中へ駆け込む。

 

ヘルトがゼーレを見つめる。弓に手はかけない。けれど、その目には、確かに警戒と拒絶の感情が揺らめいていた。

 

ゼーレは言葉を失っていた。

 自分が魔族であることを、完全には受け止めきれていなかったのだ。前世では人間だった自分が、今、人間たちの恐怖と怒りの対象になっていることが、どこか夢の中の出来事のように現実離れして感じられた。

 

けれど、これが、紛れもない現実だった。

 

 村長が村人たちを見回した。

 一人は怯えるように扉を閉め、もう一人は背を向けた。

 それでも何人かは、まだゼーレを見つめていた。

 その瞳には、恐怖、怒り、戸惑い、そして……微かな感謝の光が混じっていた。

 

「……出ていってくれ」

 

村長の声には、怒りよりも恐怖と、共同体を守る責任の重さがにじみ出ていた。

 

「今日のことは……我々は見逃す。村を魔物から守ってくれたことにも感謝する。だが、君はもうここにはいられない」

 

誰かが「まさか、ここまで人の振りができる魔族がいるとは……」と、信じられないように小さく呟く。

 

ゼーレは唇をきつくかみしめた。

 助けたはずだった。それでも、やはりこうなるのか。この姿は、私を、人間社会から隔絶させるものなのだろうか。

 

視線を落とすと、少女の母が、亡骸を抱きしめて全身で震えていた。

 血のついた自分の手を見つめる。もう乾きかけた魔力の焦げ跡が、袖を焦がし、その醜さを強調していた。

 

けれど──ああ、これは当然の結果だ。

 

少女は死んだ。

 父親も死んだ。

 そして、自分は──人間ではない、魔族なのだ。

 

ゼーレはゆっくりと踵を返し、一歩を踏み出す。

 

切り株に立てかけていたぼろぼろのカバンを手に取った。

 

泥にまみれたローブ。破れた袖口。血のついた手。

 魔力は底をつきかけていたが、呼吸に不調はない。ただ、肉体の疲労が、遅れて波のように押し寄せてきていた。

 

村の道を一歩一歩、静かに歩き出す。

 

誰かが、そっと「ありがとう」と呟いた気がした。

 だが、それが幻聴なのか、あるいはかすかな本心だったのか、もうわからなかった。

 

誰も声をかけなかった。

 少女の母の嗚咽だけが、夜の帳が下りた静かな村に、悲しく響き渡っていた。




:’-(
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