人形姫のゼーレ 作:Macht und Glück
影纏いの狼とゼーレは、わずか数歩の距離で対峙していた。
狼は、湿ったような黒い毛並みを揺らし、唸りもなく静かにゼーレを見据えている。その目は、ただの獣のものではなかった。獲物としてではなく、敵として捉えている──そんな、鋭く深い意志のようなものを感じさせた。
まずは小手調べだ。ゼーレは意識を相手の魂へと集中させ、掌握しようとする。しかし、魂に触れられた影纏いの狼は瞬時にゼーレに接近、飛び掛かる。《
ゼーレは大きく飛びずさった。
(魂を操る魔法はまだ使えないな。やはり狼、勘が鋭い。ならば……)
ゼーレは魔力を指先に収束させ、静かに構えを取った。肌をかすめた傷が、じわじわと痛む。けれど、それよりも緊張の方が大きい。初めての実戦。命を懸けた攻防。失敗は即ち死を意味する。
空気が、揺れた。
狼が、飛んだ。
ゼーレは地を蹴って右へ跳び、すれ違いざまに攻撃魔法を放つ。
彼女の脳裏に投影されていたのは、前世で一度だけ見たアニメの光景だった。
──あれは確か、某テレビ局の二時間スペシャルでのことだった。
あの崖の上の大岩を打ち抜き、義父を安心させるために少女が放った強力な魔法──ゾルトラーク。
ゼーレは当時、それを絵空事として受け止めていた。けれど今、魔力を集めるこの動作に、違和感はなかった。
なぜか分からないが、それは当然のことのように思えた。
魔法はイメージで発動する。そう知っていて、そう信じる自分がいた。
光が手のひらから奔り、夜を裂いた。光を帯びた直線的な魔力が閃光のように迸り、狼の側をかすめて地面をえぐった。だが、狼は空中で軌道を変え、回避と同時に着地してすぐさま方向を変えた。
「くそ、速い……!」
魔力の気配は常に感じている。なのに、動きの一瞬一瞬が身体で捉えきれない。魔力の読みと実際の速度に、ほんのわずかな誤差がある。それが命取りになる。
ゼーレは回避を続けながら、狼の動きを追い、次々に直線的な魔力光を放つ。だが速さについていけず、連射の制御が甘く、軌道がずれる。
攻撃の威力と範囲が大きすぎた。狼を吹き飛ばすたびに、家屋の壁が崩れ、木々が折れる音がした。民家が、森が、ゼーレの魔力で損なわれていく。
このままでは、村全体が巻き添えになりかねない──。
そのときだった。闇の中から、さらなる黒い影が飛び込んできた。
影纏いの狼たちが音もなく柵を越え、一斉に侵入してきた。黒い毛並みは月光を弾かず、まるで夜そのものが動いているかのようだった。
ゼーレは即座に反応。白く細い魔力の湯気が視界に広がり、複数の気配を即座に探知する。接近する数、五体──そのうちの一つは、他とは異なる濁りと重さを帯びていた。
「来るわ……!」
叫ぶと同時に、最も近い一体に向けてゾルトラークの真似事──魔力光の魔法を放つ。直進する白い魔力は狼を弾き飛ばし、同時に柵ごと周囲の木材を吹き飛ばす。小屋の壁が大きくえぐれ、土煙が夜空に舞った。
制御が甘い。ゼーレは痛感していた。
だが、余裕はなかった。戦うことは前世で見たアニメや漫画でしか知らない。これは初めての命を
ヘルトが弓を構え、正確に一矢を放つ。一体が矢に貫かれて倒れるが、それでも残りは村の中央部へと突進していく。
「家の中へ! 子どもを連れて! 早く!」
村長の叫びが飛ぶ。
ゼーレは魔力を集中し、足元の地面から土を跳ね上げて遮蔽を作る。しかし狼たちはそれすら跳び越え、ある一体が子どもを狙って走る。
その子は──あの子だった。あの、歌をせがんだ少女。
ゼーレの視線が鋭くなる。魔力が指先に収束していく。
だが、動きが止まる。
──なぜ、私が人間を助ける必要がある?
心の中の非人間的な本能が、心の内で冷酷に囁く。この余裕のない戦況で、己の力を使ってまで、助ける価値が本当にあるのかと。
けれど、すぐに別の思考が脳裏をよぎる。
──そんなの、当たり前じゃない。
──助けるのが、正しいことだから。
ゼーレは魔法を放つ。
だが、その僅かな思考の遅れは、戦場では致命的なまでに遅かった。
少女の体が、影に跳ね飛ばされる。
鈍く、嫌な骨の砕ける音がした。
ゼーレの放った魔法は狼を吹き飛ばしたが、同時にその周囲にいた大人──少女の父親らしき男を巻き込んだ。魔力の余波に巻かれた男は、壁に叩きつけられて即死した。
静寂が、凍りつくように村を包んだ。
ゼーレは唖然としてその場に立ち尽くす。次の瞬間、別の狼が飛びかかってくる。
彼女は右腕を切り裂かれるも回避し、掌から閃光を放つ。まっすぐ放たれた魔力の光線が狼の頭部を貫いた。
もう二体。ゼーレは連続して魔力の光線を撃ち込む。奔流のような閃光が狼たちを弾き飛ばす。残る最後の一体──最も濁った魔力の狼が、ゆっくりと姿を現した。
目が合う。
理性を持ったかのような目だった。
ゼーレは両腕を前に突き出し、魔力を展開する。空気が震え、残り少なくなった魔力が両腕に集中する。
最後の狼が駆け出す。
その速度は、先ほどよりも速かった。
ゼーレは瞬時に身体強化の魔法を併用し、回避と反撃に移る。爪と爪、魔力と牙が夜空の中で火花を散らした。
ゼーレの服が裂け、左腕に深い傷が走る。痛みが鈍く響くが、動きは止めない。
次の瞬間、狼の爪がもう一閃。ゼーレの頭を掠め、かぶっていた帽子が空中に舞い上がった。
回転しながら落ちた帽子は、地面に落ちて泥にまみれた。
二本の角が、月明かりの下に露わになった。
けれど、戦いはまだ終わっていなかった。
狼はなおも執拗に襲いかかり、ゼーレは反撃の魔法を打ち込み続けた。魔力と肉体の反応が研ぎ澄まされていく中で、ゼーレの全身はすでにボロボロだった。
それでも逃げず、睨み返し、魔法の光線を繰り出す。
魔力を指先に集約。
彼女の掌が白く光る。
──《
強く、明確な魂を操るイメージのもとに発動したその魔法は、狼の魂の芯に干渉する。動きが止まり、ゆっくりと影纏いの狼が頭を垂れる。
「ゾルトラーク」
魔法は狼の頭を貫いた。
影纏いの狼は全滅した。
もはや魔法は打てない。魔力の欠乏で全身が悲鳴を上げていた。
それでも、私の勝ちだ。
影纏いの狼は、もういない。
しかし、その場に歓声を上げる者はいなかった。
狼の残骸が影のように地に溶け、夜が静けさを取り戻す。広場の地面はところどころ深く抉れ、倒壊しかけた家屋の壁が風に軋む。ゼーレはゆっくりと振り返った。
村の広場に倒れる少女の亡骸。その傍らで泣き崩れる母。そして、呆然と立ち尽くす村人たちの視線が、ゼーレを凍てつかせるように貫いていた。
守れなかった命。
そして、意図せず傷つけてしまった命。
その重みが、ずしりと心にのしかかる。それだけでも、ゼーレには充分すぎるほどだったというのに──
「……あれ……角、が……?」
誰かの震える声が、夜の静寂を破った。
その視線は、ゼーレの額に向けられている。
彼女の髪は血と埃で乱れ、これまで完璧に隠し通してきた角が、夜闇に浮かび上がるように、はっきりと見えていた。
村の空気が、まるで氷のように凍りついた。
誰もが呼吸を止める。
風すら止まったかのような静けさの中、遠くで誰かの震える吐息だけが響く。
「……魔族……魔族だ……っ!」
囁きが波紋のように広がり、瞬く間に叫びに変わる。
怯え、困惑、そして明確な怒りが、人々の顔に滲んでいく。
誰かが一歩、また一歩と後ずさり、別の者が恐怖に駆られて家の中へ駆け込む。
ヘルトがゼーレを見つめる。弓に手はかけない。けれど、その目には、確かに警戒と拒絶の感情が揺らめいていた。
ゼーレは言葉を失っていた。
自分が魔族であることを、完全には受け止めきれていなかったのだ。前世では人間だった自分が、今、人間たちの恐怖と怒りの対象になっていることが、どこか夢の中の出来事のように現実離れして感じられた。
けれど、これが、紛れもない現実だった。
村長が村人たちを見回した。
一人は怯えるように扉を閉め、もう一人は背を向けた。
それでも何人かは、まだゼーレを見つめていた。
その瞳には、恐怖、怒り、戸惑い、そして……微かな感謝の光が混じっていた。
「……出ていってくれ」
村長の声には、怒りよりも恐怖と、共同体を守る責任の重さがにじみ出ていた。
「今日のことは……我々は見逃す。村を魔物から守ってくれたことにも感謝する。だが、君はもうここにはいられない」
誰かが「まさか、ここまで人の振りができる魔族がいるとは……」と、信じられないように小さく呟く。
ゼーレは唇をきつくかみしめた。
助けたはずだった。それでも、やはりこうなるのか。この姿は、私を、人間社会から隔絶させるものなのだろうか。
視線を落とすと、少女の母が、亡骸を抱きしめて全身で震えていた。
血のついた自分の手を見つめる。もう乾きかけた魔力の焦げ跡が、袖を焦がし、その醜さを強調していた。
けれど──ああ、これは当然の結果だ。
少女は死んだ。
父親も死んだ。
そして、自分は──人間ではない、魔族なのだ。
ゼーレはゆっくりと踵を返し、一歩を踏み出す。
切り株に立てかけていたぼろぼろのカバンを手に取った。
泥にまみれたローブ。破れた袖口。血のついた手。
魔力は底をつきかけていたが、呼吸に不調はない。ただ、肉体の疲労が、遅れて波のように押し寄せてきていた。
村の道を一歩一歩、静かに歩き出す。
誰かが、そっと「ありがとう」と呟いた気がした。
だが、それが幻聴なのか、あるいはかすかな本心だったのか、もうわからなかった。
誰も声をかけなかった。
少女の母の嗚咽だけが、夜の帳が下りた静かな村に、悲しく響き渡っていた。
:’-(