竜のつれづれ   作:たこふらい

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1話:目覚め、世界。知らない自分。

 

 ―――暗闇。

 

 気づけば視界の全てが黒だった。

 とても暗い。目は開いているのか、それとも閉じているのか。それさえもわからなくなりそうなほどの闇一色。

 

 洞窟の中にでもいるのだろうか。そうであるなら随分と狭い。

 僅かに身じろぎする。肌に触れる感覚が、自分は今うずくまっているのだという姿勢だけを伝えてくる。人一人が胎児のように丸まってすっぽりと覆われた程度の広さしかないらしい。

 脚を伸ばそうとしたらなにやら硬いものに触れて、それ以上はいけない。手の方も、頭の方もそのような感じ。

 

 密室、なのだろうか。

 

 はて、と。

 どうしてこのようなことになったのかと記憶を遡る。

 

 ……わからない。何も。

 どうして自分は今こうなっているのか、どころの話ではなく。

 自分は何者なのか、何をしていたのか、それすらも思い出せなかった。

 

 不思議なこともあるものだ。

 知識はあるというのに、自分に関する記憶だけさっぱりと抜け落ちているとは。記憶喪失とでもいうのか。

 

 少し思案する。途切れた記憶、その最後をどうにか思い出そうと試みる。

 

 最後。最後は、そう。事故のようなものだった気がする。

 大きなものにぶつかって、体がひしゃげる音を聞いて。光。音。衝撃。

 確か、そのようなものが、記憶の最後。

 

 僅かに思い出してきた。ひどく、おぼろげではあるけれど。

 

 つまるところそれで意識を失ったのか。あるいは、死んだのかも。

 なら、これは埋葬か。取り囲む密室は、死んだ自分を埋めた棺桶だったりするのだろうか。

 

 笑えない冗談だ。死んだと思われてそのまま生き埋めなどとは。―――本当に、笑えない!

 

 俄かに焦る。そして怖くなった。

 人は埋められた状態でどのくらい生きられるのだろう。

 水と食料抜きでは三日ほど。空気がなければ三分と持たない。そのような話を聞いた覚えはあるが。現在進行形でその状況に陥っているらしいこの今に役に立つものではない。

 

 どうにか、しないと。

 

 焦りに突き動かされるように闇雲に体を動かす。なんでもいい。ここから出られるのであれば。

 心の内は完全に動転してしまっていた。

 

 もぞもぞと体を動かして、なんとか態勢を整える。そのまま手と、足に力を入れて。押し上げるように、蹴り上げるように。

 

「……ふんっ、うぎぎぎ……!」

 

 力を込める。込める。込める。思わず声が漏れる。

 ―――違和感。声、どこか。いつもより高いような。

 けれどそれを気にする余裕なんてなくて。

 

 蹴る。蹴る。―――蹴って。……崩れた。想像よりも呆気なく。

 ぼこりと陥没したかと思えばそのまま向こうに突き抜けて。ぼろぼろと、崩れたところから光が差し込む。ちょうど人一人分通れそうなほどの穴ができた。

 少しだけ冷たい、水分を含んでいるらしき外気が肌に触れる。

 ひんやりとした空気。外。外だ。

 

 ―――早く。早く、外へ。

 ―――ここから。外へ。

 

 光に焦がれるように、そのまま出来た隙間に体をねじ込んで外へ飛び出した。

 

 ―――空。

 

 外でまず目にしたのは空だった。

 青い、空。白い雲が鱗のようにあしらわれて。

 澄み渡った空。排気ガスで薄らと曇った色ではない。どこまでも清廉とした、空。飛ぶことができればさぞ気持ちがいいだろう。そう思わせるほどの蒼空。

 

 次に見えたのが山だった。それとたくさんの木々。

 青々として、風に揺れて。梢のさざめきが聞こえてくる。

 

 どこかの山奥だろうか。

 見慣れたコンクリートジャングルはすっかりと姿を消して。

 大自然に囲まれて、たった一人。ということなのだろうか。

 

 そして、見慣れないものがあった。空、太陽が二つある。

 山の隙間から登ってくるものと、頂点にぴたりと座すもの。輝く星が二つある。

 

 驚いた。見知った空ではない。

 

 はたと振り返る。自分が今出てきた場所を。狭い、洞窟のようなものを。

 

 ―――まるで。

 ―――大きないきものが。山肌に横たわっていたようだ。

 

 山の斜面に身を預ける巨大な姿。大きい。三階建ての学校の校舎くらいはありそうだ。とても(おお)きな、滑らかな黒い岩のようなもの。やはりそれは生き物だったもののように見えた。

 

 翼を持ち、尾を伸ばし、角を生やした。そんな生き物。

 

 ―――あえて、言葉にするなら。

 ―――竜、とか。そういうもの。

 

 けれど、それはありえない。こんなに大きな生き物は見たこともないし、こんな造形(デザイン)の生き物は存在しない。だから、これはそう見えるだけの岩。

 

 その岩を生き物として見るなら、自分が出てきた洞窟らしきものはその胴体あたりのようだった。

 大地に横たえた竜の胸に空いた、小さな傷口。蹴り破ったときに散らばった黒い欠片が、きらきらと日の光を浴びて輝いている。

 

 呆然と、してしまう。

 知らない空。知らない場所。ここは、どこ。

 

 再びテンパりそうになる。

 いや、落ち着け、落ち着いて。まずは冷静に考えることが必要だ。それにそう、どうしてこうなったのか思い出せば、きっと、なんとか。なるのか? 山の中に一人置き去りにされた? どういうことか、まるでわからない。混乱して、しまう。

 

「落ち着け……落ち着けよ俺。遭難したときは、どうすれば」

 

 無意識に声に出して。なんとか考えを纏めようとして。もう一度違和感。

 ―――声。そういえば何かおかしい。

 

 あーあーと声を出してみる。

 なんだか、高い。いつもよりも。少女みたいな響きをしている。

 風邪を引いている? 喉を痛めた? 首を傾げて喉に触れる。……つるりとした感触。喉仏が、ない。

 

「はっ、えっ?」

 

 思わず手に目を向けた。手がおかしいのか。いいや違った。

 

 ―――白い、手。

 ほっそりとした手がそこにあった。陶器のようにシミ一つない、きめ細かい肌。細くたおやかという言葉が合いそうな。触れると壊れそうな作り物じみた繊細さすらあった。

 男らしいごつごつとした、節くれだった指は、そこにはない。華奢な、女の子の手。

 

「――――――」

 

 呆然としたままに手を見る。ゆっくりと握る。開く。どう見たって自分の手だ。そう思うと同時にこれは自分の手ではありえない、そう感じる気持ちもあった。

 ―――嘘だ。

 ―――これは、何かの夢か。

 軽い眩暈すらあった。これは何かの冗談か。

 

 硬直した思考のままに自分の身体を見下ろす。そういえば。いつもより、視線が低い位置にあるような気もして。

 

 見下ろす。自分であるはずの身体を。……裸であった。何も着ていない。きっと下すらも着ていない。きっと、というのはそう。視線は見慣れない双丘に遮られてしまったから。……胸の辺りにふたつ、大きなものが。

 嘘、嘘だ。こんなこと。これは夢じゃないのか。

 

 震える手で、それに指を這わせる。……もにゅり、と。柔らかく、それは形を変えて。豊かな感触を掌に返してくる。ほどよい弾力。手で包んでも余るくらいの大きさで。何とも言いにくい、本物の感触。

 

 頬を抓む。……微妙に痛い。確かな感覚。

 

 空を見上げて大きくため息をつく。何が、どうなっているのか。

 

 

 

 

 

 

「……どうなってんだ、これ」

 

 揺れる水面を姿見代わりにして改めて自分の姿を見る。近くに湖があって助かった。こんな山奥では鏡なんてないだろうから。……それはそれとして。呆然としてしまうことは避けられないのだけれど。

 

 姿。自分の身体。自身に関する記憶はあやふやではあるけれど、少なくとも男であったはずだ。けれど、体は『そうであるはずだ』という自分の認識からは遠くかけ離れてしまっていて。……端的にいえば、女のものになってしまっていた。それもきっと、人ではないものに。

 

 見た目は十七か十八くらいの少女だろうか。

 長く黒い髪と、トパーズのような金色の目がよく目立つ。……よく見れば。その瞳孔は縦に割れている。まるで猫か蛇のような丸い瞳。形の良い眉と切れ長の目は、黙っていればひどく美人のように見えるのだろうが、今は不安げに寄せられて、頼りなく揺れていた。……自分の表情だというのに、まったくもってそんな気がしないのが問題だった。

 

 人ならざる目。それだけなら、まだよかったのだが。もっと大きな問題があった。……耳の上辺りから伸びる角。腰から伸びる尾のようなもの。そして背中の翼。体の随所にみられる異形の数々。これらはどう言い訳したらいいのかてんでわからない。

 

 角。側頭部から伸びた小さな黒い角は、髪に埋もれるようにすれば、なんとか隠せそうではある。けれど翼と尻尾は、はたしてどうしたものか。

 

 翼。それは肩甲骨の辺りから生えているようだった。左右に一つずつ、一対の翼。形のイメージとしては蝙蝠のものが近いだろうか。翼膜のようなものがあるらしい。

 意識すると、もう一組の腕のように扱える。でも蝙蝠に鱗は生えていないし、かぎ爪のような掌もついていないはず。

 おもむろに広げて羽ばたいてみると強く風が巻き起こった。……なんだか。そのまま空に飛べそうで。少しわくわくとした気持ちもある。

 

 腰の辺りから伸びる尻尾は、太く長い。翼についていたものと同じく、黒曜石のような深い黒の鱗が並び生えて。ゆらゆらと所在なげに揺れている。

 

 手足もよく見たら人のそれではなかった。先は黒く染まって、ぽつぽつと鱗が見える。何よりも鋭い爪。凶悪そうな異形の手だ。打ち合わせるようにするとカチカチといかにも硬そうな音が鳴る。試しにと湖の畔に生えた木に擦るようにしてみたら、ざっくりと斬れてしまったので本当にびっくりした。……生き物には向けちゃダメだろ、これは。

 少し集中すると人の手のように変化することもできるみたい。明らかに物理法則を無視したような変化ではあるが。……どんな原理でこんなことができるのか、なんて。詳しく考えることは諦めたけど。

 

 そして、体。

 自身は男であったはず、という自認とは裏腹に。瑞々しい、滑らかな曲線を描く肉体。少女としての、姿。男とはとても呼べない。

 

 下腹部の辺りに手を伸ばす。

 ……うむ、ない。ないったらないのだ。何もない! なんと物悲しいのだろうか。生まれた頃から付き添ってきたはずの相棒は、ついぞ活躍の目を見ることなく去ってしまっていた。

 

 胸の方も幻覚なんかじゃないようだ。たわわに実った果実が二つ。……やはり、柔らかい。これが自分の体じゃなければもっとよかったのだが。

 

 痴女か、己は。いや、女ではないのだけれど。

 なんだか途端に恥ずかしくなって手を離す。湖面には顔を赤らめた少女が一人。ひどく、背徳的に見えて、目を逸らす。

 

 姿、かたち。

 ―――少女。竜。端的に表すなら竜の女、とでもいうのか。

 

 ありえない。声を大にして否定したい。けれど、目の前にある光景は確かな現実らしいというところが実に厄介で。否定したくとも否定しきれない、現実的な感覚を伝えてくる。実に、困った。

 

「…………どうしたもんかなぁ、これ」

 

 呟く声も、完全に少女のもので。

 途方に暮れてしまう。これからどうすればいいのだろう。

 

 違和感、違和感、違和感。

 何をするにも妙な感じが付きまとう。着ぐるみでも着ているようなイメージだろうか。確かに自分の意志で動くのに、自分の身体じゃないみたい。

 

 しかし、ただぼうっとしてるわけにもいかない。心なしかお腹もすいてきた。餓死なんてシャレにならない。けれど何を食べればいいというのか。そもそも思いっきりこの体は人間じゃなさそうだけれど、何が食べれるのだろうか。

 ……まさか、人肉、とは言わないだろうな。

 目が覚めたら人食いの化物になってたなどとは絶対に嫌だ。せめてまともな、美味しいものを食べることのできる体であってくれと切に願う。

 

 お腹をさすりながら、畔をあてもなくぶらぶらと歩き始める。

 

 湖を透かし見る。透明で澄んだ水。足で触れるとちゃぷちゃぷと音を立てて、冷たさが気持ちいい。

 

 ……魚らしき影は、ぱっと見では見つからなかった。見つけたとて捕まえられる自信はないのだが。そもそも生で食べる勇気はない。川魚には寄生虫がいるだとか、そんなぼんやりとした知識だけは思い出せるが。何も解決しないものだから困る。

 生は無理。なら、焼くとて火はどうすればいいのかという問題もある。

 ……竜ならば火でも噴けるのかもしれないが。試してみる勇気は、なかった。

 

 湖をぐるりと一周回ってみたけれど特に役に立ちそうなものは見つからず。それならばと周りの森に入ってみることにした。

 鳥の囀る声や、小動物らしきものが駆け回るような音は聞こえるけど目に見えるところまではこない。警戒されているのだろうか。そりゃそうか。急に全裸の女が森に現れたら誰だって驚く。

 

 木々の隙間をすり抜けて、草むらに踏み入りながらあてもなく彷徨う。

 裸足でこんなところを歩いていればすぐにひどいことになりそうなものだと思っていたが、不思議と足には傷一つつかない。この体は随分と頑丈なのだろうか。ただ、素肌を横切る草の感触は少しこそばゆい。せめて一枚でも着るものがあればよかったのだけれど。

 

 道中。ぽつりぽつりと生えている低木を見つけた。

 とげとげとした葉に、小さな赤い実がいくつも。キイチゴ、ラズベリーとかの類だろうか。

 

「……すっぱ!」

 

 試しに口にしてみるとこれがやたらと渋かった。

 口に入れた瞬間は僅かに甘いものの、そのあとにむせるような渋みと酸っぱさがあふれてくる。やたらと野趣に富んだ果実だった。

 甘いものだと思ってまとめて口にしてたらえらい目にあっていたかもしれない。それに、種っぽいのがやたらと強い。さすがは野生。

 

 ぷっぷっと口に残った種を吐き出して迷走を再開する。

 やはりというか、さすがに果実をいくつか程度では腹は膨れない。というか、余計に空腹を自覚してしまったような気さえして。

 

 ……そういえば、人や生活の気配が全然無い。

 もしかしてここは人類未踏の新大陸とかじゃなかろうか、なんて不安も過る。もしそうなら飢え死に待ったなしである。自分ひとりで食料調達なんて、まるでできる気がしないし。

 

 お願いだから誰かしらはいてくれよ、そう願うばかりである。……と、そこで。

 

「……喧嘩?」

 

 音が聞こえた。

 罵声のようなもの。怒号。金属が擦れる音。水っぽいものが落ちる音。―――争いの気配。

 明らかに剣呑な雰囲気。普段であれば絶対に近づこうとは思わない。けれど、起きてから頭のどこかの螺子が外れてしまったのか、そういった警戒もなく。今はとにかく、会話ができる人と会いたい。その一心で近づいてみることにした。

 

 木々をかき分けるように進んでいくと森の切れ目が見えた。

 そこに横倒しに転がっているもの。木で出来た何か。荷台、馬車の類だろうか。そこが喧騒の元だった。複数の人影がある。木陰に隠れるようにしてから様子を窺う。

 

 喧嘩。いいや、それは戦闘だった。

 一対多数の、殺し合い。

 たったひとりを、大勢が囲んでいる。

 

 中心。

 転がった馬車を背に立っているのは小柄な人影。

 身軽な動きを邪魔しない軽装の胸当て、鎧。手足はぴっちりとした素材が肌を覆い、フードを目深に被っている。右手には細身の剣を、左手には丸盾を、それぞれ携えて。

 少年とも、少女とも。そのどちらにもとれた。フードの影から、翡翠色の視線がちらりと覗く。はっとするほど力の籠った、瞳。綺麗。思わず声が漏れる。

 

 囲んでいるのは、いかにも荒くれもの、盗賊といった風の男たち。手には短剣や弓。フレイルなんて持っている者までいた。棒の先に鉄球を鎖でつないでいるあれだ。数々の、殺し合いの道具。

 驚くべきは、その中に奇妙なものも混じっていることだ。

 人型ではあるが、それは異形。灰色の皮膚に獣皮の鎧を纏い、牙を剥きだしにして、黄色く濁った眼玉をぎょろつかせる怪物。大きな棍棒を掲げて。大きさは優に三メートルほどはあるだろうか。そして大きな猪ほどの体格の狼。やたらとデカい。これを狼と言えるのか。それらは汚れた毛並みで、野生そのままのように涎を垂れ流し、唸る。

 

 時代錯誤の殺し合い。時代劇か、フィクションの一つ。そのように映った。それらと違う点は、これは本当の殺し合いであるというところ。

 

 逸るように狼が動いた。呼吸荒く、身を焦がす食欲に突き動かされるように。釣られて、盗賊の一人も。

 対する剣士は左手を突き出した。噛みつこうとする顎に向けて、強く。その盾を押し付ける。―――光。僅かにそれは光を放って。見掛けでは想像もつかないほどの力で、狼の巨体を吹き飛ばした。

 動きは、止まらない。盗賊が突き出した短剣を、舞うように避ける。くるりと回転し懐に潜り込み、一閃。血しぶき。腕の腱を断って武器を叩き落とす。一呼吸のうちに行われた妙技だった。

 

 盗賊が悲鳴を上げて倒れる。地面にはそうして無力化された人が幾人も転がされていた。

 なんという力量差。素人目には、剣士は達人と見えた。

 

「―――怯むな手前らァ! 行けい、射よ!」

 

 頭領らしき、ビール腹を抱えた巨漢の樽男が声を張り上げる。びりびりと、耳に来る声。不快さに耳を塞ぐ。

 

 怒号に応じて、怪物が走る。棍棒を振りかざして。合わせて、取り囲む何人かが剣士に向けて矢を放った。

 暴風のように振るわれる棍棒を剣士は剣の腹で受ける。そのまま後ろへ飛んで。ヒョウと飛んでくる矢を、危うく避ける。けれど、避けそこなった一本が頭を掠める。

 当たりはしなかったようだが、矢に絡まれてフードが巻き上げられた。

 

 そこでようやく、剣士が女の子であることに気が付いた。結わえていたらしい金髪が解け、揺れる。綺麗。思わず呟いて。乱れてもなお、少女は可憐だった。

 

 カシャリ。少女が、剣を取り落とした音。

 剣を持つ右手の手首は赤く腫れあがって。少女の意に反して、震える。握力の喪失。怪物の棍棒を受け止めた剣は砕けずとも、剣士の右手の方が先に悲鳴を上げたらしい。

 

 少女は動きを止めた。左手に残った小さな盾だけを構えて。

 息荒く、上気した頬。滝のように汗が滴って。翡翠の瞳だけが、自身を取り囲むすべてを睥睨している。

 

 ―――きっと、限界。

 

 そんな言葉が過る。少女はもう、動けない。

 

「手こずらせやがって。ええ?」樽男が地面に唾を吐く。「大人しくしてりゃとんだ上玉だってのによ。嚙みつくのはいただけねえよな」

 

 男らもその限界を見て知ったらしい。勝ちを確信して、下卑た笑い声をあげて、舐め回すように少女の肢体を見ている。対する少女は、無言。ただ、睨みつけて。

 

 盗賊の一人が樽男にすり寄った。舌なめずりするようににやつきながら、

 

「頭ぁ、ここは任せてくだせえ。ああいうのを躾けてやるのはお手の物でさぁ」

「馬鹿野郎、あの目を見ろ。あれはまだ諦めてねえ魂胆だ。手前のナニなんぞ噛みちぎられるのがいいところよ」

「へ。ではどうするつもりで」

「さっさと殺せ」

「いいんですかい?」

「そういうお達しだ。それに、なに。死体でも十分楽しめらぁ」

 

 野蛮極まりない会話をして、頭領が手を上げる。盗賊共はそのまま各々の武器を、その先を、動けない少女へと向けて。そのまま一斉に、という風に合図を掛けようとする。

 

 ―――いや、それは。

 ―――それは、ダメだろう。

 

 焦る。焦る気持ちがある。荒くれ者どもは今にも飛び掛かりそうだ。そうすれば少女は殺される。殺されて、しまう。―――それは、嫌だ。

 

 考える。黙ってみているわけにはいかない。なにか、できることはないか。生唾を飲み込んで、木陰の中で考える。

 ……何も思いつかない! うまく少女を助けて見せる妙案なんてものは、何も。

 だから、そう。自分にできることはこれくらいかもしれない。

 

 ほっ、と勢いをつけて影から飛び出した。なるべく目立つようにして。

 視線が一斉にこちらを向く。

 

 ……一瞬、時間が止まったかのように感じた。

 誰も彼も予想外の闖入者に驚いているように見えた。一秒、二秒、硬直して。

 

「裸の女ぁ!?」

 

 誰かが叫んだ。

 

 ……うむ。忘れていた。そういえば、今自分はすっぽんぽんなのであった。女、と言われるには大変不服なのだけれど。

 

「あー、えっと。そこのお嬢さん」目を白黒させている少女に向かって、「とりあえずここは俺に任せて、逃げようぜ?」

 

 なんて、言おうとした。けれど、それを言い切る前に、

 

「ええい、手前ら! こいつも殺せい!」

「ちょ、待っ―――」

 

 樽男の怒号が声をかき消して。巨大な狼が俺のほうへと飛びこんでくる。

 

 ちょっと待って、どころではなかった。待ったなしに襲い掛かってくる。大きな前足で押し倒され、押し付けられ、目の前に広がる牙がずらりと並んだ顎。こんな大きな狼に噛みつかれたら間違いなく死ぬだろうな、なんて他人事に思う。

 

 参った。こちらに注目を集めるという意味では成功だったけれど、このまま死んでしまってはあの少女が逃げおおせるまでの時間が稼げない。本当はもう少し会話で引き延ばせるとも期待したのだけれど。

 

 牙が迫る。腐った息を吐きながら。その様を、どこかぼうっとした意識で見る。

 ―――違和感。やはり、消えなくて。

 つき纏う意識の不和を拭えないままに、牙を受け入れた。どの道この体格差では逃げられない。

 

 心残りがあるとすれば、やはり、少女のことだろうか。なんとか逃げてくれればいいのだけれど。それだけを思って。

 

 牙が、喉に触れる。

 

 ……けれど、予想していた痛みや衝撃は来なかった。何事かと瞠目する。

 狼は変わらない。相変わらずこちらにのしかかって。何かがあったとすれば、そう。牙が刺さらなかったこと。

 

 牙は刺さらない。肌には触れて、けれどそれだけ。傷一つつかない。この程度の刃では。ただ、それだけの事実。

 

 ―――そう。

 ―――我が身は竜であるのだから。

 

 頭の中で。何かが。そう、囁く声があって。

 この体は竜である。故に。このような矮小なものに傷つけられることなど。そう、囁く。

 

 なるほど。納得する気持ちがあった。

 つき纏っていた違和感の正体に気が付いた。

 

 そう。既に。この身は脆弱がヒトのものではなく。であるならば。

 

 声に導かれるように手を伸ばす。獲物に食らいつけず、目を白黒とさせている化け狼へ。その頭へと。

 反射的に噛みつこうとするその鼻先を握る。じたばたと逃れるように体を動かしているが、逃げられない様子。そのまま片手の力で地面へと叩きつけた。鈍い音。それっきり動かない。

 

 よっこいせと、体に付いた土を払いながら立ち上がる。

 目の前には続けざまに襲い掛かってくる二頭の狼。片手では足りないな、そう思って。代わりに背中の翼を動かした。正確にいえば、手のように動く、その翼爪を。

 巨大と化した掌で、真っすぐに飛び掛かってくる狼共を掴む。捕まえて、そのまま地面へと押し付ける。ぎゅうとくぐもった音。何かが砕ける感覚が翼越しに伝わってきて、それで終わり。

 

 最後に鉛色の肌の怪物。濁った眼玉をぎょろぎょろと動かして。こちらを見ている。何が起こったのか理解できていない様子。姿かたちはおおむね人に似ているとはいえ。知能はさほどでもないらしい。

 鈍い唸り声をあげながら手に持った棍棒を振るってくる。人なら軽くぺちゃんこになりそうなほどの猛威。けれど。

 

 バギン。壊れる音。

 殺人的な質量とスピードを持って振るわれ、直撃した棍棒ではあるけれど。逆に棍棒の方が砕けた。それを持つ怪物の手も、砕けていて。

 砕けた手と、残骸を見て、呆けたように硬直した姿。それに右手を振るう。鋭い、異形の右手を。爪は腐った肉を、骨ごと容易く引き裂いて、いくつかの塊にバラバラにする。思っていたよりも、呆気なく。

 

 ―――なんだか。

 ―――まるで現実味がない。

 

 目の前に広がる光景。惨状とも言えるか。

 それを為したのは当然自分だという意識。それをできるわけがないと思う気持ち。その両方があって。やはり、混乱してしまう。

 

 カチカチ。爪を鳴らす。やはり自分の身体ではあるらしいが。うまく、実感が掴めない。

 

「化け物……ッ」

 

 誰かがそう叫んだ。

 残っていた人間たちが、信じられぬものを見るようにこちらを見て、後ずさりする。

 

 ……確かに。こんな芸当ができるのは化け物くらいだろうが。そんな化け物が爪を打ち鳴らして自分を見ていたら威嚇か、次はお前だと宣言してるようにも見えるかもしれないが。それはそれとしてちょっとしたショックがなくはない。

 

 手下たちが頭領の顔色を怯えながら窺っている。頭領らしき樽男はというと、苦虫を嚙み潰したように顔を歪めて顔に皺を作ったかと思うと、

 

「退くぞ手前ら……クソッ、覚えとけバケモン女ぁ!」

 

 そう、叫んで。舌打ち交じりに捨て台詞を残して、すごい勢いで去って行ってしまった。

 

 バケモン女……その、呼び方にいろいろと言いたいことはあるのだけれど。残されたのは自分と剣士の少女だけ。ひとまずは、当初の目的通り助けることができてよかったとほっとする。

 

 よし、と少女に振り返る。

 極めて友好的に見えるように、不安にさせないように。さりげない笑顔を意識して。

 

「ええっと……その、大丈夫?」

「私よりあなたのほうが大丈夫に見えないんだけど」

 

 血まみれだし、と付け足される声。

 言われてみれば、そう。血塗れのくせに笑顔で手を振ってたら猟奇的すぎる。

 

 なんとも。しまらない出会い方であった。

 






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